↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第1章 父の死

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/33

第5話 依存先

 佐伯健吾は、どこから見てもまともな社会人だった。


 名刺の会社は実在した。住所も電話番号もある。営業コンサルタントという肩書きも、それらしい実績もあるようだ。壁面には取引先らしい有名企業との協業実績や写真もあった。


 俺は佐伯を追った。


 朝、駅へ向かう。会社へ行く。取引先と会う。笑う。頭を下げる。昼にはコンビニでサラダを買い、会社では後輩に優しく仕事を教える。夜には同僚らしい人間と酒を飲み、時々、恋人らしい女とも会う。


 普通。


 誰から見ても、佐伯健吾は社会の中にちゃんと居場所を持っている人間だ。そのことが、余計に気持ち悪い。


 悪人というのは、もっと分かりやすい顔をしているものだと、どこかで思っていたのかもしれない。薄汚い部屋で悪い相談をして、いかにも悪そうに笑う。そんなものはドラマの中だけだ。


 佐伯は清潔なシャツを着て、名刺を持ち、敬語を使い、駅で落とし物を拾えば駅員に届けるような顔をしていた。


 そして夜になると、陽菜の話をした。


◇


「どう?」


 例の軽薄そうな男が聞いた。


 駅前の居酒屋だった。佐伯はビールを飲みながら、スマホをテーブルに置いている。画面には陽菜とのメッセージが開かれていた。


「順調」


「もう連絡来た?」


「まだ。焦るなって」


 佐伯は笑った。


「こういうのは信頼関係が先」


 信頼。


 その言葉を使うな、と思った。


「父親死んでまだ何日だよ」


「だからだろ」


 佐伯は平然としていた。


「今は誰でもいいから寄りかかりたい時期だよ。親戚は薄い。学校の先生は所詮先生。役所は事務。保険会社は金の話しかしない。そういう時に、ちょうどいい距離の大人がいると助かる」


「それがお前?」


「そう」


 佐伯は悪びれもせず頷いた。


「最初は相談相手。次は支援者。その次は、家族みたいなもの」


 家族。


 その言葉だけで、腹の奥が冷えた。


「保険金は?」


「まだ先。焦らない」


「家は?」


「持ち家っぽい。父親名義なら、いろいろ面倒だろうな」


「女子高生に分かるわけないか」


「だから俺が必要になる」


 佐伯はスマホを指で軽く叩いた。


「必要だと思わせれば勝ち」


 俺はテーブルの横に立っていた。


 手を伸ばせば届く距離に、佐伯の喉がある。けれど何もできない。殴ることも、グラスを倒すことも、スマホを叩き割ることもできない。


 ただ聞いているだけだった。


 佐伯のスマホには、陽菜へ送ったメッセージが残っていた。


『今日は突然すみませんでした』


『困ったことがあれば、いつでも連絡してください』


『お父様のことを無理に美談にしなくていいと思います』


『あなたが苦しいと思うのは当然です』


 言葉だけなら、間違っていなかった。


 そこが一番、気持ち悪かった。


◇


 陽菜は少しずつ、佐伯に頼り始めていた。


 それも無理はない。


 親戚は遠い。電話をしても、「一度そちらで確認して」「書類を見ないと分からない」と言われる。学校の先生は優しいが、相続や保険の話までは分からない。役所の窓口は丁寧でも、陽菜の不安まで引き取ってはくれない。


 十五歳の娘にとって、書類の言葉はほとんど呪文だった。


 相続。


 未成年後見人。


 死亡保険金。


 名義変更。


 口座凍結。


 世帯主変更。


 一つ一つの意味は、調べれば分かる。だが、調べるたびに陽菜は思い知らされる。


 父親が死んだ。


 自分は一人になった。


 その事実を、何枚もの紙が別の言い方で突きつけてくる。


 佐伯だけが、ちょうどよく親切だった。


 書類の見方を教える。必要な手続きをメモにまとめる。保険会社へ何を聞けばいいかを整理する。役所へ行く時に持っていくものを、箇条書きにして送る。


 しかも、その一つ一つは間違っていなかった。


 そこが厄介だった。


 全部が嘘なら、まだ分かりやすかった。だが佐伯は実際に役に立っていた。陽菜が困っている時、佐伯の言葉で少しだけ前に進むことがあった。


 陽菜のスマホに、佐伯からメッセージが届く。


『無理しないでください。分からないところだけ写真で送ってくれれば大丈夫です』


 陽菜はしばらく画面を見つめてから、書類を一枚撮った。


 送る。


 すぐに返信が来る。


『ここは今すぐじゃなくて大丈夫です。こっちを先に確認した方がいいです』


 陽菜の肩から、少しだけ力が抜ける。


 そのたびに、俺は何も言えなくなった。


 連絡するな。


 頼るな。


 そいつは危ない。


 そう言いたい。


 でも、佐伯のメッセージを読んで、陽菜がほんの少し息をつけているのも事実だった。


 それが一番、腹立たしかった。


 善意が混じっているから入り込める。


 正しいことを言うから疑われない。


 実際に助けるから、相手は逃げにくくなる。


 佐伯はそれを知っていた。


◇


 三週間ほど経った夜、陽菜は自室で泣いていた。


 机の上には、進路希望調査票が置かれている。まだ一年生なのに、学校はもう先のことを聞いてくる。


 希望進路。


 面談希望日。


 保護者署名欄。


 その空白を見て、陽菜は動けなくなっていた。


 ペンを持つ。


 置く。


 紙を見る。


 顔を伏せる。


 俺は机の横に立っていた。


 俺が生きていれば、こんな紙は何でもなかった。適当に文句を言いながら名前を書いて、陽菜に「ちゃんと考えろよ」と小言を言って、それで終わった。


 たったそれだけのことが、今は陽菜を泣かせている。


 俺の名前を書けばいいわけではない。


 でも、誰の名前を書けばいいのかも分からない。


 父親が死んだという事実は、こういう小さな欄にも入り込んでくる。たった数センチの空白が、家の中から俺を消す。


「ごめんな」


 言っても、届かない。


 陽菜はペンを握ったまま、しばらく動かなかった。


 そのあと、スマホを手に取った。画面を開き、佐伯の名前を表示する。指が止まる。送っていいのかどうか、迷っているのだと思う。


 ほかに聞ける相手がいなかった。


 短いメッセージを打つ。


『保護者署名って、どうしたらいいんでしょうか』


 送信。


 俺は止められなかった。


 数分後、返信が来た。


『大丈夫。こういう場合の方法があります。明日、時間があれば説明します』


 陽菜はその文字を見て、また泣いた。


 安心したのだと思う。


 たった一文で。


 大丈夫、と言われただけで。


 それが、たまらなく嫌だった。


 俺が言いたかった。


 俺が言うべきだった。


 大丈夫じゃなくても、父親が何とかする。分からなくても、聞いて回る。役所でも学校でも保険会社でも、俺が頭を下げる。


 そういう面倒を引き受けるのが親だった。


 その場所に、佐伯が入ってきている。


 佐伯がいなければ。


 そう思うことが増えていた。


 佐伯がいなければ、陽菜は利用されない。佐伯がいなければ、こんな気持ち悪い支配は進まない。


 だが同時に、佐伯がいるから今日の陽菜は少しだけ楽になっている。


 その矛盾が、俺を縛っていた。


◇


 その夜、佐伯はまた酒を飲んでいた。


 いつもの男と一緒だった。テーブルには空いたグラスが並び、佐伯は上機嫌だった。


「で?」


 相手が笑う。


「手出した?」


「まだ」


「もったいぶるなよ」


「馬鹿。こういうのは依存させるのが先」


 依存。


 佐伯はその言葉を、普通の仕事の手順みたいに言った。


「父親の代わりになれば勝ち」


 俺は佐伯を見た。


「俺がいなきゃ生きていけないって思わせる。それが一番楽なんだよ」


 相手は笑った。


「女子高生なんて単純だな」


「単純っていうか、穴が空いてるんだよ」


 佐伯はグラスを持ち上げた。


「そこに入るだけ」


 俺の中で、何かがはっきり形を持った。


 怒りよりも先に、吐き気に近い嫌悪だった。


 陽菜の孤独を、こいつは穴と呼んだ。


 父親の不在を、入り込む場所として見ている。


 俺の死を、利用できる空白だと思っている。


 佐伯はまだ笑っていた。


「保険金入るまでは丁寧に行く。焦らなくていい。卒業まで時間あるし」


「長期戦?」


「その方が確実だろ」


「怖いねえ」


「何が?助けてるだけだよ」


 佐伯はそう言って笑った。


 助けている。


 確かに、そう見える。


 書類を教えた。


 学校のことも聞いた。


 陽菜が泣いた時に返信した。


 だから、この男は自分を悪人だと思っていないのかもしれない。少なくとも、悪人だけではない顔をしている。親切と支配を、同じ手で差し出している。


 だからこそ、陽菜は逃げにくい。


 俺は佐伯のグラスを見た。


 透明な酒の中で、氷が浮いている。


 割ってやりたいと思った。


 グラスを砕きたい。


 スマホを潰したい。


 その口を閉じさせたい。


 その時だった。


 グラスの水面が、かすかに揺れた。


 氷が小さく鳴る。


 佐伯の視線が、ふと動いた。


 こちらを見た。


 正確には、俺がいる場所を見た。


「……なんか寒くね?」


 相手が笑う。


「酔ってんだろ」


「いや」


 佐伯は首をさすった。


「今、なんか」


 俺は動かなかった。


 空気が震えていた。店のざわめきが遠くなる。佐伯の前に置かれたグラスの水面が、もう一度だけ揺れている。


 俺は自分の手を見た。


 触れてはいない。


 動かした覚えもない。


 それでも確かに、グラスの中の氷が鳴った。


 佐伯は眉をひそめたが、すぐに首を振った。


「気のせいか」


 そう言って、また笑った。


 俺は笑えなかった。


 理由は分かっていた。


 陽菜を抱き締めたいと願った時には、何も起きなかった。


 泣くなと伝えたい時も。


 大丈夫だと言いたい時も。


 保護者署名の欄に、自分の名前を書いてやりたいと思った時も。


 世界は遠いままだった。


 けれど今、佐伯を壊したいと思った瞬間だけ、世界は少し近付いた。


 愛では届かない。


 だが、この感情なら届く。


 そう理解した瞬間、俺は自分が何になり始めているのかを、少しだけ分かってしまった。


 守護霊ではない。


 父親でもない。


 少なくとも、ただの父親ではいられない。


 陽菜の空白に入り込む男を前にして、俺の中で黒いものが静かに膨らんでいく。


 その黒さだけが、俺をこの世界へ近付けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。