第6話 伝統派、本気で怒る
新作タルトの試作が、ようやく形になり始めたころだった。
その日も朝から厨房に立ち、ミレーナと一緒に生地の配合を微調整していると、店の表の方から、聞き覚えのない怒声が響いてきた。
「ミレーナ! いるんだろう、出てきなさい!」
驚いて顔を見合わせたわたしたちは、慌てて厨房から店先へと駆け出した。
そこには、恰幅のいい老年の男性が三人、腕を組んで店の前に立ちはだかっていた。いずれも、フロレンツァ公国の菓子職人組合に所属する、名だたる老舗の店主たちだった。
「これは……ロレンツォさん、それにガブリエレさんまで」
ミレーナが、明らかに動揺した様子で声をあげた。
「あなたたち、うちの店に何の用ですか?」
「聞いたぞ、ミレーナ。お前が、あの邪道な新作とやらを、菓子祭に出品するつもりだそうじゃないか」
ロレンツォと呼ばれた男が、鋭い視線でミレーナを睨みつけた。
「邪道だなんて……! ちゃんと美味しいものを作ろうとしているだけです」
「美味しいかどうかの問題ではない! 伝統というものを、お前のような小娘が、勝手にいじっていいはずがないだろう!」
その剣幕に、ミレーナが思わず後ずさりした。
わたしは、たまらず二人の間に割って入った。
「あの、ちょっと待ってください。何をそんなに怒っているんですか?」
「お前は誰だ」
「わたしはリリィ。ミレーナの新作作りを手伝ってる者です」
ロレンツォが、値踏みするようにこちらを見つめてきた。
「なるほど、お前が例の旅人か。噂は聞いているぞ。よそ者が首を突っ込んで、伝統ある我が街の菓子文化を、引っ掻き回していると」
「引っ掻き回してるつもりはありません。ただ、ミレーナが作りたいものを、一緒に作ってるだけです」
「それが問題だと言っているんだ!」
ガブリエレという、もう一人の年配の職人が、苛立たしげに声を荒げた。
「フロレンツァの菓子は、何百年もの間、代々受け継がれてきた技術と伝統の結晶だ。それを、たかが数日の思いつきで、勝手に変えようとするなど、言語道断!」
「でも、時代に合わせて少しずつ変化していくのも、悪いことじゃないと思うんですけど」
わたしが反論すると、三人目の職人――比較的若く見える男性が、冷ややかな声で口を挟んだ。
「お嬢さん、あんたには分からないだろうがね。この街の菓子職人にとって、伝統を守るということは、単なる頑固さじゃないんだ。それは、この街の誇りそのものなんだよ」
「誇り……」
「先代から受け継いだレシピを、勝手にいじられるということは、その誇りを踏みにじられるのと同じことだ」
その言葉には、単なる意地の悪さではない、確かな重みが感じられた。
わたしは、思わず言葉に詰まった。
その様子を見ていたジョゼッペさん――ミレーナの父親が、店の奥から出てきて、そっと間に入った。
「ロレンツォ、ガブリエレ、そこまでにしてくれないか」
「ジョゼッペ、お前まで、この娘の肩を持つつもりか」
「肩を持つわけではない。だが、話し合う余地くらいはあるだろう」
ジョゼッペさんの言葉に、ロレンツォは苦々しい表情を浮かべた。
「話し合う余地など、ない。もし、お前の娘が、あの邪道な菓子を菓子祭に出品するというなら、我々にも考えがある」
「考えとは、なんだ」
「組合を通じて、正式に抗議する。何なら、今年の菓子祭から、お前の店を除名させることも、不可能ではないぞ」
その脅しに、ミレーナの顔がみるみる青ざめていった。
「そ、そんな……」
「ミレーナ!」
わたしは、思わず声をあげた。
「そんな理不尽な話、ありますか! 美味しいものを作ろうとしているだけなのに!」
「理不尽かどうかは、我々が決めることだ」
ロレンツォたちは、そう言い捨てると店を後にしていった。
残されたわたしたちの間に、重苦しい沈黙が流れた。
「ミレーナ、大丈夫?」
わたしが声をかけると、ミレーナは俯いたまま、小さく首を振った。
「除名なんてされたら……お店、続けていけなくなるかもしれない」
「そんな……」
わたしはこれまで、ただ純粋に「美味しいものを作りたい」という気持ちだけで、ミレーナの挑戦を後押ししてきた。けれど、その裏には店の存続そのものがかかった重い現実があったのだと、改めて思い知らされた。
「お父さん、どうしよう」
ミレーナが縋るような目で、ジョゼッペさんを見つめた。
ジョゼッペさんはしばらくの間、腕を組んで考え込んでいた。
「……ロレンツォたちの言い分にも、一理ある。伝統というものは、簡単に軽んじていいものではない」
「お父さんまで、そんなことを……」
「だが」
ジョゼッペさんは、穏やかに、けれど確かな声で続けた。
「伝統というものは、守るだけのものでもない。時代に合わせて、少しずつ形を変えながら、生き続けていくものでもあるはずだ」
その言葉に、ミレーナがはっとした表情で顔を上げた。
「私は、あの新作を食べたとき、確かに美味いと思った。伝統の生地の風味を活かしながら、新しい魅力も加えている。それは、決して、伝統を踏みにじるものではないと思う」
「お父さん……」
「問題は、ロレンツォたちを、どう説得するかだ」
ジョゼッペさんの言葉に、わたしは、しばらく考え込んだ。
「理屈で説得するのは、難しそうですよね」
「ああ。あの連中は、頑固なことにかけては、この街一番だからな」
わたしはふと、あることを思いついた。
「だったら、理屈じゃなくて、味で分かってもらうしかないんじゃないでしょうか」
「味で?」
ミレーナが首を傾げた。
「はい。ロレンツォさんたちに、もう一度、ちゃんと新作を食べてもらうんです。ただし、今度は、伝統の技術がどれだけ活かされているか、しっかり伝わるように」
わたしの提案に、ミレーナが少し戸惑った表情を浮かべた。
「でも、さっきの様子だと、まともに話も聞いてくれないと思うけど……」
「だったら、直接持っていくんじゃなくて、別の形で届けましょう」
わたしはこれまでの旅で培った、ちょっとした知恵を働かせることにした。
「街の人たちに、新作タルトを、こっそり配ってみるのはどうですか。ロレンツォさんたちの店のお客さんにも、味わってもらえるように」
「口コミで広めるってこと?」
ミレーナが意図を察したように尋ねる。
「そう。もし、街の人たちの間で評判になれば、ロレンツォさんたちも、無視できなくなるはずです」
ジョゼッペさんが、感心したように頷いた。
「なるほど、悪くない考えだ」
こうして、わたしたちは、その日から数日間、街のあちこちで、新作タルトの試食会を、こっそりと開くことにした。
運河沿いの広場、市場の一角、教会前の広場。人が集まる場所を選び、ミレーナが焼いた新作タルトを、道行く人々に振る舞っていく。
「これ、うちの店の新作なの。よかったら食べてみて」
最初は警戒していた人々も、一口食べると、たちまち表情を輝かせた。
「これは……美味しいじゃないか!」
「柑橘の酸味と、生地の甘みが、すごく合ってる」
「これ、ベルティさんの店の新作? 今度買いに行くわ」
口コミは、思っていた以上の速さで広がっていった。
プティも試食会の合間に、こっそりとタルトを頬張っては幸せそうな顔をしていた。
「プティ、あなたのおかげで、味見の評判も上々ね」
「きゅい!」
自分が味見役として貢献していると信じているのか、誇らしげに胸を張るプティの姿が、なんとも微笑ましかった。
☆
数日後、店に、思いがけない客が訪れた。
「ミレーナ、いるか」
現れたのは、あのガブリエレだった。ただし、その表情は、以前ほど険しくはなかった。
「うちの常連客が、お前の店の新作の話を、しきりにしていてな。あまりにもうるさいから、仕方なく買いに来てやったんだ」
「ガブリエレさん……」
ミレーナが緊張した面持ちで、新作タルトを差し出した。
ガブリエレは、しばらく躊躇っていたが、やがて渋々といった様子で一切れ口に運んだ。
その瞬間、彼の表情が、わずかに変わった。
「……ふん」
「どうですか」
「悪くはない。伝統の生地の風味も、ちゃんと生きている」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、その言葉には、確かな評価が滲んでいた。
「もちろん、ロレンツォの奴は、まだ頑固に反対しているがな」
「そう、ですか……」
「だが、街の連中があれだけ評判にしているのを、いつまでも無視するわけにもいかんだろう」
ガブリエレはそう言い残すと、店を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、わたしとミレーナは、思わず顔を見合わせて微笑んだ。
「少しずつ、変わってきてるみたいね」
「うん……。ありがとう、リリィ。あなたのおかげで、諦めずに済んだわ」
ジョゼッペさんも、満足げな表情で頷いていた。
「あとは、菓子祭本番だな。あの頑固なロレンツォも、その場で、ちゃんと味わってもらえば、少しは考えを改めるかもしれん」
わたしは、これまでの騒動を振り返りながら、改めて思った。
伝統を大切にする人々の想いも、新しいことに挑戦したいという人々の想いも、どちらも、決して間違ってはいない。ただ、そのぶつかり合いを、どう乗り越えていくかが、大切なのだと。
窓の外には、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。菓子祭本番は、いよいよ明日。
これまで以上に気合の入った様子で、ミレーナは最後の仕上げに取り掛かり始めていた。




