第20話 救われた人たち
救われた人が増えた、という言い方は正しくない。
家庭も、部活も、いじめも、一日では終わらない。それでも、何かが動くことはあった。
和泉彩乃は陸上部で、先輩から「備品代」や「差し入れ代」を集められていた。断れば記録会から外すと匂わされ、払えない後輩の分まで立て替えていた。
陽菜は「先生に言うなら、一緒に行く」と答えた。それだけしかできない、とも言った。
顧問が部室を確認した時、先輩は封筒を鞄へ移そうとしていた。俺が古いロッカーの扉を外すと、名前と金額の書かれた封筒が床へ散った。
「本当に、あった」
彩乃の声は、宮原と同じだった。陽菜に話し、先生へ行き、隠されていたものが出る。その順番が、また意味になった。
その日から、陽菜の周りには人が増えた。
まだ、学校を変えるほどではない。
教師が警戒するほどでもない。
昼休みの廊下に、小さな輪ができる程度だ。
だが、その輪の中にいる顔ぶれは、少しずつ固定されていった。
西野美咲は、陽菜に直接近づきすぎる人を止めるようになった。
「囲まないで」
「一人ずつ」
「阿久津さんだけに話さないで」
「先生に言う前提で」
言い方はきつい。
だから、怖がる子もいた。
加瀬莉奈は、ノートを持つようになった。
名前。
学年。
今すぐ先生に言うか。
一人で帰るのが危ないか。
親に連絡していいか。
莉奈は「相談内容は書かない方がいいと思います」と言った。誰かに見られたら困るから、と。
その判断は正しかった。
だから、周囲は莉奈を頼るようになった。
長谷結衣は、スマホを止めた。
撮らないでください。
消してください。
先生を呼びます。
からかわれても、表情を変えない。睨むのではなく、記録されることの怖さを知っている顔で、相手のスマホを見つめる。
和泉彩乃は、帰り道に陽菜の横を歩くようになった。
「方向、途中まで同じなので」
嘘ではないのだろう。
だが、毎日ではないにしても、陽菜が一人で帰ろうとすると、彩乃はどこかから現れた。部活がある日は遅いはずなのに、早く帰れる日は決まって陽菜の近くを歩いた。
「大丈夫です」
「私も帰るだけなので」
「でも」
「阿久津さんこそ、一人で帰らない方がいいです」
彩乃はそう言った。
陽菜は黙った。
それは、陽菜が誰かに言った言葉だった。
一人で行ったら危ない。
先生に言った方がいい。
誰かと一緒にいた方がいい。
自分が言った言葉が、自分に返ってくる。
西野。
莉奈。
結衣。
彩乃。
陽菜を囲まないようにしている。
相談内容を勝手に記録しないようにしている。
撮影を止めている。
一人で帰らせないようにしている。
全部、正しい。
正しいことばかりが、陽菜の周りに形を作っていく。
間違っているものなら壊せる。
害意があるなら触れられる。
陽菜を傷つけようとするなら、俺はそいつを止められる。
守りたいという気持ちは、俺の手では掴めない。
それがどれほど陽菜を囲んでいても、俺には触れない。
◇
一週間が過ぎた。
宮原は、前より少しだけ顔を上げて歩くようになった。まだ笑わない。だが、廊下の端を避けるような歩き方はしなくなった。
真帆は、保健室へ行けるようになった。担任と母親にも話したらしい。問題が解決したわけではない。それでも、一人で抱えていた時よりはましになった。
彩乃の部活では、金を集めていた先輩が練習から外された。顧問が保護者説明をすることになった。部内はしばらく荒れるだろう。彩乃が恨まれない保証はない。
何かが動いた。
「宮原さん、阿久津さんに話したんだって」
「それで見つかったんでしょ」
「和泉さんの部活のも、阿久津さんに言った後らしいよ」
「偶然じゃない?」
「でも、河合の時もそうじゃん」
「西野先輩も助かったし」
先生たちは注意した。
生徒たちは首をすくめた。
表では黙った。
だが、廊下の角で、階段の踊り場で、トイレの洗面台の前で、声は続いた。
阿久津さんに話すと、何かが動く。
俺はその言葉を聞いた時、寒くなった。
陽菜はその言葉を聞いていないふりをした。けれど、聞こえていた。靴箱の前で一度立ち止まり、すぐに歩き出した。莉奈が少し後ろでノートを抱えている。結衣は廊下の向こうで、スマホを構えかけた男子を見ている。彩乃は校門の方を確認している。西野は陽菜の横にいた。
陽菜の周りには、人がいた。
それは、一人だった陽菜を思えば、救いに見えた。
父親を失い、家に帰れば誰もいない娘が、誰かと一緒に歩いている。廊下で声をかけられ、帰り道に隣を歩く子がいて、困った時に止めてくれる先輩がいる。
陽菜を一人にしたくなかった。
一人にしないでくれと、何度も思った。
胸の奥で、別の感情が膨らんでいた。
陽菜を一人にしないための輪が、陽菜を逃がさない輪にも見えたからだ。
「阿久津さん」
校門の近くで、宮原が声をかけた。
陽菜が振り返る。
宮原は少し迷ったあと、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私は」
陽菜はすぐに言おうとした。
私は何もしてない。
そう続くはずだった。
だが、宮原の横に、真帆がいた。少し離れて、彩乃もいる。莉奈も、結衣も、西野も。
救われた人たち。
完全に救われたわけではない。問題はまだ残っている。傷も消えない。噂も消えない。明日も学校はある。
それでも、昨日よりは息ができる人たち。
その人たちが、陽菜を見ていた。
「先生たちに言ったからだよ」
やっと、それだけ言った。
宮原は小さく頷いた。
「はい」
先生たちが動いた。
西野が止めた。
莉奈が整理した。
結衣が撮影を止めた。
彩乃が勇気を出した。
いくつもの人間の行動があった。
なのに、その中心に陽菜が置かれる。
陽菜が望んでいなくても。
「帰ろう」
西野が言った。
陽菜は頷いた。
校門を出る時、背後から声が聞こえた。
小さな声だった。
出どころは、俺にも追えなかった。
「阿久津さんに話すと、何かが動く」
陽菜の足が、ほんの少し止まった。
陽菜はまた歩き出した。
夕方の道に、長い影が伸びている。陽菜の影の横に、西野の影がある。少し後ろに、彩乃の影がある。
一人ではない。
それは確かに、救いの形をしていた。
けれど俺には、その影が少しずつ陽菜を囲んでいくようにも見えた。
俺は叫びたかった。
違う。
それは神様じゃない。
偶然でもない。
陽菜の力でもない。
俺が、壊しているだけだ。
陽菜にも届かない。
救われた人たちは、陽菜を見ていた。
陽菜は、否定しきれない顔で歩いていた。
そして学校の中では、もう次の誰かが、陽菜の名前を口にしていた。




