第14話 避難経路
朝、陽菜はいつもより早く家を出た。
眠れていない顔だった。目の下には隈がある。朝食もほとんど残した。制服に袖を通し、鞄を持ち、玄関で一度だけ仏壇の方を見た。
何も言わなかった。
俺はその横にいた。
言わなくていい。
行かなくていい。
昨日のことは忘れていい。
西野美咲のことも、河合悠斗のことも、お前が背負うことじゃない。
そう言いたかった。
もちろん届かない。
陽菜は玄関を出て、駅へ向かった。通学路の途中で、何度か立ち止まりかけた。学校へ行く足ではなかった。逃げたい足だった。
それでも、戻らなかった。
学校に着くと、陽菜は下駄箱の前で少しだけ立ち止まった。誰かから何か入っているわけではない。昨日と同じ場所。昨日と同じ上履き。昨日と同じ学校。
でも、陽菜の中ではもう同じではない。
河合悠斗は、今日、陽菜へ手を伸ばすつもりでいる。
俺は知っている。
陽菜は知らない。
ただ、何かが来ることだけを感じている。
◇
一時間目の授業中、陽菜はほとんど黒板を見ていなかった。
ノートの端に、何度も同じ文字を書いては消している。
西野さん。
河合先輩。
先生。
相談室。
それだけで、陽菜が何を考えているのか分かった。
休み時間になると、陽菜は鞄から別のノートを取り出した。授業用ではない。持ち歩いている小さなメモ帳だった。たぶん、買い物や提出物を忘れないように使っていたものだ。
陽菜はしばらく白いページを見つめていた。
それから、一枚だけ破った。
音は小さかった。
けれど、その音に陽菜自身がびくっとした。
何か大きなことを始めるみたいに。
ペンを握る。
すぐには書けなかった。
指先が少し震えている。正しいことを書こうとしている顔だった。だが、正しいことなんて分からない。先生に言えばいいのか。西野の名前を出していいのか。河合と二人きりになっていいのか。証拠を集めるべきなのか。録音した方がいいのか。
十五歳の娘が、一人で考えることではない。
俺はそう思った。
だが陽菜は、考えた。
そして、ゆっくり書き始めた。
『西野さんの名前は出さない』
そこで手が止まる。
西野が困るかもしれない。
昨日からずっと陽菜を縛っていた考えだ。
その下に、もう一行。
『河合先輩と二人きりにしない』
さらに一行。
『相談室に先生を呼ぶ』
少し迷ってから、次を書く。
『録音はしない』
また止まる。
河合の証拠を残した方がいいのかもしれない。そう考えたのだと思う。でも、陽菜は首を振った。
誰かを勝手に撮ること。
録ること。
それが、また別の傷になるかもしれないと考えたのだろう。
最後に、書き足す。
『勝手に撮らない』
そこまで書いて、陽菜はペンを置いた。
紙には、たった四つの決まりだけが並んでいる。
『西野さんの名前は出さない』
『河合先輩と二人きりにしない』
『相談室に先生を呼ぶ』
『録音はしない。勝手に撮らない』
幼い。
不完全だ。
大人が見れば、穴だらけかもしれない。
それでも、その紙は陽菜が初めて自分で作った避難経路だった。
誰かを救うためではない。
誰かを罰するためでもない。
少なくとも、これ以上悪くしないための紙だった。
陽菜はその紙を半分に折り、制服のポケットへ入れた。
俺はその仕草を見ていた。
親なら褒めるべきなのかもしれない。
よく考えたな、と。
でも俺は、褒めたくなかった。
そんな紙を、陽菜に作らせたくなかった。
◇
昼休み、陽菜は西野を見つけた。
保健室へ向かう廊下だった。西野は一人で歩いていた。顔色は昨日より悪い。目も赤い。眠れていないのだろう。
「西野さん」
陽菜が呼ぶ。
西野は立ち止まった。
逃げると思った。
だが逃げなかった。
「阿久津さん」
声は掠れていた。
陽菜は少し迷ってから、ポケットの紙を出した。
「これ」
西野はその紙を見る。
陽菜が広げて見せた。
西野さんの名前は出さない。
河合先輩と二人きりにしない。
相談室に先生を呼ぶ。
録音はしない。勝手に撮らない。
西野は読み終えると、顔を歪めた。
安心ではなかった。
罪悪感だった。
「ごめん」
西野が言った。
「阿久津さんに、こんなこと考えさせて」
「西野さんのせいじゃないです」
「でも」
「違います」
陽菜は、思ったより強く言った。
西野が驚いたように見る。
陽菜自身も少し驚いていた。紙を持つ手は下ろさなかった。
「私が勝手に決めました」
「阿久津さん」
「先生に言います」
西野の顔が強張る。
「でも、西野さんの名前は出しません。相談室に先生を呼びます。河合先輩と二人にはなりません」
陽菜は紙を見ながら言った。
たぶん、紙がなければ言えなかった。
紙に書いてあるから、言えた。
「それで、駄目ですか」
西野は答えなかった。
廊下の向こうでは、誰かが笑っている。近くの教室から椅子を引く音がする。普通の昼休みだった。
その普通の学校の廊下で、西野は泣きそうな顔をした。
「私のことは、いいから」
「よくないです」
「阿久津さんが困る」
「それでも」
陽菜は言葉を探した。
「西野さんが怖がってるの、もう見なかったことにできません」
西野は俯いた。
「先生、信じてくれるかな」
「分かりません」
正直な答えだった。
「でも、一人で行くよりは、いいと思います」
「……うん」
西野は小さく頷いた。
その頷きは弱かった。
でも、頷いた。
◇
放課後まで、陽菜は落ち着かなかった。
授業中もノートの端を見つめたまま、ほとんどペンが動いていない。昼休みもパンを半分残した。何度か職員室の方を見たが、そのたびに足を止めた。
西野が困るかもしれない。
先生が間違えるかもしれない。
河合が気付くかもしれない。
考えるほど、動けなくなる。
それでも、紙は捨てなかった。
放課後のチャイムが鳴る。
生徒たちが教室を出ていく。部活へ向かう声、昇降口へ急ぐ足音、廊下の笑い声。学校はいつも通りだった。
陽菜だけが、その流れから少し外れていた。
相談室は一階の端にある。
廊下を歩くにつれて、人の声が遠ざかっていく。陽菜の足取りは遅い。それでも引き返さない。
扉の前に、西野が立っていた。
俯いている。
「西野さん」
陽菜が呼ぶと、西野はびくっと肩を揺らした。
「ごめん」
最初の言葉が、それだった。
「本当に、ごめん」
陽菜が何か言う前に、相談室の扉が開いた。
河合悠斗が顔を出した。
「来てくれたんだ」
いつもの笑顔だった。
「ありがとう。入って」
陽菜は動かなかった。
ポケットの中で、紙を握っている。
河合は少し困ったように笑う。
「大丈夫。話を聞くだけだから」
その言い方で、陽菜の顔が強張った。
佐伯と同じだった。
最初は、話を聞くだけ。
「西野さんも一緒ですか」
河合は西野を見た。
「美咲は、ちょっと外で待ってて」
西野が顔を上げた。
「でも」
「大丈夫だよ」
河合の声は優しい。
優しいのに、西野はそれ以上何も言えなくなった。
陽菜は一歩下がった。
「やっぱり、先生を呼びます」
河合の笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにまた柔らかい顔へ戻る。
「先生?」
「はい」
「どうして?」
「二人では話せません」
陽菜はポケットの中の紙を握っていた。
「西野さんも、私も、河合先輩と二人では話しません」
河合は陽菜を見た。
初めて、ちゃんと見た。
人を見ている顔ではなかった。
何か面倒なものを見つけた顔だった。
「美咲か」
陽菜は黙った。
河合は笑った。
「美咲、口軽いな」
「違います」
「違わないでしょ」
河合はスマホを取り出した。
「美咲ってさ、守ってあげないとすぐ変なことするんだよ。自分で困ったことして、あとから助けてって言う。だから俺が整理してあげてる」
きれいな言葉だった。
整理。
助ける。
守る。
どれも、人を縛る言葉に聞こえた。
「阿久津さんも、似てるよね」
河合は一歩近付いた。
「父親が死んで、つらいのに、他人のこと気にしてる。いい子だと思う」
「近付かないでください」
「怖がらなくていいよ」
「近付かないでください」
陽菜はもう一度言った。
河合は止まった。
だが、笑顔は消えない。
「でもさ、阿久津さん」
河合は、壁に貼られた相談室のポスターを指で軽く叩いた。
ひとりで抱え込まないで。
話すだけでも楽になる。
その文字が、河合の指先の下にあった。
「誰かを助けたいなら、自分も少しは差し出さないと駄目だよ」
「何を言ってるんですか」
「美咲を助けたいんでしょ」
陽菜の目が揺れた。
「だったら、美咲の代わりに話を聞かせてよ。何に困ってるのか。誰に頼ってるのか。家に一人でいて、怖くないのか」
「やめてください」
「俺、相談に乗るの得意なんだ」
河合は笑った。
「美咲も、最初はそうだったし」
その一言で、陽菜の顔が強張った。
河合は、それを見逃さなかった。
「そういう顔するってことは、分かってるんだよね。俺がどういう人間か」
「西野さんを、もう困らせないでください」
「困らせてないよ。助けてる」
「助けてる人は、相手を怖がらせたりしません」
河合の笑顔が少し薄くなった。
「じゃあ、阿久津さんが助ける?」
陽菜は答えられなかった。
「美咲の秘密、全部背負う? 先生に言えないことも、親に知られたくないことも、全部」
「それは……」
「できないよね」
河合は優しい声で言った。
「でも、放っておけない。そういう子って、扱いやすいんだよ」
陽菜が一歩下がる。
背中が机に当たった。
いつの間にか、相談室の中に入っていた。
西野は扉の外にいる。
入ってこられない。
河合がその位置に立っているからだ。
「阿久津さんは、たぶん自分から逃げない。美咲が泣いたら戻ってくる。誰かが助けてって言ったら、断れない」
河合は近付いた。
「だから、話を聞くだけ」
「嫌です」
「大丈夫。最初はそれだけだから」
最初は。
その言葉で、陽菜の顔から血の気が引いた。
河合には、その理由までは読めない。ただ、陽菜が怯えたことだけを見て、満足そうに笑った。
「ほら。怖いなら、誰かに助けてもらえばいい」
「やめて」
「でも、誰が助けてくれるの?」
河合は声を落とした。
「お父さんは、もういないんだよね」
その瞬間、俺の中で何かが切れた。




