第8話 帰る? 帰らない?
祝勝会の翌朝、わたしは宿の部屋で旅支度を整えながら、いつになく重い空気を感じていた。
部屋の扉を叩く音がして、開けるとそこにはすでに旅装束に着替えたセシルが立っていた。
「姫殿下。お約束通り、祭りは終わりました。今すぐお城へお戻りいただきます」
「……そうよね」
わかってはいたことだった。けれど、いざこうして面と向かって言われると、胸の奥がずしりと重くなる。
「荷物をまとめてください。馬車の手配は、この街の代官に依頼しています」
「セシル、待って」
わたしはとっさに、セシルの前に立ちはだかった。
「まだ、帰りたくないの」
「何を言っているのですか。約束したはずです」
「わかってる。でも……」
言葉を探しながら、わたしは自分の胸の内を整理しようとした。
「わたし、まだ何も見てないの。世界にはこんなにたくさんの国があって、こんなにたくさんのお菓子があって、こんなにたくさんの人たちがいる。それを知ったばかりなのに、何も知らないままお城に戻るなんて、絶対に嫌」
セシルの表情が、わずかに揺らいだ。
「姫殿下は、王女としての責務があるはずです。城では、国王陛下も王妃陛下も、あなたの帰りを待っておられます」
「わかってるわよ、そんなこと!」
思わず声を荒げてしまい、はっと口をつぐんだ。セシルも一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに真剣な表情に戻る。
「わかっているなら、なぜ」
「わかってるからこそ、余計に帰りたくないのよ」
わたしは俯きながら、これまで胸の中に溜め込んでいた思いを吐き出した。
「お城に帰ったら、また同じ毎日が始まるでしょう。礼儀作法、歴史の勉強、舞踏、刺繍。他にもいっぱい。それに来月からは、正式な公務まで始まるの。そうなったら、もう自由に外の世界を見ることなんてできなくなる」
「それが、王族としての務めというものです」
「そうかもしれない。でも……」
顔を上げて、わたしはまっすぐにセシルを見つめた。
「一度でいいから、自分の目で世界を見てみたいの。お菓子だけじゃない。いろんな国の人たちの暮らしや、考え方や……そういうものを、ちゃんと知りたい」
セシルはしばらく沈黙していた。灰青色の瞳が、複雑な色を宿してこちらを見つめ返している。
「……姫殿下がそこまでおっしゃるとは、思いませんでした」
「セシル?」
「正直に申し上げれば、私はてっきり、姫殿下は単なる我儘で城を飛び出したのだと思っていました。お菓子が食べたいから、という、それだけの理由で」
「それも、間違ってはいないけど……」
思わず苦笑してしまう。実際、旅立ちのきっかけは紛れもなくお菓子だったのだから。
セシルはそんなわたしを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「私は国王陛下と王妃陛下から、姫殿下を必ず城へお連れするよう命じられています。本来なら、ここで迷うべきではないのでしょう」
その声は、いつものようにきっぱりとしていた。けれど、最後の言葉だけが、ほんの少し揺れているように聞こえた。
「ですが……」
セシルは視線を窓の外へ移した。
「今の姫殿下を見ていると、ただお城から逃げているだけとも思えなくなりました」
「え?」
「ミレーナ様の菓子作りに首を突っ込み、失敗を重ねながら、それでも最後まで付き合っていたのでしょう。それに、果物の異変にも、誰より早く気づかれた」
セシルはそこで一度言葉を切った。
「城にいたころの姫殿下なら、きっと見過ごしていたことです」
その言葉に、わたしは何も返せなかった。
褒められたのか、それとも呆れられているのか、少し分からなかったからだ。
「ですから……少しだけ、私も見届けてみたいと思ったのです」
「何を?」
「姫殿下が、この旅の先で何を見て、何を学ばれるのかを」
セシルはそう言ってから、すぐにいつもの真面目な表情へ戻った。
「ただし、誤解なさらないでください。任務を放棄するつもりはございません」
セシルは腕を組み、わたしをじっと見つめた。
その眼差しは、城から追ってきたときのような厳しいものではなかった。
「……少なくとも、ミレーナ様のお話を聞いて、姫殿下の旅がただの我儘だけではないことは分かりました。では、こういたしましょう」
「え?」
「次の国まで、同行いたします。それ以上は、いかなる理由があろうと帰城していただきます」
わたしは思わず目を丸くした。
「本当に!?」
「ただし」
セシルはぴしゃりと釘を刺すように続けた。
「これは監視のためです。姫殿下がこれ以上問題を起こさないよう、私が責任を持って見張ります」
「わかったわ! ありがとう、セシル!」
嬉しさのあまり、わたしは思わずセシルに抱きついた。セシルが一瞬硬直し、それからぎこちなく身を離す。
「な、なにをするのですか」
「だって嬉しいんだもの!」
「……姫殿下は、少々距離感がおかしいと思います」
呆れたように言いながらも、セシルの口元にはわずかな笑みが浮かんでいるように見えた。
☆
昼過ぎ、旅立ちの準備を終えたわたしたちは、ミレーナの菓子店へと最後の挨拶に向かった。
「もう行っちゃうのね……」
ミレーナは寂しそうな表情を浮かべながら、手には小さな包みを持っていた。
「これ、餞別代わりに。うちの新作タルト、たくさん焼いたから、旅の途中で食べて」
「ありがとう、ミレーナ!」
包みを受け取りながら、わたしは胸が熱くなるのを感じた。
「あなたと出会えて、本当に良かったわ」
「あたしもよ。リリィがいなかったら、この新作、絶対に完成しなかったと思う」
ミレーナはそう言って、少し照れくさそうに笑った。それから、ふとセシルの方に視線を向ける。
「セシルさんも、リリィのこと、よろしくお願いしますね。この子、放っておくとすぐに変なことしでかすから」
「……よくわかっております。幼馴染ですから」
セシルが疲れたような、それでいて優しい表情で頷いた。
最後にプティが、ミレーナのエプロンのポケットにこっそり忍ばせてあった焼き菓子の欠片を見つけて、名残惜しそうに頬張っている。
「プティ、そろそろ出発するわよ」
「きゅい……」
名残惜しそうに鳴くプティを肩に乗せ、わたしたちはミレーナの店を後にした。
運河沿いの道を進みながら、わたしは何度も振り返り、店の前で手を振るミレーナの姿を見つめていた。彼女の姿が小さくなっていくにつれ、この街で過ごした日々のことが、次々と胸に蘇ってくる。
(また、いつか会えるかしら)
そんな思いを抱きながら、わたしは前を向き直した。
街の外れで待たせていたボンボンのもとへ向かうと、ボンボンは久しぶりの再会を喜ぶように、鼻先をすり寄せてきた。
「もふぅ」
「お待たせ、ボンボン。次の目的地に向かいましょう」
セシルも自分の馬を用意していたけれど、道中の効率を考えて、結局ボンボンの背に一緒に乗ることになった。
「それで、次はどこへ向かうのですか?」
セシルが手綱を握りながら尋ねてくる。
「東の方にあるヤマトノ国よ。旅商人から聞いたんだけど、伸びるお菓子があるんですって」
「伸びる、お菓子……ですか」
セシルが訝しげに眉をひそめた。
「餅っていう名前らしいわ。米を搗いて作るんですって。想像もつかないでしょう?」
「正直、あまりよく分かりません。ですが、姫殿下がそこまで楽しみにされているなら」
セシルの声に、どこか諦めにも似た響きが混じっていた。それでも、その口調には確かな温かみもあるように感じられた。
街道を進みながら、わたしはふと、これまでの旅を振り返った。
城を飛び出したときは、ただ食べたことのないお菓子を求めて、無我夢中で走り出しただけだった。宿代のことも知らず、市場の常識も知らず、失敗ばかりを重ねてきた。
それでも、フロレンツァ公国でミレーナと出会い、彼女と一緒に新しい菓子を作り上げる過程を経て、旅の意味が少しずつ変わってきているような気がしていた。
単に美味しいものを食べるだけでなく、その土地の人々との出会いや、彼らが抱える問題に触れることで、何か大切なものを学んでいるような、そんな感覚があった。
「セシル」
「なんでしょうか」
「ありがとう、一緒に来てくれて」
セシルが一瞬、驚いたようにこちらを見た。
「……礼を言われる筋合いはありません。これは任務ですから」
「そう言いながら、ちゃんと付き合ってくれてるじゃない」
「それは、姫殿下が聞き分けがないからです」
ぴしゃりと言い返されて、わたしは思わず笑ってしまった。
「もふぅ」
ボンボンも同意するように鳴き声をあげる。
「きゅい!」
肩の上のプティも、賑やかにそれに続いた。
街道の先には、ヤマトノ国へと続く長い道のりが広がっている。
まだ見ぬものへの期待に胸を膨らませながら、わたしはボンボンの背にしっかりとしがみつき、東へと続く道を見つめた。
ふと、フロレンツァ公国で感じた果物の違和感が、頭をよぎる。
けれど今は――。
東の国には、伸びるお菓子がある。
その期待の方が、ずっと大きかった。




