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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第2章 悪霊

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第10話 力

 人の想いが力になる。


 宗教かよ。事故の前の俺なら、その一言で片づけていた。


 宗教か。オカルトか。スピリチュアルか。そういうものを、俺は積極的に信じる方ではなかった。墓参りはする。仏壇に手も合わせる。だがそれは、死者が本当にそこにいると確信していたからではない。


 残された人間が、そうしないと落ち着かないからだ。


 少なくとも、そう思っていた。


 だが今の俺は死んでいる。


 その時点で、大抵の常識は役に立たなかった。


 園児の家族から手紙が届く。花が届く。学校を通して、菓子折りや封筒が届く。電話も何度かあった。


 届くたび、事故直後には散りやすかった身体が、少しずつまとまりを取り戻した。


 感謝されると、強くなる。


 認めたくなくても、もう認めるしかなかった。


 問題は、その強さで何ができるのかだった。


◇


 陽菜は少しずつ、日常に戻ろうとしていた。


 学校へ行く日が増えた。食事も、前よりは取るようになった。夜中に目を覚ますことはまだあるが、明け方まで眠れる日もある。


 普通に戻ったわけではない。


 父親が死んだあとに、普通も何もない。


 ただ、陽菜は毎日少しずつ、昨日よりましな顔を作ろうとしていた。朝、鏡の前で髪を整え、制服のリボンを結ぶ。食パンを半分だけ食べる。牛乳を少し飲む。スマホを確認して、鞄を持つ。


 それだけで、十分頑張っているように見えた。


 俺はそばにいた。


 玄関で靴を履く陽菜の横に立ち、電車では少し離れて立ち、学校では廊下の壁際にいた。女子高生の教室に父親が入り込むのはどうなんだと一瞬思ったが、誰にも見えない以上、気にしても仕方がない。


 できるだけ教室の中には入らなかった。


 死んでも父親だ。踏み込んでいい場所と、そうでない場所くらいはある。


 陽菜は時々、授業中に手を止めた。黒板を見ているのに、目は別のところを見ている。たぶん俺のことを考えている。あるいは佐伯のことかもしれない。園児の家族からの手紙かもしれない。


 何を考えているのか、俺には分からない。


 心は読めない。


 死んだからといって、何でも分かるようにはならなかった。


 見える。聞こえる。追える。


 それだけだ。


 そして、声は届かない。


◇


 夕方、陽菜はスーパーへ寄った。


 買い物かごを持ち、野菜売り場の前でしばらく立ち止まる。キャベツを手に取って、戻す。にんじんを見て、また戻す。料理をする気力がないのだろう。結局、総菜コーナーでコロッケを二つ取り、レトルトの味噌汁をかごに入れた。


 野菜も買え。米はあるのか。コロッケばっかり食うな。


 買い物かごの横で、いつもの小言が勝手に浮かんだ。


 今は何も言えない。


 レジを出て、買い物袋を持つ陽菜の指が少し白くなっていた。重そうだった。米でも買ったわけではない。けれど、疲れている人間にはコンビニ袋一つだって重い。


 俺は無意識に手を伸ばした。


 持ってやりたかった。


 袋の取っ手に指をかけようとして、すり抜ける。


 当たり前だ。


 分かっていた。


 それでも、やってしまう。


 スーパーを出たところで、陽菜が足を止めた。


「あの」


 後ろから声がした。


 振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。数日前、家へ来た園児の母親だった。向こうも買い物帰りらしく、エコバッグを腕にかけている。


 女性の隣には、小さな男の子がいた。


 黄色い帽子はかぶっていない。それでも、葬儀の日に見た子だとすぐ分かった。祭壇の前で、小さな声で「ありがとう」と言った子だった。


 母親は陽菜を見るなり、申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません。こんなところで」


「いえ」


 陽菜は少し身構えた。


 また感謝される。そう思ったのだろう。買い物袋を握る指に、少し力が入った。


 母親は何か言いかけて、やめた。代わりに男の子の背中をそっと押す。


 男の子は陽菜を見上げた。


「おねえちゃん」


 陽菜は戸惑いながら、少し膝を曲げた。


「……なに?」


「おじちゃんに、おてがみとどいた?」


 陽菜の顔が止まった。


 俺も動けなかった。


 男の子は、母親のエコバッグから小さな封筒を取り出した。少し折れている。端には、子供の手で描いたらしい車の絵があった。


「またかいたの」


 男の子はそれを陽菜に差し出した。


「おじちゃん、かっこよかったから」


 陽菜は封筒を受け取れずにいた。


 母親が慌てて言う。


「すみません。本当に、無理に受け取っていただかなくて大丈夫です。この子が、どうしてもって」


 陽菜は小さく首を振った。


「……大丈夫です」


 そして、封筒を受け取った。


 男の子は安心したように笑った。


「ありがとうって、いっておいて」


 その瞬間、身体の奥に一本の芯が通った。


 一瞬だけだった。


 母親の丁寧な感謝とは違った。


 理屈も事情も分かっていない、子供のまっすぐな声だった。自分が死にかけていたことも、俺が何をしたのかも、たぶん正確には分かっていない。ただ、誰かに助けられたと教えられ、その誰かに礼を言おうとしている。


 それだけで、足元まで自分の存在が途切れずにつながった。


 陽菜は封筒を持ったまま、男の子を見ていた。


「……うん」


 かすれた声で答える。


「言っておくね」


 男の子は満足そうに頷いた。


 母親はもう一度だけ頭を下げ、男の子の手を引いて去っていった。


 陽菜はしばらく動かなかった。


 買い物袋と、小さな封筒。


 その二つを持ったまま、スーパーの前に立っていた。


「……どうしたらいいの」


 誰に向けたのか、俺には判別できなかった。


 俺はすぐ隣にいた。


 その封筒を開けるな、とも言えない。


 受け取らなくていい、とも言えない。


 子供は悪くない。母親も悪くない。陽菜も悪くない。


 なのに、誰かの「ありがとう」が増えるたび、陽菜の傷はまた少し開く。


 そして俺だけが、この世界へ強く留められている。


◇


 帰り道、陽菜はほとんど前だけを見て歩いた。


 夕陽が長く伸びている。制服のスカートが風で少し揺れる。買い物袋の中で、コロッケのパックが傾いていた。


 俺はその隣を歩きながら、何度か試した。


 陽菜の肩に手を置こうとする。


 駄目だった。


 買い物袋を持とうとする。


 駄目だった。


 スマホに触れようとする。


 駄目だった。


 小石を蹴ることさえできない。


 さっき、足元まで自分の存在がつながった。それなのに、触れようとすると、何一つ変わらない。


 佐伯を殺した夜を思い出した。


 あの時だけ、世界は近かった。肩に触れた。胸ぐらを掴んだ。手すりの向こうへ押し出した。


 何が違ったのか。


 考えるまでもなかった。


 あれは愛情ではなかった。善意でも、祈りでもなかった。


 殺意だった。


 憎しみだった。


 害意だった。


 その時だけ、俺は世界に触れた。


 ひどい仕組みだと思った。


 人の感謝でこの世界へ留まりやすくなっても、それが娘を抱き締める手になるわけではない。


 誰かを壊す力だけが、世界へ届く。


 俺は自分が笑ったことに気付いた。


 声のない、自嘲みたいな笑いだった。


 守護霊なら、せめて娘の涙くらい拭わせてくれればいい。父親なら、買い物袋くらい持たせてくれればいい。


 だが俺に許されているのは、そんな優しい干渉ではない。


 俺は悪霊としてだけ、世界に触れられる。


◇


 家に着くと、陽菜は買ってきたものを冷蔵庫へ入れた。


 コロッケは皿に移さず、パックのまま食卓に置いた。レトルトの味噌汁を温める気力もないらしく、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。


 やがて、仏壇の前へ行く。


 最近の陽菜は、迷った時や苦しくなった時、必ずそこへ行く。俺の遺影を見る。手を合わせることもあるし、ただ座っていることもある。


 その日、陽菜は手を合わせた。


 しばらく黙っていた。


 それから、小さく呟いた。


「ありがとう」


 俺は顔を上げた。


 誰に向けた言葉なのか分からなかった。園児の家族にか。助かった子供にか。俺にか。それとも、佐伯の件で自分を助けた何かにか。


 陽菜自身にも、分かっていないのかもしれない。


 けれど、その一言で、ばらけかけていた身体が一つにまとまった。


 陽菜の言葉が俺をこの部屋へ押し戻したことが、嬉しいだけでは済まなかった。


 陽菜は顔を上げた。遺影を見ている。


「お父さん」


 俺はすぐそばにいる。


「私、ちゃんと生きてるよ」


 その声は小さかった。


 無理をしている声だった。


「だから、怒らないでね」


 何に怒るというのだろう。


 学校へ行けないことか。ありがとうと思えないことか。佐伯が死んで安心したことか。コロッケを皿に移さず食べることか。


 俺はそんなことで怒らない。


 生きていてくれればいい。


 そう言いたかった。


 陽菜はしばらく遺影を見つめたあと、立ち上がった。食卓へ戻り、冷めかけたコロッケを少しずつ食べる。


 俺は仏壇の横に立っていた。


 意識を向けなくても身体を保てるほどには、この場所へ留まれるようになっている。


 だが、その力で陽菜を救うことはできない。


 俺にできるのは、誰かが陽菜へ害をなそうとした時、その相手を壊すことだけだ。


 そして、そのことを。


 少しも嫌だと思わなくなり始めている自分がいた。

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