第22話 教団
校門の外には、本当に大人がいた。
四十代くらいだろうか。髪はきちんとまとめている。紺色のカーディガン。手には細い傘。雨は降っていない。日傘でもなさそうだった。ただ、何かを握っていないと立っていられない人間の持ち方だった。
その少し後ろに、白い軽自動車が停まっていた。
女は、陽菜を見つけると表情を変えた。
焦り。
「阿久津さん」
西野が前に出る。
「どなたですか」
「あなたには関係ありません」
女は西野を見もしなかった。
「阿久津陽菜さんですね」
彩乃が陽菜の横に立つ。
校門の内側に、下校途中の生徒が何人か止まった。結衣が少し後ろにいて、すぐに周囲を見回した。スマホを構える生徒を探しているのだろう。莉奈は紙袋を胸に抱えて、何も言えない顔をしていた。
「うちの娘のことで、お話があります」
「娘さんって」
「陸上部の三年です」
彩乃の顔が硬くなった。
女は彩乃を見た。
「あなたもいたの」
「あなたのせいで、うちの子が部活に行けなくなったのよ」
彩乃は唇を噛んだ。
「私は、先生に」
「先生に言えばいいと思ったの? お金のことなんて、部活ならよくあるでしょう。差し入れとか、備品とか、付き合いとか。そんなものを大げさにして」
西野が言った。
「脅してお金を集めてたんですよね」
「脅してなんかいません」
「子ども同士のことです。なのに、あなたたちが騒ぎにした。学校も警察も保護者も巻き込んで、うちの子は悪者にされた」
こういう相手には、何を言っても届かない。
俺は生前、何度か保護者対応を見たことがある。仕事でも、学校でも、似たような大人はいた。自分の子どもが誰かを傷つけたと分かっても、最初に出る言葉が「でも、うちの子にも事情が」になる人間。
誰にでもある。
女は陽菜へ一歩近づいた。
「あなた、何なの」
陽菜の肩が震えた。
「うちの子は、あなたに何もしていないでしょう。どうしてあなたが出てくるの。どうしてあなたの周りで、こんなことばかり起きるの」
「阿久津さんは何もしてません」
彩乃が言った。
「私が先生に言いました」
「あなた一人で言えたの?」
「言えないでしょう。だから、この子のところに行ったんでしょう」
彩乃は黙った。
女の視線が陽菜へ戻る。
「みんな言ってますよ。あなたに話すと、相手が駄目になるって」
陽菜は顔を上げた。
「違います」
「何が違うの」
「私は、何も」
「何もしていない子の周りで、どうしてこんなに都合よく証拠が出るの?」
「うちの子のロッカーが壊れたのも、偶然? 宮原さんの件で倉庫が壊れたのも偶然? 河合くんが死んだのも偶然?」
陽菜の唇が震えた。
俺は思った。
正義感ではない。娘を守りたいだけでもない。目の前の子どもを傷つけ、自分の子どもが傷つけられた分だけ傷つけ返したいという害意。
「あなた、神様にでもなったつもり?」
女が言った。
その言葉に、陽菜の顔から血の気が引いた。
西野が女の前に立つ。
「やめてください」
「どきなさい」
「どきません」
「関係ない子はどきなさい!」
殴るつもりはなかったのかもしれない。だが、先端が西野の肩をかすめた。西野が眉を寄せる。
その瞬間、俺は傘を掴んだ。
女の手の中で、傘の柄が裂けた。骨が跳ね、布が裏返り、細い金属が女の手首を打った。
「痛っ」
女は自分の手首を押さえた。折れてはいない。そこまではしなかった。だが赤く腫れ始めている。何が起きたのか、本人にも分かっていない。
女の後ろで、軽自動車のドアが半開きになっていた。校門前で止めてはいけない場所に停めた車。風もないのに、ドアがわずかに揺れている。
女が後退し、車へ手を伸ばした。逃げるためか、何かを取るためかは分からない。
ばたん、という音が校門前に響いた。
「ぎゃっ」
陽菜が息を呑む。
「やめて」
陽菜は誰に向かって言ったのか分からない声で言った。
「やめてください」
俺は手を止めた。
古い校門だった。何年も使われ、雨に濡れ、錆びた金具。普段なら気にも留めない。だが今は、俺の怒りがそこへ流れていた。
校門の片側が、勝手に動いたように見えた。
錆びた金具が限界を超え、片方の蝶番が外れかけた。門扉が大きく揺れ、女と車の間に割って入るようにずれた。
誰も陽菜へ近づけないように。
そう思ってしまった。
周囲から見れば、校門が陽菜を守ったように見えた。
傘が折れた。
車のドアが閉まった。
校門が動いた。
陽菜に詰め寄った大人だけが傷つき、陽菜の前に道が開いた。
言ったのは、生徒だった。下校中の男子。半分冗談のような、半分本気のような顔で、口元を押さえている。
「神罰じゃん」
結衣がすぐに言った。
「撮らないで」
結衣が走る。西野が陽菜の肩を押して校内へ戻そうとする。彩乃が母親に連絡します、と震える声で言っている。莉奈は立ち尽くしている。
女は痛みに泣きながら、陽菜を見ていた。
陽菜はそれを見た。
何も壊していない手。
なのに、目の前では傘が折れ、車のドアが閉まり、校門が歪んでいた。
「違う」
陽菜は小さく言った。
誰にも届かない声だった。
「違う」
俺は、その声を聞いた。
届いていたのに、もう取り返せなかった。
◇
校門前の騒ぎは、その日のうちに学校の外へ出た。
正確には、完全な映像は出回らなかった。結衣が何人かの生徒を止め、教師もスマホを確認した。映っていたものも、顔がはっきり分かるものは削除させられた。
校門前で保護者が阿久津さんに詰め寄った。
傘が勝手に折れた。
車のドアが勝手に閉まった。
校門が動いた。
阿久津さんは何もしていなかった。
詰め寄った人だけが怪我をした。
阿久津さんの前に門が立った。
神様が守った。
英雄のお父さんが守った。
阿久津さんには、何かがついている。
保護者の連絡網。
部活のグループ。
卒業生のSNS。
近所の大人たちの立ち話。
否定された話は、また別の形で残る。
校長は言った。
「本校では、生徒同士の相談について、必ず教員へつなぐよう指導しています」
生活指導は言った。
「特定の生徒に相談や判断を集中させることは、本人の負担にもなります」
小野寺は教室で言った。
「阿久津を特別扱いするな。困っていることがあれば、先生に言いなさい」
誰も間違っていない。
聞いたうえで、陽菜を見た。
噂をするなと言われれば、噂が本当らしいと感じる。
陽菜は授業中、ずっとノートを見ていた。
文字を書いているのに、同じところで何度もシャープペンの先が止まる。消しゴムで消す。書き直す。また止まる。
陽菜は少しだけ安心した顔をした。
俺も、少しだけ安心した。
けれど、それは長く続かなかった。
大人が二人。
中学生くらいの子を連れた母親が一人。
近所の人間らしい年配の男が一人。
小野寺が気付き、外へ出た。
「どなたですか」
「すみません。こちらに、阿久津さんという生徒さんがいると聞いて」
陽菜の足が止まった。
西野がすぐ横に立つ。
彩乃が一歩後ろで、顔をこわばらせる。莉奈はノートを持っていない。結衣はスマホを構えようとする人間を探している。
「娘のことで、少しだけ」
母親は言った。
「学校ではなく、阿久津さんに」
小野寺の顔が険しくなる。
「生徒個人への接触はご遠慮ください」
「でも、こちらで聞いてもらえたら、何か変わるかもしれないと」
陽菜が俯いた。
母親の横にいる子どもは、制服を着ていなかった。小さな肩を母親の後ろに隠している。顔色が悪い。
助けを求めている。
害意はない。
小野寺が対応している間にも、別の大人が陽菜の方を見ていた。年配の男は合掌まではしなかったが、どこか拝む前のような顔をしていた。
死者に吐き気などないはずなのに、それでも気分が悪くなった。
「帰ろう」
西野が言った。
陽菜は頷いた。
母親の後ろにいる子どもが、陽菜を見ていた。
俺は分かっていた。
学校が止めても、廊下を空けても、ノートをやめても、撮影を禁止しても、門を閉めても、助けを求める人間は来る。
陽菜が望んでいなくても。
陽菜の名前を聞き、陽菜を見つけ、陽菜にすがる。
「私は」
陽菜は小さく言った。
「私は、神様じゃない」
母親は小野寺に止められながら、まだ頭を下げていた。
「お願いします。話だけでも」
陽菜は唇を噛んだ。
その横顔を見て、俺は思った。
まだ陽菜も、西野も、莉奈も、結衣も、彩乃も、自分たちが何かを作っているとは思っていない。
相談する者。
整理する者。
守る者。
撮らせない者。
付き添う者。
見守る者。
噂する者。
恐れる者。
すがる者。
そして、その中心に置かれる娘。
◇
その夜、陽菜は仏壇の前に座っていた。
学校での騒ぎが嘘のように、家の中には誰もいない。冷蔵庫の低い音。壁時計の針。外を通る車の音。そういうものだけが、淡く残っている。
陽菜は制服のままだった。
鞄も、椅子の横に置いたまま。
冷蔵庫には昨日の残りがある。冷凍ご飯もある。味噌汁くらいなら、昔の陽菜でも温められた。いや、今の陽菜ならもっとできる。俺がいなくなってから、陽菜は嫌でも一人で暮らすことを覚え始めている。
俺がいなくても、娘は生きていく。
その当たり前が、嬉しくて、苦しい。
陽菜は仏壇の前で、父の遺影を見ていなかった。
見ているのは、位牌でも写真でもない。
「お父さん」
小さな声。
「私、何もしてないよ」
陽菜は言った。
「本当に、何もしてない」
壊しているのは俺だ。
お前じゃない。
「でも、みんな来る」
陽菜の手が膝の上で震えていた。
「先生は、私に受けるなって言った。西野先輩も、私を守ろうとしてくれる。莉奈さんも、結衣さんも、彩乃さんも、みんなちゃんと考えてくれてる」
陽菜は一度、息を吸った。
「でも、困ってる人が来る」
「見たら、放っておけないよ」
俺は何も言えない。
「それで、何かが起きる」
陽菜は顔を上げた。
仏壇の小さな灯りが、目に映っている。
「私じゃないよね」
その問いは、俺に向けられていたのかもしれない。
父に向けられていたのかもしれない。
あるいは、もっと別の何かへ向けられていたのかもしれない。
「私が、罰してるわけじゃないよね」
違う。
違う、陽菜。
「でも、私が怒ったり、怖いって思ったり、助けたいって思った後に、起きるんだよ」
陽菜の頬に涙が落ちた。
「だったら、私が願ってるのかな」
違う。
お前じゃない。
父さんだ。
父さんが壊している。
お前の願いが人を壊しているわけじゃない。
俺の憎しみだ。
俺の手だ。
届いたとしても、その真実で陽菜が救われるとは思えない。
お父さんが人を殺した。
お父さんが河合を殺した。
お父さんが棚を倒し、ロッカーを壊し、傘を折り、車のドアを閉め、校門を動かした。
そんなことを知って、陽菜はどうなる。
陽菜は震える声で言った。
「神様」
「いるんですか」
その言葉は、部屋の中で静かに落ちた。
仏壇の前。
父の遺影の前。
父がいるのに、父ではない何かへ向けて、娘が尋ねている。
俺は神じゃない。
そんな綺麗なものじゃない。
救いを与えているわけじゃない。
愛で触れられないから、憎しみで壊しているだけの悪霊だ。
それでも、陽菜は神様と呼ぶ。
それでも、「神様がいるかもしれない」という考えが陽菜を少しだけ支えているなら、今の俺には否定することさえできなかった。
「いるなら」
「私は、どうしたらいいですか」
電気も揺れない。
写真立ても倒れない。
線香の煙も動かない。
娘が父を求めている時、父は世界に触れられない。
俺はただ、仏壇の前に座る陽菜を見ていた。
学校の廊下で生まれたものが、校門を越えた。
校門を越えたものが、家まで来た。
陽菜の中にまで、来てしまった。
どの言葉も、まだ正しくない。
でも、いつか誰かが名前をつける。
そして名前をつけられたものは、きっと陽菜を放さない。
陽菜は、もう一度だけ小さく言った。
「神様」
俺は、そのすぐそばにいた。
それでも、返事はできなかった。




