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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第7章 カルト

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第33話 罰を乞う

真奈は帰らずに済んだ。


愛里は謝らなくなった。


あれから陽菜は、もう完全には否定しなくなっていた。


私は神様じゃありません。


私が裁くんじゃありません。


それも言う。


神様が見ているなら。


この人を一人にしないでください。


助けを求めたことを、悪いことにしないでください。


人はそれを奇跡と呼ぶ。


陽菜はそれを、神様が聞いてくれたのだと思う。


俺は、何度も違うと言いたかった。


ここにいるのは父親だ。


お前が祈るたびに動いているのは、神様ではなく、俺だ。


言えないまま、陽菜の祈りを受け取る。


受け取り続ける。


そのうち、祈りは少しずつ形を変えた。


見捨てないでください、の中に。


逃がさないでください、が混じる。


陽菜は言わない。


それだけは、言わない。


だが、灯りの部屋に来る人々は、もうその言葉を飲み込めなくなっていた。


◇


七海が来たのは、冬の終わりだった。


名前は、宮野七海。


髪は短く切られていて、毛先が少し不揃いだった。薄いコートの袖口は擦り切れている。手首には、輪ゴムの跡のような赤い線がいくつもあった。


連れてきたのは、近所の弁当屋の女主人だった。


灯りの部屋へ何度か差し入れを持ってきていた人だ。彩乃の母とは顔見知りだった。


「駅前でうずくまっていたんです」


女主人は言った。


「最初は酔っているのかと思いました。でも、靴下が片方なくて。話を聞いたら、帰りたくないって」


七海は俯いていた。


テーブルの上に置かれた紙コップにも手をつけない。


西野が陽菜の隣に座る。


莉奈は記録用紙を出した。


結衣は入口を見ている。


彩乃の母は、いつものように手順を確認した。


「まず、ここでできることを説明します。ここは保護施設ではありません。必要なら警察、行政、医療機関につなぎます。あなたの意思を確認します」


七海は小さく頷いた。


「戻りたくないです」


「どこへですか」


七海は喉を鳴らした。


「青葉自立支援会」


彩乃の母が目を細めた。


「団体ですか」


「家にいられなくて。ネットで相談したら、迎えに来てくれて。最初は優しかったんです。住むところも、仕事も、学校のことも考えるって」


そこまでは、よくある話のように聞こえた。


だが、七海の指は震えていた。


「でも、スマホを預けろって言われました。外の情報は混乱するからって。お金も、身分証も、通帳も、全部まとめて管理するって」


莉奈のペンが止まる。


「仕事は?」


彩乃の母が聞いた。


「提携先っていう店で、朝から夜まで。研修だから給料は積み立てって言われて。でも、部屋代と食費と指導料で、ずっとマイナスだって」


結衣が低く言った。


「それ、契約書ありますか」


七海は首を横に振った。


「持ってません。全部向こうにあります」


「家族には?」


「連絡するぞって言われました。戻りたくないなら、ちゃんと従えって。逃げたら、未成年じゃないんだから警察にも言うって。店にも迷惑かけたって」


七海はそこまで言って、口を押さえた。


「ごめんなさい」


陽菜の肩がわずかに動いた。


ごめんなさい。


その言葉に、最近の陽菜は敏感だった。


愛里の件以来、謝り続ける人を見ると、目が変わる。


七海は泣いていなかった。


涙が出る場所を通り過ぎたような顔だった。


「私、悪いことしたのかもしれません。逃げたから。仕事も途中で抜けたから。向こうに借金があるって言われてて」


「借金という言葉は、今は信じないでください」


彩乃の母が言った。


「確認が必要です。まず、安全を優先します」


小野寺も来ていた。


灯りの部屋が学校外に出てからも、小野寺は関わり続けていた。教師の仕事の範囲を超えている。それでも、陽菜が巻き込まれている以上、離れられないのだと思う。


「今日は戻さない方がいい」


小野寺が言った。


「警察と行政に連絡しましょう。本人の意思も確認して、必要なら一時保護の相談を」


七海はその言葉を聞いて、初めて顔を上げた。


「戻らなくていいんですか」


彩乃の母は静かに言った。


「少なくとも、今ここで無理に戻す必要はありません」


七海の目に、少しだけ光が入った。


その瞬間、部屋の中の何人かが陽菜を見た。


七海も見た。


まるで、その言葉の最終確認を陽菜に求めるように。


「私が決めることじゃありません」


いつもの言葉だった。


「でも」


西野の手が、机の下で握られた。


陽菜は七海を見た。


「帰りたくないって言ったことを、悪いことにしないでください」


七海の唇が震えた。


「神様が見ているなら」


陽菜は続けた。


「この人を、一人で帰さないでください」


陽菜が願う。


さらに祈る。


怖かった。


だが、同時に、七海の顔を見れば動かないわけにはいかなかった。


七海は助けを求めている。


陽菜にあんな目で頼まれて、背を向けられるほど俺は器用じゃない。


悪霊なら、害意を見つければ壊せる。


その二つが、俺の中でまた重なった。


◇


青葉自立支援会の人間が来たのは、それから一時間もしないうちだった。


七海の位置を追っていたのか。俺には分からない。


ただ、白いワゴン車が灯りの部屋の前に停まった。


一人は五十代くらいの男。背が高く、髪を後ろへ撫でつけている。濃いグレーのスーツに、黒いコート。名刺入れを持っていた。


二人目は女だった。四十代くらい。眼鏡をかけ、書類の入ったファイルを抱えている。


残りの二人は若い男だった。二十代後半くらい。どちらも体格が良い。支援団体の職員というより、警備員に近い立ち方をしていた。


結衣が入口へ向かった。


「予約のない方は」


「青葉自立支援会の大槻です。こちらに、当会の利用者がいるはずです」


声は丁寧だった。


だが、丁寧さの下に、相手を押し潰す慣れがあった。


彩乃の母が前へ出る。


「ここでは個人情報についてお答えできません」


大槻は笑った。


「それは困りますね。未払い金もありますし、こちらには生活支援の契約書もあります。勝手に保護されているなら、そちらの責任問題になりますよ」


「本人の自筆署名です。緊急連絡先への連絡同意もあります。保護者への連絡も、警察への相談も、こちらとしては準備しています」


小野寺が言った。


「本人が戻りたくないと言っています」


大槻の笑顔は崩れない。


「そういう子は、みんな言います。困難を抱えた若者は、支援の過程で反発するんです。私たちは何人も見てきました」


何人も見てきた。


人を扱ってきた者の声だった。


奥の部屋で、七海が震えた。


莉奈がそばにいる。


西野は陽菜を守る位置に立っている。


結衣は入口と奥の間で視線を動かしている。


彩乃の母は静かに言った。


「今日は、本人を戻しません」


大槻の目が、少しだけ冷たくなった。


「あなた方は、何の権限で?」


「本人の意思を確認しています」


「未成年でもない女性を囲い込んで、団体の相談室に連れ込んでいる。見方によっては、かなり危ないですよ」


「警察にも連絡します」


「どうぞ」


「こちらも顧問の先生に連絡します。行政との連携実績もありますので」


言葉の一つ一つが、壁のように積まれていく。


顧問。


大人が大人を黙らせるための言葉だった。


「七海さん。そこにいるんでしょう。話し合いましょう」


七海は何も言わなかった。


「逃げても解決しないのは分かっていますよね。あなたのために、どれだけの人が動いたか分かっていますか」


七海の肩が震えた。


陽菜が、七海の手を見た。


「七海さん」


陽菜が小さく呼んだ。


七海は返事をしなかった。


「帰りたくないなら、言ってください」


「阿久津さん、でしたか」


陽菜の名前を、外の男が呼んだ。


「あなたが神様にお願いする人だそうですね」


西野が立ち上がった。


「その呼び方はやめてください」


「失礼。ですが、こちらも困っていましてね。どうか神様にも、きちんと見ていただきたい」


神様を茶化している。


謝るふりをしながら、陽菜の立場まで利用している。


「この子は、支援から逃げたんです。仕事も放り出した。こちらの信用にも関わります。神様が見ているなら、どちらが無責任か分かるでしょう」


七海が小さく言った。


「違う」


「何が違うの?」


「帰りたくない」


「みんなの前で、そういうことを言うんだ」


七海の口が閉じる。


陽菜の顔が変わった。


もっと危ういものだった。


正しいことを言わなければならない、という顔だった。


「そんな言い方、しないでください」


陽菜は言った。


大槻が陽菜を見た。


「あなたは、この子の事情をどこまでご存じですか」


「全部は知りません」


「では、口を出さない方がいい」


「でも」


陽菜は七海の手を見た。


「この人は、帰りたくないって言っています」


「子どもみたいな理屈ですね」


「子どもみたいでも」


陽菜の声が震えた。


「今、怖がっている人を、怖いところへ戻すのは違うと思います」


違うと思います。


その言葉は小さかった。


だが、部屋の中の信者たちには十分だった。


莉奈の目が潤む。


彩乃の母が、すぐに手順へ戻そうとした。


「これ以上は、警察立ち会いで」


「長引かせても仕方ありませんね」


結衣が止める。


「入らないでください」


「うちの利用者を迎えに来ただけです」


若い男は結衣を見下ろした。その目は、邪魔なら退かすと言っていた。


その程度の軽い害意。


俺は前へ出た。


入口を塞げばいい。


腕を掴んで、七海へ近づけなければいい。


俺はそう思った。


その時、陽菜が言った。


「神様が見ているなら」


声が震えていた。


「ちゃんと、見ていてください」


陽菜は一度、口を閉じた。


真奈の父親の背中に返った手形も、愛里の部屋から消えた声も、もう偶然だとは思っていない。


自分が願えば、相手は止まる。


止まり方までは選べない。


そのことを、陽菜は知っていた。


止められるという確信は、怖さと同じだけ甘かった。


七海は震えていた。


陽菜は、分かった上で願った。


「この人たちが嘘をついているなら、止めてください」


俺の中へ、祈りが入る。


「七海さんを、一人にしないでください」


陽菜は、ただ七海を守りたかった。


守りたいだけでは済まないと知りながら、言葉を選んだ。


だが、その言葉を聞いた周囲が、同じものとしては受け取らなかった。


「神様、止めてください」


誰かが言った。


「阿久津さんを守って」


別の誰かが言った。


「七海さんを返さないで」


「逃がさないでください」


「罰してください」


陽菜の言葉ではない。


けれど、灯りの部屋の空気に溶けた。


祈りが束になって俺へ流れ込んだ。


期待。


手形が返った奇跡。


女の霊が消えた夜。


神様は悪を止める。


その全部が、俺の中へ入ってきた。


俺は若い男の腕を掴んだ。


止めるだけだった。


本当に、そのつもりだった。


男が叫んだ。


「ぎゃっ」


肩が外れたのだと、少し遅れて分かった。


離したのに、力はまだ流れていた。


もう一人の若い男が七海へ向かった。


「連れて行け!」


その声に、部屋の中の祈りがさらに濃くなる。


「止めて!」


「神様!」


「罰して!」


俺はもう一人の男の前に立った。ただ、道を塞ぐだけのつもりだった。


男は見えない壁に押されたように下がり、足を滑らせて壁へ叩きつけられた。


結衣が叫んだ。


「撮らないで!」


外にいた通行人がスマホを向けていた。


結衣が止めようとする。


だが、俺の方が早かった。スマホを叩き落とした。


消してもいない。


ただ、壊した。


スマホだけでなく、持っていた手首まで弾かれた。


「痛い、痛い!」


俺は止まろうとした。


部屋の中で誰かが泣きながら言っている。


「神様、お願いします」


「悪い人たちを」


「罰してください」


罰してください。


俺は神じゃない。父親だ。悪霊だ。


そう叫びたかった。


お前たちの正義を背負うためにここにいるんじゃない。


だが、声は出ない。


「何なんだよ、これ」


その顔に、初めて恐怖が浮かんだ。


七海がどれだけ怖かったか、少しは分かれ。


そう思ってしまった。


その瞬間、自分が危ない場所にいると分かった。


信者たちが望む神罰に、自分の形が合い始めていた。


「逃がさないで!」


誰かが叫んだ。


その声に、陽菜が顔を上げた。


「違う」


陽菜が言った。


「逃がさないでって、そういう意味じゃ」


声は小さかった。


俺は大槻の前に立っただけのつもりだった。


その瞬間、ガラス戸が弾けた。大槻が尻もちをつき、腕で顔をかばった。


莉奈が泣いている。


彩乃の母が叫ぶ。


「離れて!」


小野寺が七海と陽菜の前に立つ。


西野が陽菜を抱き寄せた。


「阿久津さん!」


陽菜は、西野の腕の中から叫んだ。


「やめてください!」


その声は、俺に届いた。


俺は止まろうとした。だが、完全には止まらなかった。


信者たちの恐怖が、まだ流れ込んでいる。


結衣の怒り。


彩乃の母の危機感。


七海さんを守って。


悪い人を止めて。


罰して。


俺の腕は、大槻ではなく、床を叩いた。床板が割れた。大槻のすぐ横だった。


大槻は声にならない声を出し、動けなくなった。


俺はもう一度、陽菜の声を探した。


「やめて!」


陽菜が泣きながら叫んでいた。


「もう、やめてください!」


ようやく、力が引いた。


部屋は静まり返った。


誰も死んでいない。


それは分かった。


引き戸は歪み、ガラスは割れ、床には亀裂が入っている。


若い男の一人は肩を押さえて倒れていた。


通行人は手首を押さえて泣いていた。


大槻は床に座り込んだまま動けない。


女の職員は書類を抱えて震えていた。


七海を守るだけのつもりだった。


陽菜の願いを聞くだけのつもりだった。


それなのに。

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