第4話 運河の街は甘い匂い
フロレンツァ公国へ向かう道中は、思っていたよりもずっと長かった。
街道を三日ほど南下し、ボンボンの足に頼りながらいくつもの村を通り過ぎ、ようやく国境を越えたとき、わたしは景色の変わりように思わず声をあげた。
「わあ……!」
石造りの家々の屋根が、これまで見てきたベルフィーユ王国のものとは違い、赤茶色の瓦で統一されている。街を貫くように流れる水路には、小舟がゆったりと行き交い、橋の上からは色とりどりの花が垂れ下がっていた。
「ここが、フロレンツァ公国……」
「きゅい!」
帽子から顔を出したプティも、興奮した様子で鼻をひくつかせている。すでにこの時点で、甘い匂いを嗅ぎつけているらしい。
運河沿いの道をボンボンに乗って進んでいくと、あちこちに露店が並んでいるのが見えた。色鮮やかな日除け布の下、木箱いっぱいに積まれた果物や、ガラスケースに並んだ焼き菓子。
その中でも、ひときわ人だかりができている屋台があった。
「何かしら、あれ」
近づいてみると、店主が金属製のヘラで、丸い容器の中身をくるくると練っている。冷たそうな湯気――いや、湯気ではなく、冷気のようなものが立ち上っていた。
「お客さん、ジェラートはいかがですか? できたてですよ」
「ジェラート……! これがそうなの!?」
わたしは目を輝かせながらボンボンから飛び降り、屋台に駆け寄った。
「ひとつちょうだい! あ、お金は先に払うわ!」
三日前の失敗をしっかり学習していたことを、我ながら誇らしく思う。
銀貨を手渡すと、店主が小さなカップにこんもりと盛り付けた冷菓を差し出してくれた。淡い黄色をした、レモンの香りがする一品だ。
スプーンですくって口に運んだ瞬間、わたしは目を見開いた。
「な……なにこれ!?」
口の中でひんやりと溶けていく食感。今まで食べてきたどんな菓子とも違う、なめらかな舌触り。レモンの爽やかな酸味と、ほのかな甘みが絶妙に溶け合っている。
「冷たいのに、甘い……! こんなお菓子、初めて!」
「きゅい、きゅい!」
プティが待ちきれない様子で、わたしの手の中のカップに顔を突っ込もうとする。
「こら、順番よ! ひとつ、あなたの分も頼んであげるから」
店主に追加を頼み、プティ専用の小さなカップを用意してもらう。プティは大喜びで、鼻先を冷たいジェラートに突っ込み、あっという間に平らげてしまった。
「きゅう……」
あまりの冷たさに一瞬固まったプティの姿がおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。
ジェラートの余韻に浸りながら、さらに運河沿いを進んでいくと、遠くから何やら言い争うような声が聞こえてきた。
「だから、こんな新作、うちの店には要らないと言っているだろう!」
「お父さん、でも、これからは新しいものを取り入れていかないと、お店は――」
「伝統を守ることこそが、うちの誇りだ! お前はまだ若いから分からないんだ!」
声のする方を覗いてみると、小さな菓子店の前で、恰幅のいい中年男性と、赤茶色の髪を三つ編みにした緑色の瞳の少女が言い争っていた。
少女の年齢は、わたしとそう変わらないように見える。エプロン姿で、頬には小麦粉らしき白い粉がついていた。
「あの……何かあったの?」
思わず声をかけると、少女がびっくりした様子でこちらを振り向いた。
「え? あ、ごめんなさい、みっともないところを見せて」
「……」
少女の父親はわたしを一瞥すると、まだ何か言いたげな顔をしながらも、深いため息をついて店の中へ戻っていった。
「ううん、気にしないで。それより、さっきの話、聞こえちゃったんだけど……新作のお菓子を作りたいの?」
少女の目が、ぱっと輝いた。
「そうなの! あたし、ミレーナっていうんだけど、この店の娘で。新しいお菓子を考えるのが好きで、いろいろ試作してるんだけど、お父さんが全然認めてくれなくて」
「伝統菓子しか認めない、ってこと?」
「そう! 『うちは代々このレシピを守ってきたんだ』の一点張りで。でも、それだけじゃ、お客さんもだんだん離れていっちゃうと思うのよね……」
ミレーナは肩を落としながら、店先に並んだ焼き菓子の数々を見つめた。確かに、老舗らしい風格のある店構えだけれど、他の店に比べて客の入りは少ないように見える。
「面白そうじゃない! わたしも手伝うわ!」
「え!?」
考えるより先に口が動いていた。ミレーナが目を丸くしてこちらを見る。
「い、いいの? でも、あなたは旅行中なんじゃ……」
「大丈夫よ! わたし、お菓子のことになると、じっとしていられない性分なの」
自己紹介もそこそこに、わたしはミレーナの手を取っていた。
「わたしはリリィ。あなたのお店、興味があるわ。中を見せてもらえる?」
「う、うん! こっちよ!」
ミレーナの父親はわたしを一瞥すると、
「……好きにしなさい。ただし、店に出すつもりはないぞ」
とだけ言い残し、不機嫌そうに店の奥へ引っ込んでいった。
ミレーナに案内されて、菓子店の裏手にある厨房へと足を踏み入れた。並べられた道具や材料は、ベルフィーユ王国の厨房とはまた違った趣がある。
「これ、何のお菓子を作ろうとしてたの?」
作業台の上に置かれた試作品らしきものを指差すと、ミレーナが少し恥ずかしそうに説明を始めた。
「伝統的な焼きタルトに、この街で採れる柑橘系の果物をアレンジで加えようと思って。でも、お父さんに『邪道だ』って怒られちゃって」
わたしは試作品をひとかけら摘まみ、口に運んだ。
しばらく味を確かめてから、正直な感想を口にする。
「うーん、悪くないけど、果物の酸味がちょっと強すぎるかも。それに、生地の甘さとうまく釣り合ってない気がするわ」
「え……そんなに分かるの?」
ミレーナが驚いた顔をした。
「わたし、味覚だけは自信があるのよ。小さいころから、ちょっとした違いでもすぐ気づいちゃうの」
「すごい……! じゃあ、どうすればいいと思う?」
わたしはしばらく考えを巡らせた。
「もう少し蜂蜜を足して、生地に深みを出したらどうかしら。あと、果物は生のままじゃなくて、軽く煮詰めて甘みを凝縮させると、酸味とのバランスが良くなると思うわ」
「なるほど……! やってみる!」
ミレーナが早速材料を取り出し、作業を始めた。わたしもエプロンを借りて手伝おうとしたけれど、正直なところ、実際の調理経験はほとんどない。
「あ、卵はそっちの器に――」
「わかったわ!」
勢いよく卵を割ったつもりが、殻まで一緒に生地の中へ落としてしまう。
「あ……」
「大丈夫、大丈夫、殻は取り除けば平気よ」
ミレーナが苦笑しながらフォローしてくれる。その後も、粉を計量する段階で盛大にこぼしたり、混ぜすぎて生地を固くしてしまったりと、失敗を重ねながらの試作作業となった。
その間、プティはずっと作業台の隅で、こぼれた材料をちゃっかり摘まみ食いしていた。
「プティ、それ味見だからって、そんなに食べちゃ駄目よ」
「きゅい……」
「……今の、絶対『リリィもでしょ』って言ったわよね?」
どこか反省しているような、していないような鳴き声を返され、思わず苦笑してしまう。
何度目かの試作を経て、ようやく納得のいく仕上がりになったのは、太陽が傾き始めたころだった。
オーブンから取り出したタルトは、焼きたての香ばしい匂いを漂わせている。表面には煮詰めた柑橘の艶やかな照りが輝いていた。
「食べてみて!」
ミレーナに促され、一口かじってみる。
サクサクとした生地の食感の後に、蜂蜜のまろやかな甘みが広がり、そこに柑橘の爽やかな酸味と芳香が絶妙に重なった。
「美味しい……! すごく美味しいわ、ミレーナ!」
「本当!? やった……!」
ミレーナが両手を握りしめて喜びを爆発させた。その様子を見ていると、わたしまで嬉しくなってくる。
「これなら、お父さんも認めてくれるかしら」
ミレーナの表情に、少しだけ不安の色が戻った。
「どうかしら。伝統を大事にしてるお父さんだから、簡単には認めてもらえないかも」
「でも、これだけ美味しいんだもの。きっと分かってもらえるわ」
「うん……そうだといいな」
厨房の窓から差し込む夕日が、二人の作業台をオレンジ色に染めていた。ミレーナの表情には、まだ不安が残っているようだったけれど、その目には確かな希望の光も見えた。
「あ、そういえば」
ミレーナがふと思い出したように口を開いた。
「もうすぐ、街の菓子祭があるの。腕自慢の職人たちが自分の菓子を出品する催しなんだけど……」
「菓子祭!?」
わたしの目が輝いた。
「それ、絶対面白そうじゃない! ミレーナ、あなたもこの新作を出品したら?」
「え……で、でも」
「大丈夫よ、これだけ美味しいんだから! きっと認めてもらえるわ!」
わたしの勢いに押されるように、ミレーナは戸惑いながらも小さく頷いた。
「や、やってみる……! この新作を、菓子祭に出してみようと思う!」
「決まりね!」




