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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第3章 神の誕生

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第16話 神様

 警察は、陽菜と西野にも事情を聞いた。


 相談室で何があったか。河合が何を言ったか。なぜ彼が一人で階段へ走ったのか。


 防犯映像には、河合が誰もいない場所を見て怯え、後ずさり、手すりの向こうへ落ちる姿しか残っていなかった。押した手も、第三者の影もない。


 佐伯の転落と似ている、と気づいた者もいた。


 二件とも不自然だった。二件とも、立件はできなかった。


 その結論は噂を消さなかった。むしろ、証拠に映らない何かがいるという話へ、輪郭を与えた。


 河合悠斗の死は、最初、悲しまれた。


 当然だった。


 あいつは、表向きは優等生だった。先生に信頼され、後輩に慕われ、相談室の手伝いまでしていた。廊下を歩けば誰かに声をかけられ、困っている生徒がいれば自然に立ち止まる。


 そういう人間として見られていた。


 だから河合が校舎の階段から落ちて死んだ翌日、学校はひどく静かだった。


 昇降口でも、教室でも、廊下でも、誰もが声を落としていた。


「河合先輩、なんで」


「昨日まで普通だったのに」


「相談室の近くだったんでしょ」


「事故って聞いたけど」


「自分で落ちるような人じゃないよね」


 噂は、まだ河合を惜しむ形をしていた。


 陽菜は、その中にいた。


 席に座り、ノートを開き、教師の声を聞いている。けれど、何一つ頭に入っていないようだった。ペン先は同じ場所で止まり、黒板の文字だけが増えていく。


 俺は教室の外に立っていた。


 入らなかった。


 昨日、俺はこの学校で人を殺した。


 廊下を歩く生徒の足音も、教師の声も、窓から差し込む朝の光も、何も変わっていない。変わっていないから、余計におかしかった。


 河合悠斗は死んだ。


 俺が殺した。


 魂まで消した。


 なのに学校は、静かになっただけで続いている。


 授業があり、出席確認があり、宿題が出て、昼休みが来る。


 人が一人死んでも、世界は止まらない。


 佐伯の時もそうだった。


 俺の時も、そうだった。


◇


 午前中、陽菜は何度も西野教室へ行った。


 西野は学校に来ていた。


 来なくてもよかったはずだ。むしろ、休んだ方が自然だった。昨日、河合が死んだ場所にいたのだから。自分を脅していた相手が目の前で死んだのだから。


 西野は、机に座っていた。


 顔色は悪い。目元は赤い。教師に声をかけられるたびに小さく頷き、周囲の視線を避けるように俯いている。


 昼休みになっても、西野は席を立たなかった。


 陽菜も声をかけれなかった。


 教室の中では、小さな声が行き交っていた。


「西野先輩、昨日一緒にいたんだって」


「阿久津さんもいたらしいよ」


「河合先輩、相談室で何か揉めてたのかな」


「でも河合先輩が誰かと揉めるとかある?」


「ないでしょ」


「阿久津さんって、ほら、お父さんの事故の」


「ああ、英雄の娘」


「何か続くね」


 何か続く。


 その言葉に、陽菜の肩がわずかに揺れた。


 続いている。


 確かに、続いている。


 佐伯が死んだ。


 陽菜が助かった。


 河合が死んだ。


 西野が助かった。


 どちらも事故として処理された。どちらも偶然に見える。けれど、陽菜の周りだけで、都合よく怖いものが消えている。


 そう見えてしまう。


 俺は廊下に立ったまま、自分の手を見た。


 佐伯を押した手。


 河合を掴んだ手。


 その手は、今は何にも触れない。


 陽菜の肩にも、涙にも、机の上のパンにも触れない。


 壊す時だけ届く。


 殺す時だけ届く。


 それが、俺に許された父親の形だった。


◇


 河合の意味が変わり始めたのは、その日の午後だった。


 最初は、一つの噂だった。


「河合先輩のスマホ、警察が見てるらしいよ」


 それだけなら、事故の調査として当然だった。


 だが、次に出た噂は違った。


「相談室の子の写真、出てきたらしい」


 誰かが言った。


「金のやり取りもあったって」


「うそ」


「西野先輩だけじゃないって」


「家出してた子とか、親に言えない子とか」


「河合先輩、そういう子に相談乗ってたんじゃないの?」


「相談っていうか」


 言いかけて、その子は黙った。


 まだ言葉にできない。


 まだ誰も、河合を完全に悪人とは言えない。昨日まで優しい先輩だった。先生に頼られていた。相談室の手伝いをしていた。そんな人間が、弱っている生徒を選んでいたなんて、すぐには受け入れられない。


 けれど噂は広がる。


 河合のスマホ。


 メッセージ。


 写真。


 金。


 家に帰りたくない子。


 親に知られたくない子。


 相談室。


 断片だけが、廊下を渡っていく。


 公式な説明はなかった。


 教師たちは何も言わない。生徒には余計な噂をしないよう注意があった。警察のことも、河合のスマホのことも、誰もはっきり話さない。


 それでも、生徒は知る。


 誰かが見た画面。


 誰かが聞いた言葉。


 誰かがずっと言えなかったこと。


 河合が死んだことで、口を塞いでいたものが少しずつ剥がれていく。


「私も、相談室で話したことある」


 放課後前、廊下の隅で一年生の女子がそう言った。


 陽菜は偶然、その声を聞いた。


 女子は友達らしい子に囲まれて、泣きそうな顔をしていた。


「河合先輩、優しかった。でも、あとから何回も連絡来て。最初は心配してくれてるんだと思ったけど」


「何されたの」


「分かんない。私、逃げたから」


 女子は袖で目元を拭った。


「でも西野先輩、逃げられなかったんだと思う」


 陽菜は立ち止まっていた。


 俺も、同じ場所にいた。


 河合悠斗。


 優しい先輩。


 相談室のボランティア。


 助けを求めた子の名前を覚えていた男。


 弱いところも、家の事情も、誰に知られたくないかも覚えていた男。


 死んだことで、ようやくその輪郭が学校に見え始めている。


 生きている間は、優しい顔で隠れていたものが。


◇


 放課後、西野が陽菜を呼び止めた。


 場所は、屋上へ続く階段の踊り場だった。


 最初に二人が出会った場所に近い。昼休みの声はもうなく、窓の外には夕方の校庭が見えている。部活の掛け声が遠くから聞こえた。


 西野はしばらく何も言わなかった。


 陽菜も待った。


 俺は二人の少し離れたところに立っていた。


「阿久津さん」


 西野がようやく言った。


「昨日のこと」


 陽菜の手が、制服のポケットを押さえた。


 そこには、くしゃくしゃになった紙があるはずだった。


 西野さんの名前は出さない。


 河合先輩と二人きりにしない。


 相談室に先生を呼ぶ。


 録音はしない。勝手に撮らない。


 誰かを傷つけないために書いた、小さな決まり。


 だが、河合は死んだ。


「阿久津さんが何かしたなんて思ってない」


 西野は言った。


 陽菜が顔を上げる。


 西野は、そこで一度切った。


 息を吸う。


 震えていた。


「でも、助かったって思ってしまう」


 陽菜は、その言葉を否定できなかった。


 俺も、できなかった。


「河合先輩が死んだのに」


 西野の声は小さかった。


「人が死んだのに」


 陽菜の目が揺れる。


「怖かった。ずっと怖かった。スマホが鳴るたびに、息が止まるみたいで。学校でも、家でも、どこにいても、見られてる気がして」


 西野は階段の手すりを握った。


「昨日、河合先輩が倒れてるのを見た時、怖かった」


 そこで言葉が詰まる。


「でも、それより先に」


 西野は泣きそうな顔で笑った。


「もう来ないんだって思った」


 陽菜は何も言わない。


「もう連絡来ない。もう呼ばれない。もう誰かを紹介しろって言われない。もう写真のこと言われない」


 涙が落ちた。


「そう思ったら、息ができた」


 陽菜の顔が歪んだ。


 それは、知っている感情だった。


 佐伯健吾が死んだ時。


 陽菜も、助かったと思った。


 怖かった相手が消えた。


 もう来ない。


 もうドアを叩かれない。


 もうスマホに名前が出ない。


 その安心が先に来て、あとから人が死んだことへの罪悪感が追いかけてくる。


 陽菜は、その苦しさを知っている。


 だから、西野の言葉を否定できない。


「最低だよね」


 西野は言った。


 陽菜は首を振ろうとした。


 でも、途中で止まった。


 簡単に「最低じゃない」と言えば、西野は少し楽になるかもしれない。けれどそれは、陽菜自身が自分にまだ言えていない言葉だった。


 佐伯の死に安心した自分を、陽菜はまだ許せていない。


 だから、西野だけを許す言葉を持てなかった。


「私も」


 陽菜はようやく言った。


 声は掠れていた。


「そういうの、分かります」


 西野が顔を上げる。


「前に、怖い人がいて」


 佐伯の名前は出さなかった。


 出せなかったのだと思う。


「その人がいなくなって、安心したことがあるから」


 西野は黙って聞いていた。


「人が死んだのに、安心するのって、変だと思ってました」


 陽菜は膝の上で手を握る。


「でも、安心しちゃうんです」


 西野の涙がまた落ちた。


「うん」


「だから」


 陽菜は言葉を探した。


「最低かどうかは、分かりません」


 西野が少しだけ目を見開く。


「ごめんなさい。最低じゃないって、ちゃんと言えたらいいんですけど」


 陽菜の声も震えていた。


「でも、私はまだ、自分にも言えてないから」


 その正直さが、かえって西野に届いたのだと思う。


 西野は泣きながら、小さく頷いた。


「うん」


 それだけだった。


 二人は、しばらく階段の踊り場にいた。


 泣き合うわけでもない。


 語り合うわけでもない。


 ただ、それぞれが人の死に安心してしまった罪悪感を、同じ場所に置いていた。


 俺は二人の近くに立っていた。


 俺が殺した。


 その言葉だけが、何度も浮かんだ。


 佐伯も。


 河合も。


 俺が殺した。


 その結果、陽菜と西野は助かった。


 助かったせいで、人の死に安心してしまった自分を責めている。


 俺は娘を守った。


 同時に、娘へまた一つ罪悪感を増やした。


◇


 翌日、河合の噂はさらに変わった。


 悲しみより、戸惑いの方が大きくなっていた。


「河合先輩、何人かの弱み握ってたらしい」


「相談室で?」


「先生は知らなかったのかな」


「先生の前ではいい人だったんでしょ」


「西野先輩だけじゃないって」


「じゃあ、死んでよかったってこと?」


「それは違うでしょ」


「でも、助かった人いるんじゃないの」


 助かった人。


 その言葉が、廊下に落ちる。


 誰も拾わない。


 拾ったら、自分が悪い人間になる気がするからだ。


 だが、みんな心のどこかで思っている。


 河合が死んだことで、助かった人がいる。


 その事実は、否定しにくい。


 陽菜はその言葉を聞くたびに、少しだけ顔を伏せた。


 西野も同じだった。


 そして、それを見ている生徒がいた。


 名前も知らない女子だった。廊下の掲示板の前で、陽菜と西野をじっと見ていた。やがてその子は、友達に小さく言った。


「阿久津さんがいたからじゃない?」


 友達が眉をひそめる。


「何が」


「河合先輩のこと」


「やめなよ、そういうの」


「でも、あの半グレの先輩の友達、佐伯って人が手を出そうとした時もそうだったらしい」


 陽菜の身体が固まった。


 佐伯の名前。


 学校の中にまで流れている。


 ニュースか、噂か、誰かのSNSか。父親を亡くした英雄の娘。親切な大人が近付いた。けれど、その大人は事故で死んだ。そんな断片が、陽菜の知らないところでつながっている。


「阿久津さん、何かに守られてるんじゃないの」


「何それ」


「守護霊とか」


「お父さん?」


「でも、お父さんなら、もっと分かりやすく出てくるんじゃない?」


 その言葉で、陽菜の顔が小さく歪んだ。


 俺も動けなかった。


 出ていきたかった。


 ここにいる。


 父親だ。


 俺がやった。


 全部、俺だ。


 そう叫びたかった。


 だが、声は届かない。


「神様みたいな?」


 誰かが冗談めかして言った。


 軽い声だった。


 深い意味はなかったのかもしれない。


 それでも、その言葉は初めて形を持って、陽菜の耳に届いた。


 神様。


 陽菜は何も言わなかった。


 西野が、その子たちを睨むように見た。


「そういうこと言わないで」


 声は小さかったが、強かった。


 女子たちは気まずそうに顔を逸らした。


「ごめん」


「別に、本気で言ったわけじゃ」


 そう言って、去っていく。


 本気ではない。


 だからこそ厄介だった。


 本気ではない言葉ほど、簡単に出る。


 簡単に出た言葉ほど、止める前に広がる。


 神様。


 その言葉は、陽菜の近くに置かれた。


 まだ信仰ではない。


 まだ冗談だ。


 まだ噂だ。


 だが、言葉は置かれた。


◇


 その日の帰り、陽菜は西野と一緒に校門を出た。


 二人とも、ほとんど話さなかった。


 並んで歩いている。


 少し前まで、西野は一人で怯えていた。陽菜は一人で父親を失っていた。今は、同じ罪悪感を知ってしまった二人が、言葉の少ない距離で歩いている。


 それが救いなのかどうか、俺には分からなかった。


 駅前で、西野が立ち止まった。


「阿久津さん」


「はい」


「神様とか、そういうの」


 西野は言いにくそうに口を開いた。


「私は、分からない」


「……はい」


「でも、昨日」


 西野は鞄の持ち手を握った。


「誰かが見てくれてたのかなって、少し思った」


 陽菜の顔が強張る。


「ごめん。変なこと言ってるのは分かってる」


「いえ」


「河合先輩が死んでよかったって、言いたいわけじゃない」


「分かります」


「でも、あのままだったら、私、たぶん壊れてた」


 陽菜は何も言えなかった。


「だから」


 西野は少しだけ迷って、言った。


「助けてくれた何かがあるなら、私は、感謝してる」


 その言葉のあと、雑踏の中で自分の位置が急にはっきりした。


 西野からの感謝だった。


 俺の名前を知らないまま、俺へ向けられた感謝。


 園児の母親たちのものとは違う。もっと苦く、震えていて、罪悪感を含んでいた。


 それでも、俺は確かにそこにいた。


 そのことが、たまらなく嫌だった。


 西野は救われた。


 西野は感謝した。


 俺は、また形を与えられた。


 その全部の根に、河合の死がある。


 陽菜は西野の言葉を聞いて、少しだけ唇を噛んだ。


「私も」


 陽菜は小さく言った。


「分からないです」


 西野は頷いた。


「でも」


 陽菜はそこで止まる。


 その先を言ったら、何かが変わる。


 そんな顔だった。


 それでも、言った。


「助かってよかったとは、思います」


 西野の目が潤む。


「うん」


「でも、怖いです」


「うん」


「人が死んで助かったことも」


 陽菜はゆっくり言った。


「それを、誰かが助けてくれたのかもしれないって思うことも」


 西野は何も言わなかった。


 陽菜は続ける。


「もし本当に、何かいるなら」


 俺は動きを止めた。


「それが悪いものじゃないといいです」


 俺は、何も言えなかった。


 悪いものじゃない。


 そう願われている。


 だが俺は、もう二人殺している。


 魂まで消している。


 悪いものじゃないはずがない。


◇


 夜、陽菜は仏壇の前に座っていた。


 部屋の電気はついている。テレビは消えている。スマホはテーブルに伏せられている。食卓には、食べかけの惣菜パンが一つ置かれていた。


 俺は遺影の横に立っていた。


 陽菜はしばらく何も言わなかった。


 それから、小さく口を開く。


「お父さん」


 俺はすぐ隣にいる。


「もし、お父さんが何かできるなら」


 胸の奥が固まった。


「まず私に、いるって言ってくれるもんね」


 俺は何も言えなかった。


 言えない。


 それだけのことが、これほど残酷だとは思わなかった。


「夢でもいいから、来てくれるもんね」


 違う。


 行けるなら行く。


 どんな形でもいいなら、いくらでも行く。


「お父さんなら、私のこと、怖がらせないもんね」


 違う。


 そう言いたかった。


 怖がらせているのは俺だ。


 助けているのも俺だ。


 でも、どちらも伝えられない。


 陽菜は遺影の少し上を見た。


 父親の話をした直後に、父親ではない何かを探している。


 そのずれが痛かった。


「誰か分からないけど」


 小さな声だった。


「西野さんを助けてくれて、ありがとうございました」


 その言葉が落ちた瞬間、消えかけていた身体の境界が戻った。


 感謝だった。


 陽菜からの。


 父親ではない何かへ向けた、感謝。


 その言葉が、俺をこの部屋に留めた。


 それでも、陽菜との距離は少しも縮まらない。


 陽菜は泣きながら手を合わせていた。


「もし本当にいるなら」


 祈るような声だった。


「どうか、悪いものじゃありませんように」


 俺は遺影の横に立っていた。


 悪いものじゃない。


 そう願われている。


 だが俺は今日、人を殺した。


 また一人、魂ごと消した。


 西野は救われた。


 陽菜も守れた。


 その結果、陽菜は俺ではない何かに感謝し始めている。


 神様ではない。


 守護霊でもない。


 俺はただの父親だった。


 そして今は、悪霊だった。


◇


 翌朝、陽菜は下駄箱の前で立ち止まった。


 上履きの上に、折り畳まれた紙が置かれていた。


 差出人の名前はない。


 陽菜は周囲を見てから、その紙を開く。


 震えた字で、短く書かれていた。


『河合先輩のことで、私も話したいことがあります』


 陽菜の顔から色が引いた。


 俺はその文字を見ていた。


 昨日までとは違う。


 神様にお願いしたい。


 そう書かれていたわけではない。


 それでも、同じ場所へ向かっているのが分かった。


 河合によって傷つけられた誰かが、陽菜のところへ来ようとしている。


 西野が助かったから。


 河合がいなくなったから。


 阿久津陽菜が、その場にいたから。


 それだけで十分だった。


 陽菜が望むより先に。


 俺が止めるより先に。


 誰かが、陽菜の向こうに救いを見始めていた。

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