第33話 罰を乞う
真奈は帰らずに済んだ。
愛里は謝らなくなった。
あれから陽菜は、もう完全には否定しなくなっていた。
私は神様じゃありません。
私が裁くんじゃありません。
それも言う。
神様が見ているなら。
この人を一人にしないでください。
助けを求めたことを、悪いことにしないでください。
人はそれを奇跡と呼ぶ。
陽菜はそれを、神様が聞いてくれたのだと思う。
俺は、何度も違うと言いたかった。
ここにいるのは父親だ。
お前が祈るたびに動いているのは、神様ではなく、俺だ。
言えないまま、陽菜の祈りを受け取る。
受け取り続ける。
そのうち、祈りは少しずつ形を変えた。
見捨てないでください、の中に。
逃がさないでください、が混じる。
陽菜は言わない。
それだけは、言わない。
だが、灯りの部屋に来る人々は、もうその言葉を飲み込めなくなっていた。
◇
七海が来たのは、冬の終わりだった。
名前は、宮野七海。
髪は短く切られていて、毛先が少し不揃いだった。薄いコートの袖口は擦り切れている。手首には、輪ゴムの跡のような赤い線がいくつもあった。
連れてきたのは、近所の弁当屋の女主人だった。
灯りの部屋へ何度か差し入れを持ってきていた人だ。彩乃の母とは顔見知りだった。
「駅前でうずくまっていたんです」
女主人は言った。
「最初は酔っているのかと思いました。でも、靴下が片方なくて。話を聞いたら、帰りたくないって」
七海は俯いていた。
テーブルの上に置かれた紙コップにも手をつけない。
西野が陽菜の隣に座る。
莉奈は記録用紙を出した。
結衣は入口を見ている。
彩乃の母は、いつものように手順を確認した。
「まず、ここでできることを説明します。ここは保護施設ではありません。必要なら警察、行政、医療機関につなぎます。あなたの意思を確認します」
七海は小さく頷いた。
「戻りたくないです」
「どこへですか」
七海は喉を鳴らした。
「青葉自立支援会」
彩乃の母が目を細めた。
「団体ですか」
「家にいられなくて。ネットで相談したら、迎えに来てくれて。最初は優しかったんです。住むところも、仕事も、学校のことも考えるって」
そこまでは、よくある話のように聞こえた。
だが、七海の指は震えていた。
「でも、スマホを預けろって言われました。外の情報は混乱するからって。お金も、身分証も、通帳も、全部まとめて管理するって」
莉奈のペンが止まる。
「仕事は?」
彩乃の母が聞いた。
「提携先っていう店で、朝から夜まで。研修だから給料は積み立てって言われて。でも、部屋代と食費と指導料で、ずっとマイナスだって」
結衣が低く言った。
「それ、契約書ありますか」
七海は首を横に振った。
「持ってません。全部向こうにあります」
「家族には?」
「連絡するぞって言われました。戻りたくないなら、ちゃんと従えって。逃げたら、未成年じゃないんだから警察にも言うって。店にも迷惑かけたって」
七海はそこまで言って、口を押さえた。
「ごめんなさい」
陽菜の肩がわずかに動いた。
ごめんなさい。
その言葉に、最近の陽菜は敏感だった。
愛里の件以来、謝り続ける人を見ると、目が変わる。
七海は泣いていなかった。
涙が出る場所を通り過ぎたような顔だった。
「私、悪いことしたのかもしれません。逃げたから。仕事も途中で抜けたから。向こうに借金があるって言われてて」
「借金という言葉は、今は信じないでください」
彩乃の母が言った。
「確認が必要です。まず、安全を優先します」
小野寺も来ていた。
灯りの部屋が学校外に出てからも、小野寺は関わり続けていた。教師の仕事の範囲を超えている。それでも、陽菜が巻き込まれている以上、離れられないのだと思う。
「今日は戻さない方がいい」
小野寺が言った。
「警察と行政に連絡しましょう。本人の意思も確認して、必要なら一時保護の相談を」
七海はその言葉を聞いて、初めて顔を上げた。
「戻らなくていいんですか」
彩乃の母は静かに言った。
「少なくとも、今ここで無理に戻す必要はありません」
七海の目に、少しだけ光が入った。
その瞬間、部屋の中の何人かが陽菜を見た。
七海も見た。
まるで、その言葉の最終確認を陽菜に求めるように。
「私が決めることじゃありません」
いつもの言葉だった。
「でも」
西野の手が、机の下で握られた。
陽菜は七海を見た。
「帰りたくないって言ったことを、悪いことにしないでください」
七海の唇が震えた。
「神様が見ているなら」
陽菜は続けた。
「この人を、一人で帰さないでください」
陽菜が願う。
さらに祈る。
怖かった。
だが、同時に、七海の顔を見れば動かないわけにはいかなかった。
七海は助けを求めている。
陽菜にあんな目で頼まれて、背を向けられるほど俺は器用じゃない。
悪霊なら、害意を見つければ壊せる。
その二つが、俺の中でまた重なった。
◇
青葉自立支援会の人間が来たのは、それから一時間もしないうちだった。
七海の位置を追っていたのか。俺には分からない。
ただ、白いワゴン車が灯りの部屋の前に停まった。
一人は五十代くらいの男。背が高く、髪を後ろへ撫でつけている。濃いグレーのスーツに、黒いコート。名刺入れを持っていた。
二人目は女だった。四十代くらい。眼鏡をかけ、書類の入ったファイルを抱えている。
残りの二人は若い男だった。二十代後半くらい。どちらも体格が良い。支援団体の職員というより、警備員に近い立ち方をしていた。
結衣が入口へ向かった。
「予約のない方は」
「青葉自立支援会の大槻です。こちらに、当会の利用者がいるはずです」
声は丁寧だった。
だが、丁寧さの下に、相手を押し潰す慣れがあった。
彩乃の母が前へ出る。
「ここでは個人情報についてお答えできません」
大槻は笑った。
「それは困りますね。未払い金もありますし、こちらには生活支援の契約書もあります。勝手に保護されているなら、そちらの責任問題になりますよ」
「本人の自筆署名です。緊急連絡先への連絡同意もあります。保護者への連絡も、警察への相談も、こちらとしては準備しています」
小野寺が言った。
「本人が戻りたくないと言っています」
大槻の笑顔は崩れない。
「そういう子は、みんな言います。困難を抱えた若者は、支援の過程で反発するんです。私たちは何人も見てきました」
何人も見てきた。
人を扱ってきた者の声だった。
奥の部屋で、七海が震えた。
莉奈がそばにいる。
西野は陽菜を守る位置に立っている。
結衣は入口と奥の間で視線を動かしている。
彩乃の母は静かに言った。
「今日は、本人を戻しません」
大槻の目が、少しだけ冷たくなった。
「あなた方は、何の権限で?」
「本人の意思を確認しています」
「未成年でもない女性を囲い込んで、団体の相談室に連れ込んでいる。見方によっては、かなり危ないですよ」
「警察にも連絡します」
「どうぞ」
「こちらも顧問の先生に連絡します。行政との連携実績もありますので」
言葉の一つ一つが、壁のように積まれていく。
顧問。
大人が大人を黙らせるための言葉だった。
「七海さん。そこにいるんでしょう。話し合いましょう」
七海は何も言わなかった。
「逃げても解決しないのは分かっていますよね。あなたのために、どれだけの人が動いたか分かっていますか」
七海の肩が震えた。
陽菜が、七海の手を見た。
「七海さん」
陽菜が小さく呼んだ。
七海は返事をしなかった。
「帰りたくないなら、言ってください」
「阿久津さん、でしたか」
陽菜の名前を、外の男が呼んだ。
「あなたが神様にお願いする人だそうですね」
西野が立ち上がった。
「その呼び方はやめてください」
「失礼。ですが、こちらも困っていましてね。どうか神様にも、きちんと見ていただきたい」
神様を茶化している。
謝るふりをしながら、陽菜の立場まで利用している。
「この子は、支援から逃げたんです。仕事も放り出した。こちらの信用にも関わります。神様が見ているなら、どちらが無責任か分かるでしょう」
七海が小さく言った。
「違う」
「何が違うの?」
「帰りたくない」
「みんなの前で、そういうことを言うんだ」
七海の口が閉じる。
陽菜の顔が変わった。
もっと危ういものだった。
正しいことを言わなければならない、という顔だった。
「そんな言い方、しないでください」
陽菜は言った。
大槻が陽菜を見た。
「あなたは、この子の事情をどこまでご存じですか」
「全部は知りません」
「では、口を出さない方がいい」
「でも」
陽菜は七海の手を見た。
「この人は、帰りたくないって言っています」
「子どもみたいな理屈ですね」
「子どもみたいでも」
陽菜の声が震えた。
「今、怖がっている人を、怖いところへ戻すのは違うと思います」
違うと思います。
その言葉は小さかった。
だが、部屋の中の信者たちには十分だった。
莉奈の目が潤む。
彩乃の母が、すぐに手順へ戻そうとした。
「これ以上は、警察立ち会いで」
「長引かせても仕方ありませんね」
結衣が止める。
「入らないでください」
「うちの利用者を迎えに来ただけです」
若い男は結衣を見下ろした。その目は、邪魔なら退かすと言っていた。
その程度の軽い害意。
俺は前へ出た。
入口を塞げばいい。
腕を掴んで、七海へ近づけなければいい。
俺はそう思った。
その時、陽菜が言った。
「神様が見ているなら」
声が震えていた。
「ちゃんと、見ていてください」
陽菜は一度、口を閉じた。
真奈の父親の背中に返った手形も、愛里の部屋から消えた声も、もう偶然だとは思っていない。
自分が願えば、相手は止まる。
止まり方までは選べない。
そのことを、陽菜は知っていた。
止められるという確信は、怖さと同じだけ甘かった。
七海は震えていた。
陽菜は、分かった上で願った。
「この人たちが嘘をついているなら、止めてください」
俺の中へ、祈りが入る。
「七海さんを、一人にしないでください」
陽菜は、ただ七海を守りたかった。
守りたいだけでは済まないと知りながら、言葉を選んだ。
だが、その言葉を聞いた周囲が、同じものとしては受け取らなかった。
「神様、止めてください」
誰かが言った。
「阿久津さんを守って」
別の誰かが言った。
「七海さんを返さないで」
「逃がさないでください」
「罰してください」
陽菜の言葉ではない。
けれど、灯りの部屋の空気に溶けた。
祈りが束になって俺へ流れ込んだ。
期待。
手形が返った奇跡。
女の霊が消えた夜。
神様は悪を止める。
その全部が、俺の中へ入ってきた。
俺は若い男の腕を掴んだ。
止めるだけだった。
本当に、そのつもりだった。
男が叫んだ。
「ぎゃっ」
肩が外れたのだと、少し遅れて分かった。
離したのに、力はまだ流れていた。
もう一人の若い男が七海へ向かった。
「連れて行け!」
その声に、部屋の中の祈りがさらに濃くなる。
「止めて!」
「神様!」
「罰して!」
俺はもう一人の男の前に立った。ただ、道を塞ぐだけのつもりだった。
男は見えない壁に押されたように下がり、足を滑らせて壁へ叩きつけられた。
結衣が叫んだ。
「撮らないで!」
外にいた通行人がスマホを向けていた。
結衣が止めようとする。
だが、俺の方が早かった。スマホを叩き落とした。
消してもいない。
ただ、壊した。
スマホだけでなく、持っていた手首まで弾かれた。
「痛い、痛い!」
俺は止まろうとした。
部屋の中で誰かが泣きながら言っている。
「神様、お願いします」
「悪い人たちを」
「罰してください」
罰してください。
俺は神じゃない。父親だ。悪霊だ。
そう叫びたかった。
お前たちの正義を背負うためにここにいるんじゃない。
だが、声は出ない。
「何なんだよ、これ」
その顔に、初めて恐怖が浮かんだ。
七海がどれだけ怖かったか、少しは分かれ。
そう思ってしまった。
その瞬間、自分が危ない場所にいると分かった。
信者たちが望む神罰に、自分の形が合い始めていた。
「逃がさないで!」
誰かが叫んだ。
その声に、陽菜が顔を上げた。
「違う」
陽菜が言った。
「逃がさないでって、そういう意味じゃ」
声は小さかった。
俺は大槻の前に立っただけのつもりだった。
その瞬間、ガラス戸が弾けた。大槻が尻もちをつき、腕で顔をかばった。
莉奈が泣いている。
彩乃の母が叫ぶ。
「離れて!」
小野寺が七海と陽菜の前に立つ。
西野が陽菜を抱き寄せた。
「阿久津さん!」
陽菜は、西野の腕の中から叫んだ。
「やめてください!」
その声は、俺に届いた。
俺は止まろうとした。だが、完全には止まらなかった。
信者たちの恐怖が、まだ流れ込んでいる。
結衣の怒り。
彩乃の母の危機感。
七海さんを守って。
悪い人を止めて。
罰して。
俺の腕は、大槻ではなく、床を叩いた。床板が割れた。大槻のすぐ横だった。
大槻は声にならない声を出し、動けなくなった。
俺はもう一度、陽菜の声を探した。
「やめて!」
陽菜が泣きながら叫んでいた。
「もう、やめてください!」
ようやく、力が引いた。
部屋は静まり返った。
誰も死んでいない。
それは分かった。
引き戸は歪み、ガラスは割れ、床には亀裂が入っている。
若い男の一人は肩を押さえて倒れていた。
通行人は手首を押さえて泣いていた。
大槻は床に座り込んだまま動けない。
女の職員は書類を抱えて震えていた。
七海を守るだけのつもりだった。
陽菜の願いを聞くだけのつもりだった。
それなのに。




