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『私は悪霊になり、娘はカルトになった』  作者: 根古野 惹句
第4章 列

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第20話 救われた人たち

救われた人が増えた、という言い方は正しくない。


家庭も、部活も、いじめも、一日では終わらない。それでも、何かが動くことはあった。


和泉彩乃は陸上部で、先輩から「備品代」や「差し入れ代」を集められていた。断れば記録会から外すと匂わされ、払えない後輩の分まで立て替えていた。


陽菜は「先生に言うなら、一緒に行く」と答えた。それだけしかできない、とも言った。


顧問が部室を確認した時、先輩は封筒を鞄へ移そうとしていた。俺が古いロッカーの扉を外すと、名前と金額の書かれた封筒が床へ散った。


「本当に、あった」


彩乃の声は、宮原と同じだった。陽菜に話し、先生へ行き、隠されていたものが出る。その順番が、また意味になった。


その日から、陽菜の周りには人が増えた。


まだ、学校を変えるほどではない。

教師が警戒するほどでもない。

昼休みの廊下に、小さな輪ができる程度だ。


だが、その輪の中にいる顔ぶれは、少しずつ固定されていった。


西野美咲は、陽菜に直接近づきすぎる人を止めるようになった。


「囲まないで」

「一人ずつ」

「阿久津さんだけに話さないで」

「先生に言う前提で」


言い方はきつい。


だから、怖がる子もいた。


加瀬莉奈は、ノートを持つようになった。


名前。

学年。

今すぐ先生に言うか。

一人で帰るのが危ないか。

親に連絡していいか。


莉奈は「相談内容は書かない方がいいと思います」と言った。誰かに見られたら困るから、と。


その判断は正しかった。


だから、周囲は莉奈を頼るようになった。


長谷結衣は、スマホを止めた。


撮らないでください。

消してください。

先生を呼びます。


からかわれても、表情を変えない。睨むのではなく、記録されることの怖さを知っている顔で、相手のスマホを見つめる。


和泉彩乃は、帰り道に陽菜の横を歩くようになった。


「方向、途中まで同じなので」


嘘ではないのだろう。


だが、毎日ではないにしても、陽菜が一人で帰ろうとすると、彩乃はどこかから現れた。部活がある日は遅いはずなのに、早く帰れる日は決まって陽菜の近くを歩いた。


「大丈夫です」


「私も帰るだけなので」


「でも」


「阿久津さんこそ、一人で帰らない方がいいです」


彩乃はそう言った。


陽菜は黙った。


それは、陽菜が誰かに言った言葉だった。


一人で行ったら危ない。

先生に言った方がいい。

誰かと一緒にいた方がいい。


自分が言った言葉が、自分に返ってくる。


西野。

莉奈。

結衣。

彩乃。


陽菜を囲まないようにしている。

相談内容を勝手に記録しないようにしている。

撮影を止めている。

一人で帰らせないようにしている。


全部、正しい。


正しいことばかりが、陽菜の周りに形を作っていく。


間違っているものなら壊せる。

害意があるなら触れられる。

陽菜を傷つけようとするなら、俺はそいつを止められる。


守りたいという気持ちは、俺の手では掴めない。


それがどれほど陽菜を囲んでいても、俺には触れない。


◇


一週間が過ぎた。


宮原は、前より少しだけ顔を上げて歩くようになった。まだ笑わない。だが、廊下の端を避けるような歩き方はしなくなった。


真帆は、保健室へ行けるようになった。担任と母親にも話したらしい。問題が解決したわけではない。それでも、一人で抱えていた時よりはましになった。


彩乃の部活では、金を集めていた先輩が練習から外された。顧問が保護者説明をすることになった。部内はしばらく荒れるだろう。彩乃が恨まれない保証はない。


何かが動いた。


「宮原さん、阿久津さんに話したんだって」


「それで見つかったんでしょ」


「和泉さんの部活のも、阿久津さんに言った後らしいよ」


「偶然じゃない?」


「でも、河合の時もそうじゃん」


「西野先輩も助かったし」


先生たちは注意した。

生徒たちは首をすくめた。

表では黙った。


だが、廊下の角で、階段の踊り場で、トイレの洗面台の前で、声は続いた。


阿久津さんに話すと、何かが動く。


俺はその言葉を聞いた時、寒くなった。


陽菜はその言葉を聞いていないふりをした。けれど、聞こえていた。靴箱の前で一度立ち止まり、すぐに歩き出した。莉奈が少し後ろでノートを抱えている。結衣は廊下の向こうで、スマホを構えかけた男子を見ている。彩乃は校門の方を確認している。西野は陽菜の横にいた。


陽菜の周りには、人がいた。


それは、一人だった陽菜を思えば、救いに見えた。


父親を失い、家に帰れば誰もいない娘が、誰かと一緒に歩いている。廊下で声をかけられ、帰り道に隣を歩く子がいて、困った時に止めてくれる先輩がいる。


陽菜を一人にしたくなかった。


一人にしないでくれと、何度も思った。


胸の奥で、別の感情が膨らんでいた。


陽菜を一人にしないための輪が、陽菜を逃がさない輪にも見えたからだ。


「阿久津さん」


校門の近くで、宮原が声をかけた。


陽菜が振り返る。


宮原は少し迷ったあと、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「私は」


陽菜はすぐに言おうとした。


私は何もしてない。

そう続くはずだった。


だが、宮原の横に、真帆がいた。少し離れて、彩乃もいる。莉奈も、結衣も、西野も。


救われた人たち。


完全に救われたわけではない。問題はまだ残っている。傷も消えない。噂も消えない。明日も学校はある。


それでも、昨日よりは息ができる人たち。


その人たちが、陽菜を見ていた。


「先生たちに言ったからだよ」


やっと、それだけ言った。


宮原は小さく頷いた。


「はい」


先生たちが動いた。

西野が止めた。

莉奈が整理した。

結衣が撮影を止めた。

彩乃が勇気を出した。


いくつもの人間の行動があった。


なのに、その中心に陽菜が置かれる。


陽菜が望んでいなくても。


「帰ろう」


西野が言った。


陽菜は頷いた。


校門を出る時、背後から声が聞こえた。


小さな声だった。


出どころは、俺にも追えなかった。


「阿久津さんに話すと、何かが動く」


陽菜の足が、ほんの少し止まった。


陽菜はまた歩き出した。


夕方の道に、長い影が伸びている。陽菜の影の横に、西野の影がある。少し後ろに、彩乃の影がある。


一人ではない。


それは確かに、救いの形をしていた。


けれど俺には、その影が少しずつ陽菜を囲んでいくようにも見えた。


俺は叫びたかった。


違う。


それは神様じゃない。

偶然でもない。

陽菜の力でもない。


俺が、壊しているだけだ。


陽菜にも届かない。


救われた人たちは、陽菜を見ていた。


陽菜は、否定しきれない顔で歩いていた。


そして学校の中では、もう次の誰かが、陽菜の名前を口にしていた。

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