第32話 祓える場所
部屋は静まり返っていた。
愛里は、母親に抱かれていた。
さっきまでのように壁を見ていない。
「愛里」
愛里は小さく返事をした。
「うん」
彩乃の母は愛里の顔色を確認した。小野寺は救急相談の番号をもう一度確認する。結衣はスマホを取り出しかけて、すぐにしまった。
莉奈は床に落ちていた貼り紙を拾った。
「今の」
莉奈は陽菜を見た。
「今の、何ですか」
西野が陽菜の肩を抱いている。
「阿久津さんは何もしてない」
西野は言った。
だが、その声は自分に言い聞かせているようだった。
「何もしてない」
愛里はもう壁を見ていない。
母親にしがみついている。
その目に、さっきまでの空白がなかった。
「いない」
愛里が小さく言った。
「何が?」
「女の人」
愛里は母親の服を握った。
「いない」
その一言で、部屋の空気が変わった。
いない。
貼り紙よりも。
愛里が言った。
三橋夫婦は、それを奇跡として受け取った。
莉奈も、ほとんどそう受け取っていた。
結衣は怖がっていた。
彩乃の母は、必死に現実の手順へ戻そうとしていた。
小野寺は、何も言わなかった。
西野は陽菜を離さなかった。
陽菜だけが、ずっと愛里を見ていた。
「私が」
陽菜は言いかけた。
私が祓ったんじゃありません。私は何もしていません。そう言うはずだった。
けれど、陽菜は言い切らなかった。
「ありがとうございます」
陽菜の顔が歪んだ。
「お礼は」
お礼を言わないでください。
そう言おうとして、やはり止まった。
陽菜は、愛里の顔を見ていた。
謝り続けていた子が、もう謝っていない。
助けて、と言えた。
「私は、祓っていません」
陽菜は震えながら言った。
「でも」
西野が陽菜を見た。
「神様が、聞いてくれたんだと思います」
部屋の中で、誰もすぐには動かなかった。
「愛里さんを、一人にしないでくださいって、お願いしたから」
陽菜の声は震えていた。
怖がっていた。
それでも、はっきり言った。
「神様が、守ってくれたんだと思います」
俺は、壁際に立っていた。
俺だ。
そう言いたかった。
だが、言えない。
そして陽菜は、もうそれを信じてしまった。
自分が祈れば、守ってくれる。
その認識が、陽菜の中に入った。
彩乃の母が、静かに口を開いた。
「今日のことも、まずは愛里さんの安全と医療的な確認を優先します。今夜はご実家へ。明日、学校と医療機関へ連絡してください」
愛里は母親から離れなかった。
陽菜は、その姿を見続けていた。
◇
翌日から、灯りの部屋の外に人が増えた。
相談日ではない日にも、誰かが来る。
予約のない相談には対応できません。
緊急の場合は警察、救急、児童相談所へ。
霊的相談、除霊依頼は受け付けていません。
阿久津さんへの直接依頼は禁止です。
最後の一枚は、結衣が書いた。
字が大きすぎて、彩乃の母に少し直された。
受け付けていません、と書かれているから、本当はできるのだ。
阿久津さんの名前を出していないのに、みんな阿久津さんのことだと分かるのだ。
三橋の家からは、三日後に連絡があった。
愛里は眠れたらしい。
母親の実家で眠り、朝まで起きなかった。
学校にも説明する。
アパートにはすぐ戻らない。
そういう、現実的な報告もあった。
けれど、最後に母親は言った。
「あの日から、声がしません」
彩乃の母は、それを記録しなかった。
記録用紙には、「不眠状態の改善あり。医療機関受診予定」とだけ書いた。
正しい。
その正しさが、もう噂には勝てない。
「灯りの部屋で、女の霊が消えたらしい」
「小さい子に憑いてたって」
「阿久津さんが祈ったら、声が止まった」
「本当に祓ったんだ」
「阿久津さんは神様じゃないって言うけど、神様に届くんだ」
「阿久津さんが願えば、神様が守ってくれるんだ」
その言葉は、学校の外へ出た。
結衣が見つけた分は消すように頼んだ。
小野寺が学校側で対応した。
彩乃の母が関係者へ釘を刺した。
西野は陽菜に見せないようにした。
拾いきれない。
陽菜は、その話を直接は聞かされなかった。
灯りの部屋に来る人の目が変わったからだ。
真奈の時とは違う。
あの時は、痛みが返った場所だった。
今回は、見えないものを祓った場所になった。
相談に来る人は、部屋の隅を見るようになった。
陽菜を見る前に、まず部屋を見る。
ここで何かが起きた。
そう信じる目だった。
そして最後に、陽菜を見る。
陽菜は、その視線から逃げなかった。
以前のように、全部を否定する顔ではなかった。
削られてもいる。
自分が願えば、誰かを守ってくれる。
その確信が、陽菜の中に小さな芯を作っていた。
俺は、それが怖かった。
でも、その芯が陽菜を立たせてもいた。
◇
その日の夜、陽菜は灯りの部屋に残っていた。
彩乃の母と結衣は外の貼り紙を直している。
莉奈は記録の整理をしていた。
西野は陽菜の隣に座っていた。
俺は部屋の隅に立っていた。あの影がいた場所だ。もう何もいない。
いないはずだった。
「美咲ちゃん」
陽菜が言った。
「何」
「私、祓ってないよね」
西野はすぐに答えなかった。
少しだけ間があった。
その間が、陽菜を傷つけた。
「祓ってない」
西野は言った。
「阿久津さんは、祈っただけ」
「祈ったら、いなくなった」
「偶然かもしれない」
「美咲ちゃんは、そう思う?」
西野は黙った。
陽菜は薄く笑った。
笑おうとして、失敗した顔だった。
「私も、思えない」
西野が陽菜の手を握った。
「でも、阿久津さんがやったんじゃない」
「うん」
陽菜は頷いた。
「私がやったんじゃない」
少しだけ間を置いて、言った。
「神様が、やってくれた」
西野の手に力が入った。
「阿久津さん」
「私がお願いしたから」
「違うよ」
西野の声は必死だった。
「阿久津さんが何かしたわけじゃない」
「うん。私が祓ったんじゃない」
陽菜は繰り返した。
「でも、神様は聞いてくれた」
陽菜は部屋の隅を見ていた。
「真奈さんの時も、そうだったのかもしれない」
「帰さないでくださいってお願いしたら、帰らなくて済んだ」
陽菜の声は震えていた。
「愛里ちゃんの時も、怖い場所に一人で置かないでくださいってお願いしたら、いなくなった」
「それを、阿久津さんが背負わなくていい」
「背負うとかじゃない」
陽菜は静かに言った。
「聞いてくれるんだって、分かったの」
それは、救いの言葉のようだった。
「神様は、私の願いを聞いてくれる」
西野は何も言えなかった。
陽菜は続けた。
「だったら、ちゃんと願わないといけない」
「阿久津さん」
「罰してって言わない」
陽菜は壁の貼り紙を見た。
「助けてくださいって、願う」
陽菜は自分に言い聞かせるように言った。
「一人にしないでくださいって、願う」
本当なら、陽菜の前へしゃがみ込み、話を止めてでも言うところだった。
お前のせいじゃない。
お前は何も悪くない。
そう言うべきだった。
生きている人間や物には、害意がなければ触れられない。
死んだもの同士なら、俺は触れられる。
今回、俺は人間ではないものを壊した。
弱い、壊れかけた、ほとんど残りかすのような死者を。
それだけだった。
それだけなのに、陽菜はまた一つ、神様に近づけられた。
俺が守れば守るほど、娘は神にされる。
それが分かっているのに、次も俺は壊すだろう。
陽菜に伸びるものがあれば。
悪霊だからだ。
父親だからだ。
その二つは、もう俺の中で分けられなくなっていた。
◇
数日後、灯りの部屋に新しい封筒が届いた。
中には、相談票が一枚だけ入っていた。
彩乃の母が読んで、顔を曇らせた。
小野寺へ渡す。
小野寺も顔をしかめた。
結衣が覗き込みそうになり、彩乃の母に止められた。
「何ですか」
莉奈が聞いた。
彩乃の母は答えなかった。
だが、紙の一文だけが、俺には見えた。
生きている人間も、祓ってもらえますか。
部屋の中が静かになった。
誰も声に出して読んでいない。
その言葉は、もう部屋に入ってしまった。
俺はその紙を見ていた。
人は、救済の言葉を少しずつ言い換える。
止めてください。
祓ってください。
灯りの部屋の蛍光灯は、何事もなかったように白く光っている。
その下で、陽菜はまだ何も知らずに、壁の貼り紙を直していた。
誰かを罰してとは言わない。
その紙は、前より少し大きくなっていた。
紙に書けば止まるものではない。
人の願いは、紙の外で育つ。
灯りの部屋は、祓える場所になった。
そして祓える場所は、やがて裁ける場所になる。




