20話「誘惑」
気づいたときには、
車はどこか高層ビルの真下で静かに止まっていた。
スモークのかかった窓越しに、
近代的な無機質の外壁と、荘厳な黒曜のエントランスが見える。
その建物は、まぎれもなく──
(水蓮ギルド本部……!?)
「──ああ、ごめんね?」
隣に座る琥珀さんが、軽く手を合わせて微笑んだ。
「部下が……うっかりいつもの癖で、本社まで来ちゃったみたい」
(そんなわけない……!)
完全に意図的だったとしか思えない。
でも、僕が抗議するよりも早く──
「失礼します」
運転席から出ていた護衛が、
後部座席のドアを開けて、僕の腕を取る。
「っ……!?えっ、あの──!?」
抗議する間もなく、
その大きな腕に体を持ち上げられて、僕は車の外に抱えられた。
「でも、熱があるみたいだし。
このまま帰らせるのは、心配でね?」
柔らかく、どこまでも穏やかな声。
けれど、その笑顔はやはり──底が見えない。
「一先ずは、ここで休んでいって」
そう言い終えたときには、
僕の足はもう──この異質な塔のエントランスの前に立たされていた。
足元の床は黒の大理石、
入口には一切の看板もなければ、受付もいない。
ただ、静かに空気だけが“整えられて”いた。
(……まずい、これ完全に……)
でも逃げられない。
連水 琥珀の気配が、すぐ背中にあった。
何もしてこないのに、ただ“立っているだけ”なのに、
背中に剣を突きつけられているような気配。
僕は一言も返せず、そのままギルドタワーの中へと足を運ばされていった。
──目を開けた。
(……あれ……?)
視界にまず入ったのは、白い天井と、やけにふかふかした柔らかすぎる肌触りのシーツ。
ふわりとした香りが鼻に抜ける。
ほんのり甘く、でも無機質。病院ともホテルとも違う、どこか異様な“整えられた空気”。
僕は、白いベッドの上に寝かされていた。
「……夢……?」
起き上がりかけて、背中のクッションに重みを感じたとき、
ようやく現実が追いついてきた。
(……いや……夢じゃない……)
見慣れない部屋。
あまりにも静かで、あまりにも高級で、あまりにも“現実味がない”。
窓の外には、都会の夜景が幾重にも重なり、
下界を遠く見下ろすように広がっていた。
(……そうだった……僕、あの連水 琥珀に……連れてこられて……)
記憶がゆっくりと戻ってくる。
あの車内での会話、視線、そして──邪眼が拒まれた衝撃。
「……はは……」
乾いた笑いが漏れた。
「……まさか、目が痛いなって思ったら……本当に熱を出すなんて……」
指先が額に触れると、確かに少し熱っぽい。
あれほどの緊張の中、体が悲鳴を上げていたのかもしれない。
(……情けないな)
ため息をついて、顔を天井へと戻した。
──でも、ここがどこなのか、まだ分からない。
そして、これから“どうなるのか”も──
分からなかった。
──コンコン。
控えめなノック音に、僕はハッとして顔を上げた。
「……はい?」
ゆっくりと開いた扉から、黒い影が滑り込んでくる。
現れたのは──
昼間、琥珀さんの護衛として車を運転していた、無口な黒服の男だった。
スーツの皺ひとつなく、表情は相変わらず無機質。
手には銀の蓋がついた丸いトレイを抱えていた。
「お食事をお持ちしました」
「……食事?」
彼は無言のまま近づき、サイドテーブルに器用にトレイを置いてから、
銀の蓋を、音もなくスッと持ち上げた。
──香ばしい香りがふわりと立ちのぼった。
(……こ、これは……!?)
目の前に広がっていたのは──
カリッと黄金色に揚げられた鶏肉に、きらきらと光るねぎダレがたっぷり。
湯気と一緒に、酢の酸味と香味油の香りが鼻腔をくすぐる。
詩遠の大好物──油淋鶏。
「かはっ……!!!!」
咳き込んだ。
あまりの衝撃に、胸が詰まった。
(な、なんで……!?)
どうしてここに、自分の“どストライク”が──
これは偶然? いや、こんな都合よく?
(まさか……「お前のすべては見えている」ってこと……?)
じわっと背中に冷や汗が浮かんだ。
脳裏に、車の中で邪眼を防がれた記憶がよぎる。
(こ、怖い……でも……)
──まずは安全確認。
僕はそっと邪眼を開き、目の前の料理をじっと見つめた。
─ジジ……
《対象:完璧な油淋鶏》
《構成:鶏もも肉、長ねぎ、黒酢、香味油、砂糖、にんにく、生姜》
《状態:最良・毒物なし》
《料理適正:☆5 本場式・火力調整済み》
(……まさか、邪眼が美味しさを証明してくるとは思わなかった)
思考が止まり、
僕はつい──手を伸ばしていた。
箸を握り、ひと口。
「うん!オイシイオイシイネー!」
この味──衣の香ばしさ、鶏肉の弾力、そして絶妙な塩気と甘酸っぱさ。
理性を削っていく味だった。
もはや熱や警戒心すら忘れて、僕は夢中で箸を運んでいた。
──だから。
背後から近づく気配にも、まったく気づけなかった。
「ふふ、気に入った?」
「はいっ!!めちゃくちゃ美味しくて───」
その瞬間──僕の口は止まった。
(……っ!?)
この声。この空気。この、“圧”。
僕は咄嗟に顔を上げ──
そこにいたのは、白のスーツに身を包んだ美しい影。
艶やかに微笑む──連水 琥珀だった。
「おはよう。よく眠れたかな?」
脳内に警報が鳴る。
ここがどこで、相手が誰か、今の自分の状況すべてが一瞬で戻ってくる。
はずだった──
「…………もぐもぐ」
詩遠の口は止まらなかった。
詩遠の脳は“赤子モード”に突入していた。
もはや“人質”としての緊張感は、油淋鶏のサクサク音にかき消されていた。
琥珀は、そんな詩遠をまるで猫でも見るような優しい眼差しで見つめていた。
「ふふ。本当に、好きなんだね」
詩遠は黙って──
ただ、もぐもぐと口を動かし続けた。