第11話 二人目
陽菜は、学校へ行くようになった。
毎日ではない。休む日もある。朝、制服に袖を通したまま動けなくなる日もある。玄関まで行って、靴を履いたあとに座り込む日もある。
行ける日は増えた。
俺はその後ろをついていく。
駅まで。
電車の中。
学校まで。
死んだ父親が、女子高生の娘の後ろをついて歩く。我ながら絵面は最悪だ。生身なら通報案件だが、今は仕方ない。俺は父親で、陽菜は娘で、俺にはもう、陽菜の近く以外に居場所がない。
校門の前で、陽菜は一度立ち止まった。
朝の学校は騒がしい。自転車置き場。昇降口。友達同士の笑い声。教師の挨拶。部活の朝練帰りらしい生徒たち。
ここは生きている人間の場所だ。
父親を失った娘も、死んだ父親も、本当は少し浮いている。
「おはよう」
誰かが陽菜に声をかけた。
陽菜は少し遅れて顔を上げる。
「……おはよう」
声は小さい。
だが、返事はした。
俺はそれだけで少し安心した。親なんて馬鹿だ。返事をしただけで安心する。パンを半分食べただけで安心する。靴を履いて外に出ただけで、今日はいけるかもしれないと思ってしまう。
廊下を歩く陽菜に、時々視線が向いた。
声には出さない。けれど分かる。
あの子だ。
事故で父親を亡くした子。
園児を救った英雄の娘。
陽菜も気付いている。
気付かないふりをしているだけだ。
「阿久津さん」
教室の前で、担任が声をかけた。
「無理しなくていいからね。気分が悪くなったら、すぐ保健室に行きなさい」
「はい」
担任は悪くない。気遣っている。だが、気遣われるたびに陽菜の肩が少し強ばる。普通にしてほしい。でも普通にされても、きっと傷つく。
そういう時期なのだと思う。
教室に入る陽菜を見て、俺は少し迷った。
娘の教室に父親が入るのはどうなんだ。そんなことを考えてから、自分で自分に呆れた。誰にも見えないのに、今さら何を気にしている。
俺は、廊下の壁際に立つことにした。
死んでも父親だ。
踏み込んでいい場所と、そうでない場所くらいはある。
◇
昼休み。
陽菜は一人でパンを食べていた。コンビニで買った小さなパンと、紙パックの飲み物。パン一個では腹がもたない。横からもう少し食えと言いたくなる。
今は言えない。
陽菜はパンを半分ほど食べたところで、席を立った。
教室を出て、人の少ない階段の方へ向かう。屋上へ続く階段だった。普段はあまり使われていないのだろう。踊り場の窓から校庭が見え、昼休みの声が遠く聞こえた。
泣くのかと思った。
一人になりたかったのかもしれない。
「無理だって」
小さな声がした。
女子の声だった。
階段の上。もう一つ上の踊り場。
「お願いだから。今日は無理」
電話だ。
陽菜が足を止める。聞いていいものか迷っている顔だった。俺も同じだった。だが声は続いた。
「お金は……だから、すぐは無理だって言ってるじゃん」
陽菜の表情が変わった。
階段を一段だけ上がる。
上の踊り場にいたのは、女子生徒だった。陽菜より少し背が低い。髪は肩くらいで、リボンの色から見て一つ上の学年らしい。顔色が悪く、スマホを握る手が白くなっていた。
女子生徒は陽菜に気付くと、びくっと肩を跳ねさせた。
「あ」
陽菜が言った。
「すみません」
女子生徒は慌てて電話を切った。
「別に」
声は硬い。
「聞いてないですから」
陽菜はそう言った。
全部は聞いていない。だが、何かがあったことは分かる。
女子生徒はスマホを胸に抱えた。その画面が一瞬だけ見えた。
逃げんな。
今日中。
約束しただろ。
次はない。
たったそれだけの文字だった。
けれど十分だった。
陽菜も見えたのだと思う。顔が少し強張った。
「あの」
陽菜は言った。
「大丈夫ですか?」
女子生徒は笑おうとした。
失敗していた。
「大丈夫」
大丈夫な人間は、そういう顔をしない。
普通なら、よその子の家庭事情に首を突っ込むなとブレーキを踏んだ。教師に任せろ。それが大人の分別だ。だが、西野の手は電話一つで白くなるほど強く握られていた。
だが、陽菜はもう一歩近付いた。
「先生、呼びましょうか?」
「やめて」
即答だった。
強い声だった。陽菜が止まる。
女子生徒はすぐに俯いた。
「ごめん」
「気にしないでください」
沈黙が落ちた。
階段の下から、誰かの笑い声が聞こえる。昼休みの学校は明るい。その明るさのすぐ横で、この子だけが別の場所にいるように見えた。
「阿久津さんだよね」
女子生徒が言った。
陽菜は少し驚いた顔をする。
「……はい」
「一年の」
「はい」
「知ってる。有名だから」
陽菜の表情が少し曇った。
また英雄の娘か。
そう思ったのかもしれない。
だが女子生徒は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「お父さんのこと。ごめん」
「いいですよ」
陽菜は小さく言った。
「みんな知ってますし」
女子生徒は唇を噛んだ。
「私、西野」
「西野さん?」
「西野美咲」
「阿久津陽菜です」
「知ってる」
西野はそう言って、少しだけ笑った。
今度はさっきより、ちゃんとした笑顔だった。
その時、スマホが短く震えた。
それだけで、西野の顔から血の気が引いた。画面には黒い丸のアイコンが出ている。本文の最初だけが表示されていた。
逃げたら分かってるよな。
俺は眉をひそめた。
ただの同級生同士の喧嘩ではない。
少なくとも、俺にはそう見えなかった。
陽菜が何か言おうとした時だった。
「美咲」
階段の下から、男の声がした。
明るい声だった。人懐っこい。何も知らなければ、優しい先輩の声に聞こえたと思う。
西野の身体が固まった。
肩が上がり、指が縮み、スマホを握る手が白くなる。
怖がっている。
声の主が階段を上がってきた。
男子生徒だった。
背が高く、制服も乱れていない。表情は柔らかい。人に好かれる笑い方を知っている顔だった。
男子生徒は、まず西野のスマホを見た。
それから西野の顔を見る。
「電話、切らなくてよかったのに」
軽い声だった。
責めているようには聞こえない。けれど西野はすぐに頭を下げた。
「すみません」
「いいよ」
男子生徒は笑った。
「探した。昼、委員会の打ち合わせあるって言ったじゃん」
「あ……ごめんなさい」
「最近、忘れっぽいな」
言い方は穏やかだった。
穏やかすぎた。
西野は小さく頷く。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
男子生徒はそう言って、西野の肩に軽く手を置いた。
西野の身体が、一瞬だけ硬直した。
陽菜がそれに気付いた。
俺も気付いた。
男子生徒は陽菜を見る。
「ごめんね。西野、ちょっと用事あって」
「あ、はい」
陽菜は戸惑いながら返事をした。
「君、一年の阿久津さん?」
陽菜の動きが止まる。
「……はい」
「やっぱり。有名だから」
男子生徒は爽やかに笑った。
陽菜の表情が少し曇る。
男子生徒はすぐに言葉を足した。
「悪い意味じゃないよ。大変だったね、お父さんのこと」
陽菜は何も答えなかった。
「ごめん。変なこと言った」
謝り方も自然だった。
「俺、河合悠斗。三年。生徒会の手伝いとか、相談室のボランティアとか、そういうのやってる」
相談室。
その言葉に、西野の指がわずかに動いた。
河合は、その反応に気付いていないふりをした。
「困ったことがあったら、言って」
河合は陽菜に向かって笑った。
「西野も、そういう感じで知り合ったから」
西野は俯いていた。
相談室。
ひとりで抱え込まない場所。
助けてほしい人間が、先生や先輩に声をかける場所。
そのはずだった。
だが今、その言葉は西野の首輪みたいに見えた。
陽菜は、西野の顔を見ていた。何かを感じている。でも、まだ言葉にできない。そんな表情だった。
「行こう、美咲」
河合が言った。
西野は小さく頷いた。
二人が階段を降りていく。
その途中、西野が一瞬だけ陽菜を見た。
助けて。
声はなかった。表情もほとんど動いていない。
だが、俺にはそう見えた。
陽菜にも、そう見えたのだと思う。
二人が廊下へ消えたあとも、陽菜はしばらく動かなかった。
河合悠斗。
三年。
相談室のボランティア。
西野美咲。
脅すようなメッセージ。
まだ、何一つ確かなことはなかった。
だが、嫌な感じがした。
佐伯を初めて見た時に似ていた。
親切な顔。整った言葉。ちょうどいい距離。
ただ、佐伯とは少し違う。
佐伯は、陽菜の家へ勝手に入ろうとした。
河合は、学校の中にいた。
相談室という、誰かが助けを求めていい場所の中に。
そういうものが、俺はもう信用できなくなっていた。
◇
その日の帰り、陽菜は西野を探していた。
下駄箱。廊下。校門。
だが見つからなかった。河合もいなかった。
陽菜はスマホを何度も見た。連絡先を知っているわけではない。できることはない。それでも何かしたい顔をしていた。
「やめとけ」
思わず言った。
届かない。
関わるな。
それは父親としての本音だった。危ないかもしれない。面倒に巻き込まれるかもしれない。陽菜はまだ、自分のことで精一杯だ。他人の問題を背負える状態じゃない。
だが、西野の目が浮かんだ。
あの声にならない助けて。
もし陽菜があのまま見捨てたら、陽菜はきっと傷つく。助けられなかったことまで、自分の罪にする。
そういう子だ。
俺の娘だからだ。
家に帰ると、陽菜は制服のまま仏壇の前に座った。
最近の陽菜は、何かあるとここへ来る。
「お父さん」
俺はすぐ隣にいた。
「今日、変な感じの先輩に会ったの」
西野のことだ。
「困ってるみたいだった。でも、何に困ってるのか分からない」
陽菜は膝の上で手を握った。
「聞いたら嫌かな。先生に言ったら、余計ひどくなるのかな」
そうかもしれない。
何が正しいのか、俺にも分からない。
「でも、あのままでいい感じじゃなかった」
陽菜は少し俯いた。
「私、何もできないのにね」
その言葉に、胸が痛んだ。
俺も同じだ。
何もできないと思って、何もできないまま、ただ見ている。
「佐伯さんの時」
陽菜は小さく言った。
俺は動きを止めた。
「あの時も、最初は分からなかった。優しい人だと思ってた」
違う。
お前が悪いんじゃない。
佐伯が、悪いやつに見えない顔をしていただけだ。
「だから今日のあの人も、優しそうだったけど」
河合のことだ。
「分からない」
陽菜は自分の手を見る。
「私、人を見る目ないのかな」
違う、と言いたかった。
何度でも言いたかった。
陽菜は遺影を見上げる。
「あの子」
西野のことだ。
「助かってほしい」
ただ、それだけだった。
誰かを殺してほしい。
罰してほしい。
消してほしい。
そんな言葉ではなかった。
ただ、助かってほしい。
陽菜らしい願いだった。
何も起きない。
俺の指先は透けたまま、世界も遠い。それは殺意でも憎しみでもなかった。ただの願いだ。ただの善意だ。
だから世界には届かない。
だが、俺には届いた。
西野美咲。
河合悠斗。
相談室。
脅すようなメッセージ。
俺はそれらを頭の中で並べた。
まだ、河合が悪いと決まったわけではない。
そんなことを考えたあとで、自分に少しぞっとした。悪いと決まったらどうするつもりだ。いつから俺は、そんなふうに人を見るようになった。
陽菜は救われてほしいと願った。
俺はその願いを、間違えてはいけない。
夜になって、陽菜は風呂に入り、遅い夕食を少しだけ食べた。それから眠った。眠りは浅く、何度も寝返りを打っていた。
俺はしばらく枕元にいた。
そして立ち上がる。
窓を抜け、夜の街へ出た。
学校の方角を見る。
河合悠斗。
あの笑顔。
あの声。
あの指先。
俺はまだ何も知らない。
だから、知りに行く。
今はただ、娘が助かってほしいと願った相手のことを、確かめに行くだけだった。




