第7話 菓子祭、開幕!
菓子祭当日の朝は、まるで街全体が浮き足立っているような賑わいに包まれていた。
運河沿いの広場には、色とりどりの幕が張られ、各地から集まった菓子職人たちが自慢の逸品を並べている。甘い香りが幾重にも重なり合い、空気そのものが砂糖菓子でできているかのようだった。
「ミレーナ、緊張してる?」
「当たり前じゃない! こんな大舞台、初めてなんだから」
ミレーナの手には、昨日の夜遅くまでかけて完成させた新作――ベリーソースを忍ばせた柑橘タルトが、丁寧に並べられている。表面の照りは朝日を受けて艶やかに輝いていた。
「大丈夫よ、これだけ美味しいんだから。きっとみんな驚くわ」
わたしは自信満々にそう言ったけれど、内心では少しだけ心配もしていた。ミレーナの父親――店主のジョゼッペさんが、まだこの新作を認めていないからだ。
案の定、会場の隅で腕を組んだジョゼッペさんが、こちらをじろりと睨みつけていた。
「ミレーナ、まさかそんな邪道な菓子を、うちの店の名前で出品するつもりじゃないだろうな」
「お父さん……」
「伝統的な焼きタルトこそが、うちの誇りだ。そんな奇をてらったものを出したら、店の評判に傷がつく」
ミレーナの表情が曇る。わたしはたまらず、二人の間に割って入った。
「あの、ジョゼッペさん。とりあえず一口だけ食べてみてもらえませんか? それで判断してもらえたら」
「お前は……」
ジョゼッペさんが訝しげにこちらを見た。その視線を受けても、わたしは怯まなかった。
「本当に美味しいものは、食べてみれば分かるはずです。理屈じゃなくて」
しばらくの沈黙の後、ジョゼッペさんはため息をつきながらタルトを一切れ手に取った。渋々といった様子で口に運ぶ。
その瞬間、彼の眉間の皺が、わずかに緩んだ。
「……これは」
「お父さん?」
「……伝統の生地の風味を、ちゃんと残しているじゃないか。それでいて、この果物の組み合わせは……」
ジョゼッペさんはしばらく黙り込んだまま、もう一口味わっていた。
「悪くない。いや……正直に言えば、美味い」
「本当に!?」
ミレーナの顔がぱっと輝いた。
「ただし」
ジョゼッペさんは咳払いしながら続けた。
「これはあくまで、うちの伝統を土台にした上での挑戦だ。基本を疎かにしたら、それはただの流行り物だぞ」
「わかってる! ちゃんと伝統も大事にするわ、お父さん!」
ミレーナが涙ぐみながら父親に抱きついた。ジョゼッペさんは少し照れくさそうに、それでも満更でもなさそうな表情を浮かべている。
この光景を見て、わたしも胸の奥が温かくなるのを感じた。
そのとき――。
「見つけました」
背後から響いた凛とした声に、わたしの背筋が凍りついた。
恐る恐る振り返ると、そこには旅装束に身を包んだ、見覚えのある女性が立っていた。黒に近い紺色の長髪、灰青色の瞳。腰には剣を佩いている。
「げっ! セ、セシル!?」
「げっ、じゃありません。姫殿下、ようやく見つけました」
セシルは息を切らしながらも、こちらに向かってまっすぐ歩み寄ってきた。
「城を出てから、もう何日経ったと思っているのですか。国王陛下も王妃陛下も、大変心配しておられます」
「え、えっと……」
言葉に詰まっていると、セシルがわたしの腕を掴んだ。
「さあ、今すぐお城へお戻りください」
「ちょ、ちょっと待って! 今は無理よ!」
「無理とは、どういうことですか」
「見てわかるでしょう! この菓子祭が終わるまでは、帰れないの!」
わたしはミレーナの方を指差した。ミレーナが不安そうな表情でこちらを見ている。
「彼女の新作が、これから審査を受けるところなの。ここでわたしがいなくなったら、応援できないじゃない!」
「そのような理由で――」
「お願い、セシル。祭りが終わるまでだけでいいから!」
セシルは眉をひそめながらも、こちらの必死な様子を見て、少し態度を軟化させた。
「……分かりました。祭りが終わるまでです。それ以降は、一切の言い訳を聞きません」
「ありがとう、セシル!」
安堵の息をつく間もなく、会場の中央で審査開始の合図となる鐘が鳴らされた。
審査は、伝統派と革新派、それぞれの代表作を並べて、街の人々や訪れた審査員たちが試食して評価するという形式だった。
伝統派の代表として、老舗の有名店の職人が堂々とした様子で自慢の焼き菓子を並べている。長年受け継がれてきた製法で焼き上げられた菓子は、見た目にも美しく、会場からは早くも感嘆の声が上がっていた。
対する革新派として並べられたのが、ミレーナの新作タルトだった。
「ずいぶんと若い挑戦者だな」
「あんな小娘に、何ができるというんだ」
会場からは、そんな囁き声も聞こえてくる。
ミレーナは緊張した面持ちで、それでも背筋を伸ばして立っていた。
試食が始まる。
「やはり、老舗の味は安定しているな」
「これこそフロレンツァの伝統菓子だ」
伝統派の焼き菓子には、次々と高い評価が集まっていった。
わたしは思わず、隣に立つミレーナを見る。
その指先が、わずかに震えていた。
やがて、審査員たちが『陽だまりのタルト』を口にする。
「これは……」
一人の審査員が、ゆっくりと眉を上げた。
「意外と、いける」
「生地そのものは昔ながらの作りだ。だが、この果実とクリームの合わせ方は面白い」
好意的な声が聞こえ始め、ミレーナの表情に少しだけ安堵の色が浮かぶ。
けれど、その一方で別の審査員が難しい顔をした。
「しかし、これを伝統菓子と呼んでいいものか」
ミレーナの肩が、びくりと揺れた。
「昔ながらの味とは、ずいぶん違う」
会場にも再びざわめきが広がった。
わたしは何も言えず、ただ結果を待つ。
すると、先ほどタルトを口にした年配の審査員が、もう一口だけゆっくりと味わってから口を開いた。
「私は、そうは思わない」
ざわめきが静まる。
「新しいものを加えてはいる。だが、土台となる生地も、この街の果実も、きちんと生かされている。伝統を捨てた菓子ではない」
審査員はミレーナへ視線を向けた。
「伝統を受け継いだからこそ生まれた、新しい菓子なのだろう」
ミレーナが、息を呑んだ。
やがて、すべての試食と審査が終わった。
司会者が結果を書いた紙を受け取り、会場の中央へ進み出る。
「それでは、今年の菓子祭の結果を発表いたします!」
ざわめいていた会場が、一気に静まった。
「今年の最優秀賞は――老舗『ラ・フォンテーヌ』、職人マルチェロ・ロッシ氏!」
大きな拍手が沸き起こる。
伝統派の職人が胸を張って一礼すると、その周囲から次々と祝福の声が上がった。
ミレーナは少しだけ肩を落とした。
けれど、司会者はまだ紙を手にしたままだった。
「そして――今年、もっとも将来を期待される若き菓子職人に贈られる新人賞は」
わたしは思わず息を止めた。
「ミレーナ・ベルティ嬢の『陽だまりのタルト』に決定!」
「……え?」
一瞬、ミレーナは何を言われたのか分からないような顔をした。
次の瞬間、会場から大きな拍手が沸き起こった。
「や、やった……! やったわ!」
ミレーナが両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになる。わたしは慌てて彼女を支えた。
「おめでとう、ミレーナ! やっぱり美味しいものは、ちゃんと伝わるのよ!」
「リリィ……ありがとう、本当にありがとう!」
二人で抱き合って喜びを分かち合っていると、離れたところから、ジョゼッペさんが誇らしげな表情でこちらを見つめているのが見えた。
「さあ、姫殿下。祭りも終わりました。今度こそお城へ戻りますよ」
「待って。もう夜になるし、今日はここに泊まって、出発は明日にしましょうよ」
「……また言い訳ですか」
「言い訳じゃないわ。夜道は危ないでしょう?」
セシルはしばらくわたしを見つめたあと、小さくため息をついた。
「……仕方ありません。ですが、明日の朝には必ず出発しますよ」
「ありがとう、セシル!」
☆
祭りの興奮も落ち着いてきたころ、わたしはふと、審査に使われた果物の盛り合わせに目を留めた。何気なく一粒摘まんで口に含んだ瞬間、小さな違和感を覚える。
「……あれ?」
「どうかしましたか?」
隣にいたセシルが尋ねてくる。
「今年の果物、去年より甘くない気がするの」
「去年の味など、覚えているのですか?」
「そりゃ覚えてるわよ。城で出される果物は、大体産地が決まってるもの」
セシルは少し呆れたような、それでいて感心したような表情を浮かべた。
「相変わらず、味覚だけは並外れていますね」
「褒めてる? けなしてる?」
「褒めています」
意外な返答に、わたしは思わず目を丸くした。
その傍らで、ミレーナが会場の運営者らしき人物と何やら話し込んでいるのが見えた。
「じつはね、今年は各地から集まる果物の質が、例年よりばらつきがあるらしいの。天候不順とか、いろいろ言われてるみたいだけど、はっきりした原因は分からないんですって」
その言葉に、わたしの胸の中で小さな棘のようなものがまた疼いた。
(また、この違和感……)
旅の初日に感じた蜂蜜の変化。ミレーナの店で使ったベリー系の果物の異変。そして今、この菓子祭で並べられた果物にも、同じような違和感がある。
(偶然……なのかしら)
深く考え込みそうになったところで、ミレーナが明るい声で駆け寄ってきた。
「リリィ、セシルさん! 今夜、お祝いにみんなでご飯を食べに行きましょう!」
「もちろん!」
「あの、私も同席してよろしいのですか」
セシルが遠慮がちに尋ねると、ミレーナが快活に笑った。
「当然よ! リリィの大事な人でしょう?」
「だ、大事な……いえ、私はただの護衛で――」
セシルが珍しく動揺した様子で言葉を濁す。その様子がなんだかおかしくて、わたしはくすくすと笑ってしまった。
☆
その夜、運河沿いのレストランで、三人と一匹はささやかな祝勝会を開いた。
「本当に今日はありがとう、リリィ。あなたがいなかったら、ここまでできなかったわ」
「わたしはちょっと手伝っただけよ。頑張ったのはミレーナでしょう?」
「それでもよ。……セシルさんも、付き合ってくれてありがとう」
「私は姫殿下を連れ戻しに来ただけなのですが……まあ、今夜くらいはお祝いしてもよいでしょう」
「もう、セシルったら固いんだから」
(ミレーナの新作は、無事に認めてもらえた。でも、あの果物の違和感……気のせいだといいけど)
窓の外に見える運河の水面が、月明かりを受けてきらきらと輝いている。その美しい光景を眺めながら、わたしは小さな不安を胸の奥にしまい込んだ。




