第16話 神様
警察は、陽菜と西野にも事情を聞いた。
相談室で何があったか。河合が何を言ったか。なぜ彼が一人で階段へ走ったのか。
防犯映像には、河合が誰もいない場所を見て怯え、後ずさり、手すりの向こうへ落ちる姿しか残っていなかった。押した手も、第三者の影もない。
佐伯の転落と似ている、と気づいた者もいた。
二件とも不自然だった。二件とも、立件はできなかった。
その結論は噂を消さなかった。むしろ、証拠に映らない何かがいるという話へ、輪郭を与えた。
河合悠斗の死は、最初、悲しまれた。
当然だった。
あいつは、表向きは優等生だった。先生に信頼され、後輩に慕われ、相談室の手伝いまでしていた。廊下を歩けば誰かに声をかけられ、困っている生徒がいれば自然に立ち止まる。
そういう人間として見られていた。
だから河合が校舎の階段から落ちて死んだ翌日、学校はひどく静かだった。
昇降口でも、教室でも、廊下でも、誰もが声を落としていた。
「河合先輩、なんで」
「昨日まで普通だったのに」
「相談室の近くだったんでしょ」
「事故って聞いたけど」
「自分で落ちるような人じゃないよね」
噂は、まだ河合を惜しむ形をしていた。
陽菜は、その中にいた。
席に座り、ノートを開き、教師の声を聞いている。けれど、何一つ頭に入っていないようだった。ペン先は同じ場所で止まり、黒板の文字だけが増えていく。
俺は教室の外に立っていた。
入らなかった。
昨日、俺はこの学校で人を殺した。
廊下を歩く生徒の足音も、教師の声も、窓から差し込む朝の光も、何も変わっていない。変わっていないから、余計におかしかった。
河合悠斗は死んだ。
俺が殺した。
魂まで消した。
なのに学校は、静かになっただけで続いている。
授業があり、出席確認があり、宿題が出て、昼休みが来る。
人が一人死んでも、世界は止まらない。
佐伯の時もそうだった。
俺の時も、そうだった。
◇
午前中、陽菜は何度も西野教室へ行った。
西野は学校に来ていた。
来なくてもよかったはずだ。むしろ、休んだ方が自然だった。昨日、河合が死んだ場所にいたのだから。自分を脅していた相手が目の前で死んだのだから。
西野は、机に座っていた。
顔色は悪い。目元は赤い。教師に声をかけられるたびに小さく頷き、周囲の視線を避けるように俯いている。
昼休みになっても、西野は席を立たなかった。
陽菜も声をかけれなかった。
教室の中では、小さな声が行き交っていた。
「西野先輩、昨日一緒にいたんだって」
「阿久津さんもいたらしいよ」
「河合先輩、相談室で何か揉めてたのかな」
「でも河合先輩が誰かと揉めるとかある?」
「ないでしょ」
「阿久津さんって、ほら、お父さんの事故の」
「ああ、英雄の娘」
「何か続くね」
何か続く。
その言葉に、陽菜の肩がわずかに揺れた。
続いている。
確かに、続いている。
佐伯が死んだ。
陽菜が助かった。
河合が死んだ。
西野が助かった。
どちらも事故として処理された。どちらも偶然に見える。けれど、陽菜の周りだけで、都合よく怖いものが消えている。
そう見えてしまう。
俺は廊下に立ったまま、自分の手を見た。
佐伯を押した手。
河合を掴んだ手。
その手は、今は何にも触れない。
陽菜の肩にも、涙にも、机の上のパンにも触れない。
壊す時だけ届く。
殺す時だけ届く。
それが、俺に許された父親の形だった。
◇
河合の意味が変わり始めたのは、その日の午後だった。
最初は、一つの噂だった。
「河合先輩のスマホ、警察が見てるらしいよ」
それだけなら、事故の調査として当然だった。
だが、次に出た噂は違った。
「相談室の子の写真、出てきたらしい」
誰かが言った。
「金のやり取りもあったって」
「うそ」
「西野先輩だけじゃないって」
「家出してた子とか、親に言えない子とか」
「河合先輩、そういう子に相談乗ってたんじゃないの?」
「相談っていうか」
言いかけて、その子は黙った。
まだ言葉にできない。
まだ誰も、河合を完全に悪人とは言えない。昨日まで優しい先輩だった。先生に頼られていた。相談室の手伝いをしていた。そんな人間が、弱っている生徒を選んでいたなんて、すぐには受け入れられない。
けれど噂は広がる。
河合のスマホ。
メッセージ。
写真。
金。
家に帰りたくない子。
親に知られたくない子。
相談室。
断片だけが、廊下を渡っていく。
公式な説明はなかった。
教師たちは何も言わない。生徒には余計な噂をしないよう注意があった。警察のことも、河合のスマホのことも、誰もはっきり話さない。
それでも、生徒は知る。
誰かが見た画面。
誰かが聞いた言葉。
誰かがずっと言えなかったこと。
河合が死んだことで、口を塞いでいたものが少しずつ剥がれていく。
「私も、相談室で話したことある」
放課後前、廊下の隅で一年生の女子がそう言った。
陽菜は偶然、その声を聞いた。
女子は友達らしい子に囲まれて、泣きそうな顔をしていた。
「河合先輩、優しかった。でも、あとから何回も連絡来て。最初は心配してくれてるんだと思ったけど」
「何されたの」
「分かんない。私、逃げたから」
女子は袖で目元を拭った。
「でも西野先輩、逃げられなかったんだと思う」
陽菜は立ち止まっていた。
俺も、同じ場所にいた。
河合悠斗。
優しい先輩。
相談室のボランティア。
助けを求めた子の名前を覚えていた男。
弱いところも、家の事情も、誰に知られたくないかも覚えていた男。
死んだことで、ようやくその輪郭が学校に見え始めている。
生きている間は、優しい顔で隠れていたものが。
◇
放課後、西野が陽菜を呼び止めた。
場所は、屋上へ続く階段の踊り場だった。
最初に二人が出会った場所に近い。昼休みの声はもうなく、窓の外には夕方の校庭が見えている。部活の掛け声が遠くから聞こえた。
西野はしばらく何も言わなかった。
陽菜も待った。
俺は二人の少し離れたところに立っていた。
「阿久津さん」
西野がようやく言った。
「昨日のこと」
陽菜の手が、制服のポケットを押さえた。
そこには、くしゃくしゃになった紙があるはずだった。
西野さんの名前は出さない。
河合先輩と二人きりにしない。
相談室に先生を呼ぶ。
録音はしない。勝手に撮らない。
誰かを傷つけないために書いた、小さな決まり。
だが、河合は死んだ。
「阿久津さんが何かしたなんて思ってない」
西野は言った。
陽菜が顔を上げる。
西野は、そこで一度切った。
息を吸う。
震えていた。
「でも、助かったって思ってしまう」
陽菜は、その言葉を否定できなかった。
俺も、できなかった。
「河合先輩が死んだのに」
西野の声は小さかった。
「人が死んだのに」
陽菜の目が揺れる。
「怖かった。ずっと怖かった。スマホが鳴るたびに、息が止まるみたいで。学校でも、家でも、どこにいても、見られてる気がして」
西野は階段の手すりを握った。
「昨日、河合先輩が倒れてるのを見た時、怖かった」
そこで言葉が詰まる。
「でも、それより先に」
西野は泣きそうな顔で笑った。
「もう来ないんだって思った」
陽菜は何も言わない。
「もう連絡来ない。もう呼ばれない。もう誰かを紹介しろって言われない。もう写真のこと言われない」
涙が落ちた。
「そう思ったら、息ができた」
陽菜の顔が歪んだ。
それは、知っている感情だった。
佐伯健吾が死んだ時。
陽菜も、助かったと思った。
怖かった相手が消えた。
もう来ない。
もうドアを叩かれない。
もうスマホに名前が出ない。
その安心が先に来て、あとから人が死んだことへの罪悪感が追いかけてくる。
陽菜は、その苦しさを知っている。
だから、西野の言葉を否定できない。
「最低だよね」
西野は言った。
陽菜は首を振ろうとした。
でも、途中で止まった。
簡単に「最低じゃない」と言えば、西野は少し楽になるかもしれない。けれどそれは、陽菜自身が自分にまだ言えていない言葉だった。
佐伯の死に安心した自分を、陽菜はまだ許せていない。
だから、西野だけを許す言葉を持てなかった。
「私も」
陽菜はようやく言った。
声は掠れていた。
「そういうの、分かります」
西野が顔を上げる。
「前に、怖い人がいて」
佐伯の名前は出さなかった。
出せなかったのだと思う。
「その人がいなくなって、安心したことがあるから」
西野は黙って聞いていた。
「人が死んだのに、安心するのって、変だと思ってました」
陽菜は膝の上で手を握る。
「でも、安心しちゃうんです」
西野の涙がまた落ちた。
「うん」
「だから」
陽菜は言葉を探した。
「最低かどうかは、分かりません」
西野が少しだけ目を見開く。
「ごめんなさい。最低じゃないって、ちゃんと言えたらいいんですけど」
陽菜の声も震えていた。
「でも、私はまだ、自分にも言えてないから」
その正直さが、かえって西野に届いたのだと思う。
西野は泣きながら、小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
二人は、しばらく階段の踊り場にいた。
泣き合うわけでもない。
語り合うわけでもない。
ただ、それぞれが人の死に安心してしまった罪悪感を、同じ場所に置いていた。
俺は二人の近くに立っていた。
俺が殺した。
その言葉だけが、何度も浮かんだ。
佐伯も。
河合も。
俺が殺した。
その結果、陽菜と西野は助かった。
助かったせいで、人の死に安心してしまった自分を責めている。
俺は娘を守った。
同時に、娘へまた一つ罪悪感を増やした。
◇
翌日、河合の噂はさらに変わった。
悲しみより、戸惑いの方が大きくなっていた。
「河合先輩、何人かの弱み握ってたらしい」
「相談室で?」
「先生は知らなかったのかな」
「先生の前ではいい人だったんでしょ」
「西野先輩だけじゃないって」
「じゃあ、死んでよかったってこと?」
「それは違うでしょ」
「でも、助かった人いるんじゃないの」
助かった人。
その言葉が、廊下に落ちる。
誰も拾わない。
拾ったら、自分が悪い人間になる気がするからだ。
だが、みんな心のどこかで思っている。
河合が死んだことで、助かった人がいる。
その事実は、否定しにくい。
陽菜はその言葉を聞くたびに、少しだけ顔を伏せた。
西野も同じだった。
そして、それを見ている生徒がいた。
名前も知らない女子だった。廊下の掲示板の前で、陽菜と西野をじっと見ていた。やがてその子は、友達に小さく言った。
「阿久津さんがいたからじゃない?」
友達が眉をひそめる。
「何が」
「河合先輩のこと」
「やめなよ、そういうの」
「でも、あの半グレの先輩の友達、佐伯って人が手を出そうとした時もそうだったらしい」
陽菜の身体が固まった。
佐伯の名前。
学校の中にまで流れている。
ニュースか、噂か、誰かのSNSか。父親を亡くした英雄の娘。親切な大人が近付いた。けれど、その大人は事故で死んだ。そんな断片が、陽菜の知らないところでつながっている。
「阿久津さん、何かに守られてるんじゃないの」
「何それ」
「守護霊とか」
「お父さん?」
「でも、お父さんなら、もっと分かりやすく出てくるんじゃない?」
その言葉で、陽菜の顔が小さく歪んだ。
俺も動けなかった。
出ていきたかった。
ここにいる。
父親だ。
俺がやった。
全部、俺だ。
そう叫びたかった。
だが、声は届かない。
「神様みたいな?」
誰かが冗談めかして言った。
軽い声だった。
深い意味はなかったのかもしれない。
それでも、その言葉は初めて形を持って、陽菜の耳に届いた。
神様。
陽菜は何も言わなかった。
西野が、その子たちを睨むように見た。
「そういうこと言わないで」
声は小さかったが、強かった。
女子たちは気まずそうに顔を逸らした。
「ごめん」
「別に、本気で言ったわけじゃ」
そう言って、去っていく。
本気ではない。
だからこそ厄介だった。
本気ではない言葉ほど、簡単に出る。
簡単に出た言葉ほど、止める前に広がる。
神様。
その言葉は、陽菜の近くに置かれた。
まだ信仰ではない。
まだ冗談だ。
まだ噂だ。
だが、言葉は置かれた。
◇
その日の帰り、陽菜は西野と一緒に校門を出た。
二人とも、ほとんど話さなかった。
並んで歩いている。
少し前まで、西野は一人で怯えていた。陽菜は一人で父親を失っていた。今は、同じ罪悪感を知ってしまった二人が、言葉の少ない距離で歩いている。
それが救いなのかどうか、俺には分からなかった。
駅前で、西野が立ち止まった。
「阿久津さん」
「はい」
「神様とか、そういうの」
西野は言いにくそうに口を開いた。
「私は、分からない」
「……はい」
「でも、昨日」
西野は鞄の持ち手を握った。
「誰かが見てくれてたのかなって、少し思った」
陽菜の顔が強張る。
「ごめん。変なこと言ってるのは分かってる」
「いえ」
「河合先輩が死んでよかったって、言いたいわけじゃない」
「分かります」
「でも、あのままだったら、私、たぶん壊れてた」
陽菜は何も言えなかった。
「だから」
西野は少しだけ迷って、言った。
「助けてくれた何かがあるなら、私は、感謝してる」
その言葉のあと、雑踏の中で自分の位置が急にはっきりした。
西野からの感謝だった。
俺の名前を知らないまま、俺へ向けられた感謝。
園児の母親たちのものとは違う。もっと苦く、震えていて、罪悪感を含んでいた。
それでも、俺は確かにそこにいた。
そのことが、たまらなく嫌だった。
西野は救われた。
西野は感謝した。
俺は、また形を与えられた。
その全部の根に、河合の死がある。
陽菜は西野の言葉を聞いて、少しだけ唇を噛んだ。
「私も」
陽菜は小さく言った。
「分からないです」
西野は頷いた。
「でも」
陽菜はそこで止まる。
その先を言ったら、何かが変わる。
そんな顔だった。
それでも、言った。
「助かってよかったとは、思います」
西野の目が潤む。
「うん」
「でも、怖いです」
「うん」
「人が死んで助かったことも」
陽菜はゆっくり言った。
「それを、誰かが助けてくれたのかもしれないって思うことも」
西野は何も言わなかった。
陽菜は続ける。
「もし本当に、何かいるなら」
俺は動きを止めた。
「それが悪いものじゃないといいです」
俺は、何も言えなかった。
悪いものじゃない。
そう願われている。
だが俺は、もう二人殺している。
魂まで消している。
悪いものじゃないはずがない。
◇
夜、陽菜は仏壇の前に座っていた。
部屋の電気はついている。テレビは消えている。スマホはテーブルに伏せられている。食卓には、食べかけの惣菜パンが一つ置かれていた。
俺は遺影の横に立っていた。
陽菜はしばらく何も言わなかった。
それから、小さく口を開く。
「お父さん」
俺はすぐ隣にいる。
「もし、お父さんが何かできるなら」
胸の奥が固まった。
「まず私に、いるって言ってくれるもんね」
俺は何も言えなかった。
言えない。
それだけのことが、これほど残酷だとは思わなかった。
「夢でもいいから、来てくれるもんね」
違う。
行けるなら行く。
どんな形でもいいなら、いくらでも行く。
「お父さんなら、私のこと、怖がらせないもんね」
違う。
そう言いたかった。
怖がらせているのは俺だ。
助けているのも俺だ。
でも、どちらも伝えられない。
陽菜は遺影の少し上を見た。
父親の話をした直後に、父親ではない何かを探している。
そのずれが痛かった。
「誰か分からないけど」
小さな声だった。
「西野さんを助けてくれて、ありがとうございました」
その言葉が落ちた瞬間、消えかけていた身体の境界が戻った。
感謝だった。
陽菜からの。
父親ではない何かへ向けた、感謝。
その言葉が、俺をこの部屋に留めた。
それでも、陽菜との距離は少しも縮まらない。
陽菜は泣きながら手を合わせていた。
「もし本当にいるなら」
祈るような声だった。
「どうか、悪いものじゃありませんように」
俺は遺影の横に立っていた。
悪いものじゃない。
そう願われている。
だが俺は今日、人を殺した。
また一人、魂ごと消した。
西野は救われた。
陽菜も守れた。
その結果、陽菜は俺ではない何かに感謝し始めている。
神様ではない。
守護霊でもない。
俺はただの父親だった。
そして今は、悪霊だった。
◇
翌朝、陽菜は下駄箱の前で立ち止まった。
上履きの上に、折り畳まれた紙が置かれていた。
差出人の名前はない。
陽菜は周囲を見てから、その紙を開く。
震えた字で、短く書かれていた。
『河合先輩のことで、私も話したいことがあります』
陽菜の顔から色が引いた。
俺はその文字を見ていた。
昨日までとは違う。
神様にお願いしたい。
そう書かれていたわけではない。
それでも、同じ場所へ向かっているのが分かった。
河合によって傷つけられた誰かが、陽菜のところへ来ようとしている。
西野が助かったから。
河合がいなくなったから。
阿久津陽菜が、その場にいたから。
それだけで十分だった。
陽菜が望むより先に。
俺が止めるより先に。
誰かが、陽菜の向こうに救いを見始めていた。




