第八話 記録と記憶
逃れられるものなら逃れたかった。
変えられるものなら変えたかった。
選べるものなら選びたかった。
それでも道は一つしか無いのなら。
せめて納得した上で進みたかった。
それすら出来ないなら、きっと永遠の袋小路の中に閉じ込められてしまうから。
全身の血が引いていく。棚の陰に身を隠し、息を殺す。
「あ、紫音……」
ヒビキさんの声が少し上ずったのがわかる。
「先に帰った、て聞いたのに、どこにもいないからおかしいと思ったのよ」
意外なことに字久良紫音の声には、怒りはあまり見えなかった。どちらかと言えば、呆れの色の方が濃いように思える。
「……ごめんなさい」
「謝るくらいなら、いい加減あきらめなさいな」
動いて少しでも音が出たらそう思うと棚の隙間から、入り口の様子を盗み見ることもできない。ただ、張り詰めた空気だけが肌を刺す。
「……助けたいの」
「前にも言ったはずよ。無駄だって」逃れられるものなら逃れたかった。
変えられるものなら変えたかった。
選べるものなら選びたかった。
それでも道は一つしか無いのなら。
せめて納得した上で進みたかった。
それすら出来ないなら、きっと永遠の袋小路の中に閉じ込められてしまうから。
紫音の口調は、冷徹に切り捨てるものであるが、何故か懇願するようにも聞こえた。
「ねえヒビキ。私を見て」
諭すような字久良紫音の声。
「あなたも分かってるでしょ。貴方の探しているものはそこには無いわ。貴方の探している道もないの。これ以上は貴方が傷つくだけよ」
沈黙が落ちる。蝉の声すら聞こえない、真昼の静寂。
「……私がいなくなっても、ここは貴方の居場所なのだから」
紫音のその言葉は、残酷なほどの優しさだった。彼女は本気で自分の運命を受け入れている。そのうえで、その先もこの村で暮らさなければならないヒビキさんの事を案じているのだろう。
だが、その言葉はかえって彼女を傷つけたようだった。
「わかってないなあ」
押し殺し切れない苛立ちを含んだ声音。
「紫音は何にもわかってない……なんでそんなに簡単に、自分が居なくなったら、とか言えるの!!」
ヒビキさんの口調がだんだんと強さを増していく。
「私は嫌だよ。紫音が居なくなるなんて嫌。おばさまだってきっとそう。おじさまもそうだよ! なんで紫音が犠牲にならなくちゃいけないの!? 紫音じゃなくたって……!!!」
「仮に私が誰かにそれを押し付けたとして、私はそのあとどう生きるの?」
「…………それは」
字久良紫音の静かな、けれどきっぱりとした問いかけが、ヒビキさんの言葉を遮った。
その言葉の重みが、隠れている僕の胸にも突き刺さる。
『紫音のお母さんや叔母さんに全部押しつけて、自分だけ逃げたの』
ヒビキさんの言葉が頭を過る。字久良紫音の母が発狂したのは、姉が自身の身代わりになったからだ。
同じことを字久良紫音にやれと言ってしまった事に、ヒビキさんは気づいたようだった。
「……………」
「ねえヒビキ。私にはできないわ。叔母さまのような人を作るのも、お母様のような人をつくるのも――」
「――そう言う事じゃないよ! 紫音はさ、ほんとは生きたいって思ってるじゃん。この村から出て自由になりたいって……!!」
ヒビキさんの悲鳴のような叫びが、廊下に響き渡る。
「私は嫌だよ! おばさまが泣くのもいや、おじさまが涙を押し殺すのもいや! 紫音のいないこの村で、私たちみたいな子を育てるのも、ぜんぶ嫌だよっ!!!」
直後、ドタドタと遠ざかる足音が聞こえた。
「私だって……望んでいるわけじゃないわよ」
だれに言うわけでもない寂しげな呟きがこぼれる。遠ざかっていく足音が、妙に重く聞こえた。
書庫の扉の前から、人の気配がなくなった。
再び、重苦しい静寂が戻ってくる。
僕は棚の陰で、拳を握りしめていた。
ヒビキさんがここを離れたのは、多分、字久良紫音を引き離す目的もあったのだろう。僕がここを探す時間を稼ぐために……。
――急がないと。
震える息を吐き出し、僕は再び書棚に向き直った。
また誰かがくる前に、真実を見つけなければならない。
僕は棚の端から順に、背表紙に目を走らせた。
村の収支報告、祭事の進行表……。
どれもこれも、表向きの記録ばかりだ。
――こんなものじゃない。もっとこの村の歴史みたいな……。
焦りが募る。
その時、乱雑に積まれた巻物の山の下に、漆塗りの箱が目に入った。
「なんだこれ?」
中を開けると古びた原稿用紙の束が入っている。
そのタイトルを見て、思わず声が出そうになった。
掠れた文字で書かれたのは【お山様伝承とその研究】の文字。作者の父は村の外の出身で、研究のためにこの村に移住してきたらしい。その研究を息子の自分が引き継いだ、とある。
『村人であれば、だれでも知っている「お山様」の伝承であるが、これにはいくつか不可解な点がある』
『もともと、二枝床山を含む周囲の山々には人を喰う化け物が住んでおり、化け物達は山に入った人間や山のふもとの人間を無差別に襲っていたらしい』
『化物を恐れた村人は、化け物の一匹と取引をした」
『その化物の為に社をつくり、人身御供を行う事で、他の山の化物から村を守るように頼んだのだ。これが「お山様」の始まりである』
『村の人間は数年に一度、人身御供をするだけで済む』
読んでいて、堪えようのない怒りが込み上げてきた。こうやってこの村は理不尽を誰かに押し付ける事で、なんとか永らえてきたのだろう。
でも、それ以外に選択肢なんてなかったのだろう。それがひどく悲しい。
読み進めるとお山様の伝承を記した部分の記述があった。
『……儀式の夜、お山様が供物を受け取りに来たる時、西の峰より”まれびと”来訪す』
――山入様以外もいたのか……!?
一瞬、めまいがしてくる。一体だけならまだしも二体もいるなんて、途方にくれそうになる気持ちを奮い立たせて、読み進める。
『二柱の神、供物を巡りて争う。その様、童子の遊びに似たり』
『四肢を方々に打ち捨て、はらわたをあたりに散らばせたること、童が虫を嬲るが如し。ただその一片を残してほかみなくらはる』
亡くなった字久良 紫音の叔母、片腕だけが入った棺。
考えれば考えるほど、むかむかしてくる
だが、その次の一文を見て目を見開いた。この「御山禁忌覚書」に「召し役」が助かった記述があると書かれていたのだ。
『ある時、旅に住まう僧侶宿りて、一計を案ず。』
『召し役の入るつづらに、犬と共に忍ぶ』
『西の峰の"まれびと"様、犬を嫌いて候。供物を打ち捨てて逃げ去る。』
『後、お山様、その手妻を大いに褒め、召し役を下げ渡されり』
「……これだ」
心臓が早鐘を打つ。
つまり、あの化物には明確な弱点がある。「犬」だ。
僧侶は犬を使って、怪異を追い払った。
――でも、どうして? 成功したなら、なぜ今はやっていない?
疑問が浮かぶが、その答えは次の文書に書かれていた。
『以来、まれびとを討ち果たさば、召し役を下すなり、と約定されしが、いと難きこと』
『祭のたび、里の男ども西の峰へ入り、あるいは囮となり、あるいは刃を執りて挑みしが、多くは帰らず』
『まれに痛手を負わせ、供物を取り戻せしことあれど、討ち果たすには至らず』
『犬を嫌うはお山様も同じにて候。山に犬を入れるを禁忌とす、と約定せんが為なり』
フツオは息を呑んだ。
誰も何もしなかったわけじゃない。
むしろ逆だ。ずっと、繰り返し、死ぬと分かっていて挑んできたのだ。
それでも駄目だった。
勝てない。助けきれない。だから村は、理不尽を理不尽のまま呑み込むしかなかった。
続く一文を読んで、思わず目の奥が熱くなった。
『このこと、召し役・嫁役の女どもには秘すべし。男ども死ぬるは、逃ぐる為と伝べし。山入様の戯れ故と伝べし』
『望みを持たせど叶わざりしは情けなく、また己がために死にたる者の業を負わせるべからず』
そして、その事実さえ女たちには伏せられてきた。
希望を持たせれば、そのぶん絶望は深くなる。自分のために誰かが喰われたと知れば、その傷は一生消えない。
ならば、嘘で塗り隠した方がマシと思ったのか、そうしなければ残されたものは生きていけなかったのだろう。
――どちらにしてもあまりにも救いがない。
そしてそれが、おそらくは山入様がこの約定を作った理由なのだろう。
この原稿を書いた人物も同じような事を考えたらしい。推敲用らしき赤字の記述に、恨み言のような言葉が書かれている。
神社の入り口にある首の欠けた狛犬。
村人は、お山様との「約定」を守るために、わざと天敵である「犬」の象徴を壊し、怪異との約定を守っていること示しているのだろう。
文献の最後の部分、僧侶のその後について書かれているであろう行は、墨で黒く塗りつぶされていて読めず、そこに何かヒントが書かれているかもしれない、と言う考察で文章が締められていた。
「くそっ」
思わず悪態がこぼれる。もう少しなのに……。
「……まてよ」
山に犬は入れられない。でも、犬そのものじゃなくていいなら……。
「いける……これなら」
怪異を倒すなんて大それたことじゃない。ただ、怯えさせて、儀式を失敗させるだけでいい。
――別に本物の犬がいる必要はない。ただ連中に「犬がいる」と思わせる事ができれば……。
僕は手持ちのノートに、要点と奥社への地図を走り書きした。
その時だった。
背後で、衣擦れの音がした。
「ッ!?」
息を呑んで振り返る。そこに、一人の女性が立っていた。
白い浴衣に、流れるような黒髪。
――字久良紫音?
一瞬、そう思った。だが、違う。
彼女をもっと大人びさせたような、妖艶で、そしてどこか壊れそうな儚さを纏った美女。
――字久良紫音の母親!?
心臓が凍り付く。見つかった。
ヒビキさんの話では、精神を病んでいるという。騒がれたら終わりだ。
「あ、あの、え~と、すみません。その」
咄嗟の事で僕は言葉に詰まった。何か言い訳をしなければいけない。それなのに頭は真っ白だ。
だが、彼女は叫ばなかった。
まるで心ここにあらずといった風に、呆然とした目つきでこちらを眺めている。そして、夢見るように微笑んだ。
「……きて、くださったのね?」
「え?」
彼女がおぼつかない足取りで近づいてくる。
その瞳は僕を見ているようで、僕を見ていない。僕の後ろに、誰か別のひとを見ているような、そんな眼だった。
「あいたかったの。ずっと、ずっと、一目だけでよかった」
そう言いながら、目の前の女性は僕の両手を包み込むように握る。
見上げると、その美しい眦からいつの間にか一筋の涙がこぼれ落ちた。
「あの、えっと」
華奢な手だ。力だって弱弱しい。それなのにどうしてか振り払う事が出来ない。
彼女の目にあるのは、狂気ではない。もっと深く、悲しい情念のようなものだった。
「ごめんなさい」
唐突に、彼女が言った。
「え?」
「ずっとあなたに謝りたかった。ごめんなさい。本当にごめんなさい!」
彼女はその場に崩れ落ちるようにして、何度も僕に頭を下げる。
白い項が露わになり、黒髪が床に広がる。
「許してもらえるなんて思ってないの。どうかわたしを許さないで……」
支離滅裂な懺悔。それは、ただひたすらに許しを請う、罪人の姿だった。
そうやって僕の前に蹲るその背中があまりにも痛々しくて、僕は彼女の背を黙って撫でるしかなかった。
この女性がぼくを誰と間違えているのかは分からない。
けれど、その謝罪が、彼女の魂をずっと縛り付けてきたことだけは分かった。
刹那、廊下の奥から足音が聞こえる。
――まずい、誰かきた。
「ねえさん」
ふと今まで僕の前に蹲っていた女性が、唐突に頭を上げた。
その瞳から、先ほどの情熱が消え、虚ろな色が戻る。
「ねえさんをさがさなきゃ」
そう言うと彼女は、僕のことなど忘れたかのように立ち上がり、足早に部屋を出て行った。
「ねえさん。どこにいるの」
「あ、おかあさん。こんなところにいたの?」
廊下の奥から字久良紫音のものと思しき声が聞こえる。
「ねえさん。私探したのよ」
「うん、私も探してたよ、おかあさん。さあ、お部屋にかえろう?」
今まで聞いたこともないような字久良紫音の優しい声。
その優しさが、そのかみ合わなさが、何ともやるせない。
寂しさとほんのわずかな懐かしさが、なぜだか胸を締め付けた。
ふと、足元に何かが落ちているのに気づく。さっきまで彼女がうずくまっていた場所だ。
「なんだ? これは……日記?」
紅い背表紙を糸で縫った、古めかしいノートのようなもの。
彼女が持っていたものだろうか。拾い上げ、パラパラと中を開く。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……』
上品な字。しかしときおり乱れの見える筆跡で、何かが書き殴られていた。
何ページにもわたって埋め尽くされた謝罪の言葉。
そして、その合間に見える、呪詛のような告白。
『あの日、私が死ぬべきだった』
『姉さんが憎かった。あの人に愛される姉さんが。この村を出る事の出来た姉さんが』
『私はきっと願っていたのだろう。こうなる事を、きっと願ってしまったのだろう』
―――読めば後悔する。
そんな確信めいた直感をねじ伏せながら、僕はページをめくった。
これは、ただの日記じゃない。この村の、そして紫音さんの運命を狂わせた、何かの「記録」だ。
僕はその日記をカバンにねじ込むと、逃げるように書庫を後にした。
懐に入れた日記の重さが、焼けるように熱い。
待ち合わせ場所と決めていた、裏参道の茂み。
そこに、ヒビキさんの姿を見つけた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「フツオ君!」
彼女が駆け寄ってくる。その顔は不安で歪んでいた。
無理もない。もし僕が見つかっていたら、彼女の立場も危うかったはずだ。
「大丈夫!? 誰かに見られたり……」
「平気だ。誰にも会わずに抜け出せた」
僕は荒い息を整えながら、彼女の肩に手を置く。
「あったよ」
そして、カバンの中からノートを取り出す。
「え?」
「あったんだよ。儀式を止める方法が」
僕の言葉に、ヒビキさんが息を呑む。
「神社の奥社にも狛犬はあるんだよね」
「狛犬? 確かにあるけど、ここと同じ気味悪い奴」
「それを使うんだ。狛犬を治して犬の声をテープかなんかで流す」
ヒビキさんがいまいち要領の得ないと言った顔でこちらを見る。
興奮していたと思う。これで、あの理不尽な運命を覆せる。字久良紫音の凄惨な未来を止めることが出来るのだ。その高揚感に舞い上がっていた自分が途端に恥ずかしくなる。
「それで本当に大丈夫なの?」
彼女の表情には疑いと藁にもすがりたいという複雑な思いが渦巻いている。
「この村って山に犬を入れちゃいけないって掟があるんでしょ?」
「え、そうだけど」
「それは奴らが犬が苦手だからだ――」
僕は、古文書に書かれていた「まれびと」の話と、僧侶が犬を使って怪異を撃退した伝承を一気にまくし立てた。
ヒビキさんはそれを黙って聞いていた。
半信半疑ではあるものの、彼女は一応納得しているようだった。
「神社の奥社にある、首の欠けた狛犬。あれを使う。あとはテープかなんかで犬の声を再現すれば、犬に山を入れずに、あの場所に犬を連れてくる事ができる」
ヒビキさんは、僕の説明を黙って聞いていた。
何かを確かめるように、何度も小さく頷きながら。
「……どう、かな?」
どこか少しだけ遠くを見ているような彼女に、恐る恐る問いかける。
「……すごい」
震える声で、彼女が呟く。
「すごいよ、フツオ君。本当に、見つけてきてくれるなんて……」
ポロポロと、大粒の涙が彼女の頬を伝う。
それは、深い絶望の淵にいた人間が、一筋の光を見た時の顔に見えた。
――よかった。これでまた悲劇を繰り返さずに済む。
僕は胸をなでおろすと同時に、懐の奥にある赤い日記をそっと上から押さえた。
紫音さんのお母さんの手記。あの壮絶な愛憎と罪の告白は、彼女には言えない。
誰にも見せられない。だからこそ、あの人だって独りで苦しんできたんだ。
「決行は祭りの夜」
僕は努めて冷静に切り出した。
「みんなが祭りに夢中になっている間に、僕らで奥社へ行こう。字久良さんが奥社に連れてこられる前に、狛犬の首を戻すんだ」
それは、僕が自ら怪異の領域へ足を踏み入れることを意味していた。
だが、ヒビキさんは強く頷いた。
「……うん」
彼女は涙を拭い、濡れた瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
「行こう、フツオ君。……二人で、奥社へ」
彼女の声は震えていたが、そこには確固たる決意があった。
これが僕たちが選べる唯一つの「解決策」なのだ。
「約束だよ」
差し出された彼女の小指に、僕は迷わず自分の小指を絡める。
「……嘘ついたら、針千本呑まなきゃいけないんだよね」
そう言って彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
絡めたままの小指を見つめる彼女の顔は、どこか悲しげに見えた。
遠くで、太鼓の音がひとつだけ歪んだ。
それが風のせいなのか、山の向こうで何かが笑ったのか、僕には分からなかった。
祭りの太鼓の音が、遠くから風に乗って聞こえてくる。
窓の外は夕闇が迫っていた。
僕は机の上に広げた二つの記録を見比べていた。
一つは、書庫で見つけた『お山様伝承とその研究』という古びた論文。
もう一つは、紫音さんのお母さんから渡された、赤い背表紙の日記。
日記のページをめくる。何度も読み返したのであろうか。そこかしこがかすれている。
日付に至ってはほとんど読めない。
『憎んでなどいない筈だった。あの人が姉さんを選んだ時、それが私であれば――そう頭を過ったかもしれない。そんなのは嘘だ。私は、私は、祝福した筈だ。でも羨ましかった。あの人との間に子供が生まれたと言う知らせが来た時嬉しかった。でも、許せなかった。姉さんだけズルい。』
書かれている内容も支離滅裂な部分が多い。筆跡は同じなのに、まるで二人の人間が書いているようだった。
『姉さんが私の身代わりになると申し出た時、私は悲しかった。でも嬉しかった。違う。そんな事はない。でも、いつも声が聞こえる。醜い私の声が……。本当はそれが本音なのかもしれない』
人が壊れていく様、と言うのはこういう事なのだろうか。ページを進める手が重い。
それでも、読み進めねばならない気がした。
『私は許されない。今も優しい言葉をくれる夫の顔を見るたびに、あの人ならば、とどこかで思っている。違うのに、彼は私を愛そうとしてくれているのに、私はそれに応えられない。冷たい女。浅ましい女――』
そのページは以後ずっと自分への罵詈雑言が続いていた。
『頭の中で声が聞こえる。私は姉を妬んでいた。私は冷たい女だ。私は夫を利用している。なんて醜いのだろう』
『ねえさん。ねえさん。わたしの為に死んだねえさん。わたしのせい……。私が食べられていればよかった。私が食べられたら、あの子をお願いします。お願い、ねえさん。紫音をよろしくね』
『そうじゃない。私は生きている。姉さんを身代わりに生きている。許してもらえない。分かっている。あの人に会いたい。たとえ憎まれても、殺されても。あの人にだけは、全てを知って憎んでほしい。
ああ、姉さん……。ごめんなさい。ごめんなさい……わたしをゆるさないで』
気づけば涙が止まらなかった。
――なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ
一度涙を拭って、続きを読む。
『影治さんは優しい人。優しすぎて、壊れてしまいそうだ。毎晩、書庫にこもっている。古い文献を読み漁り、紫音を救う方法を探している。あんなにも必死に……』
『私を慰めながら、裏で泣いているのを知っている』
――影治?
その名前がなんとなく頭に引っかかる。
僕は視線を、もう一つの資料――『お山様伝承とその研究』に移した。
その表紙に書かれた、著者の名前。霞んで消えかけたその名は【字久良影治】と書かれていた。
慌ててその原稿用紙をめくる。
苦悩に満ちた筆跡。何度も書き直され、涙で滲んだような跡。
僕は息を呑んだ。
――助けようとしてたんだ。
彼は、諦めてなどいなかった。
村の掟に従うふりをしながら、愛する妻の為に、愛する娘の為に、孤独の中で足掻き続けていたんだ。
あの書庫は、単なる資料室じゃない。父親が娘を救おうとして、そして絶望に打ちのめされた場所。
「……なんでだよ」
奥歯を噛みしめる。
ここまで調べて、ここまで考えて、それでも彼は動けなかった。
「村を守る」という神主としての責任と、「約定を破った報復」への恐怖が彼の手足を縛ったのだ。
大人は、守るものが多すぎる。
だから、理不尽を飲み込むしかなかった。
――でも、僕は違う。
僕は余所者だ。守るべきしがらみなんてない。
それに、もう知らないふりをして帰るには、知りすぎてしまった。
「行ってきます」
写真の中の母は相変わらず穏やかに笑っている。
僕はカバンを背負い、ヒビキさんとの約束の場所へ向かうために家を出た。
誰もいなくなった部屋の中。暗い闇の中で、息子を見送った母の写真が、ぱたりと倒れた。




