↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第3章 神の誕生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/33

第14話 避難経路

 朝、陽菜はいつもより早く家を出た。


 眠れていない顔だった。目の下には隈がある。朝食もほとんど残した。制服に袖を通し、鞄を持ち、玄関で一度だけ仏壇の方を見た。


 何も言わなかった。


 俺はその横にいた。


 言わなくていい。


 行かなくていい。


 昨日のことは忘れていい。


 西野美咲のことも、河合悠斗のことも、お前が背負うことじゃない。


 そう言いたかった。


 もちろん届かない。


 陽菜は玄関を出て、駅へ向かった。通学路の途中で、何度か立ち止まりかけた。学校へ行く足ではなかった。逃げたい足だった。


 それでも、戻らなかった。


 学校に着くと、陽菜は下駄箱の前で少しだけ立ち止まった。誰かから何か入っているわけではない。昨日と同じ場所。昨日と同じ上履き。昨日と同じ学校。


 でも、陽菜の中ではもう同じではない。


 河合悠斗は、今日、陽菜へ手を伸ばすつもりでいる。


 俺は知っている。


 陽菜は知らない。


 ただ、何かが来ることだけを感じている。


◇


 一時間目の授業中、陽菜はほとんど黒板を見ていなかった。


 ノートの端に、何度も同じ文字を書いては消している。


 西野さん。


 河合先輩。


 先生。


 相談室。


 それだけで、陽菜が何を考えているのか分かった。


 休み時間になると、陽菜は鞄から別のノートを取り出した。授業用ではない。持ち歩いている小さなメモ帳だった。たぶん、買い物や提出物を忘れないように使っていたものだ。


 陽菜はしばらく白いページを見つめていた。


 それから、一枚だけ破った。


 音は小さかった。


 けれど、その音に陽菜自身がびくっとした。


 何か大きなことを始めるみたいに。


 ペンを握る。


 すぐには書けなかった。


 指先が少し震えている。正しいことを書こうとしている顔だった。だが、正しいことなんて分からない。先生に言えばいいのか。西野の名前を出していいのか。河合と二人きりになっていいのか。証拠を集めるべきなのか。録音した方がいいのか。


 十五歳の娘が、一人で考えることではない。


 俺はそう思った。


 だが陽菜は、考えた。


 そして、ゆっくり書き始めた。


『西野さんの名前は出さない』


 そこで手が止まる。


 西野が困るかもしれない。


 昨日からずっと陽菜を縛っていた考えだ。


 その下に、もう一行。


『河合先輩と二人きりにしない』


 さらに一行。


『相談室に先生を呼ぶ』


 少し迷ってから、次を書く。


『録音はしない』


 また止まる。


 河合の証拠を残した方がいいのかもしれない。そう考えたのだと思う。でも、陽菜は首を振った。


 誰かを勝手に撮ること。


 録ること。


 それが、また別の傷になるかもしれないと考えたのだろう。


 最後に、書き足す。


『勝手に撮らない』


 そこまで書いて、陽菜はペンを置いた。


 紙には、たった四つの決まりだけが並んでいる。


『西野さんの名前は出さない』

『河合先輩と二人きりにしない』

『相談室に先生を呼ぶ』

『録音はしない。勝手に撮らない』


 幼い。


 不完全だ。


 大人が見れば、穴だらけかもしれない。


 それでも、その紙は陽菜が初めて自分で作った避難経路だった。


 誰かを救うためではない。


 誰かを罰するためでもない。


 少なくとも、これ以上悪くしないための紙だった。


 陽菜はその紙を半分に折り、制服のポケットへ入れた。


 俺はその仕草を見ていた。


 親なら褒めるべきなのかもしれない。


 よく考えたな、と。


 でも俺は、褒めたくなかった。


 そんな紙を、陽菜に作らせたくなかった。


◇


 昼休み、陽菜は西野を見つけた。


 保健室へ向かう廊下だった。西野は一人で歩いていた。顔色は昨日より悪い。目も赤い。眠れていないのだろう。


「西野さん」


 陽菜が呼ぶ。


 西野は立ち止まった。


 逃げると思った。


 だが逃げなかった。


「阿久津さん」


 声は掠れていた。


 陽菜は少し迷ってから、ポケットの紙を出した。


「これ」


 西野はその紙を見る。


 陽菜が広げて見せた。


 西野さんの名前は出さない。


 河合先輩と二人きりにしない。


 相談室に先生を呼ぶ。


 録音はしない。勝手に撮らない。


 西野は読み終えると、顔を歪めた。


 安心ではなかった。


 罪悪感だった。


「ごめん」


 西野が言った。


「阿久津さんに、こんなこと考えさせて」


「西野さんのせいじゃないです」


「でも」


「違います」


 陽菜は、思ったより強く言った。


 西野が驚いたように見る。


 陽菜自身も少し驚いていた。紙を持つ手は下ろさなかった。


「私が勝手に決めました」


「阿久津さん」


「先生に言います」


 西野の顔が強張る。


「でも、西野さんの名前は出しません。相談室に先生を呼びます。河合先輩と二人にはなりません」


 陽菜は紙を見ながら言った。


 たぶん、紙がなければ言えなかった。


 紙に書いてあるから、言えた。


「それで、駄目ですか」


 西野は答えなかった。


 廊下の向こうでは、誰かが笑っている。近くの教室から椅子を引く音がする。普通の昼休みだった。


 その普通の学校の廊下で、西野は泣きそうな顔をした。


「私のことは、いいから」


「よくないです」


「阿久津さんが困る」


「それでも」


 陽菜は言葉を探した。


「西野さんが怖がってるの、もう見なかったことにできません」


 西野は俯いた。


「先生、信じてくれるかな」


「分かりません」


 正直な答えだった。


「でも、一人で行くよりは、いいと思います」


「……うん」


 西野は小さく頷いた。


 その頷きは弱かった。


 でも、頷いた。


◇


 放課後まで、陽菜は落ち着かなかった。


 授業中もノートの端を見つめたまま、ほとんどペンが動いていない。昼休みもパンを半分残した。何度か職員室の方を見たが、そのたびに足を止めた。


 西野が困るかもしれない。


 先生が間違えるかもしれない。


 河合が気付くかもしれない。


 考えるほど、動けなくなる。


 それでも、紙は捨てなかった。


 放課後のチャイムが鳴る。


 生徒たちが教室を出ていく。部活へ向かう声、昇降口へ急ぐ足音、廊下の笑い声。学校はいつも通りだった。


 陽菜だけが、その流れから少し外れていた。


 相談室は一階の端にある。


 廊下を歩くにつれて、人の声が遠ざかっていく。陽菜の足取りは遅い。それでも引き返さない。


 扉の前に、西野が立っていた。


 俯いている。


「西野さん」


 陽菜が呼ぶと、西野はびくっと肩を揺らした。


「ごめん」


 最初の言葉が、それだった。


「本当に、ごめん」


 陽菜が何か言う前に、相談室の扉が開いた。


 河合悠斗が顔を出した。


「来てくれたんだ」


 いつもの笑顔だった。


「ありがとう。入って」


 陽菜は動かなかった。


 ポケットの中で、紙を握っている。


 河合は少し困ったように笑う。


「大丈夫。話を聞くだけだから」


 その言い方で、陽菜の顔が強張った。


 佐伯と同じだった。


 最初は、話を聞くだけ。


「西野さんも一緒ですか」


 河合は西野を見た。


「美咲は、ちょっと外で待ってて」


 西野が顔を上げた。


「でも」


「大丈夫だよ」


 河合の声は優しい。


 優しいのに、西野はそれ以上何も言えなくなった。


 陽菜は一歩下がった。


「やっぱり、先生を呼びます」


 河合の笑顔が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 すぐにまた柔らかい顔へ戻る。


「先生?」


「はい」


「どうして?」


「二人では話せません」


 陽菜はポケットの中の紙を握っていた。


「西野さんも、私も、河合先輩と二人では話しません」


 河合は陽菜を見た。


 初めて、ちゃんと見た。


 人を見ている顔ではなかった。


 何か面倒なものを見つけた顔だった。


「美咲か」


 陽菜は黙った。


 河合は笑った。


「美咲、口軽いな」


「違います」


「違わないでしょ」


 河合はスマホを取り出した。


「美咲ってさ、守ってあげないとすぐ変なことするんだよ。自分で困ったことして、あとから助けてって言う。だから俺が整理してあげてる」


 きれいな言葉だった。


 整理。


 助ける。


 守る。


 どれも、人を縛る言葉に聞こえた。


「阿久津さんも、似てるよね」


 河合は一歩近付いた。


「父親が死んで、つらいのに、他人のこと気にしてる。いい子だと思う」


「近付かないでください」


「怖がらなくていいよ」


「近付かないでください」


 陽菜はもう一度言った。


 河合は止まった。


 だが、笑顔は消えない。


「でもさ、阿久津さん」


 河合は、壁に貼られた相談室のポスターを指で軽く叩いた。


 ひとりで抱え込まないで。


 話すだけでも楽になる。


 その文字が、河合の指先の下にあった。


「誰かを助けたいなら、自分も少しは差し出さないと駄目だよ」


「何を言ってるんですか」


「美咲を助けたいんでしょ」


 陽菜の目が揺れた。


「だったら、美咲の代わりに話を聞かせてよ。何に困ってるのか。誰に頼ってるのか。家に一人でいて、怖くないのか」


「やめてください」


「俺、相談に乗るの得意なんだ」


 河合は笑った。


「美咲も、最初はそうだったし」


 その一言で、陽菜の顔が強張った。


 河合は、それを見逃さなかった。


「そういう顔するってことは、分かってるんだよね。俺がどういう人間か」


「西野さんを、もう困らせないでください」


「困らせてないよ。助けてる」


「助けてる人は、相手を怖がらせたりしません」


 河合の笑顔が少し薄くなった。


「じゃあ、阿久津さんが助ける?」


 陽菜は答えられなかった。


「美咲の秘密、全部背負う? 先生に言えないことも、親に知られたくないことも、全部」


「それは……」


「できないよね」


 河合は優しい声で言った。


「でも、放っておけない。そういう子って、扱いやすいんだよ」


 陽菜が一歩下がる。


 背中が机に当たった。


 いつの間にか、相談室の中に入っていた。


 西野は扉の外にいる。


 入ってこられない。


 河合がその位置に立っているからだ。


「阿久津さんは、たぶん自分から逃げない。美咲が泣いたら戻ってくる。誰かが助けてって言ったら、断れない」


 河合は近付いた。


「だから、話を聞くだけ」


「嫌です」


「大丈夫。最初はそれだけだから」


 最初は。


 その言葉で、陽菜の顔から血の気が引いた。


 河合には、その理由までは読めない。ただ、陽菜が怯えたことだけを見て、満足そうに笑った。


「ほら。怖いなら、誰かに助けてもらえばいい」


「やめて」


「でも、誰が助けてくれるの?」


 河合は声を落とした。


「お父さんは、もういないんだよね」


 その瞬間、俺の中で何かが切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。