第25話 威光
陽菜は保健室で待っていた。
小野寺が戻り、黒川が動画撮影と脅しを認めたと告げた。芽衣は泣きながら陽菜へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私は何もしてない」
「でも、阿久津さんが先生に言おうって」
陽菜は否定しかけ、言葉を止めた。芽衣が先生へ話せたのは芽衣自身の勇気だ。けれど、陽菜に話した後で黒川は自分から認めた。その順番まで消すことはできない。
「私は、神様じゃない」
しばらくして、陽菜は続けた。
「でも、困ってる人が一人で言えない時、お願いすることくらいは、できるのかもしれない」
神様に、と言いかけた自分に気づき、陽菜は唇を噛んだ。
「先生に言おう。それだけにしよう」
その場にいた全員が聞いていた。陽菜が初めて、完全には否定しなかったことを。
◇
莉奈は、同じことが起きた時のために手順だけ残そうと提案した。
先生へつなぐ。一人で行かない。撮られたら結衣へ。帰りが危なければ彩乃へ。陽菜だけに抱えさせない。
「そういうふうに決めるの、やめよう」
陽菜は言った。
「決めないと、また阿久津さんが囲まれます」
西野は近づきすぎる人を止め、結衣はスマホを止め、彩乃は帰り道を見た。誰も命令されていない。必要だったから役割になった。
そこへ彩乃の母が加わった。校門の外で待つ大人には、大人が対応するべきだと言った。
「子どもたちだけにさせる方がおかしいでしょう」
正しい言葉だった。また輪が一つ広がった。
◇
陽菜は小野寺へ、自分から頼んだ。
「私のところに来た人を、怒らないでください。噂を信じたから悪いって言わないでください」
翌日、莉奈の紙に一行が増えた。
困っている人を責めない。
「私の言葉を、勝手に書かないで」
陽菜が言うと、莉奈は青ざめて紙をしまおうとした。陽菜は止めた。
「でも、書いてあることは間違ってない」
「じゃあ、阿久津さんの言葉じゃなくて、決まりにします」
それも違う、と陽菜は言えなかった。
撮らない。一人にしない。先生へつなぐ。困っている人を責めない。間違っていないものが積み上がり、本人の迷いより長く残る。
放課後、陽菜が校門へ向かうと、西野、莉奈、結衣、彩乃が同時に動いた。誰も祈っていない。それでも全員が、陽菜の言葉を行動の理由にしていた。
信じるとは、膝をつくことだけではない。
誰かの言葉を、自分の行動の理由にしてしまうことだ。
陽菜は神様ではない。それでも、陽菜の周りには威光が差し始めていた。
◇
「神様を試すな」
いや、言葉の意味は分かる。だが、陽菜がそれを言ったことが分からなかった。
私は神様じゃない。
私に言わないで。
私は何もしていない。
そう言っていた。
それでも、陽菜の周りには人が集まった。
西野が立つ。莉奈が記録する。結衣がスマホを睨む。彩乃が保護者や先生につなぐ。小野寺が学校側の線を引く。養護教諭が泣いた生徒を保健室へ入れる。
廊下の端に立つ下級生。保健室の前で頭を下げる保護者。陽菜の机に入れられた手紙。校門の外から見ている大人。
ただ、陽菜に話した後に何かが動いた。
ただ、泣いていた人間が少しだけ楽になった。
その「ただ」が重なっていくと、人は名前をつけたくなる。
俺は何度も否定したかった。
ここにいるのは、お前たちが思っているようなものじゃない。
娘を守ることしか考えていない、死んだ父親だ。
悪霊だ。
だが、俺の声は誰にも届かなかった。
そして届かない沈黙は、いつも神様の沈黙に似てしまう。
◇
その日、学校は朝から落ち着かなかった。
校門の前に、知らない車が停まっていた。黒いワンボックス。後部座席の窓には薄いスモークが貼られている。運転席には若い男。助手席には別の男。どちらも学校関係者には見えなかった。
生活指導の教師がすぐに声をかけた。
車は一度、校門前から離れた。
だが、昼休み前には近くのコンビニに移動していた。放課後には、また学校の通りをゆっくり流していた。
「またいる」
校舎二階の窓から、結衣が外を見ていた。
「朝の車?」
「たぶん」
莉奈はすぐに陽菜を見た。
陽菜は机に座って、弁当箱の蓋を閉めていた。弁当は半分ほど残っていた。最近、陽菜は昼を残すことが増えた。前は唐揚げだけ先に食べて、野菜を残して俺に怒られていたのに、今は唐揚げにも箸が止まる。
「阿久津さん、今日は一人で帰らないでください」
莉奈が言った。
「うん」
西野が続けた。
「駅まで一緒に行く。できれば先生にも言う」
「大丈夫」
陽菜がそう言うと、西野は少し怒った顔をした。
「大丈夫じゃない」
窓の外で、ワンボックスの後部座席の扉が開いた。
痩せていて、髪を軽く染めている。年は二十代半ばくらい。黒いパーカーに、安っぽく目立つスニーカー。片手にスマホ。もう片方の手には、小型のカメラが付いた棒のようなものを持っていた。
結衣の顔が変わった。
「配信者」
「知ってるの?」
彩乃が聞いた。
「久瀬翔馬」
結衣は低い声で言った。
「炎上系。学校とか家族トラブルとか、そういうのに首突っ込む人」
「何でここに」
「来るでしょ」
西野が吐き捨てるように言った。
「来ない方がおかしい」
久瀬翔馬は、校門から少し離れた歩道に立っていた。スマホを自分の顔へ向けている。口がよく動く。笑っている。教師が近づくと、わざとらしく両手を上げた。
死んでから、距離の感覚は少し変わった。階段を使わなくても行ける。壁も意味がない。だが、俺はときどき階段を使う。生きていた頃の癖だ。陽菜の学校を、俺はまだ普通の建物として見ようとしている。
校門の外で、久瀬は教師に向かってにこにこ笑っていた。
「いやいや、校内には入ってませんから。公道です、公道」
「撮影はやめてください」
「撮ってませんよ。自分を撮ってるだけです」
スマホの角度は、校門と校舎が入るように調整されていた。
生徒を撮るつもりでもある。
俺は久瀬のそばに立った。
嫌悪はある。怒りもある。だが、この段階ではまだ触れられない。スマホ一つ落とせない。
画面には、久瀬自身の顔が映っていた。端には校門。コメントが流れている。ライブ配信ではない。録画かもしれない。いや、画面の上に赤い点が見えた。ライブか、録画中か、少なくとも何かは動いている。
壊すことしかできない。
久瀬は教師に向かって笑った。
「阿久津陽菜さん、いますよね。神様の代弁者って噂の」
「生徒の個人名を出さないでください」
「個人名って、もうネットに出てますよ。消した方がいいですよ、学校さん。隠すから盛り上がるんです」
「撮影をやめてください」
「だから撮ってないですって。あ、でも学校側が威圧してきたっていうのは撮ってます。公共性がありますから」
公共性。
教師はもう一人呼びに行った。
教師が応援を呼びに校内へ戻ると、久瀬はその背中を見て、薄く笑った。
「逃げた」
一人は女だった。四十代くらい。疲れた顔をしている。手に布のバッグを持ち、足元は落ち着かない。もう一人は小学生くらいの女の子だった。母親の袖を握って、俯いている。
久瀬は二人に向かって手招きした。
「大丈夫です。ちゃんと会わせますから」
女は不安そうに校門を見た。
「本当に、阿久津さんに話せるんですか」
「話せます。むしろ、こういう時こそ話した方がいいんです。向こうも逃げられないですから」
女の子が小さく言った。
「帰りたい」
久瀬は笑顔のまま、女の子の肩に手を置いた。
「ここまで来たんだから。お母さんも困ってるんでしょ」
その手を見た瞬間、俺の中で何かが動いた。
まだ触れない。
久瀬の手は優しくなかった。
女の子を支えている手ではない。逃がさないための手だった。
◇
放課後、陽菜は小野寺に呼ばれた。
職員室横の小さな面談室だった。そこには陽菜、西野、莉奈、結衣、彩乃、小野寺、生活指導の教師がいた。
「校門前に配信者が来ている」
小野寺は言った。
「名前は久瀬翔馬。学校として対応している。阿久津は絶対に直接会わないこと」
「はい」
「保護者と子どもを連れてきている」
その言葉で、陽菜の顔が変わった。
「子ども?」
「小学生くらいの女の子だ」
小野寺はわざと淡々と言った。
「家庭の相談をしたいと言っているらしい。ただし、久瀬が間に入っている。信用できない」
西野が言った。
「絶対会わない方がいい」
「撮られます」
莉奈は迷っていた。
「でも、相談が本当だったら」
「だから先生が対応する」
西野が言った。
「阿久津さんが出る必要はない」
「阿久津」
「はい」
「お前が出れば、向こうの思うつぼだ。相手は映像を欲しがっている。お前の言葉を欲しがっている。そこに困っている親子を使っている可能性がある」
「はい」
返事はした。
でも納得していない顔だった。
陽菜は昔からそういう顔をする。
雨の日に、捨てられた子猫を見た時。学校帰りに、道端で転んだ老人を見た時。俺が「関わるな」と言っても、絶対に一度足を止める顔だ。
あの顔をすると、陽菜は動く。
「でも」
陽菜は言った。
「阿久津さん」
「その子が、本当に困ってるなら」
「先生が対応する」
「うん」
「先生が対応してください。私は会わない方がいいのも分かります」
そこで、陽菜は少しだけ拳を握った。
「でも、追い返さないでください」
陽菜は続けた。
「あの人が連れてきたからって、その子が嘘とは限らないから」
結衣は窓の外を見ている。
彩乃は何か言いたそうにして、言えずにいた。
「分かっている。子ども本人と保護者には、学校として別に話を聞く。久瀬は入れない」
「お願いします」
陽菜は頭を下げた。
陽菜はもう、ただ逃げようとはしない。
自分が出てはいけないことを分かっている。
でも、困っているかもしれない相手を、なかったことにできない。
その矛盾が、陽菜を立たせている。
見てしまう。




