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第九話 モリノコエ

 いつしか諦めていた。

 納得した振りをするのがうまくなっていた。


 流された先には何にもなくて


 自分の未来(さき)から目をそらして

 ホントの願いを認めたくなくて


 それでも捨てる勇気は持てないから

 結局、今もここにいる。



 しゃらん、と澄んだ音が鳴る。

 耳に触れたその響きがあまりにも綺麗で、紫音は一瞬だけ目を伏せた。

 白い袖が整えられていく。帯が締められ、髪が結われ、鈴が手渡される。

 「立派だ」「綺麗だ」――口々にかけられる言葉に、紫音は小さく頷いて応えた。

 視線を上げると、参道に沿って提灯の灯りが連なっている。

 揺れる光は、どこか遠くへ続く道のように見えた。

 そのまま、あの光の外へ歩いていけたなら――

 ほんの一瞬、そんな考えがよぎる。

 だがすぐに、境内の外れに集まる男たちの姿が目に入った。

 腰に帯びた刃物。肩に担いだ細長い袋。

 山へ入る者の装いにしては、あまりに物々しい。

 ――山は、山入様の領域のはずなのに。

 誰もこちらを見ようとしない。

 その代わりに、同じ方向を見据えている。

 覚悟を決めた目だった。

 まるで――

 そこで思考を止める。

 聞かされてはいない。

 けれど、聞かない方がいいことくらいは分かる。

 知ってしまえば、きっと――

 紫音は小さく息を吸い、何事もなかったように袖を整えた。

 しゃらん、と鈴が鳴る。

 その音に背を押されるように、足が一歩前へ出る。

「……紫音」

 父の声だった。

 振り返ると、いつもと変わらない顔で立っている。

 ただ、その視線だけが、ほんの僅かに逸れていた。

 紫音は何も言わずに頷く。

 しゃらん、ともう一度鳴った鈴の音が、夜風に溶けていく。

やがて、それは祭り太鼓の怒涛に飲み込まれていった。






 夜風に遠く響くのは、荒々しい太鼓の音。

ドン、ドン、と腹に響く低い音に、甲高い笛の音が絡みつく。


 気づけば足が動いていた。


 山の方を見上げれば、神社の参道に沿って提灯の明かりが連なっているのが見えた。

まるで光の蛇が山を登っていくようだ。


 村人たちは今夜、あの光の下で必死に祈り、踊るのだろう。

 それが「約定」を守るための儀式だと信じて。


――そうでもしなければ、この理不尽に押しつぶされてしまうから。


 鳴り響く祭囃子は、僕には声にできない悲鳴のように聞こえた。


 僕は光の蛇から目を背け、裏参道へと続く暗がりを目指す。待ち合わせ場所である、裏山の入り口。

 そこに、ヒビキさんはもう来ていた。

 いつもの制服ではない。動きやすいパーカーとデニム姿。

 けれど、その顔には、灯りの外の暗闇みたいな影が冷たく張りついていた。


「……フツオ君」

「ヒビキさん。行こう」


 震える彼女の声。怖いのは当たり前だ。僕だって、一人きりだったら。ここに来れたかすら怪しい。

 これから行こうとしているのは、化け物の食卓なのだから。

 僕はポケットの中のカセットテープを握りしめる。


――大丈夫、きっと大丈夫な筈だ。


「大丈夫。僕がついている」



 自分の中で唱えていた言葉をヒビキさんにも掛ける。

 彼女は僕に頷きながら、弱弱しい笑みを浮かべた。



 その手を引いて、僕は暗い山道へと足を踏み入れた。一歩進むたびに、 祭りの喧騒が遠ざかっていく。

 山は恐ろしいほど静まり返っている。虫の声もしない。風の音もしない。

 ただ、僕たちの足音と、荒い息遣いだけが響く。


――静かすぎる。


 もちろん元々あまり賑やかな山ではないのだろうが、それでも風の音すらないのは異常すぎる。

――まるで、この山全体が息を潜めて、僕たちが来るのを待ち構えているような……。


 これなら誰にも見つからずに奥社まで行ける。そう考えたら都合が良い筈なのに、何故か不安が込み上げる。


「ヒビキさん。大丈夫?」


 振り返って鶴内ヒビキの顔を見る。薄暗がりであるということを除いても彼女の顔色は暗かった。


「……うん」


 蚊の鳴くような声で答える。

 

「あのさ、全部終わったら、その、一緒にこの村を出ない?」

「…………はえ? うわっ!?」

「ヒビキさんっ!!」


 勢いで木の根に躓いたヒビキさんを、僕はとっさに受け止める。

 一瞬、彼女の甘い匂いが広がってドキリとするが、今はそんな事を気にしている場合ではない。


「……大丈夫? その、こんな時にゴメン」


 びくり、と僕の腕の中で彼女の肩が跳ねた。


「……なんでいきなりそんな事言うの?」

「いや、だってさすがにここで暮らしにくくなると……」

「……ヒビキさん?」


 何故か、鶴内ヒビキは僕の胸に顔を押し付けたまま、上げようとしない。


「フツオ君はさ、なんでそんなに良いひとなの?」

「べ、別に良いひとって訳じゃ」

「……いいよ」

「え?」


 彼女は顔を上げると涙にうるんだ眼で僕の顔を見上げた。


「ヒビキさん……」

「行こう。これが終わったら、誰も知らない場所に、二人で……」


 そう言って、彼女がいつものような笑みを浮かべる。


「うん……約束する」


重ねている手が、氷のように冷たい。その手を少しだけ強く握りなおす。


「ねえ、ヒビキさん。だからもう少し頑張ろう」

「そうだね……でも、ここで良いの」


 その言葉を口にしたあと、ヒビキさんは一度だけ、僕の手を見た。

 つないだ手を、ほどく前みたいに。


「え?」


 直後。暗い森の奥から、いくつもの笑い声が響いた。

男のような女のような、それでいて、どれでもない事がハッキリと分かる声。


 その闇の奥、僕たちが目指していた奥社の方向から、まったく別種の声が響く。


『ヒビキ』


 ひどく聞き覚えのある、その涼やかな声音の持ち主は……。


 心臓が跳ね上がる。

聞き間違えるはずがない。それは、字久良紫音の声だった。


「字久良、さん……?」

絶対におかしい。全身が総毛立つのを感じる。何かがいる。


「ヒビキさん! 応えちゃだめだ!!」


 とっさに叫びながら、鶴内ヒビキの前に出る。


「今すぐ、ここから離れて……」


 そう言おうとして振り向くと、一筋の涙が、彼女の頬からこぼれ落ちるのを見た。


「フツオ君…………ごめんね」

 

 彼女の震える声。だがその手は痛いほどきつく握られている。まるで決して逃がすまいとしているかのように。僕の手を掴んだまま、彼女は一歩前に踏み出した。



「山入様。来たよ」


 つながれていた手の感触が消える。離れていく手と彼女の背中。その理由を認識するより先に、彼女が闇の中に応えた。


『くすくす』『くすくす』『くすくす』


 笑い声が聞こえる。囁くような悪意のある声が……。

鳴りそうになる歯を必死でかみ合わせ、闇の中にいるそれを睨みつける。


『フツオ君』

『かわいそうなフツオくん』

『こんな所に来たくなかったのにね』


 優しく、慈愛に満ちた、けれどどこかねっとりとした声色。でもどこか調子はずれな不気味さが混ざっている。

 先ほどからの気配の持ち主だろう。明らかに尋常の存在ではない。


『ヒビキ』

『やさしいヒビキ』

『紫音の代わり連れてきた』 


 まるで歌うように声が言う。


『余所者』

『贄』

『紫音の代わり』



「……は?」


 思考が凍り付く。何を言っているんだ? ヒビキさんの顔を見る。

 凍り付いたような表情が、その声が真実であることを物語っていた。


「なんで、だって“まれびと”様を追い払って……」

「――おかしいって思わなかったの?」


ただ、絶望に歪んだ顔で、ガタガタと震えている。


「そんなに簡単に解決するなら……“まれびと”様を追い払って終わるなら、私達だってこんなに苦しまなかった」


 だって、ヒビキさんは、紫音さんを助けるために……。


『くすくす』

『おばかさん』

『“まれびと”は此度はこない』 

『それなら贄はもらわなきゃ』

『紫音の代わりのフツオくん』

『やさしいヒビキ』


 その言葉は、ヒビキさんの最も痛いところを優しく撫でるようであり、同時に僕への死刑宣告でもあった。


「……ごめんなさい。ごめんなさい、フツオ君」


 その謝罪が、答えだった。僕の手の中にあるカセットテープが、滑稽な玩具のように思えてくる。

僕の計画も、決意も、最初からすべて――。


――やっぱり、うまく行かないよな。


 自分の馬鹿さ加減が笑えて来る。


「ねえヒビキさん。短い間だったけど……ありがとう」


僕の言葉に、ヒビキさんが顔を上げる。 ヒビキさんの顔が、泣き出す前の子どもみたいに歪んだ。


「なんで……」


彼女が震える声で呟く。


「なんで怒らないのよ! なんで、そんな……っ!」


 その瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。


その時だった。

闇の奥底から、空気を震わせるような低い音が響いた。

いや、音ではない。それは、たどたどしく紡がれる言葉だった。


『フ……ツ……オ……くん…』


どこか間延びしたような声。声色こそ字久良紫音のものだが、まるで壊れたテープレコーダーのように、抑揚がなく、途切れ途切れだ。


『ヨ……ソ……モ……ノ……』

『コ……ッ……チ……』


 闇の中から、腐った土と獣の臭いが漂ってくる。


「ヒビキさん。早く山を降りて!」


――ほんとにこんなの柄じゃないってのに……。

 

柔らかい手のひらが、僕の口を強く塞いだ。


「んぐっ!?」


ヒビキさんだった。

彼女は僕の口を両手で覆い、悲痛な笑顔で僕を見つめていた。


「……ごめんね」


彼女の唇が動く。


「……どうしても紫音を助けたかったの」


――まて、何をするつもりだ! 


 彼女はぼくをその小さな背に隠すように前に進み出た。


『ヒビキ…フツオ…く…ん』

「紫音、私はここだよ!」

 

静寂の森に、彼女の声が響き渡る。


「――ッ!?」


僕は目を見開いた。


『……? ソレモ……マタ……ヨシ』

「おい! 狙いはぼくだろ!! やめろ!!!」


 彼女は一度振り返ると、僕の方に向けていつも見せる太陽のような笑みを浮かべた。


「……ばいばい」


 刹那、闇の中から、巨大な腕のような影が伸びる。

 腕は彼女の体を掴んだ。

 何が起きているのか思考が追い付かない。

 あっと言うまもなく、彼女の姿は闇の中へと引きずり込まれていた。

 ガサガサと木々が暴れる音だけが、山頂へ遠ざかっていく。


『……贄……タク……さん』

『ヨ……ク……デ……キ……タ……』


 紫音の声を真似た、満足げな呟きが、遠くから聞こえた。

後に残されたのは、僕一人と、圧倒的な静寂。そして、僕の手の中に残る彼女の僅かな温もり。




――またか、またこうなるのか。傍観して、何もできずに……いや、僕は何もしなかったんだ。


 

 僕は所在なく夜の森を歩く。


 彼女の最後に見せた笑顔が、目に焼き付いてはなれない。

 


 がさり、と茂みの中から音がする。闇の中から現れた手が、唐突に僕の手をつかんだ。


――来た。


反射的に振り払おうとした瞬間、その何かが急に抱き着いてきた。

ほんのりと香る甘い匂い。やわらかい感触と体温。

 

「おい、おい! 落ち着けあたしだ!! 星歌だ!!!」


 浅黒い健康的な肌の女の子が目の前にいた。


「……大丈夫か!? ヒビキさんはどうしたんだ」

「え、あ、連れてかれた」


 やっとの思いで吐き出した言葉に、彼女はショックを受けているようだった。


「――お前っ!!」


 彼女は何かを言いかけて、それを何とか堪えたようだった。一度深呼吸して僕の目をハッキリと見る。


――なんだよ、責めれば良いじゃないか。

 

 半ば八つ当たり気味にそんな事を思う。


「……そんな顔をしてる奴を責められる訳ないだろ」


 彼女は僕の心を見透かしたように言った。


「山を下りよう。ここにいちゃだめだ」


 彼女は僕の手を掴んで歩き始めた。見れば服は所々よごれ、手には無数のかすり傷がある。

 暗い山道を必死で走ってきたのだろう。


「なんで、助けに来てくれたの?」

「お前はなんも関係ないだろ……。そんな奴を巻き込むのは、やっぱり違うと思うから」


 彼女は僕の手を掴んだまま、振り返らずに答えた。


『セイ……カ……ちゃん』

「!?」


 闇の中に、妙に間延びした声が響く。

 空気の中に混じる生臭いにおい。


――追ってきたのか。


 手を握る力が強くなる。

 

『フツオ君…いる…ヨネ? ……ソ…コ二……イル」

「秋山さ……「あれに返事をするな」」


 僕の言葉を遮るように秋山さんが答える。ガサガサと木々がざわめく、風とは違う。

 明らかに、何かが僕たちを追いかけてきていた。


『ヒビキ……イル…ヨ。サ…ミシク……ナイ。……イコウ…ヨ」


 闇の奥からこだまする声がどんどん距離を詰めてくる。くすくすと笑い声が包むように聞こえてくる。


「逃げるぞっ!!」


 秋山さんの声、僕たちはわき目も降らずに走り出した。

 頼りない懐中電灯の明かり。


 樹上から笑い声が落ちてくる。

 一つ、二つ、三つ。

 どれがどれだか分からない。

 全部が、近づいてくる。



「きゃっ!?」


 短い悲鳴とともに、急に前に引っ張られる。僕も一緒に地面に転がった。


「秋山さん、大丈夫!?」


 張り出した木の根に足をかけたのであろうか。秋山さんが足を抑えて地面に倒れていた。

 ガサガサと頭上の木々が騒がしくなる。


「あたしは良いからさっさと逃げろっ!!」

「そんな事出来るわけないだろっっ!!」


 とっさに怒鳴り返す。秋山さんに肩を貸して、なんとか立ち上がる。

 僕たちを囲むように笑い声が木霊する。


――追いつかれた!!


「み…つけ……タ」


 すぐ近くの闇の中から、嘲るような声が響いた。

 

「二人ともしゃがめ!!」


 先ほどの声とは確かに違う男の声。刹那、秋山さんを抱きかかえるように地面に倒れこんだ。

 立て続けの銃声と閃光が闇を切り裂く。薄闇の中に、猟銃を持った数人の男達の姿が浮かび上がる。


「まつりはまだぞっ! 約定を知らぬとは“まれびと”様であろうッッ!!」 


 凄まじい怒声と共に、再び銃口が火を吹いた。


 何かの悲鳴とともに、先ほどまですぐ近くにあった気配が遠のいていく。


「コタビハ、タワ、ムレ」


 森の中に不気味な笑い声が木霊する。


「二人とも無事か……」

「パパ!」


 秋山さんが父親に飛びつくのが見える、僕を家まで、送ってくれた村の猟師の男。



「パパ、ヒビキさんがあれに連れて行かれたって……」


 秋山さんが泣きながら、お父さんの胸に縋り付く。

 その言葉を聞いた瞬間に村の男達が凍りついた。


「……そうか」


 秋山さんのお父さんは黙って秋山さんの頭を撫でると、僕の方を真っ直ぐに見た。


「あの……」

「巻き込んでしまって済まない」


 僕の予想を裏切り、彼は僕に向かって頭を下げた。 


「怖かったろ」

「すまんかったなあ」

「星歌ちゃんも坊主も無事で良かった」


 村の男達も口々に、僕に向かって詫びる。


――本当は責めたいはずなのに……。

 

 それでも彼らは大人と言う事なのだろう。それが逆に辛い。理不尽に八つ当たりしてくれれば、自分のせいじゃないと開き直れる。

 でも、自分の気持を押し殺してすべき事をしている姿を見るのは一層苦しいものだった。


「とにかくこうなった以上は、早く村を出た方が良い……刀伊原君、娘を助けてありがとう」


――やめてくれ、僕は何もしてない。何も出来なかった。


「ねえ」


  凍てつくような声と共に振り返った瞬間、視界が揺らいだ。

乾いた音が森の木々に木霊する。

 遅れて、左の頬に焼け付くような熱と痺れが走った。

叩かれたのだと理解するのに、数秒を要した。


「字久良さん……」


 傍らで、秋山星歌が信じられないものを見るように呟く。

だが、目の前に立つ字久良紫音は、そんな視線など気にも留めていなかった。


 巫女装束の白が、闇の中で幽霊のように浮き上がっている。

整った顔立ちは蒼白で、その瞳だけが鬼火のように揺らめき、僕を射抜いていた。


 僕はその激情に圧倒されながらも、どこかホッとしていた。彼女が無事だったことに。そして、彼女であれば、僕を責めてくれそうだったから……。


「ヒビキは山入様のところへ行ったのね?」


 僕がコクリと頷くと彼女は村の大人たちに振り返った。


「これから奥社に向かいましょう」


 ザワザワと大人たちが騒ぎ出す。


「儀式は予定どおり行います。私たちが約定を守れば、山入様もヒビキを返さざるをえない筈です」


 彼女の言葉はきっぱりとしたものだった。大人達が大きな箱の乗った神輿のようなものを準備している。


「何で……」

僕の口から、間の抜けた問いがこぼれる。

「何でみんな僕を責めないんだよっ!! 怒ればいいじゃないか! 僕がついていながら、ヒビキさんを……」

「あなたが余所者だからよ」


 字久良紫音は、吐き捨てるように言った。


「あなたは偶然この村に来て、巻き込まれただけ。お客様に責任を負わせる訳がないでしょう?」


 そのあまりに事務的で、線を引くような物言いに、熱いものがこみ上げる。

「なっ!? ……そりゃ確かにそうだけど、なんでそんなに割り切れるんだよ」


 そう言った瞬間、彼女の瞳が見開かれ、表情が崩れた。

彼女はキッとこちらを睨みつけ、一歩踏み出す。


「割り切ってなんかないわよっ!」


 悲鳴のような叫びだった。


「憎めばなにか変わるの? 

恨めば、この理不尽から逃げられるの??」

「それは……」


 彼女の剣幕に僕は言葉をつなぐ事ができなかった。


「そんなわけ無いじゃない! 生きるために理不尽に向き合わなきゃならなかった!! 他の誰も助けてくれないから、私たちが助け合わなきゃならなかった!!!」


 彼女の肩が激しく上下する。張り詰めていた糸が切れ、抑圧されていた感情が奔流となって溢れ出していた。


「なんで、私達だけが……そう考えない日があったと思う? でも……そうやって、恨みと憎しみに飲まれたらどうなると思う?」

 彼女は森の奥、怪異が消え去った闇の方角を指さす。


「あの化け物はそれを見て喜ぶのよ。そして人を唆すの。行き着く先は村中で殺し合いよ!!」


 血を吐くような怨嗟の言葉。それは、彼女が幼い頃から見続けてきた、母の狂気と父の苦悩そのものだろう。


「そうやって奴に喰われるのよ……誰も逃げられない……」


 紫音は力を失ったようにその場に崩れ落ちそうになり、踏みとどまる。


――ここの人たちは、そうやって生きてきたんだ。理不尽の中で、それでも……。


「此処に生まれた私達は、逃げられない私達は、それでもこの場所で生きていくしか無いの」


 彼女は自分自身に言い聞かせるように、震える声で続ける。


「あんな奴を喜ばせてたまるもんですか! 

そう思って、理不尽を飲み込むしか無いの……。

他にどうしろって言うのよ………」


 返す言葉がなかった。

彼女たちの「諦め」は、弱さではない。それは、人間としての尊厳を守るための、血の滲むような戦いだったのだ。


「ホントは全部捨てて、逃げ出したかった……でもここには大事なものも沢山あったから……」


 彼女は涙を拭い、顔を上げた。その表情は、先ほどまでの激情が嘘のように静まり返り、能面のような冷徹さに戻っていた。いや、戻そうと必死に演じているのだ。


「ここを出たら、全部忘れて。あなたにはもともと関係ない事だったんだから」


 彼女は背を向ける。その背中は、死地へ向かう者のそれだった。


「でもヒビキさんは……」

「あの子の事は、私がなんとかするわ……」


 彼女は足を止めずに、背中越しの言葉だけで僕を拒絶する。


「それって……」


 言葉を続けようとした瞬間に字久良紫音が振り返った。


「あの子はね、あなたを奴に捧げようとしたの。私の代わりにね……」


 その言葉に、僕は言葉に詰まった。


「それは……その」 

「まさか、あなた気づいてたの?」


 彼女は呆れたように、そして何がおかしいのか、乾いた笑い声を漏らした。


「……なのにあの子の心配をするのね」

「…………」

 

 今まで見た事のないような穏やかな顔で、彼女は笑った。


「アナタは良い人ね。それに優しい人……でも、それなら尚更巻き込めないわ」


 彼女の瞳に、微かな揺らぎ――憐れみと、羨望が混ざった色が浮かぶ。


「ぼくは……優しくなんて、ないよ」


 僕が首を振ると、彼女はもう一度表情を緩めた。それは、初めて会った時は、年相応の少女の顔だった。


「あなたが気にする必要なんてない。最初から、誰にもどうにもできない話だったんだもの」


それは、別れの言葉だった。彼女は着物の袖を整え、奥社への道を見据える。


「なら、優しい貴方に一つだけ甘えようかしら……」


 言いかけて、字久良紫音は一度だけ唇を結ぶ。

 そして、夜風に吹かれた髪を抑え、僅かに微笑んだ。


「この村の事は、忘れて……。むしろ忘れるべきだと思う。だけど……ヒビキの事は……いえ、私達の事は、覚えていて」


 彼女の清涼で落ち着いた声が今日は僅かに震えていた。

 胸の奥が詰まる。どんな気持ちで、この言葉を口にしているのだろうか。

 それがこぼれ落ちないように、僕は歯を食いしばる。

 

「ッ……忘れられるもんか」

「ふふっ、ちょっとだけ、ヒビキの気持ちがわかっちゃった……」


 なんとか言葉を絞り出した僕に、字久良紫音は悪戯っぽくに笑った。

 初めてみた。年相応の女の子としての笑顔。


「ごめんね。わたし、けっこうイジワルだから」


 夜の空を覆っていた雲が、僅かに晴れて、月明かりがその横顔を照らす。


 寂しげな光の中で、彼女はもう一度、儚げに笑って見せた。

白い背中が、深い闇の中へと吸い込まれていくのを、僕はただ見送ることしかできなかった。




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