19話「視線」
──放課後。
チャイムが鳴り終わるよりも早く、
僕は鞄を手にして教室を出た。
(誰かに何か聞かれる前に……)
山田 大地の件。
琥珀の意味深な訪問。
そして、視線──
(……今、僕に関わられるのはまずい)
僕は人気のない階段を使って校舎の裏口へと回り込む。
あとはここを抜けて、通用門から帰れば──
「……おや?」
その声は、あまりにも自然で、優しくて。
けれど、背筋が凍るほどに美しかった。
裏口の軒下──光と影の継ぎ目に、
連水 琥珀が立っていた。
昼間と同じく、完璧に整った姿。
微笑みを浮かべたまま、薄く首を傾けてこちらを見る。
「さっき、僕が訪ねた教室にいた子ですね。
……正門はあちらのはずですが、どうかされました?」
微笑みは一ミリも崩れない。
けれど、それが余計に怖かった。
(……どうして、ここに……?)
「す、すみません!僕、熱があって……慣れた場所なのに、道を……っ」
自分でも驚くくらい早口だった。
返答になっているのかも分からなかったけれど、
とにかくこの場を離れたくて、踵を返す──その時。
「……っ」
すぐ後ろに、黒い壁のような“何か”が立っていた。
連水の護衛──長身の男、黒のスーツ。
表情はなく、ただ無言でそこに“いる”。
(……囲まれてる)
喉がカラカラに渇いていた。
「熱があるなら、心配だなぁ」
琥珀の声が、まるで独り言のように優しく響いた。
「良ければ、僕に送らせていただけないかな?」
──コツ、コツ、コツ……
琥珀の足音が、ゆっくりと、一定のリズムで近づいてくる。
それに呼応するかのように、僕の鼓動も跳ねる。
(だめだ、この人から逃げられない)
振り返った先──
至近距離に、あの微笑みがあった。
柔らかい睫毛。美しい瞳。血の通ったはずの人間の顔。
けれど、そこに浮かぶ笑みは──“人間”のものとは思えなかった。
「──ね?」
その“問い”は、選択肢を奪っていた。
僕は、自然と口を開いていた。
「……はい……お願いします」
そう言った瞬間、自分が何を言ったのかもわからなかった。
──断れなかった。
というより、断るという概念そのものが、存在しなかった。
──車内。
黒のセダン。
革張りのシートは柔らかく、それでいて背筋が伸びるような硬さがある。
窓には軽くスモークがかかっており、外の景色も少し霞んでいた。
僕は後部座席の左側に座り、
その隣には、連水 琥珀が静かに座っていた。
車はすでに走り出している。
けれど──
(……おかしい)
見慣れた帰り道じゃない。
駅前も、住宅街も通らなかった。
曲がるはずの交差点を、さっき真っ直ぐ抜けた。
何度も通った道だから、間違えようがない。
(……でも、黙っておこう)
声を出すと、
何かを壊してしまいそうだった。
真横にいるのは、連水 琥珀。
水蓮ギルドのトップ。
国家と並ぶ影響力を持ち、数々の討伐記録を塗り替えた“英雄”。
けれど今は──
その人が、横でじっと“黙って僕を見ている”。
「…………」
横顔を見る勇気がなかった。
でも視線を感じている。
肌が、針のようにチリチリと焼かれていくようだった。
喉が渇く。手のひらが汗ばむ。
息を吸うたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。
(い……息がつまる……)
車内は、エンジン音すら静かだった。
運転席に座るスーツの護衛は一言も喋らず、前方だけを見ている。
そんな中──
「ねぇ、詩遠くん」
唐突に名前を呼ばれた。
反射的に顔を上げると、
琥珀は、ほんの少し首を傾けながら、やわらかく微笑んでいた。
まるで、何もおかしくないかのように。
「──どうして震えてるのかな」
静かな問いだった。
優しさに満ちた声色なのに、
なぜか“逃げ場”のない圧があった。
答え方ひとつ間違えたら、
呼吸そのものが許されなくなるような──そんな感覚。
だけど、逃げられない。
否応なく、何かが始まっている。
視線がぶつかって、僕はとっさに目を逸らした。
「……あ、憧れの……連水 琥珀さんが隣にいるので……
緊張してるん……です……はは……」
笑いながら口にした言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
それでも何とか場をごまかそうとして、僕は顔を少し横に向ける。
けれど──
「…………」
まだ、見られていた。
横目にちらりと視線を戻すと、
琥珀さんは一切の動きを止めたまま、
まるで絵画の中の人間のように“僕だけ”をじっと見ていた。
(……うわぁぁあ……さすがにもう……これ……目を逸らせない……!!)
心臓がバクバクとうるさくて、
息の仕方さえ忘れそうだった。
──もう、こうなったら。
「……」
僕は、目を閉じて、深く呼吸をひとつ。
────識環邪眼!!
そっと目を開いた。
視線の先、琥珀の全身が視界に展開されていく──はずだった。
けれど──
(……っ!?)
何も“見えない”。
属性、魔力流、思念、構造、スキル情報──
そのどれもが、読み取れない。
まるで、そこだけ“解析対象が存在していない”かのように。
視界が歪み、干渉を試みた瞬間、
まるで何か“厚い膜”のような防壁が、僕の目を弾き返した。
「うーん」
琥珀の唇が、わずかに歪んだ。
「そんなに、僕のことが気になる?」
(……!?)
「……穴が空くほど見返してくれたから」
(さ、探られてる……!危ないっ…慎重に動かないと)
すると、バチンと視界を直接叩かれたような衝撃。
「うっ……!」
思わず、目元を押さえた。
痛みは一瞬。けれど明確に、“干渉された”感触が残っている。
「やっぱり熱のせいで体調が悪そうだね」
そう言って連れてこられたのは──
「…え?」
水蓮ギルド本部のあるタワービルだった。




