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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第6章 神の時代

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第29話 灯りの部屋

 半年で、場所には名前がついた。


 市の施設ではない。学校の組織でもない。地域の集会室を借りて、保護者と元教師と、近所の大人たちが交代で管理する場所だ。学校だけでは抱えきれない相談を、専門窓口へつなぐための部屋。


 入口には紙が貼られている。


 ここでできるのは、専門機関へつなぐことです。

緊急時は警察、救急、児童相談所へ。

撮影、録音、配信は禁止です。

相談者の名前を外へ出さないでください。

阿久津さんへ直接依頼しないでください。


 正しい言葉ばかりだった。


 人はそこを、いつしか「灯りの部屋」と呼び始めた。


 夕方になっても、窓の灯りが消えないから。


 泣いて来た人が、次に行く場所を教えてもらえるから。


 暗い家へ一人で帰らなくていいように、誰かがそこにいるから。


 俺も、最初は少しだけ安心した。


 学校の校門前に知らない大人が立つよりはいい。陽菜の机に封筒が入るよりはいい。廊下で突然頭を下げられるよりはいい。


 陽菜がそこへ毎日行くわけでもない。


 月に一度、運用の確認に顔を出すだけ。


 陽菜は一人で聞かない。


 陽菜が決めない。


 陽菜が裁かない。


 何度も確認された。


 それでも、灯りの部屋の壁には、陽菜の言葉が残っていた。


 困っている人を責めない。

 一人で行かない。

 先生や大人に言う。

 危ない時は警察へ。

 撮らない。

 録らない。

 誰かを罰してとは言わない。

 助けを求めたことを、悪いことにしない。


 阿久津陽菜の名前は、どこにもない。


 神様という文字もない。


 けれど、消したはずの名前は、紙と紙の間に残っていた。


 灯りの部屋へ来る人たちは、貼り紙を読む。


 陽菜はもう、その視線から完全には逃げなかった。


 「私が聞きます」


 そう言うようになっていた。


 「でも、私が決めるんじゃありません」


 「ちゃんと、助けられる人へつないでください」


 誰かを裁くとも言わない。


 ただ、届くように願う。


 それだけのことが、ここではもう役目になっていた。


 ◇


 上原真奈が来たのは、雨の日だった。


 小柄で、髪を後ろで一つに結んでいた。制服の上から灰色のパーカーを羽織っている。手には何も持っていない。傘も、自分では持っていなかった。


 母親の姉だという女は、真奈の肩を濡らさないように、自分の傘をずらして歩いてきた。そのせいで、伯母の左肩だけが雨で濃くなっていた。


 受付にいた彩乃の母が、すぐに奥へ通した。


 陽菜はその日、月に一度の確認のために来ていた。


 西野もいた。莉奈もいた。結衣もいた。彩乃もいた。


 本来なら、陽菜が直接聞く必要はない。


 だが、伯母は陽菜の姿を見た瞬間、泣き崩れそうになった。


 「阿久津さん」


 その声に、西野が前へ出た。


 「直接お願いしないでください」


 「すみません。分かっています。分かってます。ただ、ここなら」


 「ここなら、戻さなくていいって聞いたんです」


 戻す。


 その言葉で、部屋の空気が変わった。


 彩乃の母が椅子を勧める。


 養護教諭の知り合いだという元保健師の女性が、記録用紙を出す。


 小野寺も来ていた。学校外の場所だから、本来は関係ない。それでも、小野寺は時間を見つけて顔を出すようになっていた。


 真奈は椅子に座らなかった。


 伯母の後ろに立ったまま、床を見ている。


 陽菜は真奈を見た。


 真奈は陽菜を見なかった。


 見ないまま、小さく言った。


 「帰りたくないです」


 その声は、雨の音より小さかった。


 それでも、部屋の全員に聞こえた。


 「妹の再婚相手なんです」


 「最初は、しつけだって言っていました。真奈が反抗するから。嘘をつくから。家のものを勝手に触るから。学校へ行きたがらないから。そういう理由で」


 真奈は動かない。


 「殴るんじゃないんです」


 伯母は言った。


 「顔には出ないんです。腕にも、見えるところにはあまり」


 見たわけではない。


 伯母の口から、聞いた。


 「背中なんです」


 「肩甲骨の下とか、腰に近いところとか。服を着ていたら見えない場所を、平手で。何度も。音がしないように、でも跡は残るくらいに」


 真奈が口を押さえた。


 「昨日、泊まりに来た時、着替えようとして、見えてしまって」


 彩乃の母が静かに聞いた。


 「写真はありますか」


 「真奈の許可をもらって、撮りました。病院にも行こうって言ったんです。でも、妹が」


 母親。


 その場にいない人間の影が、部屋の隅に座ったようだった。


 「妹は、家のことだからって。大げさにしないでって。あの人は仕事で疲れているだけだって」


 小野寺の顔が険しくなった。


 元保健師が言った。


 「今日は家へ戻さない方がいいですね」


 「お願いします。私の家にも、連れて帰っていいのか分からなくて。妹から連絡が来て、連れ戻すって言われて」


 彩乃の母がすぐに紙を確認した。


 「児童相談所へ連絡します。病院で記録も取ってください。警察にも相談しましょう。真奈さん本人の意思も確認します」


 灯りの部屋は、奇跡を起こす場所ではない。


 電話をかける。


 一人で戻さない。


 そういう当たり前のことを、当たり前にする場所。


 それなのに、伯母は陽菜を見た。


 「阿久津さん」


 西野が止めようとした。


 「私が聞きます」


 陽菜は言った。


 「でも、私が決めるんじゃありません」


 「はい。分かっています」


 分かっていると言う人ほど、分かっていない。


 それを、俺はもう何度も見ていた。


 陽菜は真奈を見た。


 「上原さん」


 真奈の肩が動いた。


 「今、帰りたくないって言いましたよね」


 真奈は、ほんの少しだけ頷いた。


 「それを、もう一回、大人に言ってください」


 真奈は顔を上げた。


 「言ったら、怒られます」


 「怒られるかもしれません」


 陽菜の声は優しくなかった。


 いや、優しくしようとして、わざと正直にした声だった。


 「でも、言わないまま一人で帰る方が、たぶん危ないです」


 真奈の目から涙が落ちた。


 「怖いです」


 「うん」


 「怖くても、大人に言えるようにしてください」


 その言葉は、真奈へ向けたものだった。


 「神様が見ているなら」


 西野の手が、膝の上で握られた。


 「この人を、一人で帰さないでください」


 怒りでもない。


 ただ、一人で帰さないでほしい。


 陽菜は続けた。


 「助けを求めたことが、悪いことにならないようにしてください」


 部屋の中で、誰も息をしなかった。


 受け取りたくなくても、入ってきた。


 真奈は泣いていた。


 彩乃の母は電話をかけ始めた。


 小野寺は、必要な連絡先を別の紙に書き出していた。


 莉奈はメモを取っていた。


 結衣は入口を見ていた。


 西野は、陽菜だけを見ていた。

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