第27話 始まりの森の少女
翌朝、わたしたちは夜明けとともに城を発ち、王都の外れにある「始まりの森」へと向かった。
この森のことは、幼いころから城の言い伝えとして耳にしたことがあった。けれど、実際に足を踏み入れるのは、これが初めてのことだった。
「ずいぶんと、静かな森ね」
馬車を降り、森の入口に立ったわたしは、思わずそう呟いた。
これまで旅してきたどの森とも違う、張り詰めたような静寂が、辺り一帯を包み込んでいる。木々の葉音すら、どこか遠くに感じられるほどだった。
「姫殿下、足元にお気をつけください」
セシルが先導しながら、慎重に森の奥へと進んでいく。プティはいつになく大人しく、わたしの肩の上でじっと身を縮めていた。
「もふぅ」
ボンボンも、普段のとぼけた様子とは違い、どこか緊張した面持ちで歩みを進めている。
森の奥へと進むにつれ、木々の様子が徐々に変化していった。葉の色艶が失われ、枝には生気が感じられない。まるで、この森全体が、静かに息を潜めているかのようだった。
「これが、精霊が弱っている影響……」
わたしは、旅の途中で見てきた各国の異変を思い出しながら、そう呟いた。
しばらく進むと、木々に囲まれた小さな泉が見えてきた。その泉のほとりに、一人の少女らしき姿が佇んでいる。
少女は、透き通るような銀色の髪と、深い緑色の瞳を持っていた。身にまとった衣は、まるで木の葉と花びらを織り込んだかのような、不思議な質感をしている。
「あの子は……」
わたしが思わず声を漏らすと、少女がゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳には、深い疲労と、どこか諦めにも似た色が浮かんでいた。
「……また、人間か」
少女の声は、穏やかでありながら、どこか冷たい響きを持っていた。
「あなたが……古代精霊、ノエル様?」
わたしが恐る恐る尋ねると、少女は小さく頷いた。
「そうだ。よく分かったな」
「旅の途中で、あなたのことについて、色々と教えてもらったの」
わたしがそう答えると、ノエルは疲れたようなため息をついた。
「わざわざ教えてもらわずとも、いずれ分かることだ。私はもう、長くはもたない」
その言葉に、わたしの胸が、ずきりと痛んだ。
「ノエル様、あなたを助けに来たの」
「助ける、だと?」
ノエルの瞳に、初めて感情らしきものが浮かんだ。それは、驚きというよりも、むしろ強い拒絶の色を帯びていた。
「人間が、私を助けるだと? 笑わせるな」
ノエルの声が、急に鋭さを増した。
「お前たち人間が、自分たちの土地を囲い込み、魔力の流れを勝手に分断したせいで、私はこれほどまでに弱っているのだぞ」
その糾弾に、わたしは思わず言葉を詰まらせた。
「それは……」
「今さら、都合よく『助けに来た』などと言われても、信じられるはずがない」
ノエルはこちらに背を向けながら、穏やかに、けれど確かな怒りを込めてそう告げた。
「また同じことを繰り返すだけだろう。人間というものは、いつだって、自分たちの利益を優先する生き物だ」
その言葉には、長い年月にわたって積み重ねられてきた、深い失望と諦めが滲んでいた。
セシルが、わたしの傍らで口を開いた。
「姫殿下、この状況を、理屈だけで説得するのは、難しいかもしれません」
セシルの言葉に、わたしも同意せざるを得なかった。
ノエルが抱えている不信感は、単なる論理や説明では、簡単に解きほぐせるものではない。それは、心の奥深くに刻まれた傷のようなものだった。
(どうすれば、この子に、わたしたちの本当の気持ちを伝えられるかしら)
わたしはしばらくの間、じっと考え込んだ。
これまでの旅で出会ってきた、たくさんの人々の顔が、脳裏に浮かんでは消えていく。ミレーナ、コハル、シャヒラ、フレイヤ、マリン。それぞれの国で、懸命に生きる人々の姿。
そして、ふと、ある考えが胸に浮かんだ。
「ノエル様」
わたしは確かな決意を込めて、ノエルに向き直った。
「理屈で説得しようとは思わないわ。ただ、あなたに、知ってほしいものがあるの」
「知ってほしいもの?」
ノエルが訝しげにこちらを見た。
わたしは鞄の中から、これまでの旅で集めてきた、各国のお菓子の数々を一つずつ取り出し始めた。
フロレンツァ公国のミレーナがくれた柑橘タルト。ヤマトノ国のコハルからもらった団子。サハリア王国のシャヒラが用意してくれた蜂蜜菓子。ノルディア王国のフレイヤが焼いてくれたシナモンロール。そして、アルマ海洋共和国で仕入れたレモン菓子。
「これは……」
ノエルが、次々と並べられていくお菓子の数々を戸惑ったように見つめた。
「わたしが、旅の途中で出会った人たちから、もらったものよ」
わたしは、それぞれのお菓子を差し出しながら続けた。
「一つだけじゃ、足りないの。でも、これを全部合わせたら、きっと、あなたにも分かってもらえると思う」
わたしはこれらの材料を組み合わせた、新しいお菓子を作ることをノエルに提案した。
「世界中を繋ぐお菓子……そういうものを、あなたに食べてもらいたいの」
ノエルはしばらくの間、黙り込んだまま、差し出されたお菓子の数々を見つめていた。
その沈黙の中に、これまでの拒絶とは違う、わずかな迷いのようなものが感じられた。
「……なぜ、そこまでする」
やがて、ノエルが、ぽつりとそう呟いた。
「私は、お前たち人間を、信じてなどいない。それなのに、なぜ、そこまでして、私に何かを伝えようとする」
わたしは少しの間、考えてから答えた。
「わたしも、最初は、ただお菓子が食べたいだけで、旅を始めたの」
「お菓子が、食べたいだけ?」
「そう。城の暮らしに飽きて、世界中の珍しいお菓子を食べてみたいって、それだけの理由で、家出をしたのよ」
わたしの正直な告白に、ノエルは意外そうな表情を浮かべた。
「でも、旅を続けるうちに、色々な国で、色々な人たちと出会ったの。それぞれの土地で、懸命に生きている人たちの姿を見てきた」
わたしはこれまでの旅の記憶を、一つずつ辿るように、言葉を紡いでいった。
「あなたが弱っていることで、苦しんでいるのは、あなただけじゃないの。ミレーナも、コハルも、シャヒラも、フレイヤも、マリンも……みんな、それぞれの場所で、この異変に苦しんでる」
わたしは、ノエルの瞳をまっすぐに見つめながら続けた。
「わたしは、単なる旅人として、その事実を見て見ぬふりすることもできた。でも、それはできなかった。だって、わたしは、彼女たちのことを、大切に思ってしまったから」
「大切に……」
ノエルが、その言葉を繰り返した。
「もちろん、これまで人間があなたにしてきたことを、簡単に許してほしいとは思わない。でも、少なくとも、わたしと、わたしが旅で出会った人たちは、あなたを傷つけたいなんて、思ってないの」
わたしは差し出していたお菓子の一つを、そっとノエルの手の上に置いた。
「だから、お願い。一度だけでいいから、わたしたちの気持ちを、味わってみてほしいの」
ノエルは手の上に置かれたお菓子を、しばらくの間、じっと見つめていた。
その表情には、これまでの拒絶とは違う、何か複雑な感情が浮かんでいるように見えた。
セシルがこちらを見守りながら、小さく頷いた。
「姫殿下の想いが、きっと伝わるはずです」
プティもいつになく神妙な様子で、ノエルの様子を見つめている。
「もふぅ」
ボンボンも、静かにその場に寄り添うように佇んでいた。
森の中に、沈黙が流れていく。
ノエルが、果たして、この気持ちを受け入れてくれるのか。
ノエルは手の上のお菓子へ、ゆっくりと視線を落とした。




