第24話 見えざる者
放課後、吹奏楽部の部室では、黒川沙耶が笑っていた。
楽器ケースが並び、譜面台が壁に立てかけられている。棚には古い楽譜、コンクールのファイル、壊れたチューナー、使い古されたメトロノームが積まれていた。
黒川は、他の三年生二人と一緒にいた。
スマホを持っている。
画面には、芽衣が映っていた。
泣きながら、楽器ケースの前に立っている。顔は半分隠れているが、本人を知っていれば分かる。周りの笑い声も入っている。
黒川が言った。
「これ、流したらきっと面白いよね」
「ていうか、阿久津さんに言いつけるんじゃなかったの?」
「神様に頼むんでしょ」
ただの軽口ではない。泣いている後輩を笑いものにし、怖がらせ、自分の立場を守るために動画を使おうとしている。河合とは違う。河合ほど計画的ではない。人を選び、保存し、支配するほどの知能犯ではない。
だが、やっていることの根は同じだった。
弱いところを握る。
恥を握る。
人に知られたくない顔を握る。
画面を割る。
手から叩き落とす。
踏みつける。
だが、それでは動画が消えるとは限らない。送られているかもしれない。クラウドにあるかもしれない。俺には分からない。
俺にできるのは、壊すことだけだ。
黒川はスマホをポケットに入れた。
「で、どうする?」
「謝りに行かせる?」
「行かせる。阿久津さんの前で土下座させたら面白くない?」
「それ撮りたい」
俺の中で、何かが冷たく固まった。
その時、音楽準備室のドアが開いた。
顧問と小野寺が立っていた。
芽衣も、養護教諭に付き添われて後ろにいる。陽菜はいなかった。陽菜は保健室で待つように言われたのだろう。
陽菜は見なくていい。
黒川の顔から、笑いが消えた。
「黒川」
顧問が言った。
「相原に動画を撮ったという話が出ている。スマホを確認させなさい」
「撮ってません」
「相原は、撮られたと言っている」
「知りません。勘違いじゃないですか」
「スマホを出しなさい」
「嫌です」
黒川の声が硬くなった。
「先生にそこまで見る権利あるんですか。私、何もしてません」
小野寺が一歩前へ出た。
「黒川。今ここで確認できないなら、保護者にも連絡する。学校だけで済まない話になる」
「だから、撮ってないって言ってるじゃないですか」
黒川はポケットの上からスマホを押さえた。
動画を。
自分の立場を。
後輩を黙らせるための道具を。
壊したい。
スマホではない。
黒川の手首。
肩。
背中。
首の後ろ。
「……え」
本人が一番驚いた顔をした。
逃げようとしたのに、足が動かない。ポケットを押さえた手が、妙な角度のまま止まっている。声を出そうとして、喉が詰まる。
生きている人間なら、そう呼ぶのだと思う。
掴んだだけだ。
「黒川?」
答えられない。
俺は黒川の手をポケットから引き出させ、握ったままのスマホから指を剥がした。
スマホが、するりと落ちた。
ただ、落ちた衝撃で画面が点いた。
動画、送る?
阿久津の前で泣かせるやつも撮ろ。
誰からのメッセージかまでは分からない。
顧問にも、小野寺にも、芽衣にも見えた。
黒川の顔が、青くなった。
小野寺がスマホを拾おうとした。
その瞬間、黒川の口から、ひゅっと息が漏れた。
俺はまだ、黒川の肩を掴んでいた。
骨を折る気もない。殺す気もない。けれど、黒川には分かったはずだ。自分の体が、自分のものではなくなっている。動こうとしても動けない。叫ぼうとしても声が出ない。
人間が、自分の体を奪われる恐怖。
「……消してない」
顧問が顔を上げた。
「何?」
「まだ、消してないです」
黒川の声は、ほとんど息だった。
「撮りました。流してないです。まだ、流してないです。グループには送ってない。沙耶たちだけで見ただけで」
一緒にいた三年生二人の顔が変わる。
「ちょっと、沙耶」
「私たち、見ただけで」
黒川は首を振ろうとした。
目だけがぎょろぎょろと動く。
「違う、違う、私だけじゃない」
「黒川」
顧問の声が低くなった。
「最初から話しなさい」
「泣いてたから、撮っただけです」
「だけ?」
「脅すつもりじゃ」
俺の指に、ほんの少し力が入った。
「脅しました」
小さな声だった。
「言うこと聞かないなら、流すって言いました」
芽衣が泣き出した。
養護教諭が芽衣の肩を抱く。
小野寺は、黒川の足元に落ちたスマホを拾った。画面はまだロックされたままだった。通知だけが残っている。
「これは、学校だけで判断しない」
小野寺が言った。
「保護者にも連絡する。必要なら警察にも相談する」
俺は、そこで手を離した。
息を吸い込み、咳き込む。自分の手首を掴み、肩を押さえ、何度も首を振る。
「何、今の」
黒川は顧問を見た。小野寺を見た。芽衣を見た。落ちたスマホを見た。
そして、誰も触っていなかった自分の肩を押さえた。
恐怖が、顔に張り付いていた。
「何か、いた」
その言葉に、部屋の空気が止まった。
顧問が険しい声で言った。
「黒川。誤魔化さない」
「違う、違うんです。今、動けなくて」
「今は、動画の話をしている」
「本当に、動けなくて」
「私、もうしません。動画も消します。送ってないです。ほんとに送ってない。だから、もう」
何に許しを乞おうとしたのか、自分でも分からなかったのだと思う。
芽衣にか。
芽衣は泣いていた。
顧問はスマホを見ていた。
小野寺は黒川を見ていた。
ただ、逃げる体を押さえただけだ。
それだけなのに、黒川は自分から話した。
俺は黒川を見下ろしながら、思った。
陽菜は何もしていない。
それなのに、また陽菜の名前の後に、何かが起きた。




