第10話 神さまのお菓子が足りません
翌朝、わたしは日の出とともに目を覚ました。
神社の一室から見える庭には、朝露に濡れた木々が朝日を受けてきらきらと輝いている。隣の布団では、セシルがすでに身支度を整え、剣を腰に佩いているところだった。
「おはよう、セシル。早いのね」
「姫殿下こそ、いつになく早起きですね」
「気になることがあると、寝てられない性分なの」
起き上がって伸びをしていると、障子の向こうからコハルの声が聞こえてきた。
「リリィ様、セシル様、朝餉の準備ができております」
案内された部屋には、見たこともない品々が並んだ膳が用意されていた。艶やかな白米、味噌汁と呼ばれる汁物、焼き魚。
「いただきます」
コハルに倣って手を合わせてから、わたしは白米を一口食べてみた。噛みしめるうちに、昨日感じた違和感がより明確になってくる。
「やっぱり、味が薄いわ」
「そうなのですね……」
コハルが困ったように眉を下げた。
「じつは、この米も、祭りに使う予定だったものの一部なんです。本来ならもっと甘みと粘りがあるはずなのですが」
「昨日話してた、森の異変と関係あるのかしら」
「わかりません。ただ、田畑の様子を見に行った村人たちも、口を揃えて『何かがおかしい』と言っています」
☆
朝食を終えた後、わたしたちはコハルの案内で、神社近くの田畑へと向かった。
広がる田んぼは、一見すると豊かに実っているように見えたけれど、近づいてよく見ると、稲穂の実りが例年より明らかに乏しいことが分かった。
「こんな状態が、ずっと続いているの?」
「はい。最初は少しずつだったのですが、ここ最近、急速に悪化しているように感じます」
田んぼのあぜ道を歩いていると、一人の年配の農夫が険しい表情で稲を見つめているのが目に入った。
「お困りのようですね」
セシルが声をかけると、農夫は疲れた様子でこちらを振り向いた。
「ああ、旅の方々ですかい。いやはや、今年は本当に困ったもんでね。稲の育ちが悪いだけじゃなく、夜な夜な何かに作物を荒らされているんですよ」
「荒らされている、というのは?」
「畑の隅の方から、少しずつ作物が消えていくんです。獣の足跡もないのに、不思議なことに」
農夫は不安そうに、田んぼの奥にある森の方角を見やった。
「あの森に何かいるんじゃないかって、村じゃ噂になってましてね。近づかない方がいいって、年寄り連中が言うもんだから」
「その森、詳しく調べてみたいんだけど」
わたしの申し出に、農夫は驚いた顔をした。
「お嬢さん、危ないですよ。何が起きているか分からないのに」
「大丈夫よ、わたしたち、こう見えて結構頼りになるから」
自信満々にそう言うと、農夫は半信半疑ながらも、森の入口までの道を教えてくれた。
森へ向かう道すがら、プティが突然、鼻先をひくつかせながら興奮した様子を見せ始めた。
「きゅい! きゅい!」
「プティ、どうしたの?」
「何か、甘い匂いを感じ取っているようですね」
セシルの言葉に、コハルも頷いた。
「わたしも、微かに感じます。神社で長年過ごしていると、こういった気配には敏感になるんです」
「気配?」
「はい。魔物や精霊の気配のようなものです」
コハルの言葉に、わたしとセシルは思わず顔を見合わせた。
森の入口に近づくにつれ、空気が徐々に湿り気を帯び、木々の間から差し込む光も少なくなっていく。それでいて、確かにどこからか、甘い香りが漂ってくるのを感じた。
「この匂い……」
「間違いなく、お菓子か、それに類する甘いものの匂いですね」
セシルが真剣な表情で辺りを警戒しながら呟いた。
しばらく森の中を進んでいくと、ふいに開けた場所に出た。そこには、小さな泉があり、その周囲には奇妙な光景が広がっていた。
「これは……」
泉の周りの木々の葉が、部分的に色を失い、乾いたように萎れている。そして、その根元には、小さな生き物たちの気配が感じられた。
「あそこに、何かいるわ」
わたしが指差した先には、体長三十センチほどの、丸っこい姿をした小動物のような魔物たちが群がっていた。全身が薄茶色の毛に覆われ、大きな目でこちらを見つめている。
「あれは……森ネズミの魔物、でしょうか」
コハルが緊張した面持ちで呟いた。
「初めて見る種類です。本来なら、こんな場所にはいないはずなんですが」
魔物たちは、田畑から運んできたらしい作物の欠片を、しきりに口に運んでいた。その様子を見て、わたしはふと違和感を覚えた。
「あの子たち……なんだか、瘦せてない?」
よく見ると、魔物たちの毛並みはくすんでいて、体つきもどこか痩せ細っているように見える。
「確かに……健康な様子には見えませんね」
セシルも眉をひそめながら同意した。
そのとき、群れの中の一匹が、こちらの存在に気づいて怯えたように後ずさりした。他の魔物たちも一斉に警戒の色を見せる。
「大丈夫よ、怖がらないで」
わたしはゆっくりと近づきながら、努めて優しい声で語りかけた。魔物たちは警戒しつつも、逃げ出す様子はなかった。
「セシル、この子たちを追い払うべきかしら」
「本来なら、それが妥当な対応かと思いますが……」
セシルが言葉を濁した。
わたしはしゃがみ込んで、魔物の一匹の様子を注意深く観察した。その痩せた体つきと、怯えたような瞳を見ていると、単純に「悪さをしているから追い払う」という考えには、どうしても踏み切れなかった。
「この子たち、もしかして……お腹を空かせてるだけなんじゃないかしら」
「お腹を?」
「だって、これだけ痩せてるってことは、普段の餌が足りてないってことでしょう」
コハルが泉の周りをぐるりと見渡しながら、はっとした表情を浮かべた。
「そういえば……最近、この森自体の様子がおかしいという話も聞いたことがあります。木々の実りが悪く、森に棲む生き物たちの餌も減っているとか」
「森全体が、弱ってるってこと?」
「はっきりとは分かりませんが、その可能性はあると思います」
わたしは改めて、周囲の木々を見渡した。確かに、葉の色艶が悪く、本来なら実っているはずの木の実も、数が少ないように感じられる。
「つまり、この子たちは、森で餌が見つからないから、仕方なく田畑まで下りてきてるってことね」
その推測に、セシルもコハルも神妙な表情で頷いた。
「では、どうすればよいのでしょうか」
コハルが不安げに尋ねてくる。
「単純に追い払うだけじゃ、根本的な解決にはならないと思うの。この子たちだって、生きるために必死なんだから」
わたしは少し考えを巡らせてから、ひとつの案を思いついた。
「森の別の場所に、この子たちのための餌場を作ってあげたらどうかしら。田畑から離れた場所に、餌になるものを用意してあげれば、わざわざ危険を冒して田畑まで来る必要もなくなるはずよ」
「なるほど……それなら、村人たちの被害も減らせますね」
セシルが感心したように頷いた。
「ただ、それはあくまで一時的な対処法です。根本的な原因――森の実りが悪くなっていること自体を解決しなければ、いずれまた同じ問題が起こるのではないでしょうか」
コハルの指摘に、わたしも深く頷いた。
「そうよね……。でも、今はまず、目の前の問題から片付けましょう。祭りも近いんだし」
「賛成です」
こうして、わたしたちはひとまず、魔物たちのための一時的な餌場を作る計画を立てることになった。
プティが張り切った様子で、鞄の中から自分用に持っていたお菓子の欠片を差し出そうとする。
「プティ、それは駄目よ。あなたのおやつじゃなくて、ちゃんとした餌を用意しないと」
「きゅう……」
しょんぼりと肩を落とすプティの姿に、思わず笑ってしまう。
「大丈夫、あなたの分はちゃんと残しておくから」
「きゅい!」
途端に元気を取り戻すプティを見て、コハルもくすりと笑みをこぼした。
☆
その日の午後、わたしたちは村人たちの協力を得ながら、森の奥、田畑からじゅうぶんに離れた場所に、木の実や果物を集めて簡易的な餌場を設置した。
「これだけあれば、きっと大丈夫ね!」
積み上げられた木の実の山を見て、わたしは満足げに腰へ手を当てた。
「きゅい!」
プティも得意そうに胸を張っている。もっとも、途中で何度も木の実をつまみ食いしようとして、そのたびにわたしに止められていたのだけれど。
☆
おかしい――。
夕暮れが近づいても、魔物たちは一匹も姿を見せなかった。
「……来ないわね」
「来ませんね」
わたしとコハルの声が、ほとんど同時に重なった。
餌場から少し離れた木陰に身を潜めて、もうかなりの時間が経っている。木の実も果物も、置いたときのままだ。
「おかしいわ。お腹が空いてるなら、絶対に来ると思ったのに」
思わず頬を膨らませる。
自信はあった。
森に食べ物がないなら、別の場所に食べ物を用意すればいい。単純だけれど、それが一番いい方法だと思っていた。
「……もしかすると、場所がよくなかったのかもしれません」
セシルがそう言って、餌場の近くへ歩み寄った。
「場所?」
「はい」
セシルは地面にしゃがみ込み、周囲を注意深く見回した。
「ここまで餌を運ぶために、大勢の村人が出入りしました。地面にも足跡が残っていますし、人間の匂いもかなり残っているはずです」
「あ……」
言われてみれば、その通りだった。
餌場の周囲には、村人たちの靴跡がいくつも残っている。それどころか、木の枝を切った跡や、荷車を引いた跡まであった。
「魔物たちは、人間を警戒しているのかもしれません」
コハルも餌場を見つめながら頷いた。
「特に今は、村人たちに追い払われた直後です。食べ物の匂いがしても、人の気配が強い場所には近づきたがらないのかもしれません」
「そんな……」
わたしは積み上げた木の実を見つめた。
いい考えだと思ったのに。
これなら村人も魔物も困らずに済むと、そう思ったのに。
「姫殿下」
セシルの声に振り返る。
「失敗したと決まったわけではありません。場所が悪かったのなら、場所を変えればよいだけです」
「……でも、わたしがもっとちゃんと考えてたら――」
「最初からすべて分かる者などいません」
珍しく、セシルはわたしの言葉を途中で遮った。
「姫殿下の案があったからこそ、こうして試すことができたのです。試したから、問題点にも気づけた。それでじゅうぶんではありませんか」
いつものように叱られると思っていたのに、セシルの声には責める響きが少しもなかった。セシル自身も、いつからこんなふうに姫殿下を励ますようになったのか、少し不思議そうな顔をしていた。
わたしはしばらくセシルの顔を見つめた。
「……セシルって、たまにすごくいいこと言うわね」
「たまに、は余計です」
「きゅい!」
「もふぅ」
プティとボンボンまで同意するように鳴く。
「あなたたち、どっちに同意したのよ」
思わず笑ってしまった。
さっきまで胸の中に引っかかっていた悔しさが、ほんの少しだけ軽くなる。
コハルが森の奥へ視線を向けた。
「もう少し奥に、獣道があります。そこなら村人もほとんど近づきませんし、魔物たちも通っているはずです」
「じゃあ、そこへ移しましょう!」
わたしは立ち上がった。
「今度はできるだけ人数を減らして、足跡も残さないようにするの。木の実を置いたら、すぐ離れる!」
「先ほどよりは、ずいぶん慎重になりましたね」
セシルが小さく笑う。
「当然よ。一回失敗したんだもの。同じ失敗を二回するほど、わたしだってお馬鹿じゃないわ」
「それなら安心しました」
「ちょっと。どういう意味よ?」
そんな言い合いをしながら、わたしたちはもう一度、木の実の入った籠を抱えて森のさらに奥へと歩き始めた。
今度こそ。
魔物たちが安心して食べられる場所を作るために。
☆
今度こそ上手くいくはずだと自分に言い聞かせながら、わたしは新しい餌場を見回した。
設置を終えた後、わたしたちは一旦神社へと戻ることにした。
帰り道、コハルがふと立ち止まり、森の奥を振り返った。
「リリィ様、セシル様。今日は本当にありがとうございました。お二人がいなければ、きっとこの問題にどう向き合えばいいのか、分からなかったと思います」
「まだ解決したわけじゃないわ。今夜、あの子たちがちゃんと餌場に来てくれるかどうか、確かめないと」
わたしはそう言いながらも、胸の奥にはまた別の疑問が渦巻いていた。
(森の実りが悪くなっている原因は、一体何なのかしら)
フロレンツァ公国での果物の異変、そして今回のヤマトノ国での米と森の異変。これらの出来事に、何か共通するものがあるような気がしてならなかった。
夕日が山の稜線に沈んでいく中、わたしたちは神社への帰路を急いだ。




