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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第4章 列

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第22話 教団

校門の外には、本当に大人がいた。


四十代くらいだろうか。髪はきちんとまとめている。紺色のカーディガン。手には細い傘。雨は降っていない。日傘でもなさそうだった。ただ、何かを握っていないと立っていられない人間の持ち方だった。


その少し後ろに、白い軽自動車が停まっていた。


女は、陽菜を見つけると表情を変えた。


焦り。


「阿久津さん」


西野が前に出る。


「どなたですか」


「あなたには関係ありません」


女は西野を見もしなかった。


「阿久津陽菜さんですね」


彩乃が陽菜の横に立つ。


校門の内側に、下校途中の生徒が何人か止まった。結衣が少し後ろにいて、すぐに周囲を見回した。スマホを構える生徒を探しているのだろう。莉奈は紙袋を胸に抱えて、何も言えない顔をしていた。


「うちの娘のことで、お話があります」


「娘さんって」


「陸上部の三年です」


彩乃の顔が硬くなった。


女は彩乃を見た。


「あなたもいたの」


「あなたのせいで、うちの子が部活に行けなくなったのよ」


彩乃は唇を噛んだ。


「私は、先生に」


「先生に言えばいいと思ったの? お金のことなんて、部活ならよくあるでしょう。差し入れとか、備品とか、付き合いとか。そんなものを大げさにして」


西野が言った。


「脅してお金を集めてたんですよね」


「脅してなんかいません」


「子ども同士のことです。なのに、あなたたちが騒ぎにした。学校も警察も保護者も巻き込んで、うちの子は悪者にされた」


こういう相手には、何を言っても届かない。


俺は生前、何度か保護者対応を見たことがある。仕事でも、学校でも、似たような大人はいた。自分の子どもが誰かを傷つけたと分かっても、最初に出る言葉が「でも、うちの子にも事情が」になる人間。


誰にでもある。


女は陽菜へ一歩近づいた。


「あなた、何なの」


陽菜の肩が震えた。


「うちの子は、あなたに何もしていないでしょう。どうしてあなたが出てくるの。どうしてあなたの周りで、こんなことばかり起きるの」


「阿久津さんは何もしてません」


彩乃が言った。


「私が先生に言いました」


「あなた一人で言えたの?」


「言えないでしょう。だから、この子のところに行ったんでしょう」


彩乃は黙った。


女の視線が陽菜へ戻る。


「みんな言ってますよ。あなたに話すと、相手が駄目になるって」


陽菜は顔を上げた。


「違います」


「何が違うの」


「私は、何も」


「何もしていない子の周りで、どうしてこんなに都合よく証拠が出るの?」


「うちの子のロッカーが壊れたのも、偶然? 宮原さんの件で倉庫が壊れたのも偶然? 河合くんが死んだのも偶然?」


陽菜の唇が震えた。


俺は思った。


正義感ではない。娘を守りたいだけでもない。目の前の子どもを傷つけ、自分の子どもが傷つけられた分だけ傷つけ返したいという害意。


「あなた、神様にでもなったつもり?」


女が言った。


その言葉に、陽菜の顔から血の気が引いた。


西野が女の前に立つ。


「やめてください」


「どきなさい」


「どきません」


「関係ない子はどきなさい!」


殴るつもりはなかったのかもしれない。だが、先端が西野の肩をかすめた。西野が眉を寄せる。


その瞬間、俺は傘を掴んだ。


女の手の中で、傘の柄が裂けた。骨が跳ね、布が裏返り、細い金属が女の手首を打った。


「痛っ」


女は自分の手首を押さえた。折れてはいない。そこまではしなかった。だが赤く腫れ始めている。何が起きたのか、本人にも分かっていない。


女の後ろで、軽自動車のドアが半開きになっていた。校門前で止めてはいけない場所に停めた車。風もないのに、ドアがわずかに揺れている。


女が後退し、車へ手を伸ばした。逃げるためか、何かを取るためかは分からない。


ばたん、という音が校門前に響いた。


「ぎゃっ」


陽菜が息を呑む。


「やめて」


陽菜は誰に向かって言ったのか分からない声で言った。


「やめてください」


俺は手を止めた。


古い校門だった。何年も使われ、雨に濡れ、錆びた金具。普段なら気にも留めない。だが今は、俺の怒りがそこへ流れていた。


校門の片側が、勝手に動いたように見えた。


錆びた金具が限界を超え、片方の蝶番が外れかけた。門扉が大きく揺れ、女と車の間に割って入るようにずれた。


誰も陽菜へ近づけないように。


そう思ってしまった。


周囲から見れば、校門が陽菜を守ったように見えた。


傘が折れた。

車のドアが閉まった。

校門が動いた。


陽菜に詰め寄った大人だけが傷つき、陽菜の前に道が開いた。


言ったのは、生徒だった。下校中の男子。半分冗談のような、半分本気のような顔で、口元を押さえている。


「神罰じゃん」


結衣がすぐに言った。


「撮らないで」


結衣が走る。西野が陽菜の肩を押して校内へ戻そうとする。彩乃が母親に連絡します、と震える声で言っている。莉奈は立ち尽くしている。


女は痛みに泣きながら、陽菜を見ていた。


陽菜はそれを見た。


何も壊していない手。


なのに、目の前では傘が折れ、車のドアが閉まり、校門が歪んでいた。


「違う」


陽菜は小さく言った。


誰にも届かない声だった。


「違う」


俺は、その声を聞いた。


届いていたのに、もう取り返せなかった。


◇


校門前の騒ぎは、その日のうちに学校の外へ出た。


正確には、完全な映像は出回らなかった。結衣が何人かの生徒を止め、教師もスマホを確認した。映っていたものも、顔がはっきり分かるものは削除させられた。


校門前で保護者が阿久津さんに詰め寄った。

傘が勝手に折れた。

車のドアが勝手に閉まった。

校門が動いた。

阿久津さんは何もしていなかった。

詰め寄った人だけが怪我をした。

阿久津さんの前に門が立った。

神様が守った。

英雄のお父さんが守った。

阿久津さんには、何かがついている。


保護者の連絡網。

部活のグループ。

卒業生のSNS。

近所の大人たちの立ち話。


否定された話は、また別の形で残る。


校長は言った。


「本校では、生徒同士の相談について、必ず教員へつなぐよう指導しています」


生活指導は言った。


「特定の生徒に相談や判断を集中させることは、本人の負担にもなります」


小野寺は教室で言った。


「阿久津を特別扱いするな。困っていることがあれば、先生に言いなさい」


誰も間違っていない。


聞いたうえで、陽菜を見た。


噂をするなと言われれば、噂が本当らしいと感じる。


陽菜は授業中、ずっとノートを見ていた。


文字を書いているのに、同じところで何度もシャープペンの先が止まる。消しゴムで消す。書き直す。また止まる。


陽菜は少しだけ安心した顔をした。


俺も、少しだけ安心した。


けれど、それは長く続かなかった。


大人が二人。

中学生くらいの子を連れた母親が一人。

近所の人間らしい年配の男が一人。


小野寺が気付き、外へ出た。


「どなたですか」


「すみません。こちらに、阿久津さんという生徒さんがいると聞いて」


陽菜の足が止まった。


西野がすぐ横に立つ。


彩乃が一歩後ろで、顔をこわばらせる。莉奈はノートを持っていない。結衣はスマホを構えようとする人間を探している。


「娘のことで、少しだけ」


母親は言った。


「学校ではなく、阿久津さんに」


小野寺の顔が険しくなる。


「生徒個人への接触はご遠慮ください」


「でも、こちらで聞いてもらえたら、何か変わるかもしれないと」


陽菜が俯いた。


母親の横にいる子どもは、制服を着ていなかった。小さな肩を母親の後ろに隠している。顔色が悪い。


助けを求めている。


害意はない。


小野寺が対応している間にも、別の大人が陽菜の方を見ていた。年配の男は合掌まではしなかったが、どこか拝む前のような顔をしていた。


死者に吐き気などないはずなのに、それでも気分が悪くなった。


「帰ろう」


西野が言った。


陽菜は頷いた。


母親の後ろにいる子どもが、陽菜を見ていた。


俺は分かっていた。


学校が止めても、廊下を空けても、ノートをやめても、撮影を禁止しても、門を閉めても、助けを求める人間は来る。


陽菜が望んでいなくても。


陽菜の名前を聞き、陽菜を見つけ、陽菜にすがる。


「私は」


陽菜は小さく言った。


「私は、神様じゃない」


母親は小野寺に止められながら、まだ頭を下げていた。


「お願いします。話だけでも」


陽菜は唇を噛んだ。


その横顔を見て、俺は思った。


まだ陽菜も、西野も、莉奈も、結衣も、彩乃も、自分たちが何かを作っているとは思っていない。


相談する者。

整理する者。

守る者。

撮らせない者。

付き添う者。

見守る者。

噂する者。

恐れる者。

すがる者。


そして、その中心に置かれる娘。


◇


その夜、陽菜は仏壇の前に座っていた。


学校での騒ぎが嘘のように、家の中には誰もいない。冷蔵庫の低い音。壁時計の針。外を通る車の音。そういうものだけが、淡く残っている。


陽菜は制服のままだった。


鞄も、椅子の横に置いたまま。


冷蔵庫には昨日の残りがある。冷凍ご飯もある。味噌汁くらいなら、昔の陽菜でも温められた。いや、今の陽菜ならもっとできる。俺がいなくなってから、陽菜は嫌でも一人で暮らすことを覚え始めている。


俺がいなくても、娘は生きていく。


その当たり前が、嬉しくて、苦しい。


陽菜は仏壇の前で、父の遺影を見ていなかった。


見ているのは、位牌でも写真でもない。


「お父さん」


小さな声。


「私、何もしてないよ」


陽菜は言った。


「本当に、何もしてない」


壊しているのは俺だ。


お前じゃない。


「でも、みんな来る」


陽菜の手が膝の上で震えていた。


「先生は、私に受けるなって言った。西野先輩も、私を守ろうとしてくれる。莉奈さんも、結衣さんも、彩乃さんも、みんなちゃんと考えてくれてる」


陽菜は一度、息を吸った。


「でも、困ってる人が来る」


「見たら、放っておけないよ」


俺は何も言えない。


「それで、何かが起きる」


陽菜は顔を上げた。


仏壇の小さな灯りが、目に映っている。


「私じゃないよね」


その問いは、俺に向けられていたのかもしれない。


父に向けられていたのかもしれない。


あるいは、もっと別の何かへ向けられていたのかもしれない。


「私が、罰してるわけじゃないよね」


違う。


違う、陽菜。


「でも、私が怒ったり、怖いって思ったり、助けたいって思った後に、起きるんだよ」


陽菜の頬に涙が落ちた。


「だったら、私が願ってるのかな」


違う。


お前じゃない。

父さんだ。

父さんが壊している。


お前の願いが人を壊しているわけじゃない。


俺の憎しみだ。


俺の手だ。


届いたとしても、その真実で陽菜が救われるとは思えない。


お父さんが人を殺した。

お父さんが河合を殺した。

お父さんが棚を倒し、ロッカーを壊し、傘を折り、車のドアを閉め、校門を動かした。


そんなことを知って、陽菜はどうなる。


陽菜は震える声で言った。


「神様」


「いるんですか」


その言葉は、部屋の中で静かに落ちた。


仏壇の前。

父の遺影の前。

父がいるのに、父ではない何かへ向けて、娘が尋ねている。


俺は神じゃない。

そんな綺麗なものじゃない。

救いを与えているわけじゃない。

愛で触れられないから、憎しみで壊しているだけの悪霊だ。


それでも、陽菜は神様と呼ぶ。


それでも、「神様がいるかもしれない」という考えが陽菜を少しだけ支えているなら、今の俺には否定することさえできなかった。


「いるなら」


「私は、どうしたらいいですか」


電気も揺れない。

写真立ても倒れない。

線香の煙も動かない。


娘が父を求めている時、父は世界に触れられない。


俺はただ、仏壇の前に座る陽菜を見ていた。


学校の廊下で生まれたものが、校門を越えた。


校門を越えたものが、家まで来た。


陽菜の中にまで、来てしまった。


どの言葉も、まだ正しくない。


でも、いつか誰かが名前をつける。


そして名前をつけられたものは、きっと陽菜を放さない。


陽菜は、もう一度だけ小さく言った。


「神様」


俺は、そのすぐそばにいた。


それでも、返事はできなかった。

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