第四章:残り10カ月——南の国サンティエへ
ヤコクに戻ったその日。
部屋に戻ると、見慣れない侍女が静かに頭を下げた。薄布で口元を覆ったその侍女は、感情を隠すように伏し目がちに名を告げる。
「本日よりお世話を務めさせていただきます、マタリです」
「……よろしくね」
コトネは小さく微笑み返し、彼女の名前を忘れないよう心の中で繰り返す。
マタリ。マタリ。
ちゃんと覚えておこうと思った。
けれど——数日後、その姿はなかった。代わりに、また別の侍女が同じように頭を下げる。
「本日よりお世話を務めさせていただきます、カヤハです」
そしてまた数日後。
「本日よりお世話を務めさせていただきます、ユリカです」
「本日よりお世話を務めさせていただきます、フクニです」
「本日よりお世話を務めさせていただきます、サカヌです」
どこかで聞いたような言葉が、同じ調子で繰り返される。
派遣された侍女は皆、コトネの生活に伴う世話をし、不自由のないように整えてくれる。朝には衣を用意し、食事を運び、儀式や講義の予定を伝える。夜になれば寝具を整え、枕元に白湯を置いていく。物心ついた頃から、必ず誰かがそうしてくれていた。
──ただ、名前だけが、残らなかった。
「えっと、……サカヌ」
「はい」
「明日は、──晴れる、かな?」
「存じ上げておりません。確認をして参りますので、少々お待ちください」
「あ、……ううん、いいの。ただ、──どうかなって思っただけ、だから」
その言葉に、すっと目礼をしてサカヌと呼ばれた侍女が下がろうとする。
「あ──」
「……何か、御用でしょうか」
呼び止められたのかとふと顔を上げられ、コトネは慌てて言葉を探す。
「あの、……、部屋を整えてくれて、ありがとう」
「それが務めですので」
「あ、……うん」
ほんの数秒、サカヌはコトネの様子をうかがう。
しかし、コトネの口から言葉が出ないことを確認し再び小さく目礼をすると、りん、と小さく鈴を鳴らし静かに下がった。
「……。」
ふう、と重く、息を吐く。
整えられた静かな部屋で、ぼんやりとただ、窓の外を眺めた。
そして、夜が過ぎ、朝になる。
「本日よりお世話を務めさせていただきます、テヌイです」
「……よろしくね」
また、覚えようとする。けれど、また、言葉は続かなかった。
きっかけを探しているうちに、時間だけが、静かに過ぎていく。そうして、気づけばまた、入れ替わっている。名前を覚え、会話のきっかけを探し、明日はと思った次の日には、もう——そこに、その人はいなかった。
残るのは、同じ言葉だけだった。
講義室でも同じだった。
「本日より担当いたします」
違う教師。
違う声。
違う内容。
もう一度あの講師の話を聞きたい、と思っても、それが叶うことはなかった。
中庭を通りかかったときだった。
ふと、笑い声が聞こえた。
振り向くと、まだ年若いヤコクの王子たちが並んで話をしている。
肩を叩き合い、言葉を交わし、何気ないやり取りの中で、笑い合っていた。従者に苦言を呈されたのか、頬を膨らませ、不平をこぼす。それを受け、従者が何事か言い、王子が笑う。
──その従者たちの口元に、布はない。
少しだけ、立ち止まる。
ひとりの王子と目が合い、「あ」と小さな声がこぼれた。
——笑い声が、止まる。
ひとり、またひとりと、視線が向く。
気づけば、全員がこちらを見ていた。
遅れて、ひとりの従者がはっとして頭を下げる。それに倣うように、周囲の動きが揃う。王子たちも、わずかに視線を落とした。
「……。」
無言でコトネも小さく頭を下げ、けれど、すぐに視線を外した。




