第12話 噂
夜の学校は、昼間と別の場所みたいだった。
校門は閉まっている。職員室の明かりだけが残り、校舎の窓は黒く沈んでいた。昼休みにあれだけ響いていた笑い声も、廊下を走る足音もない。
俺は校門を抜けた。
正確には、通り抜けた。
鍵も門も壁も、俺には意味がない。便利ではある。だが、その便利さで陽菜の肩に手を置くことはできない。
相談室は、一階の端にあった。
扉には鍵がかかっている。中は暗い。廊下の掲示板には、相談室の案内が貼られていた。
ひとりで抱え込まないで。
話すだけでも楽になる。
相談室開放日。
生徒ボランティア。
その下に、名前がいくつか並んでいる。
河合悠斗。
昨日聞いた名前だった。
俺はその文字を見ていた。
まだ何も分からない。
河合が何かをしたと決まったわけではない。西野美咲が怖がっていた。脅すようなメッセージが見えた。河合が現れた瞬間、西野の身体が固まった。
それだけだ。
「それだけで人を疑うな」は、陽菜にも何度か言ってきた台詞だった。
だが、佐伯の時も最初はそれだけだった。
親切な顔。整った言葉。ちょうどいい距離。
悪意は、最初から悪意の顔をしていなかった。
◇
翌朝、河合悠斗はすぐに見つかった。
昇降口の前で、何人かの生徒に囲まれている。下級生らしい女子がプリントの束を抱え、河合に何かを頼んでいた。
「河合先輩、これ職員室でいいんですか?」
「うん。田村先生の机の上。分からなかったら俺も行くよ」
「ありがとうございます」
「無理しないで。重いだろ」
河合は自然に笑った。
爽やかで、面倒見がよくて、教師にも生徒にも好かれる先輩。そういう姿が、きれいに出来上がっていた。
教師も河合に声をかける。
「河合、昨日の相談室の資料、助かったよ」
「いえ。俺も勉強になるんで」
「いつも悪いな」
「全然です」
河合は頭を下げた。
大人に信頼される生徒。
後輩に頼られる先輩。
そういう肩書きは、制服の上からでもよく似合っていた。
そこへ、西野美咲が来た。
西野は河合を見た瞬間、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。顔色は悪い。目の下に薄い影がある。眠れていないのだろう。
「おはよう、美咲」
河合が言った。
「おはようございます」
西野は小さく頭を下げた。
敬語だった。
周りに人がいるからか。いつも敬語なのかもしれない。
「昨日、ちゃんと帰れた?」
「はい」
「寝不足?」
「少しだけです」
「無理しないでね」
「はい」
会話だけ聞けば、優しい先輩だった。
だが西野の手は、鞄の持ち手を強く握っていた。指先が白くなるほどに。
河合はそれをちらりと見た。
そして、何も言わずに笑った。
「放課後、少し話せる?」
西野の表情が一瞬だけ止まる。
「……今日は」
「大丈夫。長くならないから」
声は優しい。
けれど、断らせない響きがあった。
西野は周囲を見た。下級生。教師。通り過ぎる生徒。誰も二人を気にしていない。
「分かりました」
「ありがとう」
河合は笑った。
西野が昇降口へ入っていく。
河合はその背中を見ていた。
一瞬だけ、笑顔が消えた。
すぐに別の生徒が声をかける。
「河合先輩、おはようございます」
「おはよう」
何もなかったように、河合はまた笑った。
◇
昼休み。
陽菜は教室でパンを食べていた。
食べていた、と言っても、半分ほどで手が止まっている。紙パックの飲み物にもほとんど口をつけていない。
廊下から女子生徒たちの声が聞こえた。
「西野先輩、また河合先輩といたよ」
「相談室でしょ」
「でも、あの二人ちょっと変じゃない?」
「変って?」
「西野先輩、河合先輩の前だと別人みたいじゃん」
「河合先輩が優しすぎて緊張してるだけじゃない?」
「相談室の神だもんね」
「神は言いすぎ」
笑い声が通り過ぎる。
陽菜の手が止まった。
俺も廊下を見た。
「でもさ、相談室に行ってた子、何人か急に来なくなったよね」
「それ噂でしょ」
「転校した子もいるって聞いた」
「家庭の事情じゃないの」
「河合先輩関係ないって」
「でも西野先輩、最近ずっと顔色悪い」
「それはそう」
「河合先輩が助けてるんじゃない?」
「むしろ河合先輩いなかったら、もっとやばかったんじゃないの」
声は遠ざかっていった。
噂。
ただの噂だ。
噂ほど信用できないものはない。妬みでも生まれる。退屈でも広がる。何も知らない人間が、それらしい言葉をつなげただけかもしれない。
それでも、火の気配はした。
煙だけかもしれない。
だが、陽菜も同じものを感じたのだと思う。
席を立った。
◇
保健室の前で、陽菜は足を止めた。
中から声が聞こえる。
「本当に大丈夫?」
養護教諭の声だった。
「はい」
西野の声。
「顔色悪いわよ。何か困ってることがあるなら言いなさい」
「大丈夫です」
「河合くんとは、うまくやれてる?」
陽菜の身体が固まった。
俺も顔を上げる。
中で少し間が空いた。
「はい」
西野は短く答えた。
「彼、あなたのこと心配してたわよ。いい先輩よね」
「はい」
その「はい」は、何も込めないようにしている声だった。
扉が開いた。
西野が出てくる。
陽菜と目が合う。
二人とも一瞬、動かなかった。
「……阿久津さん」
西野が先に言った。
「すみません」
陽菜は小さく頭を下げた。
「盗み聞きするつもりじゃなかったんです」
「別に」
西野は廊下を見た。
誰もいないことを確認している。
「昨日もいたよね」
「はい」
「気になるの?」
陽菜はすぐには答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「昨日、大丈夫でしたか?」
「大丈夫」
また同じ返事だった。
大丈夫な人間ほど、大丈夫と言う。
陽菜は一歩だけ近付いた。
「もし困ってるなら」
「困ってない」
「でも」
「困ってないって言ってるじゃん」
西野の声が強くなる。
陽菜が怯んだ。
西野はすぐに俯いた。
「ごめん」
「いえ」
窓の外から、体育の授業らしい笛の音が聞こえた。廊下は明るい。けれど、二人の周りだけ少し暗く見えた。
「阿久津さんには関係ないから」
西野が言った。
「そうかもしれません」
陽菜は答えた。
思ったより静かな声だった。
「でも、昨日、怖がってるように見えました」
西野の顔が強張る。
「誰に?」
陽菜は迷った。
名前を出していいのか。踏み込んでいいのか。その迷いが、表情に出ていた。
それでも言った。
「河合先輩に」
西野は息を止めた。
それだけで十分だった。
「違う」
西野は言った。
「違うから」
「でも」
「違う」
強い否定だった。
強すぎて、余計に違和感が残った。
西野は陽菜に近付く。声を落とした。
「阿久津さん」
「はい」
「関わらない方がいいよ」
陽菜の目が揺れる。
「どうしてですか」
「いい人じゃないから」
西野は言った。
その瞬間、自分の言葉に気付いたように口を押さえた。廊下の角を見る。誰もいない。なお怯えている。
「今の忘れて」
「西野さん」
「お願い」
西野の声は震えていた。
「本当に、お願いだから」
陽菜は何も言えなかった。
西野は逃げるように歩き出す。
だが、数歩で止まった。
振り返らないまま、小さく言う。
「阿久津さんは、まだ戻れるでしょ」
陽菜は黙っていた。
「だから、戻れるうちに戻って」
それだけ言って、西野は廊下の向こうへ行った。
陽菜はその場に残された。
戻れるうちに戻って。
その言葉が、廊下の明るさの中に重く残った。
◇
放課後、陽菜は西野を探した。
昇降口。廊下。図書室の前。相談室の近く。
しかし、西野は見つからなかった。河合もいない。
代わりに、知らない女子生徒が二人、相談室の前を通りかかった。
「今日、相談室空いてる?」
「河合先輩いるんじゃない?」
「行く?」
「やめとく」
「なんで」
「なんとなく」
「河合先輩いい人じゃん」
「いい人すぎて怖い」
「何それ」
二人は笑って去っていった。
陽菜はその背中を見ていた。
噂は証拠にならない。捕まえようとすると、すぐに形を失う。
けれど河合の周りには、小さな違和感がいくつも落ちている。
一つずつなら弱い。
並べると、嫌な形になる。
陽菜は結局、西野に会えないまま帰った。
家に着くと、鞄を置き、制服のまま仏壇の前に座った。
「お父さん」
俺はすぐ隣にいた。
「西野さん、やっぱり変だった」
陽菜は膝の上で手を握る。
「河合先輩のこと、いい人じゃないって言った。でも、すごく怖がってた」
俺は黙って聞いた。
「私、どうしたらいいんだろう」
何もしなくていい。
そう言いたかった。
お前はまだ十五歳だ。父親を亡くしたばかりだ。誰かを助ける側に回らなくていい。今は、助けてもらう側でいい。
だが、陽菜は続けた。
「先生に言ったら、西野さんが困るかもしれない。でも、何もしなかったら」
言葉が止まる。
「佐伯さんの時みたいになるかもしれない」
佐伯。
その名前が出るたびに、俺の中で何かが沈む。
陽菜はまだ、自分を責めている。見抜けなかったことを、逃げ切れなかったことを、自分の弱さだと思っている。
違う。
悪いのは佐伯だ。
お前じゃない。
何度思っても、届かない。
「私、人を見る目ないのかな」
陽菜は小さく笑った。
笑えていなかった。
「優しい人か、怖い人か、分からない」
それでいい。
分からなくて当たり前だ。
悪い人間ほど、優しい顔をする。
陽菜は遺影を見た。
「でも」
声が小さくなる。
「西野さん、助かってほしい」
それは昨日と同じ願いだった。
罰してほしいでもない。死んでほしいでもない。ただ、助かってほしい。
何も起きない。
その願いは世界を動かさない。
だが、俺には届く。
届いてしまう。
◇
夜、俺は河合を探した。
駅前のファミレスに、河合はいた。
同じ学校の生徒が二人、向かいに座っている。男子が一人、女子が一人。
俺はテーブルの横に立った。
河合はドリンクバーのグラスを指で回している。
「美咲、今日どうだった?」
女子生徒が聞いた。
「少し焦ってる」
河合は軽く答えた。
「金?」
「それもある」
「出せそう?」
「出すよ」
河合は平然と言った。
「出せないんじゃなくて、出したくないだけだから」
男子生徒が笑う。
「こわ」
「怖くないだろ。約束守ってもらうだけ」
約束。
便利な言葉だと思った。
借金ではない。脅迫でもない。約束。そう言えば、少し柔らかく聞こえる。
「でも西野、先生に言わない?」
「言えないよ」
河合は即答した。
「自分も困るから」
河合はスマホを開いた。
俺は覗き込む。
名前が並んでいた。
美咲。
リナ。
ユイ。
マナト。
ほかにもいくつか。
名前の横に短いメモがあった。
親バレ不可。
学校バレ不可。
金。
写真。
家出。
退学怖い。
文字だけだった。
詳しい事情は分からない。だが、何なのかは分かった。
弱みの一覧。
河合はすぐに画面を閉じた。
「みんな、自分から来たんだよ」
穏やかな声だった。
「話を聞いてくださいって」
女子生徒が笑う。
「河合、それ好きだよね」
「事実だし」
「助けてるんだっけ?」
「そう」
河合は笑った。
「助けてるんだよ」
相談に乗る。
助ける。
支える。
きれいな言葉は、汚いものを包むのに向いている。
「で」
男子生徒が言った。
「阿久津は?」
俺は顔を上げた。
河合は少しだけ笑った。
「今日、美咲と話してた」
「一年の?」
「そう」
「事故の子?」
「英雄の娘」
その言い方が嫌だった。
陽菜の名前より先に、肩書きが出る。人間ではなく、使える物語として見ている。
「関係あんの?」
女子生徒が聞く。
「美咲を気にしてる」
「面倒じゃん」
「面倒だけど」
河合はグラスの氷を揺らした。
「正義感ある子って、こっちから行かなくても来るんだよ」
俺の中で、店内の音が遠くなった。
陽菜のことだ。
俺の娘のことだ。
「来たらどうすんの」
「相談に乗る」
河合は言った。
「得意だし」
男子生徒が笑う。
「父親死んだばっかの子まで?」
「別に何もしないよ」
河合は穏やかに笑った。
「話を聞くだけ」
佐伯と同じだった。
最初は何もしない。
最初は親切にする。
最初は、相談に乗るだけ。
「阿久津さんはどう使うの」
女子生徒が聞いた。
河合は少し考える顔をした。
「まだ分かんない」
それから楽しそうに笑う。
「でも、父親死んでるんだろ」
俺の中で何かが軋んだ。
「弱ってる。でも他人を見捨てられない」
やめろ。
「そういう子は、折れる時に一気に折れる」
やめろ。
「で、折れた後は」
河合はグラスを置いた。
「すごく扱いやすい」
その瞬間、グラスの水面がわずかに揺れた。
氷が小さく鳴る。
河合が眉をひそめた。
「ん?」
「何?」
「いや」
河合は周囲を見る。
俺のいる場所を、見る。
まだ見えていない。
佐伯の時ほどではない。
俺の中には怒りがある。嫌悪もある。だが、まだ殺意にしてはいけない。河合は陽菜に触れていない。まだ計画ですらない。面白がっているだけだ。
それだけで殺していいのか。
そう思える自分が残っていることに、俺は少しだけ縋った。
「阿久津陽菜、か」
河合は小さく呟いた。
俺の娘の名前を、面白い玩具を見つけたみたいに。
「面白いな」
俺は河合を見た。
まだだ。
まだ見ろ。
間違えるな。
陽菜は西野が助かることを願った。
その願いを、俺が勝手に汚してはいけない。
河合は笑っていた。
優しい先輩の顔で。
人を助ける人間の顔で。
その下にあるものを、俺はこれから見なければならない。
そしてもし、それが陽菜へ向かうなら。
その時は、もう一度悪霊になる。




