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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第5章 威光

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第27話 神の代弁者

夕方、学校の小さな多目的室に、陽菜たちは集められた。


小野寺がいた。養護教諭もいた。生活指導の教師もいた。西野、莉奈、結衣、彩乃もいる。陽菜は長机の端に座っていた。


窓の外は暗くなり始めていた。部活の声が遠くに聞こえる。校庭のライトが点いて、窓ガラスに部屋の中が薄く映っている。


「今日の件は、学校として対応する」


小野寺が言った。


「久瀬については警察へ相談する。配信内容の確認も必要だ。親子については、本人たちの意向を確認しながら、適切な窓口につなぐ」


小野寺は続けた。


「阿久津は、直接相談を受けていない。それは確認しておく」


「はい」


「ただ」


「今日のことで、また噂は広がる」


西野が机の下で拳を握った。


「止められないんですか」


「止めたい」


小野寺は正直に言った。


「でも、完全には止められない。校門前にいた生徒もいる。通行人もいる。配信も一部は残っているかもしれない」


結衣が言った。


「拡散されます」


「そうだな」


小野寺は頷いた。


「だから、今後の対応を決める必要がある」


莉奈が陽菜を見た。


その視線に、陽菜は気づいていた。


西野も気づいた。


「阿久津さんに決めさせないでください」


西野が言った。


「この子は生徒です。相談窓口じゃありません」


「分かっている」


「分かってないです」


西野の声は震えていた。


「みんな分かってるって言いながら、阿久津さんを見る。阿久津さんが何て言うか待ってる。今日だってそうです。阿久津さんが出なかったら、あの子はどうなってたんですか。でも出たら、また神様みたいに見られる。どっちでも阿久津さんが傷つく」


小野寺は黙った。


莉奈が泣きそうな顔になった。


「でも」


莉奈は言った。


「でも、あの子の顔が映るのは止まったんですよね」


西野が莉奈を見る。


莉奈は怯えたように肩をすくめたが、言葉を止めなかった。


「久瀬って人に利用されてた。顔も映されてた。阿久津さんが言わなかったら、お母さんも気づかなかったかもしれない」


「だから何?」


西野の声は冷たかった。


莉奈は涙を浮かべた。


「分かりません」


「分からないなら」


「でも、なかったことにはできません」


なかったことにはできない。


それは陽菜が何度も言ってきたことだった。


困っている人を責めないで。


その言葉が、今度は陽菜へ返ってきた。


結衣が低く言った。


「仕組みがないと、また直接来ます」


彩乃も頷いた。


「お母さんたちも、誰に相談すればいいか分からないから、変な人に頼っちゃうんだと思います」


「仕組み」


西野が苦しそうに笑った。


「それが一番危ないって、分かってる?」


「分かってます」


結衣は言った。


「でも、ないともっと危ない」


西野も正しい。


結衣も彩乃も、小野寺も正しい。


正しいことが、陽菜を逃がさない。


机を叩き割りたいと思った。


この場の空気を壊したいと思った。


みんな陽菜を守りたい。


困っている人を助けたい。


陽菜が目を開けた。


「ルールを」


小さな声だった。


だが、部屋の全員が聞いた。


「ルールを、作ってください」


西野が顔を上げる。


「阿久津さん」


「私が一人で聞くのは、やめます」


陽菜は言った。


「先生がいる時だけ。必要なら、大人につないでください」


小野寺が静かに頷いた。


「それは当然だ」


「お金は受け取りません」


「はい」


「撮らないでください」


結衣がすぐに答えた。


「撮らせません」


「危ない話は、大人に言ってください。警察とか、児童相談所とか、病院とか。私に言って終わりにしないでください」


彩乃が頷いた。


「うん」


西野は唇を噛んでいた。


陽菜は続けた。


「誰かを罰してって、言わないでください」


陽菜の声は震えていた。


「私は、誰かを罰するために聞きたくないです」


その言葉に、俺は少しだけ安心した。


そうだ。


お前は罰なんか背負わなくていい。


だが、陽菜はそこで終わらなかった。


「でも」


西野が目を見開いた。


「助けてって言う人を、追い返したくないです」


陽菜は自分の手を見ていた。


細い指が、制服のスカートを握っている。


「私が聞くことで、神様に届くなら」


死者に息はない。


「聞きます」


「私が祈ることで、誰かが一人にならないなら、祈ります」


莉奈が泣いた。


彩乃も泣きそうになった。


結衣は唇を噛んでいる。


西野だけが、泣かなかった。


怒ったような、怖がっているような顔で陽菜を見ていた。


「でも、私が決めるんじゃありません」


陽菜は言った。


「私が裁くんじゃありません」


小野寺は、何かを言おうとして、言えなかった。


陽菜は顔を上げた。


「私は神様じゃありません」


確かに否定だった。


陽菜は、自分が神ではないと知ったまま、神様へ声を届ける場所に立とうとしていた。


「でも」


陽菜は、窓の外を見た。


夕方の校庭。帰っていく生徒。校門の向こうの道路。今日、久瀬が立っていた場所。


「神様が見ているなら」


「困っている人を、見捨てないでください」


俺の中へ、細い糸が入ってきた。


神様に向けた祈り。


だが、その先にいるのは俺だった。


俺は叫びたかった。


俺は神じゃない。


俺は、お前の父親だ。


佐伯を殺した。


河合を殺した。


お前を守るために、人を壊してきた。


それを言えば、陽菜の中で神様は死ぬ。


神様が死ねば、陽菜の支えも一緒に折れる。


黙っているしかなかった。


そして俺の沈黙は、また神様の沈黙になった。


◇


その日の帰り、陽菜は仏壇の前に座った。


冷蔵庫の音が聞こえる。外を車が通る。どこかの家の犬が吠える。生きていた頃と同じ夜の音だ。


陽菜は制服のままだった。


鞄も下ろしただけで、中身を出していない。俺なら、まず制服を着替えろと言った。手を洗え。弁当箱を出せ。プリントはあるのか。そう言ったはずだ。


陽菜は仏壇の前で、しばらく黙っていた。


何も知らず、晩飯の献立と明日の仕事と、陽菜の進路のことをぼんやり考えていた頃の俺。


「お父さん」


「お父さんだったら、怒るよね」


陽菜は小さく笑った。


「やめとけって言うよね」


やめろ。


生きていれば、俺はそこで話を切った。やめろ。危ない。父親の仕事は、娘の善意を褒めることより、危ない場所から引き戻すことだ。


陽菜は俯いた。


「でも、もう分かんない」


「私が何もしなかったら、誰かが一人になるかもしれない」


警察がいる。


そう言いたかった。


先生がいても、見落とされることがある。


警察がいても、間に合わないことがある。


理屈ではなく、息が苦しくなった人間が、最後に祈るように陽菜の名前を呼ぶ。


陽菜はそれをもう知ってしまった。


「神様」


陽菜は言った。


神様。


その呼び方に、俺は傷ついた。


それでも、その呼び方が陽菜を支えていることも知っていた。


「私、神様じゃありません」


陽菜は目を閉じた。


「でも、私が聞くことで届くなら、聞きます」


「私が祈ることで、誰かが一人にならないなら、祈ります」


怖い。


それは感謝ではなく、まだ願いだった。だが、願いが叶ったと人が思えば、次は信仰になる。


信じれば、俺は強くなる。


「でも、私が裁くんじゃありません」


陽菜は言った。


「私が決めるんじゃありません」


そうだ。


俺はそう願った。


人は、窓口をただの窓口のままにはしておかない。


そこに立つ人間を、ただの人間のままにはしておかない。


いや、少しは知っているのかもしれない。


知っていて、受け入れたのかもしれない。


陽菜は手を合わせた。


「神様が見ているなら」


父ではないものへ向かって。


「困っている人を、見捨てないでください」


神のふりをするつもりもなかった。


だが、祈りは俺の中へ入ってきた。


娘が、誰かを一人にしたくないと願っていたからだ。


悪霊だ。


それでも、その夜、世界のどこかで誰かが陽菜の名前を呼んだなら、俺は動くだろうと思った。


嘘が隠されていれば、棚を倒し、紙を散らし、機械を壊し、人間の目に触れさせる。


ただ、壊すだけだ。


陽菜は、それを神様へ届いたのだと思う。


そして俺は、娘の祈りを壊せない。


陽菜はもう、ただ神様を信じる子どもではない。


神様へ声を届ける場所に、自分で立った。


誰かを裁くと言ってもいない。


願いは集まる。


娘は、神の代弁者になった。

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