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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第6章 神の時代

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第30話 奇跡

夕方、雨は強くなった。


真奈は病院へ行くことになった。


伯母が付き添う。彩乃の母も一緒に行く。真奈の母親には、専門機関から連絡してもらう。再婚相手には、今この場所を知らせない。


決まったはずだった。


だが、男は来た。


真奈のスマホの位置情報を見ていたのか。


分からないことは、分からないままだ。


ただ、男は灯りの部屋の前に現れた。


背は高い。髪は短く、スーツの上に作業着のような上着を着ている。三十代後半くらい。顔は整っているが、目が笑っていなかった。


入口で結衣が止めた。


「どなたですか」


男は結衣を見下ろした。


「上原真奈の保護者です」


母親と再婚しているなら、家ではそういう立場なのだろう。


だが、声に真奈を心配する響きはなかった。


所有物を取り戻しに来た人間の声だった。


彩乃の母が奥から出てきた。


「真奈さんは、今、大人と話をしています」


「大人?」


「未成年を勝手に連れ回して、大人と話してる? それ、誘拐ですよ」


部屋の空気が固くなる。


小野寺が前へ出た。


「警察と児童相談所へ連絡しています」


「だったらなおさら、親に返してください」


「本人が帰りたくないと言っています」


男の顔が一瞬だけ歪んだ。


すぐに笑顔へ戻したが、俺には見えた。


「子どもはそういうことを言うんですよ」


男は言った。


「反抗期なんで。家で注意されたから、逃げただけです。おたくたち、そういう子どもの言葉を真に受けて、家庭を壊すつもりですか」


家庭という言葉は、便利な蓋になる。


中で何が起きていても、外の人間を追い払う蓋になる。


真奈は奥の部屋にいた。


俺は真奈の顔を見た。


真奈は震えていた。


それだけで、男の言葉が嘘だと分かった。


真奈が怖がっている。


それが、今ここで一番大事な事実だった。


男は靴を脱がずに上がろうとした。


結衣が止める。


「入らないでください」


「どいて」


「入らないでください」


男の手が結衣の肩へ伸びた。


小野寺がその手を止めた。


「触らないでください」


男は小野寺を見る。


「先生ですか」


「そうです」


「じゃあ、あなたも責任取れますね」


男の声は低くなった。


「家庭に口出しした責任、取れますね」


小野寺は答えなかった。


男は奥を見た。


「真奈」


真奈の身体が跳ねた。


「帰るぞ」


伯母が叫ぶように言った。


「帰しません」


男の顔から笑みが消えた。


「あなたに権利あります?」


その言葉には、法律の形をした脅しがあった。


自分が正しい側にいると思わせる声だった。


伯母は怯んだ。


その隙に、男が奥へ進もうとした。


陽菜が立ち上がった。


西野が止めようとしたが、間に合わなかった。


陽菜は男の前に出た。


「帰りたくないって言っています」


男は陽菜を見た。


「ああ」


「あなたが阿久津さん?」


陽菜は答えなかった。


「なるほど。神様にお願いする人か」


部屋の中の誰かが息を呑んだ。


男は陽菜へ一歩近づく。


「じゃあ聞いてください。うちの子が嘘をついて、家庭をめちゃくちゃにしています。神様が見てるなら、どっちが悪いか分かりますよね」


陽菜は青ざめていた。


「私は、どっちが悪いかを決めません」


「じゃあ何をするんですか」


「一人で帰さないように、お願いしました」


その瞬間、男の顔が歪んだ。


「お願い?」


男の手が上がった。陽菜へではない。奥にいる真奈へ向かった。


「お前が余計なことを言うからだろ!」


真奈を叩いてきた手だった。


俺は男の背中を、伯母が話したのと同じ場所へ平手で叩き返した。生きていた頃の俺の手ではない。悪霊の手だった。


乾いた音がした。


「ぐっ」


男は背中を押さえた。


「何だ」


俺だけがいる。


男がもう一度真奈へ向かおうとした。俺は同じ場所をもう一度叩いた。


二度目の音が響いた。男の顔が怒りで真っ赤になる。


「誰だ!」


叫んだ声は、部屋の壁に跳ね返った。


真奈は泣き声を上げた。


陽菜が言った。


「やめてください」


真奈を連れて帰ろうとしている。


帰ったら、何をするか分からない。


服で隠れる場所。


平手で、何度も。


俺は三度目の手を上げていた。


「やめてください」


陽菜の声が、さっきより強くなった。


「もう、やめてください」


その声で、俺は止まった。


男は床に手をつき、背中を押さえていた。


彩乃の母が震える手で警察へ電話をかけ直した。


小野寺が男との間に立った。


結衣が入口から人を呼んだ。


西野は陽菜の腕を掴んだ。


陽菜は動かなかった。


真奈は、伯母の胸に顔を押しつけて泣いていた。


「何だよ」


「何なんだよ」


神様が見ていた。


そう思いたい人間なら、答えは簡単だ。


俺が叩いただけだ。


それも、娘の祈りを受け取った悪霊が。


◇


警察が来た時、男はまだ怒っていた。


だが、さっきより声は小さくなっていた。


「誰かに殴られた」


そう何度も言った。


警察官は周囲を見た。


背後に人がいなかったことを、複数の大人が証言した。


「じゃあ何だよ!」


真奈は病院へ向かった。


彩乃の母も同行した。


元保健師が、記録と連絡先を確認した。


小野寺は、灯りの部屋の前に残って、警察へ説明していた。


陽菜は奥の椅子に座っていた。


西野が隣に座る。


莉奈は泣いていた。


結衣はずっと黙っていた。


彩乃は母が出ていった扉を見ていた。


「阿久津さん」


西野が言った。


陽菜は顔を上げなかった。


「阿久津さんは、叩いてなんて言ってない」


陽菜は頷かなかった。


「罰してとも言ってない」


陽菜は頷かなかった。


少しして、陽菜は言った。


「帰さないでくださいって、言った」


西野が黙る。


「一人で帰さないでくださいって、お願いした」


「それは」


「そしたら」


陽菜の声が震えた。


「帰らなくて済んだ」


誰も何も言えなかった。


真奈は帰らずに済んだ。


児童相談所へつながった。


救われる方向へ、世界は動いた。


だが、その途中で男は見えない手に叩かれた。


真奈が叩かれていたと聞いた場所を。


陽菜はそれを知らないわけではない。


背中と聞いた。


服で隠れる場所と聞いた。


平手と聞いた。


神様が見ているなら、この人を一人で帰さないでください。


「私、叩いてほしいって言ってない」


陽菜は言った。


「分かってる」


西野がすぐに言った。


「阿久津さんは言ってない」


「でも」


陽菜は手を見た。


細い、何も壊せない手。


「止めてほしいとは、思った」


俺だけに届いたような声だった。


言えるはずがなかった。


◇


その夜、俺は男の家にいた。


真奈はいない。


伯母の家にもいない。病院から、保護につながるらしい。詳しいことは、俺には分からない。書類の中身を勝手に読めるわけではないし、電話の向こうの声も全部聞けるわけではない。


ただ、真奈がその家に戻っていないことだけは分かった。


母親はリビングで泣いていた。


男は浴室で上着を脱ぎ、鏡に背中を映していた。


俺は、その鏡を見た。


一つは肩甲骨の下。


平手の形が、赤黒く浮かんでいる。


男は鏡越しに自分の背中を見て、息を荒くしていた。


「何だよ」


昼と同じことを言った。


「何なんだよ」


母親が浴室の外から声をかけた。


「大丈夫?」


手形を指で触り、痛みに顔を歪めた。


ざまあみろ、と思った。


伯母の言葉を聞き、それを男へ返した。


同じ場所へ。


それは、あまりにも分かりやすかった。


やったことが返ってきた。


神様が、同じ痛みを返した。


男は鏡の前で、背中を押さえたまま膝をついた。


泣いてはいなかった。


だが、怯えていた。


その夜、男は真奈を迎えに行かなかった。


電話も途中で切った。


母親が何度も誰かへ連絡していたが、男は部屋から出てこなかった。


自分がやったことが、自分へ返ってきたから。


それは、真奈を一晩守った。


次の日には別の手続きが必要だ。病院の記録。警察への相談。児童相談所の判断。伯母の協力。母親の決断。学校の連携。


奇跡だけでは、子どもは守れない。


手形だけでは、家は変わらない。


でも、その一晩を作ったのは、見えない手だった。


俺はそれを否定できなかった。


◇


三日後、灯りの部屋には花が置かれていた。


受付の机の端に、紙袋と一緒に置かれていた。


紙袋の中には菓子折りが入っていた。


添えられた紙には、こう書かれていた。


真奈は、今は安全なところにいます。

助けを求めたことを、悪いことにしないでくださって、ありがとうございました。


彩乃の母は、それをすぐに片づけようとした。


「こういうものは受け取れません」


お礼を受け取れば、場所の意味が変わる。


実績が信仰になる。


紙の内容は、すでに読まれてしまった。


莉奈も見た。


結衣も見た。


西野も見た。


陽菜も見た。


陽菜は紙から目を離せなかった。


「私じゃないです」


陽菜は言った。


「分かっています」


彩乃の母が答えた。


「これは、関係機関につながったことへのお礼です。阿久津さん個人へのものではありません」


そう言いながら、彩乃の母も分かっていた。


そんな整理で済むなら、最初から灯りの部屋は灯りの部屋などと呼ばれていない。


真奈の背中にあった手形が、男の背中へ返ったらしい。


誰が言ったのかは分からない。


病院で見た誰かかもしれない。


警察へ説明する中で漏れたのかもしれない。


「同じ場所だったって」


「真奈ちゃんが叩かれてたところと」


「阿久津さんが祈った後で」


「神様が返したんだ」


返した。


最初は、返した、だった。


その違いに、俺は少し救われた。


返した、は罰したに近い。


悪いことをした人へ、同じ痛みを戻す。


陽菜は、それを感じていた。


その日の夜、陽菜は灯りの部屋の机に座っていた。


窓の外は暗い。


部屋の蛍光灯だけが白く点いている。


だから、灯りの部屋と呼ばれる。


陽菜は、壁の貼り紙を見ていた。


誰かを罰してとは言わない。


その一文の前で、長く止まっていた。


「私、罰してって言ってない」


西野が隣で言った。


「分かってる」


「でも、そうなった」


「それは阿久津さんのせいじゃない」


「そう言ってくれるのは、美咲ちゃんだけだよ」


陽菜は笑わなかった。


「他の人は、違うふうに見る」


西野は黙った。


陽菜は続けた。


「真奈さんが助かったのは、よかった」


「うん」


「帰らなくて済んだのも、よかった」


「うん」


「でも」


陽菜は貼り紙を見たまま言った。


「怖かった」


その声は、子どもみたいだった。


「神様が、本当に見てるみたいで」


俺は壁際に立っていた。


俺だ。


そう言いたかった。


言えたら、どれだけ楽だろう。


お前の父親が、男を叩いた。


そう言えたら。


でも、それを言えば、陽菜は何を思う。


父親が、伯母の言葉を聞いて、同じ場所を叩いた。


父親が、佐伯も河合も殺した。


父親が、ずっと神様のふりをしていた。


いや、ふりをしていたわけでもない。


黙っていただけだ。


その沈黙が、神様になっただけだ。


陽菜は小さく言った。


「神様が見ているなら」


西野が陽菜を見た。


「ちゃんと、助ける方だけ見てほしい」


それは祈りだった。


見捨てないことと、罰すること。


それらは、もう陽菜の中で離れなくなり始めている。


どうすればいいのか分からなかった。


抱きしめることもできない。


できるのは、次に誰かが害意を向けた時、その何かを壊すことだけだ。


◇


一週間後、灯りの部屋に新しい相談が来た。


真奈の件とは違う。


家庭でも、学校でも、配信でも、待ち伏せでもない。


受付に来たのは、痩せた男だった。


手には古い封筒を持っていた。


目の下に濃い隈があり、何日も眠っていないような顔だった。


彩乃の母が対応した。


「どういったご相談ですか」


男は、部屋の中を見回した。


陽菜はその場にいなかった。


その日は来る日ではなかった。


それでも男は、まるで誰かを探すように、部屋の隅を見た。


「ここなら」


男は言った。


「見えないものも、見てもらえるって聞いたんです」


彩乃の母の表情が固まった。


結衣が手を止めた。


莉奈が息を呑んだ。


俺は、男の背中の後ろを見た。


男は封筒を握りしめた。


「娘が、誰もいない部屋に向かって謝るんです」


雨の音が、窓を叩いていた。


「夜になると、知らない女の人の声がするって」


男は続けた。


「阿久津さんなら、祓ってもらえますか」


部屋の灯りが、白く揺れたように見えた。


実際には、揺れていなかったのかもしれない。


ただ、俺がそう感じただけかもしれない。


灯りの部屋は、また一つ別の名前を与えられようとしていた。


神様へ届く場所。


痛みが返る場所。


俺は、まだ見えない部屋の奥を見ていた。


飢えたような、冷えたような、言葉にならない気配。


陽菜はここにいない。


それなのに、祈りだけが先に来ていた。


見えないものも。


俺は思った。


除霊師でもない。


ただの悪霊だ。


けれど、灯りの部屋にはもう、そういう声まで届き始めていた。

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