第10話 力
人の想いが力になる。
宗教かよ。事故の前の俺なら、その一言で片づけていた。
宗教か。オカルトか。スピリチュアルか。そういうものを、俺は積極的に信じる方ではなかった。墓参りはする。仏壇に手も合わせる。だがそれは、死者が本当にそこにいると確信していたからではない。
残された人間が、そうしないと落ち着かないからだ。
少なくとも、そう思っていた。
だが今の俺は死んでいる。
その時点で、大抵の常識は役に立たなかった。
園児の家族から手紙が届く。花が届く。学校を通して、菓子折りや封筒が届く。電話も何度かあった。
届くたび、事故直後には散りやすかった身体が、少しずつまとまりを取り戻した。
感謝されると、強くなる。
認めたくなくても、もう認めるしかなかった。
問題は、その強さで何ができるのかだった。
◇
陽菜は少しずつ、日常に戻ろうとしていた。
学校へ行く日が増えた。食事も、前よりは取るようになった。夜中に目を覚ますことはまだあるが、明け方まで眠れる日もある。
普通に戻ったわけではない。
父親が死んだあとに、普通も何もない。
ただ、陽菜は毎日少しずつ、昨日よりましな顔を作ろうとしていた。朝、鏡の前で髪を整え、制服のリボンを結ぶ。食パンを半分だけ食べる。牛乳を少し飲む。スマホを確認して、鞄を持つ。
それだけで、十分頑張っているように見えた。
俺はそばにいた。
玄関で靴を履く陽菜の横に立ち、電車では少し離れて立ち、学校では廊下の壁際にいた。女子高生の教室に父親が入り込むのはどうなんだと一瞬思ったが、誰にも見えない以上、気にしても仕方がない。
できるだけ教室の中には入らなかった。
死んでも父親だ。踏み込んでいい場所と、そうでない場所くらいはある。
陽菜は時々、授業中に手を止めた。黒板を見ているのに、目は別のところを見ている。たぶん俺のことを考えている。あるいは佐伯のことかもしれない。園児の家族からの手紙かもしれない。
何を考えているのか、俺には分からない。
心は読めない。
死んだからといって、何でも分かるようにはならなかった。
見える。聞こえる。追える。
それだけだ。
そして、声は届かない。
◇
夕方、陽菜はスーパーへ寄った。
買い物かごを持ち、野菜売り場の前でしばらく立ち止まる。キャベツを手に取って、戻す。にんじんを見て、また戻す。料理をする気力がないのだろう。結局、総菜コーナーでコロッケを二つ取り、レトルトの味噌汁をかごに入れた。
野菜も買え。米はあるのか。コロッケばっかり食うな。
買い物かごの横で、いつもの小言が勝手に浮かんだ。
今は何も言えない。
レジを出て、買い物袋を持つ陽菜の指が少し白くなっていた。重そうだった。米でも買ったわけではない。けれど、疲れている人間にはコンビニ袋一つだって重い。
俺は無意識に手を伸ばした。
持ってやりたかった。
袋の取っ手に指をかけようとして、すり抜ける。
当たり前だ。
分かっていた。
それでも、やってしまう。
スーパーを出たところで、陽菜が足を止めた。
「あの」
後ろから声がした。
振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。数日前、家へ来た園児の母親だった。向こうも買い物帰りらしく、エコバッグを腕にかけている。
女性の隣には、小さな男の子がいた。
黄色い帽子はかぶっていない。それでも、葬儀の日に見た子だとすぐ分かった。祭壇の前で、小さな声で「ありがとう」と言った子だった。
母親は陽菜を見るなり、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。こんなところで」
「いえ」
陽菜は少し身構えた。
また感謝される。そう思ったのだろう。買い物袋を握る指に、少し力が入った。
母親は何か言いかけて、やめた。代わりに男の子の背中をそっと押す。
男の子は陽菜を見上げた。
「おねえちゃん」
陽菜は戸惑いながら、少し膝を曲げた。
「……なに?」
「おじちゃんに、おてがみとどいた?」
陽菜の顔が止まった。
俺も動けなかった。
男の子は、母親のエコバッグから小さな封筒を取り出した。少し折れている。端には、子供の手で描いたらしい車の絵があった。
「またかいたの」
男の子はそれを陽菜に差し出した。
「おじちゃん、かっこよかったから」
陽菜は封筒を受け取れずにいた。
母親が慌てて言う。
「すみません。本当に、無理に受け取っていただかなくて大丈夫です。この子が、どうしてもって」
陽菜は小さく首を振った。
「……大丈夫です」
そして、封筒を受け取った。
男の子は安心したように笑った。
「ありがとうって、いっておいて」
その瞬間、身体の奥に一本の芯が通った。
一瞬だけだった。
母親の丁寧な感謝とは違った。
理屈も事情も分かっていない、子供のまっすぐな声だった。自分が死にかけていたことも、俺が何をしたのかも、たぶん正確には分かっていない。ただ、誰かに助けられたと教えられ、その誰かに礼を言おうとしている。
それだけで、足元まで自分の存在が途切れずにつながった。
陽菜は封筒を持ったまま、男の子を見ていた。
「……うん」
かすれた声で答える。
「言っておくね」
男の子は満足そうに頷いた。
母親はもう一度だけ頭を下げ、男の子の手を引いて去っていった。
陽菜はしばらく動かなかった。
買い物袋と、小さな封筒。
その二つを持ったまま、スーパーの前に立っていた。
「……どうしたらいいの」
誰に向けたのか、俺には判別できなかった。
俺はすぐ隣にいた。
その封筒を開けるな、とも言えない。
受け取らなくていい、とも言えない。
子供は悪くない。母親も悪くない。陽菜も悪くない。
なのに、誰かの「ありがとう」が増えるたび、陽菜の傷はまた少し開く。
そして俺だけが、この世界へ強く留められている。
◇
帰り道、陽菜はほとんど前だけを見て歩いた。
夕陽が長く伸びている。制服のスカートが風で少し揺れる。買い物袋の中で、コロッケのパックが傾いていた。
俺はその隣を歩きながら、何度か試した。
陽菜の肩に手を置こうとする。
駄目だった。
買い物袋を持とうとする。
駄目だった。
スマホに触れようとする。
駄目だった。
小石を蹴ることさえできない。
さっき、足元まで自分の存在がつながった。それなのに、触れようとすると、何一つ変わらない。
佐伯を殺した夜を思い出した。
あの時だけ、世界は近かった。肩に触れた。胸ぐらを掴んだ。手すりの向こうへ押し出した。
何が違ったのか。
考えるまでもなかった。
あれは愛情ではなかった。善意でも、祈りでもなかった。
殺意だった。
憎しみだった。
害意だった。
その時だけ、俺は世界に触れた。
ひどい仕組みだと思った。
人の感謝でこの世界へ留まりやすくなっても、それが娘を抱き締める手になるわけではない。
誰かを壊す力だけが、世界へ届く。
俺は自分が笑ったことに気付いた。
声のない、自嘲みたいな笑いだった。
守護霊なら、せめて娘の涙くらい拭わせてくれればいい。父親なら、買い物袋くらい持たせてくれればいい。
だが俺に許されているのは、そんな優しい干渉ではない。
俺は悪霊としてだけ、世界に触れられる。
◇
家に着くと、陽菜は買ってきたものを冷蔵庫へ入れた。
コロッケは皿に移さず、パックのまま食卓に置いた。レトルトの味噌汁を温める気力もないらしく、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。
やがて、仏壇の前へ行く。
最近の陽菜は、迷った時や苦しくなった時、必ずそこへ行く。俺の遺影を見る。手を合わせることもあるし、ただ座っていることもある。
その日、陽菜は手を合わせた。
しばらく黙っていた。
それから、小さく呟いた。
「ありがとう」
俺は顔を上げた。
誰に向けた言葉なのか分からなかった。園児の家族にか。助かった子供にか。俺にか。それとも、佐伯の件で自分を助けた何かにか。
陽菜自身にも、分かっていないのかもしれない。
けれど、その一言で、ばらけかけていた身体が一つにまとまった。
陽菜の言葉が俺をこの部屋へ押し戻したことが、嬉しいだけでは済まなかった。
陽菜は顔を上げた。遺影を見ている。
「お父さん」
俺はすぐそばにいる。
「私、ちゃんと生きてるよ」
その声は小さかった。
無理をしている声だった。
「だから、怒らないでね」
何に怒るというのだろう。
学校へ行けないことか。ありがとうと思えないことか。佐伯が死んで安心したことか。コロッケを皿に移さず食べることか。
俺はそんなことで怒らない。
生きていてくれればいい。
そう言いたかった。
陽菜はしばらく遺影を見つめたあと、立ち上がった。食卓へ戻り、冷めかけたコロッケを少しずつ食べる。
俺は仏壇の横に立っていた。
意識を向けなくても身体を保てるほどには、この場所へ留まれるようになっている。
だが、その力で陽菜を救うことはできない。
俺にできるのは、誰かが陽菜へ害をなそうとした時、その相手を壊すことだけだ。
そして、そのことを。
少しも嫌だと思わなくなり始めている自分がいた。




