第27話 神の代弁者
夕方、学校の小さな多目的室に、陽菜たちは集められた。
小野寺がいた。養護教諭もいた。生活指導の教師もいた。西野、莉奈、結衣、彩乃もいる。陽菜は長机の端に座っていた。
窓の外は暗くなり始めていた。部活の声が遠くに聞こえる。校庭のライトが点いて、窓ガラスに部屋の中が薄く映っている。
「今日の件は、学校として対応する」
小野寺が言った。
「久瀬については警察へ相談する。配信内容の確認も必要だ。親子については、本人たちの意向を確認しながら、適切な窓口につなぐ」
小野寺は続けた。
「阿久津は、直接相談を受けていない。それは確認しておく」
「はい」
「ただ」
「今日のことで、また噂は広がる」
西野が机の下で拳を握った。
「止められないんですか」
「止めたい」
小野寺は正直に言った。
「でも、完全には止められない。校門前にいた生徒もいる。通行人もいる。配信も一部は残っているかもしれない」
結衣が言った。
「拡散されます」
「そうだな」
小野寺は頷いた。
「だから、今後の対応を決める必要がある」
莉奈が陽菜を見た。
その視線に、陽菜は気づいていた。
西野も気づいた。
「阿久津さんに決めさせないでください」
西野が言った。
「この子は生徒です。相談窓口じゃありません」
「分かっている」
「分かってないです」
西野の声は震えていた。
「みんな分かってるって言いながら、阿久津さんを見る。阿久津さんが何て言うか待ってる。今日だってそうです。阿久津さんが出なかったら、あの子はどうなってたんですか。でも出たら、また神様みたいに見られる。どっちでも阿久津さんが傷つく」
小野寺は黙った。
莉奈が泣きそうな顔になった。
「でも」
莉奈は言った。
「でも、あの子の顔が映るのは止まったんですよね」
西野が莉奈を見る。
莉奈は怯えたように肩をすくめたが、言葉を止めなかった。
「久瀬って人に利用されてた。顔も映されてた。阿久津さんが言わなかったら、お母さんも気づかなかったかもしれない」
「だから何?」
西野の声は冷たかった。
莉奈は涙を浮かべた。
「分かりません」
「分からないなら」
「でも、なかったことにはできません」
なかったことにはできない。
それは陽菜が何度も言ってきたことだった。
困っている人を責めないで。
その言葉が、今度は陽菜へ返ってきた。
結衣が低く言った。
「仕組みがないと、また直接来ます」
彩乃も頷いた。
「お母さんたちも、誰に相談すればいいか分からないから、変な人に頼っちゃうんだと思います」
「仕組み」
西野が苦しそうに笑った。
「それが一番危ないって、分かってる?」
「分かってます」
結衣は言った。
「でも、ないともっと危ない」
西野も正しい。
結衣も彩乃も、小野寺も正しい。
正しいことが、陽菜を逃がさない。
机を叩き割りたいと思った。
この場の空気を壊したいと思った。
みんな陽菜を守りたい。
困っている人を助けたい。
陽菜が目を開けた。
「ルールを」
小さな声だった。
だが、部屋の全員が聞いた。
「ルールを、作ってください」
西野が顔を上げる。
「阿久津さん」
「私が一人で聞くのは、やめます」
陽菜は言った。
「先生がいる時だけ。必要なら、大人につないでください」
小野寺が静かに頷いた。
「それは当然だ」
「お金は受け取りません」
「はい」
「撮らないでください」
結衣がすぐに答えた。
「撮らせません」
「危ない話は、大人に言ってください。警察とか、児童相談所とか、病院とか。私に言って終わりにしないでください」
彩乃が頷いた。
「うん」
西野は唇を噛んでいた。
陽菜は続けた。
「誰かを罰してって、言わないでください」
陽菜の声は震えていた。
「私は、誰かを罰するために聞きたくないです」
その言葉に、俺は少しだけ安心した。
そうだ。
お前は罰なんか背負わなくていい。
だが、陽菜はそこで終わらなかった。
「でも」
西野が目を見開いた。
「助けてって言う人を、追い返したくないです」
陽菜は自分の手を見ていた。
細い指が、制服のスカートを握っている。
「私が聞くことで、神様に届くなら」
死者に息はない。
「聞きます」
「私が祈ることで、誰かが一人にならないなら、祈ります」
莉奈が泣いた。
彩乃も泣きそうになった。
結衣は唇を噛んでいる。
西野だけが、泣かなかった。
怒ったような、怖がっているような顔で陽菜を見ていた。
「でも、私が決めるんじゃありません」
陽菜は言った。
「私が裁くんじゃありません」
小野寺は、何かを言おうとして、言えなかった。
陽菜は顔を上げた。
「私は神様じゃありません」
確かに否定だった。
陽菜は、自分が神ではないと知ったまま、神様へ声を届ける場所に立とうとしていた。
「でも」
陽菜は、窓の外を見た。
夕方の校庭。帰っていく生徒。校門の向こうの道路。今日、久瀬が立っていた場所。
「神様が見ているなら」
「困っている人を、見捨てないでください」
俺の中へ、細い糸が入ってきた。
神様に向けた祈り。
だが、その先にいるのは俺だった。
俺は叫びたかった。
俺は神じゃない。
俺は、お前の父親だ。
佐伯を殺した。
河合を殺した。
お前を守るために、人を壊してきた。
それを言えば、陽菜の中で神様は死ぬ。
神様が死ねば、陽菜の支えも一緒に折れる。
黙っているしかなかった。
そして俺の沈黙は、また神様の沈黙になった。
◇
その日の帰り、陽菜は仏壇の前に座った。
冷蔵庫の音が聞こえる。外を車が通る。どこかの家の犬が吠える。生きていた頃と同じ夜の音だ。
陽菜は制服のままだった。
鞄も下ろしただけで、中身を出していない。俺なら、まず制服を着替えろと言った。手を洗え。弁当箱を出せ。プリントはあるのか。そう言ったはずだ。
陽菜は仏壇の前で、しばらく黙っていた。
何も知らず、晩飯の献立と明日の仕事と、陽菜の進路のことをぼんやり考えていた頃の俺。
「お父さん」
「お父さんだったら、怒るよね」
陽菜は小さく笑った。
「やめとけって言うよね」
やめろ。
生きていれば、俺はそこで話を切った。やめろ。危ない。父親の仕事は、娘の善意を褒めることより、危ない場所から引き戻すことだ。
陽菜は俯いた。
「でも、もう分かんない」
「私が何もしなかったら、誰かが一人になるかもしれない」
警察がいる。
そう言いたかった。
先生がいても、見落とされることがある。
警察がいても、間に合わないことがある。
理屈ではなく、息が苦しくなった人間が、最後に祈るように陽菜の名前を呼ぶ。
陽菜はそれをもう知ってしまった。
「神様」
陽菜は言った。
神様。
その呼び方に、俺は傷ついた。
それでも、その呼び方が陽菜を支えていることも知っていた。
「私、神様じゃありません」
陽菜は目を閉じた。
「でも、私が聞くことで届くなら、聞きます」
「私が祈ることで、誰かが一人にならないなら、祈ります」
怖い。
それは感謝ではなく、まだ願いだった。だが、願いが叶ったと人が思えば、次は信仰になる。
信じれば、俺は強くなる。
「でも、私が裁くんじゃありません」
陽菜は言った。
「私が決めるんじゃありません」
そうだ。
俺はそう願った。
人は、窓口をただの窓口のままにはしておかない。
そこに立つ人間を、ただの人間のままにはしておかない。
いや、少しは知っているのかもしれない。
知っていて、受け入れたのかもしれない。
陽菜は手を合わせた。
「神様が見ているなら」
父ではないものへ向かって。
「困っている人を、見捨てないでください」
神のふりをするつもりもなかった。
だが、祈りは俺の中へ入ってきた。
娘が、誰かを一人にしたくないと願っていたからだ。
悪霊だ。
それでも、その夜、世界のどこかで誰かが陽菜の名前を呼んだなら、俺は動くだろうと思った。
嘘が隠されていれば、棚を倒し、紙を散らし、機械を壊し、人間の目に触れさせる。
ただ、壊すだけだ。
陽菜は、それを神様へ届いたのだと思う。
そして俺は、娘の祈りを壊せない。
陽菜はもう、ただ神様を信じる子どもではない。
神様へ声を届ける場所に、自分で立った。
誰かを裁くと言ってもいない。
願いは集まる。
娘は、神の代弁者になった。




