52.下心
「簡単な話だろう? お前は家のために結婚相手を探している。ならばちょうどいいじゃあないか」
男はにやにやと、醜悪に笑っている。
「ふ、まあ。俺の好みではないが、丁度いい熟れ具合だ。しばらくは楽しめるだろう。ああそうだ。妻としてやってもいいが、俺のやることに口は出すなよ。そうしたらお前の家なんて、もう再起不能なほどに潰してやるからな」
言われていることに、吐き気が止まらない。
けれどこの男の条件を呑めば、家族を、領民を助けられる。
私はアトウッド伯爵家の娘。家族のため領民のための、歯車になる覚悟はできてる。
震える手を隠すようにぎゅっと握りしめ、私は顔を上げた。
「分かりました。その話——」
急に景色がぐにゃりと歪む。
あれ、なんでだろう。
男の顔も歪んで見えなくなる。何を言っているのかもわからない。
その景色が消えようとする直前、震えていた手が温かくなった。
——イン、おき——
誰かに呼ばれている気がした。振り返ると、そこには先ほどには感じなかった温かな光が私を包もうとしている。
けれど決して嫌なものではなく。
私は抵抗することなく、その光に包まれた。
◇◇◇
「ジェイン、ジェイン! 大丈夫か?」
ゆっくり瞼を持ち上げると、目の前にはエドワード様が心配そうに眉を寄せながら私を覗き込んでいた。
伸ばした片側の髪が、私の頬を撫でてくすぐったい。
「くすぐったいです、エドワード様……」
そう言うとエドワード様は固まった。と思えばすごい勢いで離れていった。
その勢いに驚いて、体を起こす。
「す、すまない」
エドワード様の顔がほんのり赤い。
ようやく頭が働き始めて、距離が近かったから髪が当たってくすぐったかったのかと理解する。
「や、やましいことは何もしていないぞ。すごくうなされていたから、心配だっただけだ」
必死に言い訳するように、言い募るエドワード様を見て、気絶する直前の記憶が蘇った。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いや、それはない。本当だ」
あたりを見渡すと、宿屋の一室のようだ。気絶している間に、宿屋に到着していたらしい。
「ところで体調は大丈夫か? 一応医者は問題ないと言っていたが」
「……はい。特には」
夢見が悪かったのは、ハッキリ覚えている。
夢の内容は、詳しく憶えていないけれど。
「そうか。小さいことでも、何かあったら言ってくれ」
「分かりました。……その、エドワード様が運んでくださったのですか?」
「あ、ああ。御者には医者の手配を頼んだからな。……すまない」
さっきまで目が合っていたのに、急に逸らされた。
「なぜ謝られるのです? むしろ感謝しかありません」
「そ、そうか。それならいいんだが……」
「?」
エドワード様がどうして、そんなに申し訳なさそうにしているのか分からない。
首を傾げていると、観念したように口を開いた。
「……さ、さっきは心配しただけで、ど、同意なくキスしようとしたとか、そんなことはないからな」
「……」
言い訳するかのように話し出すエドワード様の様子は、なんというかとても——
「ふっ」
「じぇ、ジェイン?」
「ふふ、それは逆に、キスしたいという下心がありますと言っているようなものですよ。っふ、んん。堂々としていればいいのに、んぐ」
笑いをこらえきれず、途切れ途切れに言う。
そんな私に、エドワード様は気まずげに視線を逸らした。
いつもはもっと澄ましているのに、どうして今はそんなに素直なのだろう。
「う……」
「本当は? っふ」
「……いや、一瞬、考えた」
「ぶふっ」
もう耐えられない。結局正直に言うのも、本当は下心があったのも、すべてがおかしくって仕方ない。
「ち、違う! 気になって覗き込んだら、思ったより近づいてしまって! 柔らかそうだなと思ったけれど、本当にしようとはしていない!」
「そ、そんなに必死に言い訳しないでください……っ! わかってます、わかってますから。それが逆に……くふふっ」
エドワード様が言い訳すればするほど、私のツボに入ってしまう。勘弁してほしい。悪いと思っているのに、止められない。
エドワード様に下心があったとて、紳士としての役目を全うして私に手を出していないのは、自分の体を見ればわかる。
私だって22の女だ。そのくらいの知識はある。
むしろ初心な反応だと思えば、とてもかわいらしい。絶対口には出さないけれど。
笑い転げる私が怒っていないことを確信したのか、エドワード様がほっと肩の力を抜いた。
「はあ。エドワード様も完璧な貴公子かと思っていましたが、しっかり男性なんですね」
ようやく笑いの波が引いて、目じりに浮かんだ涙を拭いながら言うと、エドワード様は少し顔を顰める。
しまった、揶揄い過ぎてしまったかもしれない。
「大丈夫です、エドワード様。大多数のご令嬢にとっては、むしろご褒美だと思います」
「それはそれで、令嬢の貞操が心配だ」
「エドワード様がそれ、言います?」
私の言葉に、エドワード様は複雑そうに言う。
しかし、すぐに表情を改めた。
「ジェインは?」
「はい?」
「ジェインにとっても、ご褒美になるのか?」
「っ」
先ほどの初心な様子はどこに行ったのか。
真剣な表情に、息を呑む。
また誤魔化したくなる。だって、私は年増だし地味だし、エドワード様に相応しくない。
忘れていた夢の内容まで思い出してしまった。
あれは過去の話だ。実際は返事をする前に、突入してきたお父様とお兄様に止められたのだけれど。
まるで自分の価値の無さを思い知れと、見えない何かに言われているようで。
「……わたし、は」
何度も後悔したくせに再びエドワード様を傷つけようとしている。
ここで。ここで、エドワード様をもう一度拒絶すれば、諦めてくれるだろうか。
面倒な女だと、最低な人間だと見限ってくれないだろうか。
私は、もう。
あんな思いはしたくない。傷つきたくない。
誰かに傷つけられる前に、自分自身を下げておけば傷つくことはない。
そうすればエドワード様をも、下げることに繋がると分かっていても。
そんな最低なことすら、考えてしまうほどに。
こんなに憶病だったんだな。
未だに私は、過去に縛られていたんだ。
あの頃から、なにも進めていない。もう全て諦めて前を向いたと思ったのに。
ごめんなさい、エドワード様。
私は——
口を開こうとしたとき、ジュリアの顔が浮かんだ。
『お姉様、それを否定しないで。拒否しないで』
泣きそうな表情は、私の心情を反映しているのだろうか。
記憶より、ずっとつらそうな表情が浮かんだのだった。
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