第15話 救済
佐伯と同じだった。
同じ言葉。
同じ穴。
父親の不在を、あいつらは鍵みたいに使う。
陽菜の目が見開かれる。
息が止まる。
手から紙が落ちた。
床に、陽菜の書いた避難経路が広がった。
西野さんの名前は出さない。
河合先輩と二人きりにしない。
相談室に先生を呼ぶ。
録音はしない。勝手に撮らない。
その紙を、河合が見下ろした。
笑った。
「かわいいね」
俺は、もう何も考えていなかった。
怒り。
嫌悪。
殺意。
それだけが、世界を近付ける。
相談室の蛍光灯が、一度だけ明滅した。
河合が顔を上げる。
「……何?」
陽菜も、西野も動けない。
俺は河合の目の前に立っていた。
まだ見えていない。
だが、感じている。
河合の顔から笑みが消えた。
「何だよ」
小さく呟く。
俺は手を伸ばした。
河合の肩に触れた。
「っ!?」
河合が飛び退いた。
陽菜には、河合が突然怯えたように見えただろう。
俺には、感触があった。
布。
骨。
体温。
生きている人間の身体。
佐伯の時と同じだった。
河合は俺を見ていない。
いや、見えていないはずだった。
だが、目は俺のいる場所を追っている。
「誰だよ」
声が震えていた。
「誰かいるのか」
陽菜が固まっている。
西野も廊下で息を呑んでいる。
このままでは、二人の前で河合を壊すことになる。
駄目だ。
陽菜の前でやるな。
分かっている。
分かっているのに、手が離れなかった。
河合が後ずさる。椅子にぶつかる。机の上のファイルが落ちる。相談室のポスターが壁から剥がれかける。
「何なんだよ!」
河合が叫んだ。
その声で、廊下の向こうから誰かがこちらを見る気配がした。
まずい。
見られる。
そう思ったのは、人間であった頃の残りかもしれない。
河合は逃げた。
相談室を飛び出し、廊下を走る。西野の横を押しのけるように通り過ぎた。陽菜は動けない。西野も動けない。
俺だけが追った。
廊下の端。
階段。
河合は何度も後ろを振り返った。
「来るな!」
見えてはいない。
だが、感じている。
逃げる側になった人間の顔だった。
佐伯もそうだった。
人を怖がらせる側にいた人間ほど、自分が怖がる番になった時、情けない顔をする。
河合は階段の踊り場で足を止めた。
スマホを取り出そうとする。
指が震えている。
俺は河合の前に立った。
「やめろ」
河合が言った。
誰に言っているのか、自分でも分かっていない顔だった。
「来るな……」
後ずさる。
俺が近付くたび、河合の目が何もない空間をさまよった。
「何なんだよ……」
河合が手すりを掴む。
「誰なんだよ!」
俺は河合の胸ぐらを掴んだ。
河合の身体が浮いた。
「ひっ」
短い悲鳴。
軽かった。
佐伯よりも、ずっと軽い。
生きている身体は確かに重いはずなのに、俺の手の中では紙みたいだった。
河合は俺の腕を掴もうとした。
だが、掴みきれない。
見えていないものを掴もうとして、指が空を切る。
「やめろ」
声が裏返る。
「やめろって!」
俺は答えない。
答えられない。
ただ、河合を階段の手すりへ押しつけた。
「助けて!」
河合が叫んだ。
その声に、廊下の遠くで誰かが反応した。
まずい。
そう思った。
でも、止まらなかった。
河合の足が床から離れる。
「嫌だ!」
河合は手すりに縋ろうとした。
「もう来ない! ここにはもう来ないから!」
助かるためだけの約束。
何から逃げているのかも分からないまま、河合は命乞いをしていた。
そうだろう。
近付けなくする。
俺は押した。
河合の身体が手すりを越える。
一瞬、河合の目が俺を見た。
今度は、見えていた。
人間ではないものを。
自分を殺そうとしているものを。
「なんだよ、お前」
その問いに、俺は答えなかった。
悪霊だ。
もし声が届いたなら、そう言っていたかもしれない。
河合の身体が落ちた。
階段の下へ。
鈍い音がした。
人の身体から、してはいけない音だった。
◇
数秒、何も聞こえなかった。
それから、悲鳴が上がった。
誰かが走ってくる。先生の声。生徒の足音。階段の下で、河合の身体が変な向きに倒れている。
動かない。
血が、ゆっくり広がっていく。
俺は階段の途中に立っていた。
また殺した。
また、自分の意思で。
今度は学校で。
陽菜のいる学校で。
陽菜の願いのすぐ近くで。
その時、河合の身体の横に、薄い影が立ち上がった。
河合悠斗だった。
佐伯の時より、ずっと薄い。
輪郭が最初から揺れている。
河合は自分の死体を見た。
血を見た。
階段を見た。
それから、俺を見た。
今度は、はっきりと。
河合の目が見開かれた。
「お前……」
俺の顔を見つめる。
何かを探るように。
やがて、その表情が変わった。
「阿久津の……父親か?」
俺は答えなかった。
だが、河合には分かったらしい。
恐怖が、怒りに変わった。
「ふざけんなよ」
声が掠れていた。
「あの子には、まだ何もしてなかっただろ!」
河合が俺へ飛びかかってきた。
陽菜には。
まだ。
その言葉が、すべてだった。
西野にしたことも。
莉奈たちにしたことも。
河合の中では、今ここで殺される理由にはなっていない。
「話しかけただけだ!」
河合の手が俺の腕を掴む。
「まだ何も始めてなかっただろ!」
その瞬間、河合の指先が崩れた。
「え」
河合自身が一番驚いていた。
佐伯の時は、少しは抵抗があった。
削り合った。
こちらも少し薄くなった。
だが河合は違った。
触れたところから、すぐに崩れ始めた。
「なんで」
河合の腕がほどける。
肩が割れる。
胸の輪郭が砂のように散っていく。
「なんでだよ!」
河合は逃げようとした。
俺は掴み返した。
離さない。
こいつが霊になって西野へ行くかもしれない。
陽菜へ行くかもしれない。
相談室に残るかもしれない。
助けを求める子のところへ、また行くかもしれない。
そんなことを許すつもりはなかった。
「阿久津には何もしてない!」
河合の声が細くなる。
「まだ、何も――」
顔が崩れる。
「助け」
最後の言葉は、途中で消えた。
河合悠斗は消えた。
跡形もなく。
魂ごと。
俺は階段の途中に立っていた。
下では先生が叫んでいる。誰かが救急車を呼べと言っている。生徒たちが泣き、何人かが口元を押さえている。
その人混みの向こうで、陽菜が立っていた。
相談室から出てきたのだろう。
顔が真っ白だった。
西野がその横にいる。西野の手は震えていた。陽菜の袖を掴んでいる。
陽菜は階段の下を見ている。
河合の身体を見ている。
何が起きたのか、分かっていない。
ただ、怖がっていたものが消えたことだけは分かっている。
その顔が、俺には一番怖かった。
◇
その日の夕方、学校は大騒ぎになった。
警察が来た。救急車も来た。教師たちは生徒を教室へ戻し、廊下に出ないように言った。河合悠斗は病院へ運ばれたが、助からなかった。
階段から転落。
事故。
そう説明された。
少なくとも、その場では。
誰も、見えない何かに突き落とされたとは言わなかった。言えるはずもない。防犯カメラにも、たぶん俺は映っていない。映っているのは、河合が一人で怯え、階段の手すりへ後ずさり、足を滑らせたように見える姿だけだろう。
陽菜は保健室にいた。
西野もいた。
担任と養護教諭が何度も大丈夫かと聞いた。大丈夫なわけがない。それでも陽菜は頷くしかなかった。
西野はずっと俯いていた。
手が震えている。
陽菜は、その手を見た。
「西野さん」
西野は顔を上げない。
「大丈夫ですか」
西野は笑おうとした。
失敗した。
「大丈夫」
大丈夫な人間は、そういう顔をしない。
俺はもう、そのことを知っている。
西野は唇を噛んだ。
「阿久津さん」
「はい」
「私」
そこで言葉が止まる。
西野の目から涙が落ちた。
「助かったって、思っちゃった」
陽菜の顔が固まった。
「河合先輩が死んだのに」
西野は震えていた。
「怖かったのに。嫌だったのに。死んでほしいなんて、思ってなかったのに」
涙が止まらない。
「でも、もう来ないんだって思ったら」
西野は両手で顔を覆った。
「助かったって、思っちゃった」
陽菜は何も言えなかった。
言えるはずがなかった。
佐伯の時と同じだ。
人が死んだ。
自分は助かった。
その二つを同時に抱えさせられる苦しさを、陽菜はもう知っている。
だから否定できない。
最低じゃないと言ってやることもできない。
自分自身が、まだそれを受け入れられていないからだ。
「私」
陽菜は小さく言った。
「分かります」
西野が顔を上げた。
陽菜は泣いていなかった。
泣く手前の顔だった。
「そう思うの、分かります」
西野の顔が歪んだ。
安心ではなかった。
罪悪感だった。
西野は、少しだけ息をした。
誰にも言えなかった感情を、陽菜だけが否定しなかった。
ただそれだけのことが、西野を少しだけ救っていた。
俺は保健室の隅に立っていた。
俺が殺した。
俺が、二人にその罪悪感を持たせた。
なのに、二人は互いの傷を見て、少しだけ救われている。
俺はもう、自分が何をしているのか分からなくなっていた。
陽菜はポケットから、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
床に落ち、踏まれかけ、拾い上げた紙だった。
西野さんの名前は出さない。
河合先輩と二人きりにしない。
相談室に先生を呼ぶ。
録音はしない。勝手に撮らない。
そのどれも、完全には守れなかった。
河合は死んだ。
西野は泣いている。
陽菜は震えている。
それでも、その紙は陽菜が誰かを傷つけないために作ったものだった。
陽菜はそれを握りしめる。
「ごめんなさい」
誰に向けた謝罪なのか分からなかった。
西野にか。
河合にか。
自分にか。
それとも、見えない何かにか。
俺はすぐそばにいた。
謝るな。
そう思った。
お前は、誰かを殺してほしいなんて願っていない。
ただ、西野が助かってほしいと願っただけだ。
殺したのは俺だ。
俺だけだ。
けれど陽菜には、知りようがない。
答えのないまま、結果だけが目の前にある。
西野は助かった。
河合は死んだ。
陽菜が願った翌日に。
陽菜が紙を書いた日に。
陽菜が先生を呼ぼうとした直後に。
偶然。
そう言うには、あまりにも形が揃いすぎていた。
陽菜はくしゃくしゃの紙を見つめたまま、震える息を吐いた。
「西野さんが」
声が小さい。
「助かって、よかった」
その言葉を聞いた瞬間、河合を消して薄くなっていた指先が、元の形へ戻った。
感謝ではない。
信仰でもない。
もっと苦いものだった。
救済。
そう呼ぶには、あまりにも血の匂いが強い。
それでも、誰かが救われた。
その事実が、俺をまたこの世界へつなぎ止めた。
俺は保健室の隅で、自分の手を見た。
河合を掴んだ感触が、まだ残っている。
陽菜の書いた紙には、誰も傷つけないための手順が並んでいた。
俺がしたことは、その正反対だった。
それなのに。
西野は救われた。
陽菜はそれを否定できなかった。
そして俺は、また消えずに残った。




