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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第5章 威光

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第24話 見えざる者

放課後、吹奏楽部の部室では、黒川沙耶が笑っていた。


楽器ケースが並び、譜面台が壁に立てかけられている。棚には古い楽譜、コンクールのファイル、壊れたチューナー、使い古されたメトロノームが積まれていた。


黒川は、他の三年生二人と一緒にいた。


スマホを持っている。


画面には、芽衣が映っていた。


泣きながら、楽器ケースの前に立っている。顔は半分隠れているが、本人を知っていれば分かる。周りの笑い声も入っている。


黒川が言った。


「これ、流したらきっと面白いよね」


「ていうか、阿久津さんに言いつけるんじゃなかったの?」


「神様に頼むんでしょ」


ただの軽口ではない。泣いている後輩を笑いものにし、怖がらせ、自分の立場を守るために動画を使おうとしている。河合とは違う。河合ほど計画的ではない。人を選び、保存し、支配するほどの知能犯ではない。


だが、やっていることの根は同じだった。


弱いところを握る。

恥を握る。

人に知られたくない顔を握る。


画面を割る。

手から叩き落とす。

踏みつける。


だが、それでは動画が消えるとは限らない。送られているかもしれない。クラウドにあるかもしれない。俺には分からない。


俺にできるのは、壊すことだけだ。


黒川はスマホをポケットに入れた。


「で、どうする?」


「謝りに行かせる?」


「行かせる。阿久津さんの前で土下座させたら面白くない?」


「それ撮りたい」


俺の中で、何かが冷たく固まった。


その時、音楽準備室のドアが開いた。


顧問と小野寺が立っていた。


芽衣も、養護教諭に付き添われて後ろにいる。陽菜はいなかった。陽菜は保健室で待つように言われたのだろう。


陽菜は見なくていい。


黒川の顔から、笑いが消えた。


「黒川」


顧問が言った。


「相原に動画を撮ったという話が出ている。スマホを確認させなさい」


「撮ってません」


「相原は、撮られたと言っている」


「知りません。勘違いじゃないですか」


「スマホを出しなさい」


「嫌です」


黒川の声が硬くなった。


「先生にそこまで見る権利あるんですか。私、何もしてません」


小野寺が一歩前へ出た。


「黒川。今ここで確認できないなら、保護者にも連絡する。学校だけで済まない話になる」


「だから、撮ってないって言ってるじゃないですか」


黒川はポケットの上からスマホを押さえた。


動画を。

自分の立場を。

後輩を黙らせるための道具を。


壊したい。


スマホではない。


黒川の手首。

肩。

背中。

首の後ろ。


「……え」


本人が一番驚いた顔をした。


逃げようとしたのに、足が動かない。ポケットを押さえた手が、妙な角度のまま止まっている。声を出そうとして、喉が詰まる。


生きている人間なら、そう呼ぶのだと思う。


掴んだだけだ。


「黒川?」


答えられない。


俺は黒川の手をポケットから引き出させ、握ったままのスマホから指を剥がした。


スマホが、するりと落ちた。


ただ、落ちた衝撃で画面が点いた。


動画、送る?

阿久津の前で泣かせるやつも撮ろ。


誰からのメッセージかまでは分からない。


顧問にも、小野寺にも、芽衣にも見えた。


黒川の顔が、青くなった。


小野寺がスマホを拾おうとした。


その瞬間、黒川の口から、ひゅっと息が漏れた。


俺はまだ、黒川の肩を掴んでいた。


骨を折る気もない。殺す気もない。けれど、黒川には分かったはずだ。自分の体が、自分のものではなくなっている。動こうとしても動けない。叫ぼうとしても声が出ない。


人間が、自分の体を奪われる恐怖。


「……消してない」


顧問が顔を上げた。


「何?」


「まだ、消してないです」


黒川の声は、ほとんど息だった。


「撮りました。流してないです。まだ、流してないです。グループには送ってない。沙耶たちだけで見ただけで」


一緒にいた三年生二人の顔が変わる。


「ちょっと、沙耶」


「私たち、見ただけで」


黒川は首を振ろうとした。


目だけがぎょろぎょろと動く。


「違う、違う、私だけじゃない」


「黒川」


顧問の声が低くなった。


「最初から話しなさい」


「泣いてたから、撮っただけです」


「だけ?」


「脅すつもりじゃ」


俺の指に、ほんの少し力が入った。


「脅しました」


小さな声だった。


「言うこと聞かないなら、流すって言いました」


芽衣が泣き出した。


養護教諭が芽衣の肩を抱く。


小野寺は、黒川の足元に落ちたスマホを拾った。画面はまだロックされたままだった。通知だけが残っている。


「これは、学校だけで判断しない」


小野寺が言った。


「保護者にも連絡する。必要なら警察にも相談する」


俺は、そこで手を離した。


息を吸い込み、咳き込む。自分の手首を掴み、肩を押さえ、何度も首を振る。


「何、今の」


黒川は顧問を見た。小野寺を見た。芽衣を見た。落ちたスマホを見た。


そして、誰も触っていなかった自分の肩を押さえた。


恐怖が、顔に張り付いていた。


「何か、いた」


その言葉に、部屋の空気が止まった。


顧問が険しい声で言った。


「黒川。誤魔化さない」


「違う、違うんです。今、動けなくて」


「今は、動画の話をしている」


「本当に、動けなくて」


「私、もうしません。動画も消します。送ってないです。ほんとに送ってない。だから、もう」


何に許しを乞おうとしたのか、自分でも分からなかったのだと思う。


芽衣にか。


芽衣は泣いていた。


顧問はスマホを見ていた。


小野寺は黒川を見ていた。


ただ、逃げる体を押さえただけだ。


それだけなのに、黒川は自分から話した。


俺は黒川を見下ろしながら、思った。


陽菜は何もしていない。


それなのに、また陽菜の名前の後に、何かが起きた。

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