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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第6章 神の時代

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第31話 祓い

男の名前は、三橋直人といった。


痩せていて、目の下に濃い隈があった。髪は整えているが、指先が落ち着かない。封筒を持つ手に、ずっと力が入っていた。


灯りの部屋に来る人間は、だいたい疲れている。


泣いている人。


助けてほしいのに、助けてほしいと言えない人。


「娘が、誰もいない部屋に向かって謝るんです」


彩乃の母は、すぐに返事をしなかった。


元保健師の女性も、小野寺も、結衣も莉奈も、みんな黙った。


陽菜はその場にいなかった。


月に一度の確認日ではなかったからだ。


それなのに三橋は、部屋の中を探すように見回していた。


「夜になると、知らない女の人の声がするって」


「阿久津さんなら、祓ってもらえますか」


祓う。


その言葉が、部屋の空気を変えた。


彩乃の母は、すぐに首を横に振った。


「ここは、そういう場所ではありません」


声は穏やかだった。


「霊的なことを判断する場所ではありません。お子さんの体調や心理的な状態については、病院や学校、相談機関へつないでください」


「行きました」


三橋はすぐに言った。


「学校にも話しました。小児科にも行きました。紹介されたところにも予約しました。でも、一か月先で」


「緊急性が高ければ、別の窓口もあります」


「分かっています」


分かっています、と言う人間の顔ではなかった。


分かっているけれど、もう持たない。


そういう顔だった。


「でも、昨日の夜、娘が台所の床で土下座していたんです」


莉奈が息を呑んだ。


三橋は続けた。


「ごめんなさい、ごめんなさいって。誰に謝ってるのか聞いたら、押し入れの中の女の人だって言うんです。怒ってるから、謝らないと連れていかれるって」


彩乃の母は、表情を崩さなかった。


「娘さんは今、どちらに」


「車です」


「車に一人ですか」


「いえ、妻が一緒にいます」


「では、まず娘さんをこちらへ。お母様にも同席していただきます。必要なら、すぐに医療機関や児童相談所へ連絡します」


三橋は少しだけ力が抜けたように頷いた。


「でも」


その後で、また俺には嫌な言葉が来ると分かった。


「阿久津さんには、会えますか」


彩乃の母は答えなかった。


結衣が低く言った。


「阿久津さんへ直接依頼しないでください」


「すみません。分かっています。でも」


「ここなら、助けてもらえるって聞いたんです」


灯りの部屋は、そういう場所になっていた。


学校では抱えきれない相談を、外部へ流す場所。


本当はそれだけだった。


それなのに、真奈の件があった。


叩いた相手が、同じ場所を押さえて怯えた。


その話は、もう遠くまで行っていた。


痛みを返せるなら、見えないものも祓える。


苦しくなれば、人は理屈より先に祈る。


俺は部屋の隅に立っていた。


三橋の背中に、何かがいるわけではなかった。


その時点では。


紙の匂いではない。


夏なのに冷えた部屋。


そういうものが、封筒の隙間から漏れているような気がした。


死んでから、俺は前よりいろいろなものを感じるようになった。


畏れ。


そして、たまに、死者の残りかすのようなもの。


三橋の封筒からは、その残りかすがした。


◇


三橋の娘は、愛里といった。


母親に手を引かれて入ってきた時、部屋の中の温度が少し下がったように感じた。


そう感じたのは、俺だけではなかったらしい。


結衣が腕をさすった。


莉奈が窓の方を見た。


彩乃の母は、何も言わなかった。


愛里は小さな子だった。


髪は肩のあたりで切りそろえられている。水色のトレーナーに、黒いズボン。靴下の片方が少しずれていた。


誰かに背中を押されているようでもあり、逆に後ろへ引っ張られているようでもあった。


母親は愛里の肩を抱いていた。


「すみません」


「こんな相談、どこへしていいか分からなくて」


彩乃の母は椅子を勧めた。


「まず座ってください。ここでは、霊かどうかを決めることはできません。ただ、愛里さんが困っていることは聞きます」


愛里は椅子に座らなかった。


部屋の隅を見ていた。


そこをじっと見ている。


俺もそちらを見た。


そこに、薄い影のようなものがあった。


人の形と言うには、形が足りない。


女と言うには、顔が崩れている。


髪のようなものが長く垂れ、口だけが残っていた。


生きていた人間なら、喉を潰したような声だっただろう。


しかし、それは声ではなかった。


頭の奥に、湿った言葉の欠片が触れる。


おいていくな。


同じ言葉だけを、何度も何度も繰り返していた。


俺は初めて、はっきりと理解した。死んでいるのは、俺だけではない。


目の前のそれも、元は人間だったのだと思う。


誰かを恨んで死んだのかもしれない。


誰にも見つけてもらえずに死んだのかもしれない。


名前も、顔も、言葉も崩れていた。


残っているのは、寒さと、置いていかれたという感覚と、謝らせたいという執着だけ。


野良悪霊。


誰かがそう教えてくれたわけではない。


これは、俺がなり得たものだ。


娘への執着だけが壊れて、形を失えば。


俺も、いつかこうなったのかもしれない。


愛里が小さく言った。


「ごめんなさい」


母親の顔が歪んだ。


「愛里」


「ごめんなさい」


愛里は壁を見たまま、もう一度言った。


「ごめんなさい。置いていかないでください」


彩乃の母が静かに止める。


「今は、急に触らないでください」


手が震えていた。


「家でも、ずっとこれで」


母親が泣いた。


「夜になると、押し入れの前で謝るんです。やめさせようとすると、もっと泣いて。女の人が怒るって」


「その押し入れには、何かあるんですか」


小野寺が聞いた。


「古いアパートで。前に住んでいた人のことは知りません。引っ越して三か月くらいです。最初は何もなかったんです」


封筒の中には、愛里が描いた絵が入っていた。


彩乃の母が一枚だけ机に置いた。


黒いクレヨンで塗られた押し入れ。


顔は塗りつぶされていた。


絵の端に、何度も同じ字が書いてある。


ごめんなさい。


俺は、その紙から目を離したくなった。


霊がいる。


そう言えば簡単だ。


でも、ここでそれを認めたら、灯りの部屋はもう戻れない。


困っている人を専門窓口へつなぐ場所ではなくなる。


彩乃の母も、それを分かっていた。


「まず、今日は愛里さんを落ち着かせましょう」


彩乃の母は言った。


「医療機関への相談は続けてください。学校にも状況を共有してください。家で危険な行動があるなら、一時的に別の場所で寝ることも考えてください」


「家に帰ると、声がするんです」


母親は言った。


「じゃあ今夜は、別の場所へ」


「私の実家に行く予定です。でも、実家に行っても聞こえるって」


愛里が壁を見たまま言った。


「ついてくる」


その瞬間、壁際の影が少し濃くなった。


ついてくる。


それは、愛里の言葉なのか。


愛里に言わせているのか。


愛里の肩がびくっと動く。


母親が泣きながら娘を抱こうとした。


愛里は母親を押し返さなかった。


でも、目はずっと壁を見ていた。


◇


陽菜が灯りの部屋に来たのは、その二時間後だった。


呼ばない方がいい、と西野は言った。


呼んではいけない、と結衣も言った。


彩乃の母も、最初はそのつもりだった。


愛里が部屋の隅から目を離さない。


母親が少しでも立ち上がると、「謝らないと」と言って床に手をつこうとする。


病院へ連れていくか。


大人たちは正しい選択肢を並べた。


しかし、その間にも愛里は弱っていった。


体温を測っても、数字は大きく変わらない。


それなのに、手だけが異様に冷たかった。


影は、愛里から離れなかった。


ぼろぼろで、軽くて、ほとんど形を失っている。


愛里の恐怖に貼りつき、謝罪の言葉に指をかけ、眠れない夜の中でかろうじて形を保っている。


畏怖ですらない。


ただ、弱った子どもの涙にぶら下がっているだけの、壊れかけた死者だった。


相手は生きた人間ではない。


霊だ。


なら、害意があるかどうかに関係なく、俺は触れられる。


ただ、こんな壊れた死者に触れるのは初めてだった。


どこまで掴めるのか。


俺にはまだ分からなかった。


陽菜は、西野に付き添われて来た。


制服ではなかった。


白いパーカーに、薄い色のジーンズ。髪は後ろで結んでいる。普通の高校生の格好だった。普通なら、コンビニでアイスでも買って帰るような格好だ。


それなのに、灯りの部屋の入口に立った瞬間、全員の視線が陽菜へ集まった。


西野が遮った。


「直接お願いしないでください」


「すみません」


「すみません」


陽菜は二人ではなく、愛里を見た。


そして、壁際を見た。


俺は一瞬、そう思った。


だが、陽菜の目は俺を通り過ぎた。


ただ、愛里が見ている場所を見たのだ。


「私が祓うわけじゃありません」


陽菜は最初に言った。


部屋の中にいた全員が、息を止めた。


「私は、そういうことはできません」


三橋の顔が落ちた。


愛里だけが、壁を見ていた。


陽菜は続けた。


「でも、聞きます」


西野が陽菜を見た。


陽菜は震えていた。


霊を祓ってほしいと言われている。


十五歳の高校生だ。


「神様に届くように、祈ります」


三橋が泣いた。


その涙に、俺は嫌なものを感じた。


まだ、すがる気持ちだ。


また俺が強くなる。


陽菜は愛里の前にしゃがんだ。


「愛里さん」


愛里は返事をしなかった。


陽菜は声を柔らかくした。


「私が、祓うんじゃありません」


愛里の目が少し動いた。


「でも、怖い場所に一人でいなくていいように、お願いします」


愛里の唇が動いた。


「怒ってる」


「誰が?」


「女の人」


「何て言ってるの」


愛里は壁を見た。


「置いていくなって」


陽菜は少しだけ息を吸った。


「愛里さんが、何か悪いことをしたんですか」


愛里は首を横に振った。


「分かんない」


「分からないことを、ずっと謝らなくていいです」


愛里の目が、初めて陽菜へ向いた。


陽菜は言った。


「助けてって言っていいです」


壁際の影が、愛里に貼りつくように揺れた。


何かを壊す力もない。


ただ、愛里の心が弱るたび、そこへ少し深く食い込む。


愛里の唇がまた動いた。


「ごめんなさい」


陽菜は首を横に振った。


「謝らなくていいです」


「でも」


「助けてって言っていいです」


愛里は息を吸った。


「たすけて」


その声は、ほとんど聞こえなかった。


ごめんなさいは。


ごめんなさいは。


その繰り返しが、俺には聞こえた。


莉奈が顔をしかめる。


「何か、変」


結衣が入口を見た。


彩乃の母は、愛里の様子から目を離さなかった。


陽菜は動かなかった。


「神様が見ているなら」


声は震えていた。


けれど、逃げていなかった。


「この人を、怖い場所に一人で置かないでください」


真奈の時と似ていた。


今回は生きた人間の害意ではない。


目の前にいるのは、壊れた死者だ。


「愛里さんについて来ているものがあるなら」


陽菜は続けた。


「この子から離れられるようにしてください」


影が陽菜の方を向いた。


顔はない。


それでも、陽菜を見たと分かった。


「苦しんでいる人がいるなら」


陽菜は言った。


「もう、誰かを苦しめないでください」


影の髪のようなものが、ほんの少し陽菜の方へ揺れた。


相手が霊なら、俺は触れられる。


愛里に貼りつき、陽菜の声に反応した。


俺は影を掴んだ。


濡れた紙が指に貼りつくような、気持ちの悪い感触だった。


薄い。


愛里の恐怖に根を張っている。


謝らなければならないという思い込みに、爪を立てている。


俺はそれを愛里から引き剥がした。


愛里の身体がびくりと震えた。


「愛里!」


母親が叫んだ。


「大丈夫」


陽菜が言った。


それが誰への言葉なのか、分からなかった。


自分へか。


抵抗はあった。


置いていくな。


帰りたい。


同じ欠片が、ぐしゃぐしゃに絡まっている。


俺はそれを見て、少しだけ手を止めそうになった。


こいつも、誰かに謝ってほしかったのかもしれない。


こいつも、置いていかれたのかもしれない。


こいつも、寒かったのかもしれない。


人間だった頃には、理由があったのかもしれない。


だが、今残っているのは、子どもの涙にぶら下がる口だけだった。


愛里は悪くない。


陽菜も悪くない。


影の奥から、小さな声がした。


さむい。


それだけだった。その一言だけが、少しだけ人間だった。


それでも、俺は離さなかった。愛里へ戻る前に、陽菜の声に絡む前に、俺はそれを握り潰した。


蛍光灯が一度だけ瞬いた。


部屋の隅で、かすかな音がした。


古い紙袋を指で破いたような音だった。


愛里が壁から目を離した。

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