第17話 相談
河合悠斗が死んでから、学校の空気は少し変わった。
最初に変わったのは、声の大きさだった。
それまで河合の名前は、明るい声で呼ばれていた。
先輩。
河合くん。
悠斗。
優しい人。
面倒見のいい人。
誰にでも声をかけられる人。
廊下でその名前が出る時、誰かが必ず周囲を見るようになった。声を落とし、口元を手で隠し、聞かれてはいけない話のように扱う。
いい先輩は嘘だったらしい。
先生たちが何人か呼ばれているらしい。
嘘か本当か確かめようのない噂もあった。尾ひれもついている。死人は反論できない。生きている者は、自分に都合のいい形で死人を語る。
河合が何をしていたか。
河合が誰を見ていたか。
誰を選び、誰を逃がさなかったか。
俺が殺した。
陽菜の教室の前に、一年の女子が立っていた。
俺は一度だけ見ている。河合の件で西野美咲が泣いていた時、廊下の端に立っていた子だ。目立つ子ではない。髪は肩より少し下。制服はきちんと着ている。スカートの丈も、リボンの結び方も、校則の枠内に収まっている。
皮をむしる癖がある。
それだけで、その子が何かを抱えていると分かるほど、俺はもう学校という場所に慣れてしまっていた。
「阿久津さん」
宮原は、教室の入口から小さく声をかけた。
陽菜は弁当箱を鞄へしまう手を止め、顔を上げた。
「えっと……」
「宮原です。一年の」
「うん」
「少し、いいですか」
最近、陽菜は誰かに声をかけられるたび、少しだけ身構える。礼を言われるのか。責められるのか。何かを求められるのか。相手の目を見て、それを確かめようとする。
俺はそれを見るたびに、胸の奥が冷える。
「あの、すぐ終わります」
宮原は、両手で包むようにスマホを持っていた。画面は点いていない。握りしめているだけだ。爪の先が白くなっている。
「ここでいい?」
陽菜が聞くと、宮原は首を横に振った。
「できれば、人のいないところで」
陽菜の肩が、ほんの少し硬くなった。
佐伯のことがあってから、陽菜は「二人きり」という言葉を避けるようになった。本人は意識していないかもしれない。だが、体が覚えている。
「……誰か、呼んでもいい?」
「誰かって」
「西野先輩」
その名前を聞いて、宮原は少しだけ目を伏せた。
河合の件で、西野が何をされたのか。
全部ではなくても、この子は知っている。
「……西野先輩なら」
「いてほしいです」
昼休みの終わりが近い。別学年の教室は別の階にある。すぐに呼べる距離ではない。けれど、河合の件以来、西野は昼休みになると、陽菜の教室の近くまで来ることが増えていた。
陽菜を見張っているわけではない。
たぶん本人は、そう言う。
でも、陽菜を一人にしないようにしている。
少しして、西野が階段の方から姿を見せた。
「阿久津さん」
西野は、宮原の顔を見て足を止めた。
「……何かあった?」
「西野先輩も、聞いてもらっていいですか」
西野は陽菜を見た。
「人のいないところで話したいって」
西野の顔が少し険しくなる。
「じゃあ、三人で行こう」
宮原は、ほっとしたように息を吐いた。
廊下では、河合の噂がまだ薄く漂っていた。誰かの笑い声が急に止まる。誰かの視線が陽菜へ向く。陽菜は気付かないふりをする。西野は気付いて、睨む。宮原は俯いたまま歩く。
図書室の奥にある小さな閲覧席へ向かった。昼休みの終わりが近く、人はほとんどいない。図書委員がカウンターで本のバーコードを読み取っている。窓の外には運動場が見えた。
陽菜たちは一番奥の席に座った。
宮原はなかなか話し始めなかった。
昔から、陽菜はそういうところがあった。誰かが言葉を探している時、待つ。俺なら「どうした」と聞いてしまう。陽菜は待つ。たぶん、それで救われる人間がいる。
だから狙われる。
「河合先輩のことで」
宮原がようやく言った。
陽菜の指が、膝の上で小さく動いた。
西野の顔も変わる。
「私、先輩に、写真を送ってました」
宮原の声は小さかった。
「撮られたんじゃないです。無理やりじゃないです。私が、自分で送りました」
「最初は、普通の写真でした。部活の帰りに撮ったやつとか、家で撮った自撮りとか。今日の髪型どうですか、みたいな。本当に、そういうやつです」
宮原は、スマホを握る手に力を込めた。
「でも、だんだん、河合先輩が言うんです。もっと可愛いの送って、とか。俺だけに見せて、とか。付き合ってるわけじゃないのに、そういうこと言われて」
西野の手が、机の下で握られる。
「私、先輩のこと、好きだったんです」
宮原は、そこだけ早口になった。
「だから、断れなくて。送ったら、褒めてくれて。可愛いって。俺だけが分かってるって。そう言われたら、嬉しくて」
「馬鹿ですよね」
誰も答えなかった。
「その写真と、メッセージが残ってるんです。私が自分から送ったって分かるやつ。好きですって送ったのも、残ってると思います」
「……河合は、それで脅してたの?」
西野が低く聞いた。
「言うこと聞かなかったら、みんなに見せるって。私が河合先輩にしつこくしてたことにするって。勘違い女だったって、笑い者にするって」
陽菜の顔が強張った。
「河合先輩が死んで、もう大丈夫だと思ったんです。でも」
宮原はスマホを机に置いた。画面は伏せられている。まるで、それ自体が汚いものみたいに。
「昨日、知らないアカウントから連絡が来ました」
「写真、まだ残ってるって。河合先輩から預かってたって。黙っててほしかったら、来いって」
「どこに」
西野が聞いた。
「部室棟の裏の、倉庫です。今日の放課後」
「先生に言った?」
陽菜が言った。
「言えないです」
「でも、言った方がいい。脅されてるんだよね。先生か、警察に」
「言ったら、写真を出すって」
「だから、なおさら」
「違うんです」
「先生に見られるのも嫌なんです。親に知られるのも嫌なんです。私が、河合先輩にそういう顔してたって。好きですとか、会いたいですとか、自分から送ってたって」
「脅された写真じゃないんです。私が送ったんです。だから、言えないんです」
「阿久津さん」
宮原の声が震えた。
「私、阿久津さんなら、何とかしてくれるって聞いて」
空気が変わった。
ただ、追い詰められた子どもが、追い詰められた別の子どもに手を伸ばしただけだ。
「……私は」
陽菜はすぐに言った。
「私は、何もできないよ」
「河合先輩のことも、私は何もしてない。西野先輩のことだって、私は」
「でも、西野先輩は助かった」
宮原は言った。
「河合先輩、死んだじゃないですか」
陽菜の顔から血の気が引いた。
俺は、宮原を見た。
違う。
この子は、陽菜を責めているわけではない。河合が死んでよかったと言いたいわけでもない。そんな強い言葉を扱える状態ではない。
自分を脅していた人間が死んだ。
それでもまだ、何かが残っている。
なら、自分はどこへ助けを求めればいいのか。
その答えとして、陽菜の名前を聞いてしまった。
「私は、河合先輩に死んでほしかったわけじゃないです。でも、死んだら終わると思ってました。でも終わってなくて」
「阿久津さんに話したら、何か変わるかもしれないって」
「……変わらないよ」
「でも」
「変わらない」
「私は神様じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、俺は目を閉じたくなった。
違う。
ここにいるのは神様じゃない。
父さんだ。
そう言いたかった。
「先生に言おう」
陽菜は言った。
「今から一緒に行く。西野先輩もいる。私も行くから」
宮原は泣きそうな顔で首を振る。
「でも、写真が」
「一人で行ったら、もっと危ないよ」
「でも」
「宮原さん」
陽菜は、宮原のスマホではなく、宮原の顔を見た。
「怖いなら、一緒に行く。でも、私に何かを起こしてほしいって思わないで」
「私は、本当に何もできないから」
陽菜は何もできない。
人を呪うことも、罰することも、救うこともできない。十五歳の娘だ。弁当箱を洗い忘れて、俺に小言を言われていた子だ。テスト前に夜更かしして、朝に眠そうな顔で味噌汁を飲んでいた子だ。
宮原は、少しだけ安心した顔をした。
「でも、一緒に来てくれるんですよね」
「先生のところへ行く。今すぐ」
「放課後まで待たない方がいい」
陽菜もそう言った。
宮原は、スマホを握り直した。
「はい」
図書室の空気が、日常に戻る音だった。図書委員が顔を上げ、遠くで誰かが椅子を引く。廊下から足音が増える。
宮原は立ち上がろうとして、ふらついた。
陽菜が手を伸ばしかける。
俺は触れられない。
その差が、たまらなく苦しかった。




