第13話 願い
陽菜は迷っていた。
朝食のパンを前にして、ほとんど手をつけない。スマホを見る。置く。また見る。誰かに連絡しているわけではない。西野美咲の連絡先を知っているわけでもない。
ただ、何かをしなければならない気がしている。
でも、何をすればいいのか分からない。
そんな顔だった。
「行かなくていい」
俺は言った。
当然、届かない。
陽菜はスマホを伏せると、冷めたトーストを一口だけかじった。飲み込むのに時間がかかる。顔色は悪い。眠れていないのだろう。
制服に着替えた。髪を整え、鞄を持ち、玄関で一度だけ仏壇の方を振り返る。
何も言わなかった。
ただ、少しだけ頭を下げた。
俺にか。遺影にか。それとも、自分を助けた何かにか。
判別できないまま、陽菜は家を出た。
俺もついていった。
◇
西野は、二時間目の終わりに見つかった。
保健室ではない。図書室だった。
休み時間の図書室には、ほとんど人がいない。司書の先生がカウンターで本を整理しているだけで、窓際の席に西野が座っていた。
本を開いている。
だが、読んではいない。ページは同じところで止まっていた。
陽菜は入口で立ち止まった。
迷っている。
声をかけていいのか。踏み込んでいいのか。関わらない方がいいと言われたのに、それでも行っていいのか。
俺は止めたかった。
陽菜は一歩、図書室へ入った。
そして、すぐに足を止めた。
西野はまだ気付いていない。開いた本に目を落としたまま、同じページを見つめている。声をかけるなら、今だった。
だが陽菜は、何も言わなかった。
踵を返す。
図書室を出た。
逃げた。
廊下を三歩歩いて、足を止める。
俺はその横にいた。
「それでいい」
思わず言った。
「無理するな」
届かない。
陽菜は廊下の床を見ていた。拳を握っている。肩が小さく上下していた。
たぶん、佐伯の事を思い出したのだと思う。
自分が何も言えなかった夜。
誰かに気付いてほしかった夜。
大丈夫と言いながら、全然大丈夫ではなかった夜。
陽菜は振り返った。
図書室の入口を見る。
「……聞くだけ」
自分に言い聞かせるように言った。
「聞くだけなら」
そして、戻った。
俺はその背中を見ていた。
行くなと思った。
同時に、行くんだなとも思った。
この子は、そういう子だった。
誰かが怖がっていると分かってしまったら、自分も怖くても、戻ってしまう。
陽菜は図書室へ入り直した。
今度は、深く息を吸ってから西野の席へ向かった。
「西野さん」
西野が顔を上げる。
驚いた顔ではなかった。来ると思っていたのかもしれない。あるいは、来てほしくなかったのかもしれない。
「阿久津さん」
「あの、昨日のことなんですけど」
「忘れてって言ったよね」
西野の声は冷たかった。
でも、怖がっている。俺にはそう見えた。
「すみません」
陽菜は頭を下げた。
「でも、忘れられなくて」
西野は視線を落とした。
「阿久津さんには関係ない」
「はい」
「だったら」
「でも」
陽菜はそこで一度、言葉を止めた。
「関係ないって言われても、怖がってる人を見たら、気になります」
西野は何も言わなかった。
「私、何があったのか分かりません。河合先輩が本当に悪い人なのかも、分かりません」
西野の指がわずかに動いた。
「でも、西野さんが怖がってるのは、分かりました」
図書室は静かだった。
紙をめくる音だけが、遠くで聞こえる。
西野は本を閉じた。
「そういうの、言わない方がいいよ」
「どうしてですか」
「阿久津さんが困るから」
陽菜は黙った。
西野は少しだけ笑った。疲れた笑いだった。
「河合先輩ね、最初は本当に優しかった」
その名前が出た瞬間、陽菜の表情が変わった。
「私、家に帰りたくない時期があって。親とも揉めてて、学校にも居場所なくて」
西野は窓の外を見た。
「相談室で話を聞いてくれたのが、河合先輩だった。先生より話しやすかった。優しかった」
たぶん、それは本当なのだと思った。
最初だけは。
「困ったら連絡してって言われて、何度も相談して、助かったと思った」
「はい」
「でも、だんだん変わった」
「変わった?」
「お願いが増えた」
西野は本の表紙を指でなぞった。
「お金を貸してって言われたり、誰か紹介してって言われたり」
「紹介?」
「家に帰りたくない子とか、親と揉めてる子とか。そういう子、いないかって」
陽菜の顔がこわばった。
俺も同じだった。
河合は、困っている子を助けているのではない。
困っている子を集めている。
「断れなかったんですか」
陽菜が聞いた。
言ってから、すぐに顔を曇らせる。
「すみません。責めてるわけじゃなくて」
「分かってる」
西野は首を振った。
「断ればよかったんだよね。最初から」
「そういう意味じゃ」
「でも断れなかった。私が悪いこともあるから」
「悪いこと?」
西野は答えなかった。
答えられないのだと思った。
弱み。
河合のスマホに並んでいた言葉が頭に浮かぶ。
親バレ不可。
学校バレ不可。
金。
写真。
河合は、それを握っている。
「先生に言えば」
陽菜が言った。
西野はすぐに首を横に振った。
「河合先輩、先生に信頼されてるから」
「でも」
「私が嘘ついてるみたいになる。それに、私の方もいろいろ聞かれる」
そこで言葉が止まる。
学校に相談しろ。警察へ行け。
生身の俺なら、たぶんそこで話を畳んだ。
だが、その先で傷つくのは西野だ。知られたくないことを知られる。言いたくないことを言わされる。助けを求めること自体が、また罰になる。
河合はそこにいる。
そこを利用している。
「阿久津さん」
西野は言った。
「もう本当にやめて。私のことはいいから」
「よくないです」
陽菜は、初めてはっきり言った。
西野が驚いたように見る。
陽菜自身も驚いているようだった。陽菜は続けた。
「よくないです。西野さん、怖がってます。それを、よくないって言ったら駄目ですか」
西野の目に涙が浮かんだ。
泣きそうになって、必死にこらえている。
その時、西野のスマホが震えた。
二人の視線が同時に落ちる。
黒い丸のアイコン。
通知。
本文の最初だけが見えた。
図書室?
西野の顔色が変わった。
陽菜も固まる。
河合は、西野の居場所を知っている。
誰かが見たのかもしれない。偶然かもしれない。だが、偶然には見えなかった。
西野は慌ててスマホを伏せた。
「ごめん」
立ち上がる。
「西野さん」
「本当にごめん。今の話、忘れて」
「無理です」
「お願いだから」
西野の声が壊れそうだった。
「私だけならいいの」
その言葉で、陽菜の表情が変わった。
「だけなら?」
西野はしまった、という顔をした。
「どういう意味ですか」
「何でもない」
「西野さん」
「何でもないから」
西野は本を戻すこともせず、図書室を出て行った。
陽菜は追えなかった。
俺も、その場に残った。
私だけならいい。
それは、自分以外の誰かがいるという意味だ。
あるいは、陽菜を巻き込みたくないという意味だ。
どちらにしても、悪い意味だった。
「お父さん」
陽菜が小さく言った。
俺はすぐ隣にいる。
「どうしよう」
その声に、俺は答えられなかった。
◇
放課後、陽菜は西野を探した。
教室。保健室。昇降口。図書室。
しかし、見つからなかった。河合もいない。誰に聞けばいいのかも分からない。連絡先もない。
できることがない。
陽菜は結局、学校を出た。
帰り道、いつもより足取りが遅かった。何度も振り返る。誰かに見られている気がするのだろう。俺も周囲を見る。
河合はいない。
西野もいない。
嫌な感じだけが残った。
家に帰ると、陽菜は鞄を置き、着替えもせずに仏壇の前へ座った。
「お父さん」
遺影の俺は、何も知らない顔で笑っている。
「私、また余計なことしてるのかな」
違う。
そう言いたかった。
「西野さん、怖がってた。でも、私が関わったら、もっと悪くなるのかな」
それは分からない。
悪くなるかもしれない。良くなるかもしれない。何もしない方がいいかもしれない。何もしないことで壊れるかもしれない。
正解なんてない。
少なくとも、十五歳の娘が一人で抱えることではない。
「先生に言った方がいいのかな。でも、西野さんは嫌がってた。警察とか……」
自分で言って、陽菜は首を振った。
「何を言えばいいのか分からない」
その通りだった。
先輩が怖いです。
お金と言っていました。
スマホに変な通知がありました。
いい人じゃないと言っていました。
それだけでは大人は動かない。動いても、動き方を間違えるかもしれない。西野が傷つくかもしれない。河合が逃げるかもしれない。
陽菜は遺影を見た。
「でも、助かってほしい」
その言葉は、まっすぐだった。
「西野さん、助かってほしい」
俺は動けなかった。
陽菜は、やはりそう言う。
罰してほしいとは言わない。死んでほしいとも、消えてほしいとも言わない。
ただ、助かってほしい。
「もし」
陽菜はそこで止まった。
唇を噛む。
「もし、誰かいるなら」
俺は顔を上げた。
「助けてあげて」
静かな声だった。
「私じゃなくていいから」
陽菜は遺影を見ていた。
だが、その言葉は俺だけに向けたものではなかった。父親へ。仏壇へ。死者へ。世界へ。そして、まだ名前を持たない何かへ。
「西野さんを」
陽菜は小さく言った。
「助けてあげて」
何も変わらなかった。
感謝ではない。信仰でもない。祈りと呼べるほど、陽菜自身も信じていない。
俺の手は透けたまま、世界も遠い。
何も起きない。
だが、俺には届いた。
はっきりと。
その願いだけが、俺の中に落ちた。
重かった。
痛かった。
俺は立ち上がった。
見る。
聞く。
確かめる。
俺が間違えれば、陽菜の願いを汚す。
だから、間違えてはいけない。
◇
夜の街で、俺は西野を探した。
河合の居場所は分からない。心は読めないし、霊になったからといって誰かの位置が分かるわけでもない。
だから、まず西野を探した。
西野は駅ビルの裏手にいた。
人通りの少ない場所だった。自販機の明かりだけが白く光っている。西野はスマホを握りしめ、誰かを待っていた。
数分後、河合が来た。
一人だった。
西野は、まず頭を下げた。
「ごめん」
最初の言葉がそれだった。
河合は笑った。
「何が?」
「今日、阿久津さんと話した」
「知ってる」
やはり。
河合は知っていた。
「何話したの」
「何も」
「俺のこと?」
西野は黙った。
河合は少し笑った。
「美咲。嘘はやめよう」
「……ごめん」
「謝らなくていいって。いい人じゃないって言った?」
西野の顔が固まった。
河合は笑う。
「当たり?」
「ごめんなさい」
「だから謝らなくていいって」
河合は一歩近付いた。
手は出さない。怒鳴らない。殴らない。
ただ近付くだけで、西野は小さくなる。
「阿久津さん、優しそうだよね」
河合が言った。
俺は河合を見た。
「正義感もある。父親のことがあって、少し弱ってる。でも他人を見捨てられない」
やめろ。
「いい子だよな」
河合は楽しそうだった。
「巻き込まないで」
西野が言った。
小さい声だった。
だが確かに言った。
河合の目が少し細くなる。
「巻き込む?」
「阿久津さんは関係ない」
「関係ないかどうかは、阿久津さんが決めるんじゃない?」
「お願い」
西野は頭を下げた。
「阿久津さんには何もしないで」
俺の中で、何かが静かに音を立てた。
西野は分かっている。
河合が陽菜を利用しようとしていることを。
だから、自分が怯えている相手に頭を下げている。
「美咲」
河合の声が少し低くなった。
「勘違いしてない?」
西野は顔を上げない。
「俺、何か悪いことした?」
「……」
「相談に乗ったよな。助けたよな。金も貸した。困ってる時、何度も時間作った」
河合は優しい声で続ける。
「なのに俺が悪いの?」
きれいな言葉だった。
相手に罪悪感を持たせる言葉。
佐伯もそうだった。
俺はお前のためにやった。
だから返せ。
だから従え。
「阿久津さんが来たら、普通に相談に乗るよ」
「やめてください」
「なんで?」
「お願いします」
「美咲が決めることじゃない」
河合はスマホを出し、画面を西野に見せた。
俺の位置からは見えなかった。
だが、西野の顔色で十分だった。
真っ白になった。
「明日」
河合は言った。
「阿久津さんに言って。相談室に来ればって」
「嫌です」
初めて、西野がはっきり拒んだ。
河合は少しだけ黙った。
それから笑った。
「じゃあ、これ。先生に相談する?」
スマホを軽く振る。
西野の目に涙が浮かぶ。
「それは」
「親でもいいよ」
「やめて」
「美咲が決めて」
河合は優しい声で言った。
「阿久津さんを連れてくるか」
少し間を置く。
「それとも、全部ちゃんと話すか」
西野は何も言えなかった。
俺は河合のすぐ横に立っていた。
手を伸ばせば届く距離。
だが、まだ触れない。
俺の中には怒りがあった。嫌悪もあった。殺意も、生まれかけていた。
だが、まだだ。
河合は陽菜に触れていない。
まだ計画だ。まだ言葉だ。
そう考える自分がいる。
同時に、未遂だから何だと考える自分もいる。
「父親死んで、頼れる大人もいない」
河合は笑っていた。
「正義感はある。人を見捨てられない。しかも見た目も悪くない」
「やめて」
西野の声が震えた。
「阿久津さんは関係ない」
「関係あるよ」
河合は優しい声で言った。
「美咲が連れてくるんだから」
「やめてよ」
「大丈夫。最初は話を聞くだけ」
最初は。
その言葉が耳に残った。
「私の時と同じことするつもり?」
西野が言った。
河合は少しだけ笑った。
「美咲が勝手にそう思ってるだけだろ」
「写真とか、もうやめて」
「保険だよ。相手があとから変なこと言わないようにするための」
俺はようやく理解した。
河合悠斗は、陽菜を助けようとしているのではない。相談に乗ろうとしているのでもない。
あいつは陽菜を、次の西野にするつもりだった。
「いい子って」
河合は笑った。
「扱いやすいよな」
その瞬間、世界が近付いた。
自販機の明かりが一度だけちらつく。
河合が顔を上げた。
「……何?」
周囲を見る。
俺の方を。
正確には、俺がいる空間を。
西野もびくっと震えた。
俺は立っていた。
河合の目の前に。
だが、まだ見えていない。
まだ触れない。
河合は首を傾げ、それから西野に背を向けた。
「まあいいか。明日、頼むよ」
友達に別れを告げるみたいに、軽く手を振る。
西野はその場に立ち尽くしていた。
俺は河合の背中を見た。
今、追えばいい。
今、殺せばいい。
そう思った。
だが、まだ動かなかった。
最後の何かが俺を止めていた。
人間だった頃の倫理か。
陽菜の願いを汚したくないという思いか。
それとも、ただ怖いだけか。
分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
明日。
河合悠斗は、陽菜に手を伸ばす。
まだ触れていない。
だが、伸ばすつもりでいる。
俺はその背中を追った。
最後まで確かめる。
そしてもし、本当に陽菜を巻き込むなら。
その時はもう、迷わない。




