↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第6章 神の時代

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/33

第32話 祓える場所

部屋は静まり返っていた。


愛里は、母親に抱かれていた。


さっきまでのように壁を見ていない。


「愛里」


愛里は小さく返事をした。


「うん」


彩乃の母は愛里の顔色を確認した。小野寺は救急相談の番号をもう一度確認する。結衣はスマホを取り出しかけて、すぐにしまった。


莉奈は床に落ちていた貼り紙を拾った。


「今の」


莉奈は陽菜を見た。


「今の、何ですか」


西野が陽菜の肩を抱いている。


「阿久津さんは何もしてない」


西野は言った。


だが、その声は自分に言い聞かせているようだった。


「何もしてない」


愛里はもう壁を見ていない。


母親にしがみついている。


その目に、さっきまでの空白がなかった。


「いない」


愛里が小さく言った。


「何が?」


「女の人」


愛里は母親の服を握った。


「いない」


その一言で、部屋の空気が変わった。


いない。


貼り紙よりも。


愛里が言った。


三橋夫婦は、それを奇跡として受け取った。


莉奈も、ほとんどそう受け取っていた。


結衣は怖がっていた。


彩乃の母は、必死に現実の手順へ戻そうとしていた。


小野寺は、何も言わなかった。


西野は陽菜を離さなかった。


陽菜だけが、ずっと愛里を見ていた。


「私が」


陽菜は言いかけた。


私が祓ったんじゃありません。私は何もしていません。そう言うはずだった。


けれど、陽菜は言い切らなかった。


「ありがとうございます」


陽菜の顔が歪んだ。


「お礼は」


お礼を言わないでください。


そう言おうとして、やはり止まった。


陽菜は、愛里の顔を見ていた。


謝り続けていた子が、もう謝っていない。


助けて、と言えた。


「私は、祓っていません」


陽菜は震えながら言った。


「でも」


西野が陽菜を見た。


「神様が、聞いてくれたんだと思います」


部屋の中で、誰もすぐには動かなかった。


「愛里さんを、一人にしないでくださいって、お願いしたから」


陽菜の声は震えていた。


怖がっていた。


それでも、はっきり言った。


「神様が、守ってくれたんだと思います」


俺は、壁際に立っていた。


俺だ。


そう言いたかった。


だが、言えない。


そして陽菜は、もうそれを信じてしまった。


自分が祈れば、守ってくれる。


その認識が、陽菜の中に入った。


彩乃の母が、静かに口を開いた。


「今日のことも、まずは愛里さんの安全と医療的な確認を優先します。今夜はご実家へ。明日、学校と医療機関へ連絡してください」


愛里は母親から離れなかった。


陽菜は、その姿を見続けていた。


◇


翌日から、灯りの部屋の外に人が増えた。


相談日ではない日にも、誰かが来る。


予約のない相談には対応できません。

緊急の場合は警察、救急、児童相談所へ。

霊的相談、除霊依頼は受け付けていません。

阿久津さんへの直接依頼は禁止です。


最後の一枚は、結衣が書いた。


字が大きすぎて、彩乃の母に少し直された。


受け付けていません、と書かれているから、本当はできるのだ。


阿久津さんの名前を出していないのに、みんな阿久津さんのことだと分かるのだ。


三橋の家からは、三日後に連絡があった。


愛里は眠れたらしい。


母親の実家で眠り、朝まで起きなかった。


学校にも説明する。


アパートにはすぐ戻らない。


そういう、現実的な報告もあった。


けれど、最後に母親は言った。


「あの日から、声がしません」


彩乃の母は、それを記録しなかった。


記録用紙には、「不眠状態の改善あり。医療機関受診予定」とだけ書いた。


正しい。


その正しさが、もう噂には勝てない。


「灯りの部屋で、女の霊が消えたらしい」


「小さい子に憑いてたって」


「阿久津さんが祈ったら、声が止まった」


「本当に祓ったんだ」


「阿久津さんは神様じゃないって言うけど、神様に届くんだ」


「阿久津さんが願えば、神様が守ってくれるんだ」


その言葉は、学校の外へ出た。


結衣が見つけた分は消すように頼んだ。


小野寺が学校側で対応した。


彩乃の母が関係者へ釘を刺した。


西野は陽菜に見せないようにした。


拾いきれない。


陽菜は、その話を直接は聞かされなかった。


灯りの部屋に来る人の目が変わったからだ。


真奈の時とは違う。


あの時は、痛みが返った場所だった。


今回は、見えないものを祓った場所になった。


相談に来る人は、部屋の隅を見るようになった。


陽菜を見る前に、まず部屋を見る。


ここで何かが起きた。


そう信じる目だった。


そして最後に、陽菜を見る。


陽菜は、その視線から逃げなかった。


以前のように、全部を否定する顔ではなかった。


削られてもいる。


自分が願えば、誰かを守ってくれる。


その確信が、陽菜の中に小さな芯を作っていた。


俺は、それが怖かった。


でも、その芯が陽菜を立たせてもいた。


◇


その日の夜、陽菜は灯りの部屋に残っていた。


彩乃の母と結衣は外の貼り紙を直している。


莉奈は記録の整理をしていた。


西野は陽菜の隣に座っていた。


俺は部屋の隅に立っていた。あの影がいた場所だ。もう何もいない。


いないはずだった。


「美咲ちゃん」


陽菜が言った。


「何」


「私、祓ってないよね」


西野はすぐに答えなかった。


少しだけ間があった。


その間が、陽菜を傷つけた。


「祓ってない」


西野は言った。


「阿久津さんは、祈っただけ」


「祈ったら、いなくなった」


「偶然かもしれない」


「美咲ちゃんは、そう思う?」


西野は黙った。


陽菜は薄く笑った。


笑おうとして、失敗した顔だった。


「私も、思えない」


西野が陽菜の手を握った。


「でも、阿久津さんがやったんじゃない」


「うん」


陽菜は頷いた。


「私がやったんじゃない」


少しだけ間を置いて、言った。


「神様が、やってくれた」


西野の手に力が入った。


「阿久津さん」


「私がお願いしたから」


「違うよ」


西野の声は必死だった。


「阿久津さんが何かしたわけじゃない」


「うん。私が祓ったんじゃない」


陽菜は繰り返した。


「でも、神様は聞いてくれた」


陽菜は部屋の隅を見ていた。


「真奈さんの時も、そうだったのかもしれない」


「帰さないでくださいってお願いしたら、帰らなくて済んだ」


陽菜の声は震えていた。


「愛里ちゃんの時も、怖い場所に一人で置かないでくださいってお願いしたら、いなくなった」


「それを、阿久津さんが背負わなくていい」


「背負うとかじゃない」


陽菜は静かに言った。


「聞いてくれるんだって、分かったの」


それは、救いの言葉のようだった。


「神様は、私の願いを聞いてくれる」


西野は何も言えなかった。


陽菜は続けた。


「だったら、ちゃんと願わないといけない」


「阿久津さん」


「罰してって言わない」


陽菜は壁の貼り紙を見た。


「助けてくださいって、願う」


陽菜は自分に言い聞かせるように言った。


「一人にしないでくださいって、願う」


本当なら、陽菜の前へしゃがみ込み、話を止めてでも言うところだった。


お前のせいじゃない。


お前は何も悪くない。


そう言うべきだった。


生きている人間や物には、害意がなければ触れられない。


死んだもの同士なら、俺は触れられる。


今回、俺は人間ではないものを壊した。


弱い、壊れかけた、ほとんど残りかすのような死者を。


それだけだった。


それだけなのに、陽菜はまた一つ、神様に近づけられた。


俺が守れば守るほど、娘は神にされる。


それが分かっているのに、次も俺は壊すだろう。


陽菜に伸びるものがあれば。


悪霊だからだ。


父親だからだ。


その二つは、もう俺の中で分けられなくなっていた。


◇


数日後、灯りの部屋に新しい封筒が届いた。


中には、相談票が一枚だけ入っていた。


彩乃の母が読んで、顔を曇らせた。


小野寺へ渡す。


小野寺も顔をしかめた。


結衣が覗き込みそうになり、彩乃の母に止められた。


「何ですか」


莉奈が聞いた。


彩乃の母は答えなかった。


だが、紙の一文だけが、俺には見えた。


生きている人間も、祓ってもらえますか。


部屋の中が静かになった。


誰も声に出して読んでいない。


その言葉は、もう部屋に入ってしまった。


俺はその紙を見ていた。


人は、救済の言葉を少しずつ言い換える。


止めてください。


祓ってください。


灯りの部屋の蛍光灯は、何事もなかったように白く光っている。


その下で、陽菜はまだ何も知らずに、壁の貼り紙を直していた。


誰かを罰してとは言わない。


その紙は、前より少し大きくなっていた。


紙に書けば止まるものではない。


人の願いは、紙の外で育つ。


灯りの部屋は、祓える場所になった。


そして祓える場所は、やがて裁ける場所になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。