第5話 依存先
佐伯健吾は、どこから見てもまともな社会人だった。
名刺の会社は実在した。住所も電話番号もある。営業コンサルタントという肩書きも、それらしい実績もあるようだ。壁面には取引先らしい有名企業との協業実績や写真もあった。
俺は佐伯を追った。
朝、駅へ向かう。会社へ行く。取引先と会う。笑う。頭を下げる。昼にはコンビニでサラダを買い、会社では後輩に優しく仕事を教える。夜には同僚らしい人間と酒を飲み、時々、恋人らしい女とも会う。
普通。
誰から見ても、佐伯健吾は社会の中にちゃんと居場所を持っている人間だ。そのことが、余計に気持ち悪い。
悪人というのは、もっと分かりやすい顔をしているものだと、どこかで思っていたのかもしれない。薄汚い部屋で悪い相談をして、いかにも悪そうに笑う。そんなものはドラマの中だけだ。
佐伯は清潔なシャツを着て、名刺を持ち、敬語を使い、駅で落とし物を拾えば駅員に届けるような顔をしていた。
そして夜になると、陽菜の話をした。
◇
「どう?」
例の軽薄そうな男が聞いた。
駅前の居酒屋だった。佐伯はビールを飲みながら、スマホをテーブルに置いている。画面には陽菜とのメッセージが開かれていた。
「順調」
「もう連絡来た?」
「まだ。焦るなって」
佐伯は笑った。
「こういうのは信頼関係が先」
信頼。
その言葉を使うな、と思った。
「父親死んでまだ何日だよ」
「だからだろ」
佐伯は平然としていた。
「今は誰でもいいから寄りかかりたい時期だよ。親戚は薄い。学校の先生は所詮先生。役所は事務。保険会社は金の話しかしない。そういう時に、ちょうどいい距離の大人がいると助かる」
「それがお前?」
「そう」
佐伯は悪びれもせず頷いた。
「最初は相談相手。次は支援者。その次は、家族みたいなもの」
家族。
その言葉だけで、腹の奥が冷えた。
「保険金は?」
「まだ先。焦らない」
「家は?」
「持ち家っぽい。父親名義なら、いろいろ面倒だろうな」
「女子高生に分かるわけないか」
「だから俺が必要になる」
佐伯はスマホを指で軽く叩いた。
「必要だと思わせれば勝ち」
俺はテーブルの横に立っていた。
手を伸ばせば届く距離に、佐伯の喉がある。けれど何もできない。殴ることも、グラスを倒すことも、スマホを叩き割ることもできない。
ただ聞いているだけだった。
佐伯のスマホには、陽菜へ送ったメッセージが残っていた。
『今日は突然すみませんでした』
『困ったことがあれば、いつでも連絡してください』
『お父様のことを無理に美談にしなくていいと思います』
『あなたが苦しいと思うのは当然です』
言葉だけなら、間違っていなかった。
そこが一番、気持ち悪かった。
◇
陽菜は少しずつ、佐伯に頼り始めていた。
それも無理はない。
親戚は遠い。電話をしても、「一度そちらで確認して」「書類を見ないと分からない」と言われる。学校の先生は優しいが、相続や保険の話までは分からない。役所の窓口は丁寧でも、陽菜の不安まで引き取ってはくれない。
十五歳の娘にとって、書類の言葉はほとんど呪文だった。
相続。
未成年後見人。
死亡保険金。
名義変更。
口座凍結。
世帯主変更。
一つ一つの意味は、調べれば分かる。だが、調べるたびに陽菜は思い知らされる。
父親が死んだ。
自分は一人になった。
その事実を、何枚もの紙が別の言い方で突きつけてくる。
佐伯だけが、ちょうどよく親切だった。
書類の見方を教える。必要な手続きをメモにまとめる。保険会社へ何を聞けばいいかを整理する。役所へ行く時に持っていくものを、箇条書きにして送る。
しかも、その一つ一つは間違っていなかった。
そこが厄介だった。
全部が嘘なら、まだ分かりやすかった。だが佐伯は実際に役に立っていた。陽菜が困っている時、佐伯の言葉で少しだけ前に進むことがあった。
陽菜のスマホに、佐伯からメッセージが届く。
『無理しないでください。分からないところだけ写真で送ってくれれば大丈夫です』
陽菜はしばらく画面を見つめてから、書類を一枚撮った。
送る。
すぐに返信が来る。
『ここは今すぐじゃなくて大丈夫です。こっちを先に確認した方がいいです』
陽菜の肩から、少しだけ力が抜ける。
そのたびに、俺は何も言えなくなった。
連絡するな。
頼るな。
そいつは危ない。
そう言いたい。
でも、佐伯のメッセージを読んで、陽菜がほんの少し息をつけているのも事実だった。
それが一番、腹立たしかった。
善意が混じっているから入り込める。
正しいことを言うから疑われない。
実際に助けるから、相手は逃げにくくなる。
佐伯はそれを知っていた。
◇
三週間ほど経った夜、陽菜は自室で泣いていた。
机の上には、進路希望調査票が置かれている。まだ一年生なのに、学校はもう先のことを聞いてくる。
希望進路。
面談希望日。
保護者署名欄。
その空白を見て、陽菜は動けなくなっていた。
ペンを持つ。
置く。
紙を見る。
顔を伏せる。
俺は机の横に立っていた。
俺が生きていれば、こんな紙は何でもなかった。適当に文句を言いながら名前を書いて、陽菜に「ちゃんと考えろよ」と小言を言って、それで終わった。
たったそれだけのことが、今は陽菜を泣かせている。
俺の名前を書けばいいわけではない。
でも、誰の名前を書けばいいのかも分からない。
父親が死んだという事実は、こういう小さな欄にも入り込んでくる。たった数センチの空白が、家の中から俺を消す。
「ごめんな」
言っても、届かない。
陽菜はペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
そのあと、スマホを手に取った。画面を開き、佐伯の名前を表示する。指が止まる。送っていいのかどうか、迷っているのだと思う。
ほかに聞ける相手がいなかった。
短いメッセージを打つ。
『保護者署名って、どうしたらいいんでしょうか』
送信。
俺は止められなかった。
数分後、返信が来た。
『大丈夫。こういう場合の方法があります。明日、時間があれば説明します』
陽菜はその文字を見て、また泣いた。
安心したのだと思う。
たった一文で。
大丈夫、と言われただけで。
それが、たまらなく嫌だった。
俺が言いたかった。
俺が言うべきだった。
大丈夫じゃなくても、父親が何とかする。分からなくても、聞いて回る。役所でも学校でも保険会社でも、俺が頭を下げる。
そういう面倒を引き受けるのが親だった。
その場所に、佐伯が入ってきている。
佐伯がいなければ。
そう思うことが増えていた。
佐伯がいなければ、陽菜は利用されない。佐伯がいなければ、こんな気持ち悪い支配は進まない。
だが同時に、佐伯がいるから今日の陽菜は少しだけ楽になっている。
その矛盾が、俺を縛っていた。
◇
その夜、佐伯はまた酒を飲んでいた。
いつもの男と一緒だった。テーブルには空いたグラスが並び、佐伯は上機嫌だった。
「で?」
相手が笑う。
「手出した?」
「まだ」
「もったいぶるなよ」
「馬鹿。こういうのは依存させるのが先」
依存。
佐伯はその言葉を、普通の仕事の手順みたいに言った。
「父親の代わりになれば勝ち」
俺は佐伯を見た。
「俺がいなきゃ生きていけないって思わせる。それが一番楽なんだよ」
相手は笑った。
「女子高生なんて単純だな」
「単純っていうか、穴が空いてるんだよ」
佐伯はグラスを持ち上げた。
「そこに入るだけ」
俺の中で、何かがはっきり形を持った。
怒りよりも先に、吐き気に近い嫌悪だった。
陽菜の孤独を、こいつは穴と呼んだ。
父親の不在を、入り込む場所として見ている。
俺の死を、利用できる空白だと思っている。
佐伯はまだ笑っていた。
「保険金入るまでは丁寧に行く。焦らなくていい。卒業まで時間あるし」
「長期戦?」
「その方が確実だろ」
「怖いねえ」
「何が?助けてるだけだよ」
佐伯はそう言って笑った。
助けている。
確かに、そう見える。
書類を教えた。
学校のことも聞いた。
陽菜が泣いた時に返信した。
だから、この男は自分を悪人だと思っていないのかもしれない。少なくとも、悪人だけではない顔をしている。親切と支配を、同じ手で差し出している。
だからこそ、陽菜は逃げにくい。
俺は佐伯のグラスを見た。
透明な酒の中で、氷が浮いている。
割ってやりたいと思った。
グラスを砕きたい。
スマホを潰したい。
その口を閉じさせたい。
その時だった。
グラスの水面が、かすかに揺れた。
氷が小さく鳴る。
佐伯の視線が、ふと動いた。
こちらを見た。
正確には、俺がいる場所を見た。
「……なんか寒くね?」
相手が笑う。
「酔ってんだろ」
「いや」
佐伯は首をさすった。
「今、なんか」
俺は動かなかった。
空気が震えていた。店のざわめきが遠くなる。佐伯の前に置かれたグラスの水面が、もう一度だけ揺れている。
俺は自分の手を見た。
触れてはいない。
動かした覚えもない。
それでも確かに、グラスの中の氷が鳴った。
佐伯は眉をひそめたが、すぐに首を振った。
「気のせいか」
そう言って、また笑った。
俺は笑えなかった。
理由は分かっていた。
陽菜を抱き締めたいと願った時には、何も起きなかった。
泣くなと伝えたい時も。
大丈夫だと言いたい時も。
保護者署名の欄に、自分の名前を書いてやりたいと思った時も。
世界は遠いままだった。
けれど今、佐伯を壊したいと思った瞬間だけ、世界は少し近付いた。
愛では届かない。
だが、この感情なら届く。
そう理解した瞬間、俺は自分が何になり始めているのかを、少しだけ分かってしまった。
守護霊ではない。
父親でもない。
少なくとも、ただの父親ではいられない。
陽菜の空白に入り込む男を前にして、俺の中で黒いものが静かに膨らんでいく。
その黒さだけが、俺をこの世界へ近付けていた。




