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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第4章 列

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第17話 相談

河合悠斗が死んでから、学校の空気は少し変わった。


最初に変わったのは、声の大きさだった。


それまで河合の名前は、明るい声で呼ばれていた。


先輩。

河合くん。

悠斗。

優しい人。

面倒見のいい人。

誰にでも声をかけられる人。


廊下でその名前が出る時、誰かが必ず周囲を見るようになった。声を落とし、口元を手で隠し、聞かれてはいけない話のように扱う。


いい先輩は嘘だったらしい。


先生たちが何人か呼ばれているらしい。


嘘か本当か確かめようのない噂もあった。尾ひれもついている。死人は反論できない。生きている者は、自分に都合のいい形で死人を語る。


河合が何をしていたか。

河合が誰を見ていたか。

誰を選び、誰を逃がさなかったか。


俺が殺した。


陽菜の教室の前に、一年の女子が立っていた。


俺は一度だけ見ている。河合の件で西野美咲が泣いていた時、廊下の端に立っていた子だ。目立つ子ではない。髪は肩より少し下。制服はきちんと着ている。スカートの丈も、リボンの結び方も、校則の枠内に収まっている。


皮をむしる癖がある。


それだけで、その子が何かを抱えていると分かるほど、俺はもう学校という場所に慣れてしまっていた。


「阿久津さん」


宮原は、教室の入口から小さく声をかけた。


陽菜は弁当箱を鞄へしまう手を止め、顔を上げた。


「えっと……」


「宮原です。一年の」


「うん」


「少し、いいですか」


最近、陽菜は誰かに声をかけられるたび、少しだけ身構える。礼を言われるのか。責められるのか。何かを求められるのか。相手の目を見て、それを確かめようとする。


俺はそれを見るたびに、胸の奥が冷える。


「あの、すぐ終わります」


宮原は、両手で包むようにスマホを持っていた。画面は点いていない。握りしめているだけだ。爪の先が白くなっている。


「ここでいい?」


陽菜が聞くと、宮原は首を横に振った。


「できれば、人のいないところで」


陽菜の肩が、ほんの少し硬くなった。


佐伯のことがあってから、陽菜は「二人きり」という言葉を避けるようになった。本人は意識していないかもしれない。だが、体が覚えている。


「……誰か、呼んでもいい?」


「誰かって」


「西野先輩」


その名前を聞いて、宮原は少しだけ目を伏せた。


河合の件で、西野が何をされたのか。

全部ではなくても、この子は知っている。


「……西野先輩なら」


「いてほしいです」


昼休みの終わりが近い。別学年の教室は別の階にある。すぐに呼べる距離ではない。けれど、河合の件以来、西野は昼休みになると、陽菜の教室の近くまで来ることが増えていた。


陽菜を見張っているわけではない。

たぶん本人は、そう言う。


でも、陽菜を一人にしないようにしている。


少しして、西野が階段の方から姿を見せた。


「阿久津さん」


西野は、宮原の顔を見て足を止めた。


「……何かあった?」


「西野先輩も、聞いてもらっていいですか」


西野は陽菜を見た。


「人のいないところで話したいって」


西野の顔が少し険しくなる。


「じゃあ、三人で行こう」


宮原は、ほっとしたように息を吐いた。


廊下では、河合の噂がまだ薄く漂っていた。誰かの笑い声が急に止まる。誰かの視線が陽菜へ向く。陽菜は気付かないふりをする。西野は気付いて、睨む。宮原は俯いたまま歩く。


図書室の奥にある小さな閲覧席へ向かった。昼休みの終わりが近く、人はほとんどいない。図書委員がカウンターで本のバーコードを読み取っている。窓の外には運動場が見えた。


陽菜たちは一番奥の席に座った。


宮原はなかなか話し始めなかった。


昔から、陽菜はそういうところがあった。誰かが言葉を探している時、待つ。俺なら「どうした」と聞いてしまう。陽菜は待つ。たぶん、それで救われる人間がいる。


だから狙われる。


「河合先輩のことで」


宮原がようやく言った。


陽菜の指が、膝の上で小さく動いた。


西野の顔も変わる。


「私、先輩に、写真を送ってました」


宮原の声は小さかった。


「撮られたんじゃないです。無理やりじゃないです。私が、自分で送りました」


「最初は、普通の写真でした。部活の帰りに撮ったやつとか、家で撮った自撮りとか。今日の髪型どうですか、みたいな。本当に、そういうやつです」


宮原は、スマホを握る手に力を込めた。


「でも、だんだん、河合先輩が言うんです。もっと可愛いの送って、とか。俺だけに見せて、とか。付き合ってるわけじゃないのに、そういうこと言われて」


西野の手が、机の下で握られる。


「私、先輩のこと、好きだったんです」


宮原は、そこだけ早口になった。


「だから、断れなくて。送ったら、褒めてくれて。可愛いって。俺だけが分かってるって。そう言われたら、嬉しくて」


「馬鹿ですよね」


誰も答えなかった。


「その写真と、メッセージが残ってるんです。私が自分から送ったって分かるやつ。好きですって送ったのも、残ってると思います」


「……河合は、それで脅してたの?」


西野が低く聞いた。


「言うこと聞かなかったら、みんなに見せるって。私が河合先輩にしつこくしてたことにするって。勘違い女だったって、笑い者にするって」


陽菜の顔が強張った。


「河合先輩が死んで、もう大丈夫だと思ったんです。でも」


宮原はスマホを机に置いた。画面は伏せられている。まるで、それ自体が汚いものみたいに。


「昨日、知らないアカウントから連絡が来ました」


「写真、まだ残ってるって。河合先輩から預かってたって。黙っててほしかったら、来いって」


「どこに」


西野が聞いた。


「部室棟の裏の、倉庫です。今日の放課後」


「先生に言った?」


陽菜が言った。


「言えないです」


「でも、言った方がいい。脅されてるんだよね。先生か、警察に」


「言ったら、写真を出すって」


「だから、なおさら」


「違うんです」


「先生に見られるのも嫌なんです。親に知られるのも嫌なんです。私が、河合先輩にそういう顔してたって。好きですとか、会いたいですとか、自分から送ってたって」


「脅された写真じゃないんです。私が送ったんです。だから、言えないんです」


「阿久津さん」


宮原の声が震えた。


「私、阿久津さんなら、何とかしてくれるって聞いて」


空気が変わった。


ただ、追い詰められた子どもが、追い詰められた別の子どもに手を伸ばしただけだ。


「……私は」


陽菜はすぐに言った。


「私は、何もできないよ」


「河合先輩のことも、私は何もしてない。西野先輩のことだって、私は」


「でも、西野先輩は助かった」


宮原は言った。


「河合先輩、死んだじゃないですか」


陽菜の顔から血の気が引いた。


俺は、宮原を見た。


違う。


この子は、陽菜を責めているわけではない。河合が死んでよかったと言いたいわけでもない。そんな強い言葉を扱える状態ではない。


自分を脅していた人間が死んだ。

それでもまだ、何かが残っている。

なら、自分はどこへ助けを求めればいいのか。


その答えとして、陽菜の名前を聞いてしまった。


「私は、河合先輩に死んでほしかったわけじゃないです。でも、死んだら終わると思ってました。でも終わってなくて」


「阿久津さんに話したら、何か変わるかもしれないって」


「……変わらないよ」


「でも」


「変わらない」


「私は神様じゃない」


その言葉を聞いた瞬間、俺は目を閉じたくなった。


違う。


ここにいるのは神様じゃない。

父さんだ。


そう言いたかった。


「先生に言おう」


陽菜は言った。


「今から一緒に行く。西野先輩もいる。私も行くから」


宮原は泣きそうな顔で首を振る。


「でも、写真が」


「一人で行ったら、もっと危ないよ」


「でも」


「宮原さん」


陽菜は、宮原のスマホではなく、宮原の顔を見た。


「怖いなら、一緒に行く。でも、私に何かを起こしてほしいって思わないで」


「私は、本当に何もできないから」


陽菜は何もできない。

人を呪うことも、罰することも、救うこともできない。十五歳の娘だ。弁当箱を洗い忘れて、俺に小言を言われていた子だ。テスト前に夜更かしして、朝に眠そうな顔で味噌汁を飲んでいた子だ。


宮原は、少しだけ安心した顔をした。


「でも、一緒に来てくれるんですよね」


「先生のところへ行く。今すぐ」


「放課後まで待たない方がいい」


陽菜もそう言った。


宮原は、スマホを握り直した。


「はい」


図書室の空気が、日常に戻る音だった。図書委員が顔を上げ、遠くで誰かが椅子を引く。廊下から足音が増える。


宮原は立ち上がろうとして、ふらついた。


陽菜が手を伸ばしかける。


俺は触れられない。


その差が、たまらなく苦しかった。

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