第30話 奇跡
夕方、雨は強くなった。
真奈は病院へ行くことになった。
伯母が付き添う。彩乃の母も一緒に行く。真奈の母親には、専門機関から連絡してもらう。再婚相手には、今この場所を知らせない。
決まったはずだった。
だが、男は来た。
真奈のスマホの位置情報を見ていたのか。
分からないことは、分からないままだ。
ただ、男は灯りの部屋の前に現れた。
背は高い。髪は短く、スーツの上に作業着のような上着を着ている。三十代後半くらい。顔は整っているが、目が笑っていなかった。
入口で結衣が止めた。
「どなたですか」
男は結衣を見下ろした。
「上原真奈の保護者です」
母親と再婚しているなら、家ではそういう立場なのだろう。
だが、声に真奈を心配する響きはなかった。
所有物を取り戻しに来た人間の声だった。
彩乃の母が奥から出てきた。
「真奈さんは、今、大人と話をしています」
「大人?」
「未成年を勝手に連れ回して、大人と話してる? それ、誘拐ですよ」
部屋の空気が固くなる。
小野寺が前へ出た。
「警察と児童相談所へ連絡しています」
「だったらなおさら、親に返してください」
「本人が帰りたくないと言っています」
男の顔が一瞬だけ歪んだ。
すぐに笑顔へ戻したが、俺には見えた。
「子どもはそういうことを言うんですよ」
男は言った。
「反抗期なんで。家で注意されたから、逃げただけです。おたくたち、そういう子どもの言葉を真に受けて、家庭を壊すつもりですか」
家庭という言葉は、便利な蓋になる。
中で何が起きていても、外の人間を追い払う蓋になる。
真奈は奥の部屋にいた。
俺は真奈の顔を見た。
真奈は震えていた。
それだけで、男の言葉が嘘だと分かった。
真奈が怖がっている。
それが、今ここで一番大事な事実だった。
男は靴を脱がずに上がろうとした。
結衣が止める。
「入らないでください」
「どいて」
「入らないでください」
男の手が結衣の肩へ伸びた。
小野寺がその手を止めた。
「触らないでください」
男は小野寺を見る。
「先生ですか」
「そうです」
「じゃあ、あなたも責任取れますね」
男の声は低くなった。
「家庭に口出しした責任、取れますね」
小野寺は答えなかった。
男は奥を見た。
「真奈」
真奈の身体が跳ねた。
「帰るぞ」
伯母が叫ぶように言った。
「帰しません」
男の顔から笑みが消えた。
「あなたに権利あります?」
その言葉には、法律の形をした脅しがあった。
自分が正しい側にいると思わせる声だった。
伯母は怯んだ。
その隙に、男が奥へ進もうとした。
陽菜が立ち上がった。
西野が止めようとしたが、間に合わなかった。
陽菜は男の前に出た。
「帰りたくないって言っています」
男は陽菜を見た。
「ああ」
「あなたが阿久津さん?」
陽菜は答えなかった。
「なるほど。神様にお願いする人か」
部屋の中の誰かが息を呑んだ。
男は陽菜へ一歩近づく。
「じゃあ聞いてください。うちの子が嘘をついて、家庭をめちゃくちゃにしています。神様が見てるなら、どっちが悪いか分かりますよね」
陽菜は青ざめていた。
「私は、どっちが悪いかを決めません」
「じゃあ何をするんですか」
「一人で帰さないように、お願いしました」
その瞬間、男の顔が歪んだ。
「お願い?」
男の手が上がった。陽菜へではない。奥にいる真奈へ向かった。
「お前が余計なことを言うからだろ!」
真奈を叩いてきた手だった。
俺は男の背中を、伯母が話したのと同じ場所へ平手で叩き返した。生きていた頃の俺の手ではない。悪霊の手だった。
乾いた音がした。
「ぐっ」
男は背中を押さえた。
「何だ」
俺だけがいる。
男がもう一度真奈へ向かおうとした。俺は同じ場所をもう一度叩いた。
二度目の音が響いた。男の顔が怒りで真っ赤になる。
「誰だ!」
叫んだ声は、部屋の壁に跳ね返った。
真奈は泣き声を上げた。
陽菜が言った。
「やめてください」
真奈を連れて帰ろうとしている。
帰ったら、何をするか分からない。
服で隠れる場所。
平手で、何度も。
俺は三度目の手を上げていた。
「やめてください」
陽菜の声が、さっきより強くなった。
「もう、やめてください」
その声で、俺は止まった。
男は床に手をつき、背中を押さえていた。
彩乃の母が震える手で警察へ電話をかけ直した。
小野寺が男との間に立った。
結衣が入口から人を呼んだ。
西野は陽菜の腕を掴んだ。
陽菜は動かなかった。
真奈は、伯母の胸に顔を押しつけて泣いていた。
「何だよ」
「何なんだよ」
神様が見ていた。
そう思いたい人間なら、答えは簡単だ。
俺が叩いただけだ。
それも、娘の祈りを受け取った悪霊が。
◇
警察が来た時、男はまだ怒っていた。
だが、さっきより声は小さくなっていた。
「誰かに殴られた」
そう何度も言った。
警察官は周囲を見た。
背後に人がいなかったことを、複数の大人が証言した。
「じゃあ何だよ!」
真奈は病院へ向かった。
彩乃の母も同行した。
元保健師が、記録と連絡先を確認した。
小野寺は、灯りの部屋の前に残って、警察へ説明していた。
陽菜は奥の椅子に座っていた。
西野が隣に座る。
莉奈は泣いていた。
結衣はずっと黙っていた。
彩乃は母が出ていった扉を見ていた。
「阿久津さん」
西野が言った。
陽菜は顔を上げなかった。
「阿久津さんは、叩いてなんて言ってない」
陽菜は頷かなかった。
「罰してとも言ってない」
陽菜は頷かなかった。
少しして、陽菜は言った。
「帰さないでくださいって、言った」
西野が黙る。
「一人で帰さないでくださいって、お願いした」
「それは」
「そしたら」
陽菜の声が震えた。
「帰らなくて済んだ」
誰も何も言えなかった。
真奈は帰らずに済んだ。
児童相談所へつながった。
救われる方向へ、世界は動いた。
だが、その途中で男は見えない手に叩かれた。
真奈が叩かれていたと聞いた場所を。
陽菜はそれを知らないわけではない。
背中と聞いた。
服で隠れる場所と聞いた。
平手と聞いた。
神様が見ているなら、この人を一人で帰さないでください。
「私、叩いてほしいって言ってない」
陽菜は言った。
「分かってる」
西野がすぐに言った。
「阿久津さんは言ってない」
「でも」
陽菜は手を見た。
細い、何も壊せない手。
「止めてほしいとは、思った」
俺だけに届いたような声だった。
言えるはずがなかった。
◇
その夜、俺は男の家にいた。
真奈はいない。
伯母の家にもいない。病院から、保護につながるらしい。詳しいことは、俺には分からない。書類の中身を勝手に読めるわけではないし、電話の向こうの声も全部聞けるわけではない。
ただ、真奈がその家に戻っていないことだけは分かった。
母親はリビングで泣いていた。
男は浴室で上着を脱ぎ、鏡に背中を映していた。
俺は、その鏡を見た。
一つは肩甲骨の下。
平手の形が、赤黒く浮かんでいる。
男は鏡越しに自分の背中を見て、息を荒くしていた。
「何だよ」
昼と同じことを言った。
「何なんだよ」
母親が浴室の外から声をかけた。
「大丈夫?」
手形を指で触り、痛みに顔を歪めた。
ざまあみろ、と思った。
伯母の言葉を聞き、それを男へ返した。
同じ場所へ。
それは、あまりにも分かりやすかった。
やったことが返ってきた。
神様が、同じ痛みを返した。
男は鏡の前で、背中を押さえたまま膝をついた。
泣いてはいなかった。
だが、怯えていた。
その夜、男は真奈を迎えに行かなかった。
電話も途中で切った。
母親が何度も誰かへ連絡していたが、男は部屋から出てこなかった。
自分がやったことが、自分へ返ってきたから。
それは、真奈を一晩守った。
次の日には別の手続きが必要だ。病院の記録。警察への相談。児童相談所の判断。伯母の協力。母親の決断。学校の連携。
奇跡だけでは、子どもは守れない。
手形だけでは、家は変わらない。
でも、その一晩を作ったのは、見えない手だった。
俺はそれを否定できなかった。
◇
三日後、灯りの部屋には花が置かれていた。
受付の机の端に、紙袋と一緒に置かれていた。
紙袋の中には菓子折りが入っていた。
添えられた紙には、こう書かれていた。
真奈は、今は安全なところにいます。
助けを求めたことを、悪いことにしないでくださって、ありがとうございました。
彩乃の母は、それをすぐに片づけようとした。
「こういうものは受け取れません」
お礼を受け取れば、場所の意味が変わる。
実績が信仰になる。
紙の内容は、すでに読まれてしまった。
莉奈も見た。
結衣も見た。
西野も見た。
陽菜も見た。
陽菜は紙から目を離せなかった。
「私じゃないです」
陽菜は言った。
「分かっています」
彩乃の母が答えた。
「これは、関係機関につながったことへのお礼です。阿久津さん個人へのものではありません」
そう言いながら、彩乃の母も分かっていた。
そんな整理で済むなら、最初から灯りの部屋は灯りの部屋などと呼ばれていない。
真奈の背中にあった手形が、男の背中へ返ったらしい。
誰が言ったのかは分からない。
病院で見た誰かかもしれない。
警察へ説明する中で漏れたのかもしれない。
「同じ場所だったって」
「真奈ちゃんが叩かれてたところと」
「阿久津さんが祈った後で」
「神様が返したんだ」
返した。
最初は、返した、だった。
その違いに、俺は少し救われた。
返した、は罰したに近い。
悪いことをした人へ、同じ痛みを戻す。
陽菜は、それを感じていた。
その日の夜、陽菜は灯りの部屋の机に座っていた。
窓の外は暗い。
部屋の蛍光灯だけが白く点いている。
だから、灯りの部屋と呼ばれる。
陽菜は、壁の貼り紙を見ていた。
誰かを罰してとは言わない。
その一文の前で、長く止まっていた。
「私、罰してって言ってない」
西野が隣で言った。
「分かってる」
「でも、そうなった」
「それは阿久津さんのせいじゃない」
「そう言ってくれるのは、美咲ちゃんだけだよ」
陽菜は笑わなかった。
「他の人は、違うふうに見る」
西野は黙った。
陽菜は続けた。
「真奈さんが助かったのは、よかった」
「うん」
「帰らなくて済んだのも、よかった」
「うん」
「でも」
陽菜は貼り紙を見たまま言った。
「怖かった」
その声は、子どもみたいだった。
「神様が、本当に見てるみたいで」
俺は壁際に立っていた。
俺だ。
そう言いたかった。
言えたら、どれだけ楽だろう。
お前の父親が、男を叩いた。
そう言えたら。
でも、それを言えば、陽菜は何を思う。
父親が、伯母の言葉を聞いて、同じ場所を叩いた。
父親が、佐伯も河合も殺した。
父親が、ずっと神様のふりをしていた。
いや、ふりをしていたわけでもない。
黙っていただけだ。
その沈黙が、神様になっただけだ。
陽菜は小さく言った。
「神様が見ているなら」
西野が陽菜を見た。
「ちゃんと、助ける方だけ見てほしい」
それは祈りだった。
見捨てないことと、罰すること。
それらは、もう陽菜の中で離れなくなり始めている。
どうすればいいのか分からなかった。
抱きしめることもできない。
できるのは、次に誰かが害意を向けた時、その何かを壊すことだけだ。
◇
一週間後、灯りの部屋に新しい相談が来た。
真奈の件とは違う。
家庭でも、学校でも、配信でも、待ち伏せでもない。
受付に来たのは、痩せた男だった。
手には古い封筒を持っていた。
目の下に濃い隈があり、何日も眠っていないような顔だった。
彩乃の母が対応した。
「どういったご相談ですか」
男は、部屋の中を見回した。
陽菜はその場にいなかった。
その日は来る日ではなかった。
それでも男は、まるで誰かを探すように、部屋の隅を見た。
「ここなら」
男は言った。
「見えないものも、見てもらえるって聞いたんです」
彩乃の母の表情が固まった。
結衣が手を止めた。
莉奈が息を呑んだ。
俺は、男の背中の後ろを見た。
男は封筒を握りしめた。
「娘が、誰もいない部屋に向かって謝るんです」
雨の音が、窓を叩いていた。
「夜になると、知らない女の人の声がするって」
男は続けた。
「阿久津さんなら、祓ってもらえますか」
部屋の灯りが、白く揺れたように見えた。
実際には、揺れていなかったのかもしれない。
ただ、俺がそう感じただけかもしれない。
灯りの部屋は、また一つ別の名前を与えられようとしていた。
神様へ届く場所。
痛みが返る場所。
俺は、まだ見えない部屋の奥を見ていた。
飢えたような、冷えたような、言葉にならない気配。
陽菜はここにいない。
それなのに、祈りだけが先に来ていた。
見えないものも。
俺は思った。
除霊師でもない。
ただの悪霊だ。
けれど、灯りの部屋にはもう、そういう声まで届き始めていた。




