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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第3章 神の誕生

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第12話 噂

 夜の学校は、昼間と別の場所みたいだった。


 校門は閉まっている。職員室の明かりだけが残り、校舎の窓は黒く沈んでいた。昼休みにあれだけ響いていた笑い声も、廊下を走る足音もない。


 俺は校門を抜けた。


 正確には、通り抜けた。


 鍵も門も壁も、俺には意味がない。便利ではある。だが、その便利さで陽菜の肩に手を置くことはできない。


 相談室は、一階の端にあった。


 扉には鍵がかかっている。中は暗い。廊下の掲示板には、相談室の案内が貼られていた。


 ひとりで抱え込まないで。


 話すだけでも楽になる。


 相談室開放日。


 生徒ボランティア。


 その下に、名前がいくつか並んでいる。


 河合悠斗。


 昨日聞いた名前だった。


 俺はその文字を見ていた。


 まだ何も分からない。


 河合が何かをしたと決まったわけではない。西野美咲が怖がっていた。脅すようなメッセージが見えた。河合が現れた瞬間、西野の身体が固まった。


 それだけだ。


 「それだけで人を疑うな」は、陽菜にも何度か言ってきた台詞だった。


 だが、佐伯の時も最初はそれだけだった。


 親切な顔。整った言葉。ちょうどいい距離。


 悪意は、最初から悪意の顔をしていなかった。


◇


 翌朝、河合悠斗はすぐに見つかった。


 昇降口の前で、何人かの生徒に囲まれている。下級生らしい女子がプリントの束を抱え、河合に何かを頼んでいた。


「河合先輩、これ職員室でいいんですか?」


「うん。田村先生の机の上。分からなかったら俺も行くよ」


「ありがとうございます」


「無理しないで。重いだろ」


 河合は自然に笑った。


 爽やかで、面倒見がよくて、教師にも生徒にも好かれる先輩。そういう姿が、きれいに出来上がっていた。


 教師も河合に声をかける。


「河合、昨日の相談室の資料、助かったよ」


「いえ。俺も勉強になるんで」


「いつも悪いな」


「全然です」


 河合は頭を下げた。


 大人に信頼される生徒。


 後輩に頼られる先輩。


 そういう肩書きは、制服の上からでもよく似合っていた。


 そこへ、西野美咲が来た。


 西野は河合を見た瞬間、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。顔色は悪い。目の下に薄い影がある。眠れていないのだろう。


「おはよう、美咲」


 河合が言った。


「おはようございます」


 西野は小さく頭を下げた。


 敬語だった。


 周りに人がいるからか。いつも敬語なのかもしれない。


「昨日、ちゃんと帰れた?」


「はい」


「寝不足?」


「少しだけです」


「無理しないでね」


「はい」


 会話だけ聞けば、優しい先輩だった。


 だが西野の手は、鞄の持ち手を強く握っていた。指先が白くなるほどに。


 河合はそれをちらりと見た。


 そして、何も言わずに笑った。


「放課後、少し話せる?」


 西野の表情が一瞬だけ止まる。


「……今日は」


「大丈夫。長くならないから」


 声は優しい。


 けれど、断らせない響きがあった。


 西野は周囲を見た。下級生。教師。通り過ぎる生徒。誰も二人を気にしていない。


「分かりました」


「ありがとう」


 河合は笑った。


 西野が昇降口へ入っていく。


 河合はその背中を見ていた。


 一瞬だけ、笑顔が消えた。


 すぐに別の生徒が声をかける。


「河合先輩、おはようございます」


「おはよう」


 何もなかったように、河合はまた笑った。


◇


 昼休み。


 陽菜は教室でパンを食べていた。


 食べていた、と言っても、半分ほどで手が止まっている。紙パックの飲み物にもほとんど口をつけていない。


 廊下から女子生徒たちの声が聞こえた。


「西野先輩、また河合先輩といたよ」


「相談室でしょ」


「でも、あの二人ちょっと変じゃない?」


「変って?」


「西野先輩、河合先輩の前だと別人みたいじゃん」


「河合先輩が優しすぎて緊張してるだけじゃない?」


「相談室の神だもんね」


「神は言いすぎ」


 笑い声が通り過ぎる。


 陽菜の手が止まった。


 俺も廊下を見た。


「でもさ、相談室に行ってた子、何人か急に来なくなったよね」


「それ噂でしょ」


「転校した子もいるって聞いた」


「家庭の事情じゃないの」


「河合先輩関係ないって」


「でも西野先輩、最近ずっと顔色悪い」


「それはそう」


「河合先輩が助けてるんじゃない?」


「むしろ河合先輩いなかったら、もっとやばかったんじゃないの」


 声は遠ざかっていった。


 噂。


 ただの噂だ。


 噂ほど信用できないものはない。妬みでも生まれる。退屈でも広がる。何も知らない人間が、それらしい言葉をつなげただけかもしれない。


 それでも、火の気配はした。


 煙だけかもしれない。


 だが、陽菜も同じものを感じたのだと思う。


 席を立った。


◇


 保健室の前で、陽菜は足を止めた。


 中から声が聞こえる。


「本当に大丈夫?」


 養護教諭の声だった。


「はい」


 西野の声。


「顔色悪いわよ。何か困ってることがあるなら言いなさい」


「大丈夫です」


「河合くんとは、うまくやれてる?」


 陽菜の身体が固まった。


 俺も顔を上げる。


 中で少し間が空いた。


「はい」


 西野は短く答えた。


「彼、あなたのこと心配してたわよ。いい先輩よね」


「はい」


 その「はい」は、何も込めないようにしている声だった。


 扉が開いた。


 西野が出てくる。


 陽菜と目が合う。


 二人とも一瞬、動かなかった。


「……阿久津さん」


 西野が先に言った。


「すみません」


 陽菜は小さく頭を下げた。


「盗み聞きするつもりじゃなかったんです」


「別に」


 西野は廊下を見た。


 誰もいないことを確認している。


「昨日もいたよね」


「はい」


「気になるの?」


 陽菜はすぐには答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


「昨日、大丈夫でしたか?」


「大丈夫」


 また同じ返事だった。


 大丈夫な人間ほど、大丈夫と言う。


 陽菜は一歩だけ近付いた。


「もし困ってるなら」


「困ってない」


「でも」


「困ってないって言ってるじゃん」


 西野の声が強くなる。


 陽菜が怯んだ。


 西野はすぐに俯いた。


「ごめん」


「いえ」


 窓の外から、体育の授業らしい笛の音が聞こえた。廊下は明るい。けれど、二人の周りだけ少し暗く見えた。


「阿久津さんには関係ないから」


 西野が言った。


「そうかもしれません」


 陽菜は答えた。


 思ったより静かな声だった。


「でも、昨日、怖がってるように見えました」


 西野の顔が強張る。


「誰に?」


 陽菜は迷った。


 名前を出していいのか。踏み込んでいいのか。その迷いが、表情に出ていた。


 それでも言った。


「河合先輩に」


 西野は息を止めた。


 それだけで十分だった。


「違う」


 西野は言った。


「違うから」


「でも」


「違う」


 強い否定だった。


 強すぎて、余計に違和感が残った。


 西野は陽菜に近付く。声を落とした。


「阿久津さん」


「はい」


「関わらない方がいいよ」


 陽菜の目が揺れる。


「どうしてですか」


「いい人じゃないから」


 西野は言った。


 その瞬間、自分の言葉に気付いたように口を押さえた。廊下の角を見る。誰もいない。なお怯えている。


「今の忘れて」


「西野さん」


「お願い」


 西野の声は震えていた。


「本当に、お願いだから」


 陽菜は何も言えなかった。


 西野は逃げるように歩き出す。


 だが、数歩で止まった。


 振り返らないまま、小さく言う。


「阿久津さんは、まだ戻れるでしょ」


 陽菜は黙っていた。


「だから、戻れるうちに戻って」


 それだけ言って、西野は廊下の向こうへ行った。


 陽菜はその場に残された。


 戻れるうちに戻って。


 その言葉が、廊下の明るさの中に重く残った。


◇


 放課後、陽菜は西野を探した。


 昇降口。廊下。図書室の前。相談室の近く。


 しかし、西野は見つからなかった。河合もいない。


 代わりに、知らない女子生徒が二人、相談室の前を通りかかった。


「今日、相談室空いてる?」


「河合先輩いるんじゃない?」


「行く?」


「やめとく」


「なんで」


「なんとなく」


「河合先輩いい人じゃん」


「いい人すぎて怖い」


「何それ」


 二人は笑って去っていった。


 陽菜はその背中を見ていた。


 噂は証拠にならない。捕まえようとすると、すぐに形を失う。


 けれど河合の周りには、小さな違和感がいくつも落ちている。


 一つずつなら弱い。


 並べると、嫌な形になる。


 陽菜は結局、西野に会えないまま帰った。


 家に着くと、鞄を置き、制服のまま仏壇の前に座った。


「お父さん」


 俺はすぐ隣にいた。


「西野さん、やっぱり変だった」


 陽菜は膝の上で手を握る。


「河合先輩のこと、いい人じゃないって言った。でも、すごく怖がってた」


 俺は黙って聞いた。


「私、どうしたらいいんだろう」


 何もしなくていい。


 そう言いたかった。


 お前はまだ十五歳だ。父親を亡くしたばかりだ。誰かを助ける側に回らなくていい。今は、助けてもらう側でいい。


 だが、陽菜は続けた。


「先生に言ったら、西野さんが困るかもしれない。でも、何もしなかったら」


 言葉が止まる。


「佐伯さんの時みたいになるかもしれない」


 佐伯。


 その名前が出るたびに、俺の中で何かが沈む。


 陽菜はまだ、自分を責めている。見抜けなかったことを、逃げ切れなかったことを、自分の弱さだと思っている。


 違う。


 悪いのは佐伯だ。


 お前じゃない。


 何度思っても、届かない。


「私、人を見る目ないのかな」


 陽菜は小さく笑った。


 笑えていなかった。


「優しい人か、怖い人か、分からない」


 それでいい。


 分からなくて当たり前だ。


 悪い人間ほど、優しい顔をする。


 陽菜は遺影を見た。


「でも」


 声が小さくなる。


「西野さん、助かってほしい」


 それは昨日と同じ願いだった。


 罰してほしいでもない。死んでほしいでもない。ただ、助かってほしい。


 何も起きない。


 その願いは世界を動かさない。


 だが、俺には届く。


 届いてしまう。


◇


 夜、俺は河合を探した。


 駅前のファミレスに、河合はいた。


 同じ学校の生徒が二人、向かいに座っている。男子が一人、女子が一人。


 俺はテーブルの横に立った。


 河合はドリンクバーのグラスを指で回している。


「美咲、今日どうだった?」


 女子生徒が聞いた。


「少し焦ってる」


 河合は軽く答えた。


「金?」


「それもある」


「出せそう?」


「出すよ」


 河合は平然と言った。


「出せないんじゃなくて、出したくないだけだから」


 男子生徒が笑う。


「こわ」


「怖くないだろ。約束守ってもらうだけ」


 約束。


 便利な言葉だと思った。


 借金ではない。脅迫でもない。約束。そう言えば、少し柔らかく聞こえる。


「でも西野、先生に言わない?」


「言えないよ」


 河合は即答した。


「自分も困るから」


 河合はスマホを開いた。


 俺は覗き込む。


 名前が並んでいた。


 美咲。


 リナ。


 ユイ。


 マナト。


 ほかにもいくつか。


 名前の横に短いメモがあった。


 親バレ不可。


 学校バレ不可。


 金。


 写真。


 家出。


 退学怖い。


 文字だけだった。


 詳しい事情は分からない。だが、何なのかは分かった。


 弱みの一覧。


 河合はすぐに画面を閉じた。


「みんな、自分から来たんだよ」


 穏やかな声だった。


「話を聞いてくださいって」


 女子生徒が笑う。


「河合、それ好きだよね」


「事実だし」


「助けてるんだっけ?」


「そう」


 河合は笑った。


「助けてるんだよ」


 相談に乗る。


 助ける。


 支える。


 きれいな言葉は、汚いものを包むのに向いている。


「で」


 男子生徒が言った。


「阿久津は?」


 俺は顔を上げた。


 河合は少しだけ笑った。


「今日、美咲と話してた」


「一年の?」


「そう」


「事故の子?」


「英雄の娘」


 その言い方が嫌だった。


 陽菜の名前より先に、肩書きが出る。人間ではなく、使える物語として見ている。


「関係あんの?」


 女子生徒が聞く。


「美咲を気にしてる」


「面倒じゃん」


「面倒だけど」


 河合はグラスの氷を揺らした。


「正義感ある子って、こっちから行かなくても来るんだよ」


 俺の中で、店内の音が遠くなった。


 陽菜のことだ。


 俺の娘のことだ。


「来たらどうすんの」


「相談に乗る」


 河合は言った。


「得意だし」


 男子生徒が笑う。


「父親死んだばっかの子まで?」


「別に何もしないよ」


 河合は穏やかに笑った。


「話を聞くだけ」


 佐伯と同じだった。


 最初は何もしない。


 最初は親切にする。


 最初は、相談に乗るだけ。


「阿久津さんはどう使うの」


 女子生徒が聞いた。


 河合は少し考える顔をした。


「まだ分かんない」


 それから楽しそうに笑う。


「でも、父親死んでるんだろ」


 俺の中で何かが軋んだ。


「弱ってる。でも他人を見捨てられない」


 やめろ。


「そういう子は、折れる時に一気に折れる」


 やめろ。


「で、折れた後は」


 河合はグラスを置いた。


「すごく扱いやすい」


 その瞬間、グラスの水面がわずかに揺れた。


 氷が小さく鳴る。


 河合が眉をひそめた。


「ん?」


「何?」


「いや」


 河合は周囲を見る。


 俺のいる場所を、見る。


 まだ見えていない。


 佐伯の時ほどではない。


 俺の中には怒りがある。嫌悪もある。だが、まだ殺意にしてはいけない。河合は陽菜に触れていない。まだ計画ですらない。面白がっているだけだ。


 それだけで殺していいのか。


 そう思える自分が残っていることに、俺は少しだけ縋った。


「阿久津陽菜、か」


 河合は小さく呟いた。


 俺の娘の名前を、面白い玩具を見つけたみたいに。


「面白いな」


 俺は河合を見た。


 まだだ。


 まだ見ろ。


 間違えるな。


 陽菜は西野が助かることを願った。


 その願いを、俺が勝手に汚してはいけない。


 河合は笑っていた。


 優しい先輩の顔で。


 人を助ける人間の顔で。


 その下にあるものを、俺はこれから見なければならない。


 そしてもし、それが陽菜へ向かうなら。


 その時は、もう一度悪霊になる。

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