第28話 世界で一番おいしいもの
やがて、ノエルはゆっくりと、そのお菓子を口元へと運んだ。
小さく一口、齧る。
その瞬間、ノエルの瞳が、わずかに見開かれた。
「これは……」
「どう? 美味しい?」
わたしが恐る恐る尋ねると、ノエルは、何かを確かめるように、もう一口、お菓子を口に運んだ。
「甘い……。それに、色々な味が、重なり合っている」
ノエルの声には、これまでの冷たさとは違う、かすかな驚きの色が滲んでいた。
「それはね、一つの国だけじゃ、作れないお菓子なの」
わたしはノエルの隣に、そっと腰を下ろしながら、説明を始めた。
「ベルフィーユの小麦。フロレンツァの果物。ヤマトノ国の米飴。サハリア王国の蜂蜜。ノルディア王国のベリー。アルマ海洋共和国の柑橘」
わたしは、これまでの旅で集めてきた材料の数々を、一つずつ挙げていった。
「これらを、全部合わせて作ったのが、そのお菓子よ」
ノエルは、手の中にあるお菓子を、改めてまじまじと見つめた。
「一つの国だけでは、作れない……?」
「そう。もし、それぞれの国が、自分たちの材料だけに閉じこもっていたら、この味は、絶対に生まれなかったと思うの」
わたしは確かな想いを込めて続けた。
「わたしね、旅をする前は、世界中のお菓子を、それぞれ別々に食べ比べたいって思ってたの。この国の味、あの国の味、って」
「でも、旅を続けるうちに、気づいたことがあるの」
わたしは、お菓子をもう一つ手に取りながら、続けた。
「本当に美味しいものって、じつは、一つの場所だけじゃ、完結しないんじゃないかって」
ノエルが、静かにこちらを見つめている。
「色々な土地の、色々な材料が、混ざり合うことで、初めて生まれる味がある。それは、どこか一つの国だけの力じゃ、絶対に作れないものなの」
わたしは、深く息を吸い込んでから、はっきりとした声で告げた。
「世界って、こんなにおいしいのよ」
その言葉に、ノエルの瞳に、これまでにない複雑な感情の色が広がっていった。
彼女はしばらくの間、黙ってお菓子を見つめ続けていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……昔は」
「昔は?」
「昔は、こういう混ざり合いが、当たり前にあった」
ノエルの声には、遠い記憶を辿るような、懐かしさの色が滲んでいた。
「国境などというものが、今ほど強く意識されていなかったころ、精霊脈を通じて、大陸中の土地が、緩やかに繋がっていた。作物も、文化も、自然に混ざり合い、豊かな実りをもたらしていた」
「それが……」
「いつしか、それぞれの国が、自分たちの利益を優先するようになり、その繋がりを、少しずつ分断していった」
ノエルの声には、深い悲しみが滲んでいた。
「私は、その分断を、ただ悲しく見つめることしかできなかった。そして、少しずつ、力を失っていった」
わたしはノエルの言葉に、じっと耳を傾けていた。
「でも」
わたしはノエルの隣に、そっと寄り添うように腰を下ろした。
「わたしは、旅の中で、その繋がりを、もう一度取り戻そうとしている人たちに出会ったの」
「取り戻そうと……?」
「ミレーナは、伝統と新しい挑戦を、繋ぎ合わせようとしていた。シャヒラは、王女という立場を超えて、わたしと友情を育もうとしてくれた。フレイヤは、雪国という厳しい環境の中でも、旅人であるわたしたちを、温かく迎えてくれた」
わたしは、これまでの旅で出会った人々の顔を、一人ずつ思い浮かべながら続けた。
「みんな、それぞれの場所で、何かを繋ごうと、必死に頑張ってる。だから、あなたが諦めてしまうのは、まだ早いと思うの」
ノエルは、しばらくの間、じっと考え込んでいた。
やがて、彼女はこう告げた。
「……分かった」
「ノエル様?」
「お前の想いは、確かに受け取った。少なくとも、お前と、お前が旅で出会った人々の気持ちは、本物のようだ」
その言葉に、わたしは思わず、安堵の息を漏らした。
「でも、精霊脈を復活させるには、まだ、大きな障害が残っている」
ノエルの表情が、再び真剣なものへと変わった。
「各地に散らばった魔力の流れを、同時に、一つに繋ぎ合わせる必要がある。それには、私一人の力だけでは、到底足りない」
「同時に……?」
わたしが問い返すと、ノエルは頷いた。
「かつて、精霊脈が正常に機能していたころ、各地の土地には、それぞれの精霊脈を管理する『開口部』のようなものが存在していた。それらを、同時に開き、力を一つに束ねる必要がある」
「それって、つまり――」
「お前が旅で出会った国々、それぞれの土地の力が、必要になるということだ」
ノエルの言葉に、わたしは思わず、これまで出会ってきた人々の顔を思い浮かべた。
ミレーナ、コハル、シャヒラ、フレイヤ、マリン。
「セシル、聞いた? みんなの力が、必要みたいなの」
わたしがセシルに向き直ると、セシルも真剣な表情で頷いた。
「はい。ならば、すぐにでも、各国へ使者を送り、協力を要請する必要がありますね」
「そうね。でも、これだけの規模の連携となると……」
わたしが考え込んでいると、ノエルが口を開いた。
「時間は、あまり残されていない。私の力は、これ以上、長くはもたないだろう」
その言葉に、わたしの背筋に緊張が走った。
「分かったわ。すぐに、みんなに連絡を取りましょう」
わたしは、これまでの旅で結んできた、それぞれの国との絆を、改めて胸に思い浮かべた。
単なる食べ歩きの旅の中で、偶然のように出会った人々。けれど、その一つ一つの出会いが今、世界を救うための大切な鍵となろうとしていた。
「セシル、急いで各国に使者を送りましょう。それと、王城にも、この状況を伝えないと」
「承知いたしました」
セシルが、すぐさま行動に移ろうとする中、わたしは、改めてノエルに向き直った。
「ノエル様、もう少しだけ、待っていてね。必ず、あなたを助ける方法を見つけるから」
ノエルは、しばらくの間、こちらをじっと見つめていた。
その瞳には、これまでの拒絶とは違う、かすかな希望の色が、確かに宿り始めているように見えた。
「……分かった。お前たちの想いに、賭けてみよう」
その言葉に、わたしは、深く安堵の息をついた。
森の中に差し込む、わずかな木漏れ日がノエルの銀色の髪を柔らかく照らしていた。




