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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第3章 神の誕生

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第11話 二人目

 陽菜は、学校へ行くようになった。


 毎日ではない。休む日もある。朝、制服に袖を通したまま動けなくなる日もある。玄関まで行って、靴を履いたあとに座り込む日もある。


 行ける日は増えた。


 俺はその後ろをついていく。


 駅まで。


 電車の中。


 学校まで。


 死んだ父親が、女子高生の娘の後ろをついて歩く。我ながら絵面は最悪だ。生身なら通報案件だが、今は仕方ない。俺は父親で、陽菜は娘で、俺にはもう、陽菜の近く以外に居場所がない。


 校門の前で、陽菜は一度立ち止まった。


 朝の学校は騒がしい。自転車置き場。昇降口。友達同士の笑い声。教師の挨拶。部活の朝練帰りらしい生徒たち。


 ここは生きている人間の場所だ。


 父親を失った娘も、死んだ父親も、本当は少し浮いている。


「おはよう」


 誰かが陽菜に声をかけた。


 陽菜は少し遅れて顔を上げる。


「……おはよう」


 声は小さい。


 だが、返事はした。


 俺はそれだけで少し安心した。親なんて馬鹿だ。返事をしただけで安心する。パンを半分食べただけで安心する。靴を履いて外に出ただけで、今日はいけるかもしれないと思ってしまう。


 廊下を歩く陽菜に、時々視線が向いた。


 声には出さない。けれど分かる。


 あの子だ。


 事故で父親を亡くした子。


 園児を救った英雄の娘。


 陽菜も気付いている。


 気付かないふりをしているだけだ。


「阿久津さん」


 教室の前で、担任が声をかけた。


「無理しなくていいからね。気分が悪くなったら、すぐ保健室に行きなさい」


「はい」


 担任は悪くない。気遣っている。だが、気遣われるたびに陽菜の肩が少し強ばる。普通にしてほしい。でも普通にされても、きっと傷つく。


 そういう時期なのだと思う。


 教室に入る陽菜を見て、俺は少し迷った。


 娘の教室に父親が入るのはどうなんだ。そんなことを考えてから、自分で自分に呆れた。誰にも見えないのに、今さら何を気にしている。


 俺は、廊下の壁際に立つことにした。


 死んでも父親だ。


 踏み込んでいい場所と、そうでない場所くらいはある。


◇


 昼休み。


 陽菜は一人でパンを食べていた。コンビニで買った小さなパンと、紙パックの飲み物。パン一個では腹がもたない。横からもう少し食えと言いたくなる。


 今は言えない。


 陽菜はパンを半分ほど食べたところで、席を立った。


 教室を出て、人の少ない階段の方へ向かう。屋上へ続く階段だった。普段はあまり使われていないのだろう。踊り場の窓から校庭が見え、昼休みの声が遠く聞こえた。


 泣くのかと思った。


 一人になりたかったのかもしれない。


「無理だって」


 小さな声がした。


 女子の声だった。


 階段の上。もう一つ上の踊り場。


「お願いだから。今日は無理」


 電話だ。


 陽菜が足を止める。聞いていいものか迷っている顔だった。俺も同じだった。だが声は続いた。


「お金は……だから、すぐは無理だって言ってるじゃん」


 陽菜の表情が変わった。


 階段を一段だけ上がる。


 上の踊り場にいたのは、女子生徒だった。陽菜より少し背が低い。髪は肩くらいで、リボンの色から見て一つ上の学年らしい。顔色が悪く、スマホを握る手が白くなっていた。


 女子生徒は陽菜に気付くと、びくっと肩を跳ねさせた。


「あ」


 陽菜が言った。


「すみません」


 女子生徒は慌てて電話を切った。


「別に」


 声は硬い。


「聞いてないですから」


 陽菜はそう言った。


 全部は聞いていない。だが、何かがあったことは分かる。


 女子生徒はスマホを胸に抱えた。その画面が一瞬だけ見えた。


 逃げんな。


 今日中。


 約束しただろ。


 次はない。


 たったそれだけの文字だった。


 けれど十分だった。


 陽菜も見えたのだと思う。顔が少し強張った。


「あの」


 陽菜は言った。


「大丈夫ですか?」


 女子生徒は笑おうとした。


 失敗していた。


「大丈夫」


 大丈夫な人間は、そういう顔をしない。


 普通なら、よその子の家庭事情に首を突っ込むなとブレーキを踏んだ。教師に任せろ。それが大人の分別だ。だが、西野の手は電話一つで白くなるほど強く握られていた。


 だが、陽菜はもう一歩近付いた。


「先生、呼びましょうか?」


「やめて」


 即答だった。


 強い声だった。陽菜が止まる。


 女子生徒はすぐに俯いた。


「ごめん」


「気にしないでください」


 沈黙が落ちた。


 階段の下から、誰かの笑い声が聞こえる。昼休みの学校は明るい。その明るさのすぐ横で、この子だけが別の場所にいるように見えた。


「阿久津さんだよね」


 女子生徒が言った。


 陽菜は少し驚いた顔をする。


「……はい」


「一年の」


「はい」


「知ってる。有名だから」


 陽菜の表情が少し曇った。


 また英雄の娘か。


 そう思ったのかもしれない。


 だが女子生徒は、申し訳なさそうに目を伏せた。


「お父さんのこと。ごめん」


「いいですよ」


 陽菜は小さく言った。


「みんな知ってますし」


 女子生徒は唇を噛んだ。


「私、西野」


「西野さん?」


「西野美咲」


「阿久津陽菜です」


「知ってる」


 西野はそう言って、少しだけ笑った。


 今度はさっきより、ちゃんとした笑顔だった。


 その時、スマホが短く震えた。


 それだけで、西野の顔から血の気が引いた。画面には黒い丸のアイコンが出ている。本文の最初だけが表示されていた。


 逃げたら分かってるよな。


 俺は眉をひそめた。


 ただの同級生同士の喧嘩ではない。


 少なくとも、俺にはそう見えなかった。


 陽菜が何か言おうとした時だった。


「美咲」


 階段の下から、男の声がした。


 明るい声だった。人懐っこい。何も知らなければ、優しい先輩の声に聞こえたと思う。


 西野の身体が固まった。


 肩が上がり、指が縮み、スマホを握る手が白くなる。


 怖がっている。


 声の主が階段を上がってきた。


 男子生徒だった。


 背が高く、制服も乱れていない。表情は柔らかい。人に好かれる笑い方を知っている顔だった。


 男子生徒は、まず西野のスマホを見た。


 それから西野の顔を見る。


「電話、切らなくてよかったのに」


 軽い声だった。


 責めているようには聞こえない。けれど西野はすぐに頭を下げた。


「すみません」


「いいよ」


 男子生徒は笑った。


「探した。昼、委員会の打ち合わせあるって言ったじゃん」


「あ……ごめんなさい」


「最近、忘れっぽいな」


 言い方は穏やかだった。


 穏やかすぎた。


 西野は小さく頷く。


「ごめんなさい」


「謝らなくていいよ」


 男子生徒はそう言って、西野の肩に軽く手を置いた。


 西野の身体が、一瞬だけ硬直した。


 陽菜がそれに気付いた。


 俺も気付いた。


 男子生徒は陽菜を見る。


「ごめんね。西野、ちょっと用事あって」


「あ、はい」


 陽菜は戸惑いながら返事をした。


「君、一年の阿久津さん?」


 陽菜の動きが止まる。


「……はい」


「やっぱり。有名だから」


 男子生徒は爽やかに笑った。


 陽菜の表情が少し曇る。


 男子生徒はすぐに言葉を足した。


「悪い意味じゃないよ。大変だったね、お父さんのこと」


 陽菜は何も答えなかった。


「ごめん。変なこと言った」


 謝り方も自然だった。


「俺、河合悠斗。三年。生徒会の手伝いとか、相談室のボランティアとか、そういうのやってる」


 相談室。


 その言葉に、西野の指がわずかに動いた。


 河合は、その反応に気付いていないふりをした。


「困ったことがあったら、言って」


 河合は陽菜に向かって笑った。


「西野も、そういう感じで知り合ったから」


 西野は俯いていた。


 相談室。


 ひとりで抱え込まない場所。


 助けてほしい人間が、先生や先輩に声をかける場所。


 そのはずだった。


 だが今、その言葉は西野の首輪みたいに見えた。


 陽菜は、西野の顔を見ていた。何かを感じている。でも、まだ言葉にできない。そんな表情だった。


「行こう、美咲」


 河合が言った。


 西野は小さく頷いた。


 二人が階段を降りていく。


 その途中、西野が一瞬だけ陽菜を見た。


 助けて。


 声はなかった。表情もほとんど動いていない。


 だが、俺にはそう見えた。


 陽菜にも、そう見えたのだと思う。


 二人が廊下へ消えたあとも、陽菜はしばらく動かなかった。


 河合悠斗。


 三年。


 相談室のボランティア。


 西野美咲。


 脅すようなメッセージ。


 まだ、何一つ確かなことはなかった。


 だが、嫌な感じがした。


 佐伯を初めて見た時に似ていた。


 親切な顔。整った言葉。ちょうどいい距離。


 ただ、佐伯とは少し違う。


 佐伯は、陽菜の家へ勝手に入ろうとした。


 河合は、学校の中にいた。


 相談室という、誰かが助けを求めていい場所の中に。


 そういうものが、俺はもう信用できなくなっていた。


◇


 その日の帰り、陽菜は西野を探していた。


 下駄箱。廊下。校門。


 だが見つからなかった。河合もいなかった。


 陽菜はスマホを何度も見た。連絡先を知っているわけではない。できることはない。それでも何かしたい顔をしていた。


「やめとけ」


 思わず言った。


 届かない。


 関わるな。


 それは父親としての本音だった。危ないかもしれない。面倒に巻き込まれるかもしれない。陽菜はまだ、自分のことで精一杯だ。他人の問題を背負える状態じゃない。


 だが、西野の目が浮かんだ。


 あの声にならない助けて。


 もし陽菜があのまま見捨てたら、陽菜はきっと傷つく。助けられなかったことまで、自分の罪にする。


 そういう子だ。


 俺の娘だからだ。


 家に帰ると、陽菜は制服のまま仏壇の前に座った。


 最近の陽菜は、何かあるとここへ来る。


「お父さん」


 俺はすぐ隣にいた。


「今日、変な感じの先輩に会ったの」


 西野のことだ。


「困ってるみたいだった。でも、何に困ってるのか分からない」


 陽菜は膝の上で手を握った。


「聞いたら嫌かな。先生に言ったら、余計ひどくなるのかな」


 そうかもしれない。


 何が正しいのか、俺にも分からない。


「でも、あのままでいい感じじゃなかった」


 陽菜は少し俯いた。


「私、何もできないのにね」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 俺も同じだ。


 何もできないと思って、何もできないまま、ただ見ている。


「佐伯さんの時」


 陽菜は小さく言った。


 俺は動きを止めた。


「あの時も、最初は分からなかった。優しい人だと思ってた」


 違う。


 お前が悪いんじゃない。


 佐伯が、悪いやつに見えない顔をしていただけだ。


「だから今日のあの人も、優しそうだったけど」


 河合のことだ。


「分からない」


 陽菜は自分の手を見る。


「私、人を見る目ないのかな」


 違う、と言いたかった。


 何度でも言いたかった。


 陽菜は遺影を見上げる。


「あの子」


 西野のことだ。


「助かってほしい」


 ただ、それだけだった。


 誰かを殺してほしい。


 罰してほしい。


 消してほしい。


 そんな言葉ではなかった。


 ただ、助かってほしい。


 陽菜らしい願いだった。


 何も起きない。


 俺の指先は透けたまま、世界も遠い。それは殺意でも憎しみでもなかった。ただの願いだ。ただの善意だ。


 だから世界には届かない。


 だが、俺には届いた。


 西野美咲。


 河合悠斗。


 相談室。


 脅すようなメッセージ。


 俺はそれらを頭の中で並べた。


 まだ、河合が悪いと決まったわけではない。


 そんなことを考えたあとで、自分に少しぞっとした。悪いと決まったらどうするつもりだ。いつから俺は、そんなふうに人を見るようになった。


 陽菜は救われてほしいと願った。


 俺はその願いを、間違えてはいけない。


 夜になって、陽菜は風呂に入り、遅い夕食を少しだけ食べた。それから眠った。眠りは浅く、何度も寝返りを打っていた。


 俺はしばらく枕元にいた。


 そして立ち上がる。


 窓を抜け、夜の街へ出た。


 学校の方角を見る。


 河合悠斗。


 あの笑顔。


 あの声。


 あの指先。


 俺はまだ何も知らない。


 だから、知りに行く。


 今はただ、娘が助かってほしいと願った相手のことを、確かめに行くだけだった。

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