第3話 お姫さま、宿代を知る
月明かりを頼りに街道を進み続けて、どれくらい経っただろうか。
空の色がわずかに白み始めたころ、ようやく最初の町が見えてきた。城下町よりもずっと小さな、街道沿いの宿場町らしい。石畳ではなく土を固めただけの道の両脇に、木造の家々が並んでいる。
「ボンボン、疲れたでしょう。あそこで休みましょうか」
「もふぅ」
ボンボンが小さく鼻を鳴らして、町の入口へと歩みを進めた。長時間走り続けたせいか、足取りにも少し疲れが見えている。
町の入口には、大きな木の看板を掲げた建物があった。看板には「旅人の休み処」と書かれている。
(宿屋ってやつね! 本で読んだことがあるわ)
わたしは目を輝かせながら、ボンボンから飛び降りた。プティが帽子の中からひょっこりと顔を出し、周囲の匂いを嗅ぎ回っている。
「きゅい、きゅい!」
「そうよね、プティ。ここでご飯を食べさせてもらいましょう」
扉を開けると、カウンターの奥に、恰幅のいい中年女性が立っていた。エプロン姿で、こちらをじろりと見てくる。
「あら、こんな朝早くにお客さんかい。部屋をお探しかい?」
「ええ! ここで泊まりたいの!」
「そうかい、そうかい。うちは一泊、朝食付きで銀貨三枚だよ」
わたしは首を傾げた。
「銀貨って何?」
「……は?」
女将さんの表情が固まった。
「お嬢さん、まさかとは思うけど、お金は持ってるんだろうね?」
「お金? 泊まるだけなのに、お金がいるの?」
今度は女将さんが目を丸くする番だった。
「そりゃそうだよ!」
「でも、おウチでは寝てもお金なんて取られなかったわ」
「自分の家で寝て金取られる人がどこにいるんだい! 宿はタダじゃ泊まれないよ! 部屋代も、食事代も、ちゃんとお代をいただかないと、うちだって商売あがったりさ!」
わたしは愕然とした。
考えてみれば当然のことなのだけれど、これまで生活のすべてを城が用意してくれる環境で育ってきたわたしにとって、「宿泊にお金がかかる」という事実は、まったくの盲点だった。
「で、でも……わたし、王女なのよ! 名乗れば、無料にしてもらえないの?」
言った瞬間、自分でも「これはさすがにまずいことを言ったかもしれない」と気づいた。案の定、女将さんの目つきが険しくなる。
「お嬢さん、面白い冗談だね。うちみたいな辺鄙な宿場町に、王女様がお忍びで来るはずないだろう。そういう嘘をつく子には泊めてあげられないよ」
「う、嘘じゃないわ! 本当に――」
言いかけて、はたと気づいた。
(そうよ、下手に名乗って正体がバレたら、追手に見つかっちゃうかもしれない)
王女だと信じてもらえなければ嘘つき扱いされるし、信じてもらったら今度は追手に居場所が知られるかもしれない。
どちらに転んでも、旅の初日から大失敗の予感しかしない。
「ご、ごめんなさい。今のは冗談よ! ちゃんと払うわ」
慌てて鞄を漁ったものの、中から出てきたのは焼き菓子の包みばかりだった。お小遣いを入れた革袋を探し当てて開いてみると、そこにあったのは、想像していたよりずっと少ない硬貨だった。
女将さんが横からじろりと覗き込んでくる。
「……お嬢さん、それっぽっちじゃ、銀貨一枚にもならないよ」
「そんな……」
目の前が暗くなった。
まさか、旅を始めてたった数時間で、資金不足に陥るなんて。
「あの、これは?」
わたしはとっさに、懐に忍ばせていた指輪を取り出した。王家の紋章が刻まれた、金と宝石でできた指輪だ。
「これ、結構高そうでしょう? これで払えないかしら」
女将さんが指輪を手に取り、まじまじと眺めた。
「……お嬢さん、これはただの指輪じゃないね。ずいぶんと上等な細工だ。それに、この紋章……もしかしなくても」
「あ」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「王家の紋章じゃないか! お嬢さん、あんた本当に――」
「な、なんでもないの! それ返して!」
慌てて指輪を取り返そうとしたけれど、女将さんはすでに何かに気づいた様子で、目を細めてこちらを見つめていた。
「盗品だったら、うちも困るんだけどねぇ……」
「盗品じゃないわ! これは、その、家族からもらったもので――」
しどろもどろになりながら弁解していると、後ろの方から、聞き覚えのない声が割り込んできた。
「そこのお嬢さん、その指輪は質屋に持っていけば相応の値がつくと思いますよ」
振り返ると、旅装束の若い男性が入口に立っていた。どうやら別の客らしい。
「質屋?」
わたしは初めて聞く単語に首を傾げた。
「質屋を知らないんですか? お嬢さん、ずいぶんと箱入りで育てられたようですね」
からかうように言われて、頬がかっと熱くなった。
「し、失礼ね! ちゃんと知ってるわよ! ただ、その、使ったことがなかっただけで」
「まあまあ。町の中心に質屋があります。そこに持っていけば、指輪を担保にお金を借りられますよ」
男性はそう言うと、軽く会釈をして宿の奥へと消えていった。
(王女の指輪を質屋に……)
一瞬躊躇したけれど、背に腹は代えられない。
女将さんに質屋の場所を確認しつつ丁重に頭を下げ、わたしはボンボンを連れて、教えてもらった質屋へと向かった。
質屋の店主は、眼鏡をかけた初老の男性だった。指輪を見せると、しばらくためつすがめつしてから、意外にもあっさりとお金を貸してくれた。
「王家の紋章入りとはね。まあ、こちらとしても悪い話じゃない」
「あの、これって……」
「ちゃんと利子をつけて返してもらいますよ。期限までに返せなければ、指輪はうちのものになります」
利子という言葉の意味もよく分からなかったけれど、とにかくお金を手にできたことにほっとした。
こうして、無事に宿代を工面したわたしは、再び「旅人の休み処」へと戻った。
部屋に案内される道中、廊下に併設された小さな食堂を通りかかると、木の皿にずらりと並べられた焼き菓子が目に入った。
「あ、お菓子!」
考えるより先に、手が伸びていた。
一口かじった瞬間、後ろから鋭い声が飛んできた。
「お嬢さん! それは商品だよ! 勝手に食べちゃ困る!」
「え……試食じゃないの?」
「試食するときは、ちゃんとお店の人に断ってからだよ! 無銭飲食は犯罪だからね!」
わたしは慌てて口の中の菓子を飲み込みながら、財布からありったけの硬貨を差し出した。
「ご、ごめんなさい! これで足りるかしら!?」
女将さんは深いため息をついて、硬貨を数えながら受け取った。
「まったく……お嬢さん、あんたよっぽど世間知らずだね」
「べ、別に、そういうわけじゃ――」
言い返そうとしたけれど、実際その通りなので、言葉が続かなかった。
プティが帽子の中で、呆れたように「きゅう」と小さく鳴いた。
部屋にたどり着いたころには、すでに日はすっかり昇りきっていた。ボンボンを裏の小屋に休ませ、わたしはようやく借りた部屋のベッドに倒れ込んだ。
「はあ……疲れたわ」
「きゅい……」
旅の初日にして、すでに数え切れないほどの失敗をしでかしている気がする。宿代を知らなかったこと、王女だと名乗って怪しまれたこと、指輪を質に入れたこと、無銭飲食をしかけたこと。
それでも、不思議と後悔はなかった。
窓の外には、これまで見たこともない町の景色が広がっている。石造りの城の中では決して見られなかった、活気に満ちた市場の喧騒が遠くから聞こえてくる。
(これが……旅というものなのね)
しばらく休んで、わたしはもう一度町へと繰り出すことにした。
市場に着くと、色とりどりの露店が軒を連ねていた。果物、パン、香辛料、そして――甘い匂いを漂わせるお菓子の屋台。
プティが真っ先に反応して、帽子から飛び出し、匂いの元へと突進していく。
「あ、こら、プティ! 待ちなさい!」
慌てて追いかけながら、わたしは屋台に並んだ見知らぬお菓子の数々に目を奪われた。城で食べていたものとは違う、素朴だけれど温かみのある焼き菓子。
「これ、何のお菓子?」
屋台の店主に尋ねると、恰幅のいいおじさんが人懐っこい笑顔で答えてくれた。
「ああ、これはうちの町の名物でね。木の実を練り込んだパン菓子だよ。ただ、うちのはまだまだ田舎の味さ。本当に美味しい菓子が食べたいなら、南のフロレンツァ公国に行くといい」
「フロレンツァ公国?」
「ああ、運河の街だよ。あそこの菓子街は、その国でも指折りの名店が並んでてね。特にジェラートって冷菓が絶品だって話だ」
わたしの心臓が、どきん、と跳ねた。
(運河の街。ジェラート。まだ見ぬお菓子……)
旅商人のガスパールから聞いた話も思い出す。世界にはまだまだ知らないお菓子が溢れている。
「決めたわ!」
思わず声に出していた。
「次は、フロレンツァ公国に行きましょう!」
「きゅい!」
プティが口いっぱいに木の実パンを頬張りながら、賛成するように鳴いた。
こうして、初日から数々の失敗を重ねながらも、わたしの旅は着実に前へと進み始めていた。
――しかし、そのころ。
ベルフィーユ王国の城では、案の定とんでもない騒動が巻き起こっていた。
「リリアーヌが……消えた、だと!?」
国王アルフォンスの怒声が、玉座の間に響き渡った。
朝になって王女の不在が発覚するや否や、城内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。侍女たちは泣きじゃくり、騎士団は総出で城内外を捜索し、大臣たちは対応に追われている。
「陛下、落ち着いてください。すでに騎士団を出動させ、街道沿いの捜索を――」
「落ち着けだと!? 我が娘が家出をしたのだぞ! これが落ち着いていられるか!」
アルフォンス王は玉座の肘掛けを拳で叩きつけた。長年の付き合いである宰相ですら、これほど取り乱した王の姿を見るのは初めてだった。
その一方で、王妃エレオノーラは玉座の隣で、意外にも落ち着き払った表情を浮かべていた。
「陛下、そう慌てずとも。あの子のことです。三日もすれば、お腹を空かせて戻ってくるでしょう」
「そんな悠長なことを言っている場合か! もし何かあったらどうする!」
「あの子には、ボンボンとプティがついています。それに、リリアーヌはああ見えて逞しいですよ」
エレオノーラの声には、どこか懐かしむような響きがあった。
(わたくしも、若いころは似たようなことをしたものだわ)
その事実は、夫にも子どもたちにも決して話していない秘密だったけれど。
「とにかく、捜索は続けさせる。それと――」
アルフォンス王は、玉座の間の隅に控えていた一人の若い女性騎士に視線を向けた。
「セシル・アルヴェーン」
「はっ!」
黒に近い紺色の長髪を持つ女騎士が、姿勢を正して前に進み出た。真面目な顔立ちに、灰青色の瞳が凛と光っている。
エレオノーラがゆっくりと立ち上がり、セシルに向き直った。
「セシル、あなたに命じます。リリアーヌを見つけ出し、必ず城へ連れ戻しなさい」
「承知いたしました、王妃陛下。必ずや姫殿下を発見し、お連れいたします」
セシルは迷いのない声でそう答えると、深く頭を下げた。
「では、直ちに出立いたします」
そして剣を腰に佩き直し、玉座の間を後にした。
その足取りには、一切の迷いがなかった。
――一方そのころ、フロレンツァ公国行きを決めたリリィは、市場で見つけた新たな屋台の前で、また新たな失敗をしでかそうとしていたのだった。
「あら、これも美味しそうね! ひとつちょうだい!」
「お嬢さん、まずお代を先に――」
「あ、そうだったわね! ごめんなさい!」
プティが呆れたように、小さくため息をつくような仕草を見せた。
「きゅう……」
☆
わたしは宿に戻ると、女将さんにフロレンツァ公国へ向かうことを伝えた。
「おや、もう出るのかい? 泊まらないなら、休憩代は銀貨二枚でいいよ。ほら、一枚返すから――」
「ありがとう! じゃあ、行ってきます!」
「って、もういないじゃないか!」
わたしは返してもらった銀貨を握りしめ、ボンボンの背に飛び乗った。
「フロレンツァ公国へ行くわよ、ボンボン!」
「もふぅ!」
こうして、わたしたちは南の方角へ進み始めた。
返してもらった銀貨と、質屋で借りた残りのお金があれば、しばらくは旅を続けられそうだった。




