第29話 灯りの部屋
半年で、場所には名前がついた。
市の施設ではない。学校の組織でもない。地域の集会室を借りて、保護者と元教師と、近所の大人たちが交代で管理する場所だ。学校だけでは抱えきれない相談を、専門窓口へつなぐための部屋。
入口には紙が貼られている。
ここでできるのは、専門機関へつなぐことです。
緊急時は警察、救急、児童相談所へ。
撮影、録音、配信は禁止です。
相談者の名前を外へ出さないでください。
阿久津さんへ直接依頼しないでください。
正しい言葉ばかりだった。
人はそこを、いつしか「灯りの部屋」と呼び始めた。
夕方になっても、窓の灯りが消えないから。
泣いて来た人が、次に行く場所を教えてもらえるから。
暗い家へ一人で帰らなくていいように、誰かがそこにいるから。
俺も、最初は少しだけ安心した。
学校の校門前に知らない大人が立つよりはいい。陽菜の机に封筒が入るよりはいい。廊下で突然頭を下げられるよりはいい。
陽菜がそこへ毎日行くわけでもない。
月に一度、運用の確認に顔を出すだけ。
陽菜は一人で聞かない。
陽菜が決めない。
陽菜が裁かない。
何度も確認された。
それでも、灯りの部屋の壁には、陽菜の言葉が残っていた。
困っている人を責めない。
一人で行かない。
先生や大人に言う。
危ない時は警察へ。
撮らない。
録らない。
誰かを罰してとは言わない。
助けを求めたことを、悪いことにしない。
阿久津陽菜の名前は、どこにもない。
神様という文字もない。
けれど、消したはずの名前は、紙と紙の間に残っていた。
灯りの部屋へ来る人たちは、貼り紙を読む。
陽菜はもう、その視線から完全には逃げなかった。
「私が聞きます」
そう言うようになっていた。
「でも、私が決めるんじゃありません」
「ちゃんと、助けられる人へつないでください」
誰かを裁くとも言わない。
ただ、届くように願う。
それだけのことが、ここではもう役目になっていた。
◇
上原真奈が来たのは、雨の日だった。
小柄で、髪を後ろで一つに結んでいた。制服の上から灰色のパーカーを羽織っている。手には何も持っていない。傘も、自分では持っていなかった。
母親の姉だという女は、真奈の肩を濡らさないように、自分の傘をずらして歩いてきた。そのせいで、伯母の左肩だけが雨で濃くなっていた。
受付にいた彩乃の母が、すぐに奥へ通した。
陽菜はその日、月に一度の確認のために来ていた。
西野もいた。莉奈もいた。結衣もいた。彩乃もいた。
本来なら、陽菜が直接聞く必要はない。
だが、伯母は陽菜の姿を見た瞬間、泣き崩れそうになった。
「阿久津さん」
その声に、西野が前へ出た。
「直接お願いしないでください」
「すみません。分かっています。分かってます。ただ、ここなら」
「ここなら、戻さなくていいって聞いたんです」
戻す。
その言葉で、部屋の空気が変わった。
彩乃の母が椅子を勧める。
養護教諭の知り合いだという元保健師の女性が、記録用紙を出す。
小野寺も来ていた。学校外の場所だから、本来は関係ない。それでも、小野寺は時間を見つけて顔を出すようになっていた。
真奈は椅子に座らなかった。
伯母の後ろに立ったまま、床を見ている。
陽菜は真奈を見た。
真奈は陽菜を見なかった。
見ないまま、小さく言った。
「帰りたくないです」
その声は、雨の音より小さかった。
それでも、部屋の全員に聞こえた。
「妹の再婚相手なんです」
「最初は、しつけだって言っていました。真奈が反抗するから。嘘をつくから。家のものを勝手に触るから。学校へ行きたがらないから。そういう理由で」
真奈は動かない。
「殴るんじゃないんです」
伯母は言った。
「顔には出ないんです。腕にも、見えるところにはあまり」
見たわけではない。
伯母の口から、聞いた。
「背中なんです」
「肩甲骨の下とか、腰に近いところとか。服を着ていたら見えない場所を、平手で。何度も。音がしないように、でも跡は残るくらいに」
真奈が口を押さえた。
「昨日、泊まりに来た時、着替えようとして、見えてしまって」
彩乃の母が静かに聞いた。
「写真はありますか」
「真奈の許可をもらって、撮りました。病院にも行こうって言ったんです。でも、妹が」
母親。
その場にいない人間の影が、部屋の隅に座ったようだった。
「妹は、家のことだからって。大げさにしないでって。あの人は仕事で疲れているだけだって」
小野寺の顔が険しくなった。
元保健師が言った。
「今日は家へ戻さない方がいいですね」
「お願いします。私の家にも、連れて帰っていいのか分からなくて。妹から連絡が来て、連れ戻すって言われて」
彩乃の母がすぐに紙を確認した。
「児童相談所へ連絡します。病院で記録も取ってください。警察にも相談しましょう。真奈さん本人の意思も確認します」
灯りの部屋は、奇跡を起こす場所ではない。
電話をかける。
一人で戻さない。
そういう当たり前のことを、当たり前にする場所。
それなのに、伯母は陽菜を見た。
「阿久津さん」
西野が止めようとした。
「私が聞きます」
陽菜は言った。
「でも、私が決めるんじゃありません」
「はい。分かっています」
分かっていると言う人ほど、分かっていない。
それを、俺はもう何度も見ていた。
陽菜は真奈を見た。
「上原さん」
真奈の肩が動いた。
「今、帰りたくないって言いましたよね」
真奈は、ほんの少しだけ頷いた。
「それを、もう一回、大人に言ってください」
真奈は顔を上げた。
「言ったら、怒られます」
「怒られるかもしれません」
陽菜の声は優しくなかった。
いや、優しくしようとして、わざと正直にした声だった。
「でも、言わないまま一人で帰る方が、たぶん危ないです」
真奈の目から涙が落ちた。
「怖いです」
「うん」
「怖くても、大人に言えるようにしてください」
その言葉は、真奈へ向けたものだった。
「神様が見ているなら」
西野の手が、膝の上で握られた。
「この人を、一人で帰さないでください」
怒りでもない。
ただ、一人で帰さないでほしい。
陽菜は続けた。
「助けを求めたことが、悪いことにならないようにしてください」
部屋の中で、誰も息をしなかった。
受け取りたくなくても、入ってきた。
真奈は泣いていた。
彩乃の母は電話をかけ始めた。
小野寺は、必要な連絡先を別の紙に書き出していた。
莉奈はメモを取っていた。
結衣は入口を見ていた。
西野は、陽菜だけを見ていた。




