第28話 祭壇の土台
三か月で、陽菜の名前は学校の外へ出た。
手紙、保護者、卒業生の家族、近所の人。学校は「阿久津陽菜は相談員ではありません」と説明したが、噂は説明より速かった。
久瀬は神罰を試し、機材が壊れた。宮原は話した後に証拠が出た。彩乃も、芽衣も、陽菜へ話した後で事態が動いた。
誰も表立って陽菜を神とは呼ばない。代わりに、廊下で目を伏せ、校門の外から頭を下げ、白い封筒を机へ置いた。
人は言葉を飲み込んでも、目で祈る。その感謝と畏れが、陽菜を通って俺へ届いた。
俺は強くなった。父親としてではなく、悪霊として。
◇
相談は、先生の同席する場所だけで受けることになった。
「私が聞きます。でも、私が決めるんじゃありません」
陽菜は毎回そう言い、必ず大人へ渡した。西野が距離を作り、莉奈が連絡を整理し、結衣が撮影を止め、彩乃が外の大人を案内した。
本人を消すための線は、やがて人が通る道になった。
その道で起きた小さな出来事は、まとめて語られた。
部活で預かられていた私物が、壊れたロッカーから落ちた。待ち伏せを続けていた男の自転車が潰れ、制服や時間を書いたメモが見つかった。相談箱に入った家庭の訴えでは、倒れた棚から本人名義の借用書が出た。
俺が壊したのは、扉と車輪と棚だった。
人々が見たのは、陽菜の言葉の後に隠し事が姿を現すことだった。
「阿久津さんに話したら、見つかった」
一件ずつ薄かったが、重なることで、偶然では済まなくなった。
小さな裁きは、その後も続いた。
俺は人を殺さなかった。骨も折らなかった。ただ、逃げ道や隠し場所を壊した。
それでも人々の話は同じ形になった。
阿久津さんに話した。隠していたものが出た。神様が見ていた。
◇
陽菜には、まだ普通の時間があった。
西野と購買のパンを分け、莉奈がノートを落とせば笑い、結衣の「撮影禁止」の字が大きすぎると皆でからかった。彩乃の母が焼いたクッキーを、一つだけ食べた。
進路希望調査の日、陽菜の机には二冊の学校案内があった。一冊はフラワーアレンジメント、もう一冊は店舗や会場の空間装飾を学ぶ専門課程だった。
「花を組んだり、お店や会場を飾ったりする仕事、少し気になってたんだ」
西野にそう言った時だけ、陽菜の声は教団と関係のない十六歳のものに戻った。
俺は、生きていれば言ったと思う。食える仕事か調べろ。学費も見ろ。オープンキャンパスは一人で行くな。たぶん余計なことまで。
だが、その日の放課後、外から来た相談者の連絡が入り、陽菜は学校案内を鞄へしまった。
後日、支援者の一人は「心理や福祉へ進めば、多くの人を救える」と言った。悪意はなかった。陽菜も「そうかもしれません」と答えた。
俺には、その返事が嫌だった。
花や空間を自分の手で飾る仕事に惹かれた娘の希望が、いつの間にか「救うのに向いた進路」へ直されていたからだ。
◇
陽菜は、相談のたびに同じ線を引いた。
「私が聞きます。でも、私が決めるんじゃありません」
「神様が見ているなら、困っている人を一人にしないでください」
その言葉は定型になり、莉奈のノートでは手順になった。
相談は一人で聞かない。お金は受け取らない。撮らない。録らない。危険な話は警察、児童相談所、病院へ。誰かを罰してとは言わない。困っている人を追い返さない。
陽菜は自分の名前を消すよう頼んだ。それでも、「困っている人を責めない」「撮らない」「一人で行かない」は残した。
名前を消しても、言葉の跡は残った。
俺への祈りは、細い糸から縄へ変わっていた。感謝は温かく、畏れは冷たく、期待は重い。
陽菜は学校案内を机の引き出しへしまったまま、相談へ向かった。
俺は、それを止めなかった。
◇
三か月目の終わり、校門の前に年配の女が立っていた。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、紺色の上着を着ている。背は低い。手には茶封筒を持っていた。教師に止められて、何度も頭を下げていた。
「せめて、お礼だけでも」
西野がすぐに前へ出る。
「行かなくていい」
「でも」
「行かなくていい」
結衣も周囲を見た。
スマホを構えている人はいない。
誰かが撮らなくても、目が記録する。
年配の女は、陽菜に気づいた。
「ああ」
「阿久津様」
陽菜が固まった。
西野の顔が険しくなる。
「やめてください」
「すみません。すみません。ただ、一言だけ」
教師が止めようとした。
泣いている大人を、無理に押し返すのは難しい。
女は言った。
「孫が、助かるかもしれません」
「家のことだからと、ずっと言われていました。証拠がない。本人が言わない。家庭で話し合ってください。そう言われて、何度も戻されました」
本人が言わない。
戻される。
この学校の生徒たちは、もうその言葉の重さを知っている。
「でも、こちらで教えていただいたんです。病院で記録を取ってもらうこと。学校だけではなく、相談所にも連絡すること。本人を一人で戻さないこと。私が一人で怒鳴り込んでも駄目だということ」
「孫が、初めて言いました。帰りたくないって」
陽菜の目が揺れた。
それは、陽菜がしたことではない。
先生や大人が動いたのだ。
孫本人が言ったのだ。
それでも女は、陽菜へ頭を下げた。
「阿久津様。ありがとうございます」
「私は」
私は何もしていません。
そう言おうとしたのだと思う。
自分が手順を作ったわけではない。
でも、自分の言葉が手順に入った。
自分が孫を助けたわけではない。
陽菜は、そのことをもう分かっている。
「私は、何かをしたわけじゃありません」
陽菜は言い直した。
「でも」
「お孫さんが、言えたなら。よかったです」
西野が前へ出た。
「阿久津さんを、そういうふうに見ないでください」
女は驚いたように西野を見た。
西野は続ける。
「普通の生徒です。ここに来れば何かしてくれる人じゃありません」
「分かっています」
女は言った。
「阿久津様が何かをしてくださったわけではありません。分かっています」
その言い方が、もう分かっていなかった。
「でも、あのお言葉がなかったら、私はもう諦めていました」
陽菜の顔が、少し青くなった。
陽菜は校門の内側に立ったままだった。
誰も話しかけない。
陽菜が歩くための道が、自然にできた。
保護者が頭を下げる。
これは、何だ。
畏怖か。
救われた人間が、救ってくれたと思う相手へ向ける、自然な礼なのか。
俺の中へ、また何かが流れ込んだ。
孫が助かるかもしれないという希望。
陽菜への感謝。
その奥にある、見えない何かへの祈り。
それが俺へ届いた。
誰も名乗っていない。
祭壇もない。
それでも、信じる者はもういる。
◇
その夜、陽菜は仏壇の前には座らなかった。
しばらく何も書かない。
先生がいる時だけ。
お金は受け取らない。
危ない話は大人へ。
警察、児童相談所、病院へつなぐ。
陽菜はそこまで書いて、手を止めた。
少し考える。
書いた瞬間、陽菜は息を止めた。
神様、という文字を見て、怖くなって、紙が毛羽立つほど消したかもしれない。
だが、その夜の陽菜は消さなかった。
神様が見ているなら、一人にしない。
「違う」
陽菜は小さく言った。
「私がするんじゃない」
誰に言い訳しているのか。
自分にか。
「でも」
陽菜は、ノートの文字を指でなぞった。
「そう思うのは、悪いことじゃないよね」
誰かを一人にしたくないと願うことが、悪いはずがない。
道になれば、人が来る。
俺が強くなれば、何かが壊れる。
陽菜は、ゆっくりノートを閉じた。
生きていた頃の俺が、少し間の抜けた顔で笑っている。
「神様」
その呼び方に、俺はいつも傷つく。
だが、その夜の声は、ただ縋るだけの声ではなかった。
迷っている。
それでも、どこかで決め始めている声だった。
「私が聞くことで、届くなら」
陽菜は言った。
「困ってる人が、一人にならないなら」
「私にできることを、教えてください」
父親としては、やめろと言いたい。
でも、言えたとしても、たぶん言えなかった。
陽菜は誰かを救いたがっている。
その心まで否定することは、俺にはできない。
娘の善意が地獄へ向かっていると分かっていても、その善意そのものを踏み潰すことはできない。
◇
数日後、職員室の前で教師たちが話していた。
陽菜たちは廊下の向こうにいた。
「これ以上は、学校の通常対応では無理があります」
「相談件数が増えすぎています。校内の生徒だけではありません」
「教育委員会には報告している」
学年主任が答えた。
「警察とも連携する。ただ、すべて事件として扱えるわけではない」
「阿久津本人のケアも必要です」
小野寺の声だった。
「本人は一人で読んでいない。判断もしていない。そういう形にはしています。でも、生徒たちは阿久津を見ている」
「分かっている」
「分かっているだけでは足りません」
小野寺は珍しく、少し強く言った。
「阿久津はまだ高校生です。あの子を相談窓口の象徴にするべきじゃない」
「だから、学校の相談体制として処理している」
「外がそう見ていません」
沈黙。
学校がどう名付けても、外は別の名前で呼ぶ。
「学校の外に、受け皿が必要かもしれません」
俺は、その言葉を聞いた瞬間、嫌なものを感じた。
受け皿。
学校だけで抱え込むべきではない。専門機関へつなぐ場所が必要だ。未成年を守るには、大人の体制がいる。
その通りだ。
器ができれば、中身が注がれる。
小野寺は低く言った。
「阿久津を外へ出す話ではないですよね」
「もちろん」
学年主任は答えた。
「本人を関わらせない形を考える」
本人を関わらせない。
本人を関わらせないための手順が、本人を中心にしている。
名前を消すための紙に、名前の跡が残る。
神様を書かない約束をした紙に、神様の気配が残る。
そういうものを、俺はもう見ている。
◇
帰り道、彩乃の母が校門の外で待っていた。
彩乃と一緒だった。
西野はすぐに警戒した。
「何ですか」
彩乃の母は、困ったように笑った。
「責めに来たわけじゃないの」
「分かってます」
西野の声は分かっていなかった。
陽菜は鞄の肩紐を握っていた。
莉奈は一歩後ろにいる。
結衣は周囲を見ていた。
彩乃が、少し緊張した顔で母を見ていた。
彩乃の母は、陽菜へ直接近づかなかった。
距離を取ったまま、言った。
「学校の外に、場所を借りませんか」
その言葉は、職員室で聞いたものと同じ形をしていた。
「駄目です」
西野が即答した。
「場所なんか作ったら、人がもっと来ます」
「学校の前に来るよりは、安全にできるかもしれません」
彩乃の母は静かに言った。
「地域の集会室で、昔から子育て相談や勉強会に使っていたところがあります。大人が管理して、専門窓口へつなぐだけの場所にするんです」
「阿久津さんの場所になる」
西野の声は固かった。
「名前を出さないなら」
「名前を出さなくても、みんな分かります」
西野は言った。
阿久津さんの箱がそうだった。
神様という文字を紙に書かなくても、神様の気配は残る。
彩乃の母は陽菜を見た。
「阿久津さんに、そこへ来てほしいという話ではありません」
陽菜は少し顔を上げた。
「あなたが来なくてもいいように、場所を分けるという話です」
相談者を安全につなぐためだという。その説明も間違ってはいなかった。
莉奈が、小さく言った。
「手順があれば」
西野が振り向く。
莉奈はびくっとした。
「すみません」
「今、考えたでしょ」
西野の声は低い。
莉奈は俯いた。
「すみません」
誰が受けるか。
誰が先生へつなぐか。
阿久津さんに直接行かないようにするには、どうするか。
莉奈の頭は、もう流れを作り始めていた。
悪気はない。
結衣が言った。
「外だと、撮影止めにくいです」
彩乃が答える。
「入口でスマホをしまってもらうとか」
「守れない人が来る」
「大人がいれば」
「大人がいても撮る人は撮る」
彩乃の母は頷いた。
「だから、ちゃんと決める必要があります」
陽菜は黙っていた。
全員が、陽菜を見ないようにしていた。
最終的に、陽菜が何を言うかを待っていた。
気づいていて、逃げられなかった。
「私の名前は」
陽菜が言った。
「使わないでください」
彩乃の母は頷いた。
「もちろん」
「私が行く場所にしないでください」
「はい」
「でも」
西野が、苦しそうな顔をした。
陽菜は続けた。
「学校の前に来て、困る人がいるなら。先生たちが大変なら。困ってる人が、そこからちゃんと大人につながるなら」
「考えるだけなら」
西野が目を閉じた。
莉奈は泣きそうな顔で頷いた。
結衣は唇を噛んだ。
彩乃の母は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お礼は言わないでください」
陽菜はすぐに言った。
「私が許可したみたいになるから」
彩乃の母は、もう一度頭を下げた。
今度は、言葉を使わなかった。
自分が線を引いても、手順になる。
自分が名前を消しても、中心になる。
西日が校舎の窓に反射していた。部活の声が遠くから聞こえる。制服の生徒たちが横を通り過ぎる。どこにでもある放課後の景色だった。
その中で、彩乃の母が言った場所の話だけが、妙に重かった。
相談を受け、先生や専門機関につなぐための、正しい場所。
陽菜が行かなくてもいいようにする場所。
陽菜の名前を使わない場所。
俺には、それが祭壇の土台に見えた。




