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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第3章 神の誕生

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第13話 願い

 陽菜は迷っていた。


 朝食のパンを前にして、ほとんど手をつけない。スマホを見る。置く。また見る。誰かに連絡しているわけではない。西野美咲の連絡先を知っているわけでもない。


 ただ、何かをしなければならない気がしている。


 でも、何をすればいいのか分からない。


 そんな顔だった。


「行かなくていい」


 俺は言った。


 当然、届かない。


 陽菜はスマホを伏せると、冷めたトーストを一口だけかじった。飲み込むのに時間がかかる。顔色は悪い。眠れていないのだろう。


 制服に着替えた。髪を整え、鞄を持ち、玄関で一度だけ仏壇の方を振り返る。


 何も言わなかった。


 ただ、少しだけ頭を下げた。


 俺にか。遺影にか。それとも、自分を助けた何かにか。


 判別できないまま、陽菜は家を出た。


 俺もついていった。


◇


 西野は、二時間目の終わりに見つかった。


 保健室ではない。図書室だった。


 休み時間の図書室には、ほとんど人がいない。司書の先生がカウンターで本を整理しているだけで、窓際の席に西野が座っていた。


 本を開いている。


 だが、読んではいない。ページは同じところで止まっていた。


 陽菜は入口で立ち止まった。


 迷っている。


 声をかけていいのか。踏み込んでいいのか。関わらない方がいいと言われたのに、それでも行っていいのか。


 俺は止めたかった。


 陽菜は一歩、図書室へ入った。


 そして、すぐに足を止めた。


 西野はまだ気付いていない。開いた本に目を落としたまま、同じページを見つめている。声をかけるなら、今だった。


 だが陽菜は、何も言わなかった。


 踵を返す。


 図書室を出た。


 逃げた。


 廊下を三歩歩いて、足を止める。


 俺はその横にいた。


「それでいい」


 思わず言った。


「無理するな」


 届かない。


 陽菜は廊下の床を見ていた。拳を握っている。肩が小さく上下していた。


 たぶん、佐伯の事を思い出したのだと思う。


 自分が何も言えなかった夜。


 誰かに気付いてほしかった夜。


 大丈夫と言いながら、全然大丈夫ではなかった夜。


 陽菜は振り返った。


 図書室の入口を見る。


「……聞くだけ」


 自分に言い聞かせるように言った。


「聞くだけなら」


 そして、戻った。


 俺はその背中を見ていた。


 行くなと思った。


 同時に、行くんだなとも思った。


 この子は、そういう子だった。


 誰かが怖がっていると分かってしまったら、自分も怖くても、戻ってしまう。


 陽菜は図書室へ入り直した。


 今度は、深く息を吸ってから西野の席へ向かった。


「西野さん」


 西野が顔を上げる。


 驚いた顔ではなかった。来ると思っていたのかもしれない。あるいは、来てほしくなかったのかもしれない。


「阿久津さん」


「あの、昨日のことなんですけど」


「忘れてって言ったよね」


 西野の声は冷たかった。


 でも、怖がっている。俺にはそう見えた。


「すみません」


 陽菜は頭を下げた。


「でも、忘れられなくて」


 西野は視線を落とした。


「阿久津さんには関係ない」


「はい」


「だったら」


「でも」


 陽菜はそこで一度、言葉を止めた。


「関係ないって言われても、怖がってる人を見たら、気になります」


 西野は何も言わなかった。


「私、何があったのか分かりません。河合先輩が本当に悪い人なのかも、分かりません」


 西野の指がわずかに動いた。


「でも、西野さんが怖がってるのは、分かりました」


 図書室は静かだった。


 紙をめくる音だけが、遠くで聞こえる。


 西野は本を閉じた。


「そういうの、言わない方がいいよ」


「どうしてですか」


「阿久津さんが困るから」


 陽菜は黙った。


 西野は少しだけ笑った。疲れた笑いだった。


「河合先輩ね、最初は本当に優しかった」


 その名前が出た瞬間、陽菜の表情が変わった。


「私、家に帰りたくない時期があって。親とも揉めてて、学校にも居場所なくて」


 西野は窓の外を見た。


「相談室で話を聞いてくれたのが、河合先輩だった。先生より話しやすかった。優しかった」


 たぶん、それは本当なのだと思った。


 最初だけは。


「困ったら連絡してって言われて、何度も相談して、助かったと思った」


「はい」


「でも、だんだん変わった」


「変わった?」


「お願いが増えた」


 西野は本の表紙を指でなぞった。


「お金を貸してって言われたり、誰か紹介してって言われたり」


「紹介?」


「家に帰りたくない子とか、親と揉めてる子とか。そういう子、いないかって」


 陽菜の顔がこわばった。


 俺も同じだった。


 河合は、困っている子を助けているのではない。


 困っている子を集めている。


「断れなかったんですか」


 陽菜が聞いた。


 言ってから、すぐに顔を曇らせる。


「すみません。責めてるわけじゃなくて」


「分かってる」


 西野は首を振った。


「断ればよかったんだよね。最初から」


「そういう意味じゃ」


「でも断れなかった。私が悪いこともあるから」


「悪いこと?」


 西野は答えなかった。


 答えられないのだと思った。


 弱み。


 河合のスマホに並んでいた言葉が頭に浮かぶ。


 親バレ不可。


 学校バレ不可。


 金。


 写真。


 河合は、それを握っている。


「先生に言えば」


 陽菜が言った。


 西野はすぐに首を横に振った。


「河合先輩、先生に信頼されてるから」


「でも」


「私が嘘ついてるみたいになる。それに、私の方もいろいろ聞かれる」


 そこで言葉が止まる。


 学校に相談しろ。警察へ行け。


 生身の俺なら、たぶんそこで話を畳んだ。


 だが、その先で傷つくのは西野だ。知られたくないことを知られる。言いたくないことを言わされる。助けを求めること自体が、また罰になる。


 河合はそこにいる。


 そこを利用している。


「阿久津さん」


 西野は言った。


「もう本当にやめて。私のことはいいから」


「よくないです」


 陽菜は、初めてはっきり言った。


 西野が驚いたように見る。


 陽菜自身も驚いているようだった。陽菜は続けた。


「よくないです。西野さん、怖がってます。それを、よくないって言ったら駄目ですか」


 西野の目に涙が浮かんだ。


 泣きそうになって、必死にこらえている。


 その時、西野のスマホが震えた。


 二人の視線が同時に落ちる。


 黒い丸のアイコン。


 通知。


 本文の最初だけが見えた。


 図書室?


 西野の顔色が変わった。


 陽菜も固まる。


 河合は、西野の居場所を知っている。


 誰かが見たのかもしれない。偶然かもしれない。だが、偶然には見えなかった。


 西野は慌ててスマホを伏せた。


「ごめん」


 立ち上がる。


「西野さん」


「本当にごめん。今の話、忘れて」


「無理です」


「お願いだから」


 西野の声が壊れそうだった。


「私だけならいいの」


 その言葉で、陽菜の表情が変わった。


「だけなら?」


 西野はしまった、という顔をした。


「どういう意味ですか」


「何でもない」


「西野さん」


「何でもないから」


 西野は本を戻すこともせず、図書室を出て行った。


 陽菜は追えなかった。


 俺も、その場に残った。


 私だけならいい。


 それは、自分以外の誰かがいるという意味だ。


 あるいは、陽菜を巻き込みたくないという意味だ。


 どちらにしても、悪い意味だった。


「お父さん」


 陽菜が小さく言った。


 俺はすぐ隣にいる。


「どうしよう」


 その声に、俺は答えられなかった。


◇


 放課後、陽菜は西野を探した。


 教室。保健室。昇降口。図書室。


 しかし、見つからなかった。河合もいない。誰に聞けばいいのかも分からない。連絡先もない。


 できることがない。


 陽菜は結局、学校を出た。


 帰り道、いつもより足取りが遅かった。何度も振り返る。誰かに見られている気がするのだろう。俺も周囲を見る。


 河合はいない。


 西野もいない。


 嫌な感じだけが残った。


 家に帰ると、陽菜は鞄を置き、着替えもせずに仏壇の前へ座った。


「お父さん」


 遺影の俺は、何も知らない顔で笑っている。


「私、また余計なことしてるのかな」


 違う。


 そう言いたかった。


「西野さん、怖がってた。でも、私が関わったら、もっと悪くなるのかな」


 それは分からない。


 悪くなるかもしれない。良くなるかもしれない。何もしない方がいいかもしれない。何もしないことで壊れるかもしれない。


 正解なんてない。


 少なくとも、十五歳の娘が一人で抱えることではない。


「先生に言った方がいいのかな。でも、西野さんは嫌がってた。警察とか……」


 自分で言って、陽菜は首を振った。


「何を言えばいいのか分からない」


 その通りだった。


 先輩が怖いです。


 お金と言っていました。


 スマホに変な通知がありました。


 いい人じゃないと言っていました。


 それだけでは大人は動かない。動いても、動き方を間違えるかもしれない。西野が傷つくかもしれない。河合が逃げるかもしれない。


 陽菜は遺影を見た。


「でも、助かってほしい」


 その言葉は、まっすぐだった。


「西野さん、助かってほしい」


 俺は動けなかった。


 陽菜は、やはりそう言う。


 罰してほしいとは言わない。死んでほしいとも、消えてほしいとも言わない。


 ただ、助かってほしい。


「もし」


 陽菜はそこで止まった。


 唇を噛む。


「もし、誰かいるなら」


 俺は顔を上げた。


「助けてあげて」


 静かな声だった。


「私じゃなくていいから」


 陽菜は遺影を見ていた。


 だが、その言葉は俺だけに向けたものではなかった。父親へ。仏壇へ。死者へ。世界へ。そして、まだ名前を持たない何かへ。


「西野さんを」


 陽菜は小さく言った。


「助けてあげて」


 何も変わらなかった。


 感謝ではない。信仰でもない。祈りと呼べるほど、陽菜自身も信じていない。


 俺の手は透けたまま、世界も遠い。


 何も起きない。


 だが、俺には届いた。


 はっきりと。


 その願いだけが、俺の中に落ちた。


 重かった。


 痛かった。


 俺は立ち上がった。


 見る。


 聞く。


 確かめる。


 俺が間違えれば、陽菜の願いを汚す。


 だから、間違えてはいけない。


◇


 夜の街で、俺は西野を探した。


 河合の居場所は分からない。心は読めないし、霊になったからといって誰かの位置が分かるわけでもない。


 だから、まず西野を探した。


 西野は駅ビルの裏手にいた。


 人通りの少ない場所だった。自販機の明かりだけが白く光っている。西野はスマホを握りしめ、誰かを待っていた。


 数分後、河合が来た。


 一人だった。


 西野は、まず頭を下げた。


「ごめん」


 最初の言葉がそれだった。


 河合は笑った。


「何が?」


「今日、阿久津さんと話した」


「知ってる」


 やはり。


 河合は知っていた。


「何話したの」


「何も」


「俺のこと?」


 西野は黙った。


 河合は少し笑った。


「美咲。嘘はやめよう」


「……ごめん」


「謝らなくていいって。いい人じゃないって言った?」


 西野の顔が固まった。


 河合は笑う。


「当たり?」


「ごめんなさい」


「だから謝らなくていいって」


 河合は一歩近付いた。


 手は出さない。怒鳴らない。殴らない。


 ただ近付くだけで、西野は小さくなる。


「阿久津さん、優しそうだよね」


 河合が言った。


 俺は河合を見た。


「正義感もある。父親のことがあって、少し弱ってる。でも他人を見捨てられない」


 やめろ。


「いい子だよな」


 河合は楽しそうだった。


「巻き込まないで」


 西野が言った。


 小さい声だった。


 だが確かに言った。


 河合の目が少し細くなる。


「巻き込む?」


「阿久津さんは関係ない」


「関係ないかどうかは、阿久津さんが決めるんじゃない?」


「お願い」


 西野は頭を下げた。


「阿久津さんには何もしないで」


 俺の中で、何かが静かに音を立てた。


 西野は分かっている。


 河合が陽菜を利用しようとしていることを。


 だから、自分が怯えている相手に頭を下げている。


「美咲」


 河合の声が少し低くなった。


「勘違いしてない?」


 西野は顔を上げない。


「俺、何か悪いことした?」


「……」


「相談に乗ったよな。助けたよな。金も貸した。困ってる時、何度も時間作った」


 河合は優しい声で続ける。


「なのに俺が悪いの?」


 きれいな言葉だった。


 相手に罪悪感を持たせる言葉。


 佐伯もそうだった。


 俺はお前のためにやった。


 だから返せ。


 だから従え。


「阿久津さんが来たら、普通に相談に乗るよ」


「やめてください」


「なんで?」


「お願いします」


「美咲が決めることじゃない」


 河合はスマホを出し、画面を西野に見せた。


 俺の位置からは見えなかった。


 だが、西野の顔色で十分だった。


 真っ白になった。


「明日」


 河合は言った。


「阿久津さんに言って。相談室に来ればって」


「嫌です」


 初めて、西野がはっきり拒んだ。


 河合は少しだけ黙った。


 それから笑った。


「じゃあ、これ。先生に相談する?」


 スマホを軽く振る。


 西野の目に涙が浮かぶ。


「それは」


「親でもいいよ」


「やめて」


「美咲が決めて」


 河合は優しい声で言った。


「阿久津さんを連れてくるか」


 少し間を置く。


「それとも、全部ちゃんと話すか」


 西野は何も言えなかった。


 俺は河合のすぐ横に立っていた。


 手を伸ばせば届く距離。


 だが、まだ触れない。


 俺の中には怒りがあった。嫌悪もあった。殺意も、生まれかけていた。


 だが、まだだ。


 河合は陽菜に触れていない。


 まだ計画だ。まだ言葉だ。


 そう考える自分がいる。


 同時に、未遂だから何だと考える自分もいる。


「父親死んで、頼れる大人もいない」


 河合は笑っていた。


「正義感はある。人を見捨てられない。しかも見た目も悪くない」


「やめて」


 西野の声が震えた。


「阿久津さんは関係ない」


「関係あるよ」


 河合は優しい声で言った。


「美咲が連れてくるんだから」


「やめてよ」


「大丈夫。最初は話を聞くだけ」


 最初は。


 その言葉が耳に残った。


「私の時と同じことするつもり?」


 西野が言った。


 河合は少しだけ笑った。


「美咲が勝手にそう思ってるだけだろ」


「写真とか、もうやめて」


「保険だよ。相手があとから変なこと言わないようにするための」


 俺はようやく理解した。


 河合悠斗は、陽菜を助けようとしているのではない。相談に乗ろうとしているのでもない。


 あいつは陽菜を、次の西野にするつもりだった。


「いい子って」


 河合は笑った。


「扱いやすいよな」


 その瞬間、世界が近付いた。


 自販機の明かりが一度だけちらつく。


 河合が顔を上げた。


「……何?」


 周囲を見る。


 俺の方を。


 正確には、俺がいる空間を。


 西野もびくっと震えた。


 俺は立っていた。


 河合の目の前に。


 だが、まだ見えていない。


 まだ触れない。


 河合は首を傾げ、それから西野に背を向けた。


「まあいいか。明日、頼むよ」


 友達に別れを告げるみたいに、軽く手を振る。


 西野はその場に立ち尽くしていた。


 俺は河合の背中を見た。


 今、追えばいい。


 今、殺せばいい。


 そう思った。


 だが、まだ動かなかった。


 最後の何かが俺を止めていた。


 人間だった頃の倫理か。


 陽菜の願いを汚したくないという思いか。


 それとも、ただ怖いだけか。


 分からない。


 ただ一つだけ、はっきりしていた。


 明日。


 河合悠斗は、陽菜に手を伸ばす。


 まだ触れていない。


 だが、伸ばすつもりでいる。


 俺はその背中を追った。


 最後まで確かめる。


 そしてもし、本当に陽菜を巻き込むなら。


 その時はもう、迷わない。

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