第18話 相談会
放課後を待たず、陽菜たちは学年主任と生活指導の教師に話した。
教師たちは、最初は半信半疑だった。無理もない。河合の件で学校全体が揺れている。新しい火種を増やしたくない。しかも脅迫している相手は不明。証拠は、宮原のスマホに来たメッセージだけ。
送信元は捨てアカウントだった。プロフィールもない。画像もない。文章は短い。
放課後、倉庫裏。
来なかったら、河合から預かった写真を出す。
生活指導の教師は言った。
「これは、すぐ警察に相談した方がいいかもしれない」
宮原は青ざめた。
「でも、写真が」
「まず学校で確認する。君は一人で行かない。絶対に」
教師の言葉は正しかった。
相手が本当に来るなら、放課後を待つ必要はない。脅す側は、待ち合わせ場所を確認する。証拠を隠す。逃げ道を作る。
部室棟の裏は、校舎から少し死角になっていた。古い倉庫が三つ並んでいる。体育祭の道具、文化祭の看板、壊れた机、使わなくなった部品。そういうものが詰め込まれている場所だ。
倉庫の前に、男がいた。
三年の男子だ。名前は知らない。だが、河合と一緒にいたところを見たことがある。河合の周りで笑っていた一人。河合ほど目立たない。河合ほど好かれてもいない。ただ、河合の近くにいることで少しだけ大きく見えていた種類の人間だ。
正規の鍵ではない。古い南京錠に、針金のようなものを差し込んでいる。手慣れている。初めてではない。
男は周囲を見た。誰もいないと分かると、倉庫の扉を開けた。
木製の棚。段ボール。古いマット。立てかけられたパネル。壊れたパイプ椅子。埃とカビの匂い。
そこには、黒いビニール袋があった。棚の奥、板と壁の隙間に押し込まれている。普通に見ただけでは気づけない。河合が隠したのか、この男が隠したのかは判断できない。
一つではない。
茶封筒。
白い封筒。
折りたたんだ紙。
古いスマホ。
小さなメモ帳。
俺は、それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
まだだ。
「死んでも面倒くせえな、あいつ」
男は封筒を一つ開けた。中を見て、鼻で笑う。
「でも、使えるもん残してんじゃん」
こいつは、宮原を助けるためにここへ来たのではない。
証拠を処分するためでもない。
河合が残したものを、自分の道具として使うつもりで来た。
生きている人間の弱みを、死んだ人間から引き継ごうとしている。
俺は、棚を見た。
古い木の棚だった。腐りかけている。金具も緩んでいる。少し押せば、倒れるかもしれない。
宮原を助けたいだけなら、俺は何もできない。
陽菜を安心させたいだけなら、俺は何もできない。
壊したいと思った。
この棚を。
この隠し場所を。
この封筒を抱えて笑う男の逃げ道を。
重い。
だが、掴める。
佐伯を掴んだ時。
河合を殺した時。
俺は世界に触れた。
「は?」
男が立ち上がろうとする。遅い。棚の上段に積まれていた古い看板が滑り落ち、段ボールが崩れ、パイプ椅子が跳ねた。
「ぐあっ」
紙が床へ広がる。
写真。
名前。
学年。
部活。
短いメモ。
金額らしき数字。
誰と誰が仲がいいか。
誰の親が厳しいか。
誰が家に帰りたがらないか。
誰が先生に相談できないか。
好きです。
会いたいです。
先輩だけです。
誰にも言わないでください。
送った側の名前。
送った日付。
その時の相手の弱み。
あとでどう使えるか。
河合悠斗は、写真を集めていただけではなかった。
好意を集めていた。
孤独を集めていた。
誰かが誰かを好きだった時間まで、あとで脅しに使える形で残していた。
男は痛みに呻きながら、散らばった紙をかき集めようとした。
「くそ、何だよ、これ」
さらに奥から、古いスマホが滑り出た。
画面は点いていない。ロックもされている。俺には開けられない。開けることはできない。
だが、スマホには付箋が貼ってあった。
宮原。
西野。
真帆。
未送信あり。
使える順。
河合の字かどうかは確かめられない。
これは恋の記録ではない。
俺は、棚から落ちたパイプ椅子を弾いた。
椅子が床を滑り、男の手を打った。
「いっ、てえ!」
男が叫んだ。
陽菜もいた。
西野もいた。
宮原もいた。
倉庫の入り口で、生活指導の教師が立ち止まっていた。その後ろに学年主任。さらに後ろに陽菜たち。
男は床に座り込んだまま、顔をひきつらせる。
「いや、これは、違っ」
教師がすぐに男から封筒を取り上げた。生活指導の顔色が変わる。学年主任が宮原たちを下がらせる。誰かが職員室へ走る。誰かが警察という言葉を出す。
陽菜は、倉庫の入り口に立っていた。
宮原は泣いていた。
「……本当に、あった」
その声が、俺にはやけに大きく聞こえた。
宮原が、陽菜を見た。
「阿久津さん」
礼を言うな。
陽菜は何もしていない。
この子はただ、先生に言おうと言っただけだ。
一緒に行くと言っただけだ。
怖がる子を、見捨てなかっただけだ。
棚を倒したのも。
封筒を散らしたのも。
あの男の手を止めたのも。
「ありがとう」
宮原は泣きながら言った。
「阿久津さんに話して、よかった」
陽菜の顔が歪んだ。
「違う」
小さな声だった。
「違うよ。私は何も」
「でも」
宮原は涙を拭った。
「阿久津さんが、一緒に来てくれたから」
陽菜は一緒に来た。
教師に話した。
逃げなかった。
「……先生に言ったからだよ」
陽菜は、やっとそう言った。
「先生たちが来てくれたから」
「でも、阿久津さんが言ってくれたから」
宮原は同じことを言った。
陽菜は何もしていない。
陽菜は神ではない。
俺は、散らばった紙を見た。
ただ棚を壊しただけだ。
隠されていたものが外へ出ただけだ。
教師がそれを見つけただけだ。
それだけだ。
それだけなのに、陽菜を見る宮原の目には、もう別の光が宿っていた。
◇
その日のうちに、河合の件はさらに大きくなった。
学校は保護者へ連絡した。警察も来た。宮原は別室で話を聞かれた。西野も呼ばれた。あの三年の男子は、泣きながら自分は関係ないと言っていたが、倉庫の鍵を勝手に開け、封筒を持ち出そうとしていた時点で苦しかった。
河合が残したものは、教師たちの顔色を変えるには十分だった。
名前のリスト。
弱みのメモ。
金の貸し借りらしき記録。
連絡先。
部活名。
家庭環境。
誰が誰に相談しているか。
好きです。
会いたいです。
先輩だけです。
誰にも言わないでください。
学校という場所の中で、子どもが子どもを選別し、支配していた痕跡。
それを見た大人たちは、今さら深刻な顔をした。
いつも遅い。
だが、完全に遅すぎたわけではなかった。宮原はまだ生きている。西野もいる。名前のあった何人かは、これから呼ばれるだろう。助かる人間もいるかもしれない。
俺が壊したことで、誰かが助かる。
それは確かにある。
だが、そのたびに陽菜が見られる。
その日の夕方、職員室の入口に、河合の母親と姉らしい女性が来た。
二人は遺品を受け取りに来ただけだった。だが、廊下では生徒が立ち止まり、誰かが遠くからスマホを向けた。
「あの河合の家族」
姉は何も言わず、母親の前に立ってカメラを隠した。河合がしたことを知らなかった顔ではない。知っていても、弟の死と家族への晒しを同じものとは思えない顔だった。
俺は一瞬だけ見た。そして、陽菜の方へ戻った。
河合の周りで何が壊れ始めたかより、娘が次に誰から頼られるかを気にした。
見えなかったのではない。見ない方を選んだ。
夕方、陽菜は職員室前の廊下に座っていた。
西野が隣にいた。
宮原はまだ中にいる。事情を聞かれているのだろう。泣いてはいたが、さっきより呼吸は落ち着いていた。大人が動いた。それだけで、子どもは少し息ができる。
陽菜は膝の上で手を握っていた。
「私、何もしてないのに」
西野はしばらく黙っていた。
「うん」
「本当に、何もしてない」
「うん」
「先生に言おうって言っただけ」
「それは、した」
陽菜が西野を見る。
西野はまっすぐ前を見たまま言った。
「それは、したよ」
陽菜は何か言おうとして、やめた。
「阿久津さんが言わなかったら、宮原さん、一人で行ってたかもしれない」
「でも、証拠が出たのは、私じゃないです」
「それは分からない」
「分からないって何ですか」
「分からないよ」
西野の声は、優しいわけではなかった。だが、嘘はなかった。
「私だって、分からない。河合が死んで、助かった。助かったって思った。でも、それが何なのか、分からない」
陽菜の顔が強張る。
西野は続けた。
「阿久津さんがやったなんて思ってない。でも、阿久津さんの周りで何かが起きてるって思う人は、いると思う」
「やめてください」
陽菜の声が震えた。
「そういうの、やめてください」
「うん」
西野は頷いた。
「だから、私が止める」
「変なこと言う人がいたら、止める。近づいてくる人がいたら、止める。阿久津さん一人にしない」
「……そんなの、困ります」
「よくない」
「私、そんなふうにされるの嫌です」
「それでも」
西野は陽菜を見た。
「私は、助かったから」
ただ、消せない事実だった。
陽菜はそれを拒むことができない。
西野は河合から救われた。
宮原も、今日、少なくとも一人で倉庫へ行かずに済んだ。
救われた人がいる。
その事実が、陽菜の否定を少しずつ削っていく。
西日が差している。陽菜の髪の先が、少しだけ赤く見えた。
昔なら、俺はこういう時に言っただろう。
「帰りにプリンでも買って帰るか」
陽菜は呆れた顔をする。
「またそうやって甘いもの買えばいいと思ってる」
「父さんにできることは少ないんだよ」
そう言って、コンビニへ寄った。
それだけのことが、もうできない。
今の俺にできるのは、誰かを憎み、何かを壊すことだけだ。
その結果、誰かが救われる。
「阿久津さん」
廊下の向こうに、別の生徒が立っていた。
知らない女子だった。二年か三年かも分からない。制服の袖を握りしめ、職員室の前に座る陽菜を見ていた。
西野が立ち上がる。
「何?」
女子は西野に怯えたように一歩下がった。それでも、陽菜を見た。
「私も」
「私も、阿久津さんに聞いてほしいことがあります」
窓の外で、夕焼けが少しずつ濃くなっていく。
学校はいつも通りだった。
チャイムが鳴り、部活の声がして、先生が廊下を歩き、誰かが笑っている。
その普通の場所で、ひとつの列ができようとしていた。
最初の一人はもう来てしまった。
そして二人目が、今、陽菜の前に立っていた。




