第31話 祓い
男の名前は、三橋直人といった。
痩せていて、目の下に濃い隈があった。髪は整えているが、指先が落ち着かない。封筒を持つ手に、ずっと力が入っていた。
灯りの部屋に来る人間は、だいたい疲れている。
泣いている人。
助けてほしいのに、助けてほしいと言えない人。
「娘が、誰もいない部屋に向かって謝るんです」
彩乃の母は、すぐに返事をしなかった。
元保健師の女性も、小野寺も、結衣も莉奈も、みんな黙った。
陽菜はその場にいなかった。
月に一度の確認日ではなかったからだ。
それなのに三橋は、部屋の中を探すように見回していた。
「夜になると、知らない女の人の声がするって」
「阿久津さんなら、祓ってもらえますか」
祓う。
その言葉が、部屋の空気を変えた。
彩乃の母は、すぐに首を横に振った。
「ここは、そういう場所ではありません」
声は穏やかだった。
「霊的なことを判断する場所ではありません。お子さんの体調や心理的な状態については、病院や学校、相談機関へつないでください」
「行きました」
三橋はすぐに言った。
「学校にも話しました。小児科にも行きました。紹介されたところにも予約しました。でも、一か月先で」
「緊急性が高ければ、別の窓口もあります」
「分かっています」
分かっています、と言う人間の顔ではなかった。
分かっているけれど、もう持たない。
そういう顔だった。
「でも、昨日の夜、娘が台所の床で土下座していたんです」
莉奈が息を呑んだ。
三橋は続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさいって。誰に謝ってるのか聞いたら、押し入れの中の女の人だって言うんです。怒ってるから、謝らないと連れていかれるって」
彩乃の母は、表情を崩さなかった。
「娘さんは今、どちらに」
「車です」
「車に一人ですか」
「いえ、妻が一緒にいます」
「では、まず娘さんをこちらへ。お母様にも同席していただきます。必要なら、すぐに医療機関や児童相談所へ連絡します」
三橋は少しだけ力が抜けたように頷いた。
「でも」
その後で、また俺には嫌な言葉が来ると分かった。
「阿久津さんには、会えますか」
彩乃の母は答えなかった。
結衣が低く言った。
「阿久津さんへ直接依頼しないでください」
「すみません。分かっています。でも」
「ここなら、助けてもらえるって聞いたんです」
灯りの部屋は、そういう場所になっていた。
学校では抱えきれない相談を、外部へ流す場所。
本当はそれだけだった。
それなのに、真奈の件があった。
叩いた相手が、同じ場所を押さえて怯えた。
その話は、もう遠くまで行っていた。
痛みを返せるなら、見えないものも祓える。
苦しくなれば、人は理屈より先に祈る。
俺は部屋の隅に立っていた。
三橋の背中に、何かがいるわけではなかった。
その時点では。
紙の匂いではない。
夏なのに冷えた部屋。
そういうものが、封筒の隙間から漏れているような気がした。
死んでから、俺は前よりいろいろなものを感じるようになった。
畏れ。
そして、たまに、死者の残りかすのようなもの。
三橋の封筒からは、その残りかすがした。
◇
三橋の娘は、愛里といった。
母親に手を引かれて入ってきた時、部屋の中の温度が少し下がったように感じた。
そう感じたのは、俺だけではなかったらしい。
結衣が腕をさすった。
莉奈が窓の方を見た。
彩乃の母は、何も言わなかった。
愛里は小さな子だった。
髪は肩のあたりで切りそろえられている。水色のトレーナーに、黒いズボン。靴下の片方が少しずれていた。
誰かに背中を押されているようでもあり、逆に後ろへ引っ張られているようでもあった。
母親は愛里の肩を抱いていた。
「すみません」
「こんな相談、どこへしていいか分からなくて」
彩乃の母は椅子を勧めた。
「まず座ってください。ここでは、霊かどうかを決めることはできません。ただ、愛里さんが困っていることは聞きます」
愛里は椅子に座らなかった。
部屋の隅を見ていた。
そこをじっと見ている。
俺もそちらを見た。
そこに、薄い影のようなものがあった。
人の形と言うには、形が足りない。
女と言うには、顔が崩れている。
髪のようなものが長く垂れ、口だけが残っていた。
生きていた人間なら、喉を潰したような声だっただろう。
しかし、それは声ではなかった。
頭の奥に、湿った言葉の欠片が触れる。
おいていくな。
同じ言葉だけを、何度も何度も繰り返していた。
俺は初めて、はっきりと理解した。死んでいるのは、俺だけではない。
目の前のそれも、元は人間だったのだと思う。
誰かを恨んで死んだのかもしれない。
誰にも見つけてもらえずに死んだのかもしれない。
名前も、顔も、言葉も崩れていた。
残っているのは、寒さと、置いていかれたという感覚と、謝らせたいという執着だけ。
野良悪霊。
誰かがそう教えてくれたわけではない。
これは、俺がなり得たものだ。
娘への執着だけが壊れて、形を失えば。
俺も、いつかこうなったのかもしれない。
愛里が小さく言った。
「ごめんなさい」
母親の顔が歪んだ。
「愛里」
「ごめんなさい」
愛里は壁を見たまま、もう一度言った。
「ごめんなさい。置いていかないでください」
彩乃の母が静かに止める。
「今は、急に触らないでください」
手が震えていた。
「家でも、ずっとこれで」
母親が泣いた。
「夜になると、押し入れの前で謝るんです。やめさせようとすると、もっと泣いて。女の人が怒るって」
「その押し入れには、何かあるんですか」
小野寺が聞いた。
「古いアパートで。前に住んでいた人のことは知りません。引っ越して三か月くらいです。最初は何もなかったんです」
封筒の中には、愛里が描いた絵が入っていた。
彩乃の母が一枚だけ机に置いた。
黒いクレヨンで塗られた押し入れ。
顔は塗りつぶされていた。
絵の端に、何度も同じ字が書いてある。
ごめんなさい。
俺は、その紙から目を離したくなった。
霊がいる。
そう言えば簡単だ。
でも、ここでそれを認めたら、灯りの部屋はもう戻れない。
困っている人を専門窓口へつなぐ場所ではなくなる。
彩乃の母も、それを分かっていた。
「まず、今日は愛里さんを落ち着かせましょう」
彩乃の母は言った。
「医療機関への相談は続けてください。学校にも状況を共有してください。家で危険な行動があるなら、一時的に別の場所で寝ることも考えてください」
「家に帰ると、声がするんです」
母親は言った。
「じゃあ今夜は、別の場所へ」
「私の実家に行く予定です。でも、実家に行っても聞こえるって」
愛里が壁を見たまま言った。
「ついてくる」
その瞬間、壁際の影が少し濃くなった。
ついてくる。
それは、愛里の言葉なのか。
愛里に言わせているのか。
愛里の肩がびくっと動く。
母親が泣きながら娘を抱こうとした。
愛里は母親を押し返さなかった。
でも、目はずっと壁を見ていた。
◇
陽菜が灯りの部屋に来たのは、その二時間後だった。
呼ばない方がいい、と西野は言った。
呼んではいけない、と結衣も言った。
彩乃の母も、最初はそのつもりだった。
愛里が部屋の隅から目を離さない。
母親が少しでも立ち上がると、「謝らないと」と言って床に手をつこうとする。
病院へ連れていくか。
大人たちは正しい選択肢を並べた。
しかし、その間にも愛里は弱っていった。
体温を測っても、数字は大きく変わらない。
それなのに、手だけが異様に冷たかった。
影は、愛里から離れなかった。
ぼろぼろで、軽くて、ほとんど形を失っている。
愛里の恐怖に貼りつき、謝罪の言葉に指をかけ、眠れない夜の中でかろうじて形を保っている。
畏怖ですらない。
ただ、弱った子どもの涙にぶら下がっているだけの、壊れかけた死者だった。
相手は生きた人間ではない。
霊だ。
なら、害意があるかどうかに関係なく、俺は触れられる。
ただ、こんな壊れた死者に触れるのは初めてだった。
どこまで掴めるのか。
俺にはまだ分からなかった。
陽菜は、西野に付き添われて来た。
制服ではなかった。
白いパーカーに、薄い色のジーンズ。髪は後ろで結んでいる。普通の高校生の格好だった。普通なら、コンビニでアイスでも買って帰るような格好だ。
それなのに、灯りの部屋の入口に立った瞬間、全員の視線が陽菜へ集まった。
西野が遮った。
「直接お願いしないでください」
「すみません」
「すみません」
陽菜は二人ではなく、愛里を見た。
そして、壁際を見た。
俺は一瞬、そう思った。
だが、陽菜の目は俺を通り過ぎた。
ただ、愛里が見ている場所を見たのだ。
「私が祓うわけじゃありません」
陽菜は最初に言った。
部屋の中にいた全員が、息を止めた。
「私は、そういうことはできません」
三橋の顔が落ちた。
愛里だけが、壁を見ていた。
陽菜は続けた。
「でも、聞きます」
西野が陽菜を見た。
陽菜は震えていた。
霊を祓ってほしいと言われている。
十五歳の高校生だ。
「神様に届くように、祈ります」
三橋が泣いた。
その涙に、俺は嫌なものを感じた。
まだ、すがる気持ちだ。
また俺が強くなる。
陽菜は愛里の前にしゃがんだ。
「愛里さん」
愛里は返事をしなかった。
陽菜は声を柔らかくした。
「私が、祓うんじゃありません」
愛里の目が少し動いた。
「でも、怖い場所に一人でいなくていいように、お願いします」
愛里の唇が動いた。
「怒ってる」
「誰が?」
「女の人」
「何て言ってるの」
愛里は壁を見た。
「置いていくなって」
陽菜は少しだけ息を吸った。
「愛里さんが、何か悪いことをしたんですか」
愛里は首を横に振った。
「分かんない」
「分からないことを、ずっと謝らなくていいです」
愛里の目が、初めて陽菜へ向いた。
陽菜は言った。
「助けてって言っていいです」
壁際の影が、愛里に貼りつくように揺れた。
何かを壊す力もない。
ただ、愛里の心が弱るたび、そこへ少し深く食い込む。
愛里の唇がまた動いた。
「ごめんなさい」
陽菜は首を横に振った。
「謝らなくていいです」
「でも」
「助けてって言っていいです」
愛里は息を吸った。
「たすけて」
その声は、ほとんど聞こえなかった。
ごめんなさいは。
ごめんなさいは。
その繰り返しが、俺には聞こえた。
莉奈が顔をしかめる。
「何か、変」
結衣が入口を見た。
彩乃の母は、愛里の様子から目を離さなかった。
陽菜は動かなかった。
「神様が見ているなら」
声は震えていた。
けれど、逃げていなかった。
「この人を、怖い場所に一人で置かないでください」
真奈の時と似ていた。
今回は生きた人間の害意ではない。
目の前にいるのは、壊れた死者だ。
「愛里さんについて来ているものがあるなら」
陽菜は続けた。
「この子から離れられるようにしてください」
影が陽菜の方を向いた。
顔はない。
それでも、陽菜を見たと分かった。
「苦しんでいる人がいるなら」
陽菜は言った。
「もう、誰かを苦しめないでください」
影の髪のようなものが、ほんの少し陽菜の方へ揺れた。
相手が霊なら、俺は触れられる。
愛里に貼りつき、陽菜の声に反応した。
俺は影を掴んだ。
濡れた紙が指に貼りつくような、気持ちの悪い感触だった。
薄い。
愛里の恐怖に根を張っている。
謝らなければならないという思い込みに、爪を立てている。
俺はそれを愛里から引き剥がした。
愛里の身体がびくりと震えた。
「愛里!」
母親が叫んだ。
「大丈夫」
陽菜が言った。
それが誰への言葉なのか、分からなかった。
自分へか。
抵抗はあった。
置いていくな。
帰りたい。
同じ欠片が、ぐしゃぐしゃに絡まっている。
俺はそれを見て、少しだけ手を止めそうになった。
こいつも、誰かに謝ってほしかったのかもしれない。
こいつも、置いていかれたのかもしれない。
こいつも、寒かったのかもしれない。
人間だった頃には、理由があったのかもしれない。
だが、今残っているのは、子どもの涙にぶら下がる口だけだった。
愛里は悪くない。
陽菜も悪くない。
影の奥から、小さな声がした。
さむい。
それだけだった。その一言だけが、少しだけ人間だった。
それでも、俺は離さなかった。愛里へ戻る前に、陽菜の声に絡む前に、俺はそれを握り潰した。
蛍光灯が一度だけ瞬いた。
部屋の隅で、かすかな音がした。
古い紙袋を指で破いたような音だった。
愛里が壁から目を離した。




