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第七話 書庫

ときおり夢を見る。背追った役目を捨て去る事を……。

ときおり夢を見る。すべてのしがらみから自由になる事を……。

ときおり夢に見る。背追った役目を捨てた結果を……。

ときおり夢に見る。すべてのしがらみから脱した末路を……。

そうしていつも捨てられなくて、そうしていつも抜け出せない。

それが囚われると言う事だから。


朝の社務所には、まだ夜の冷気がわずかに残っていた。

 障子の隙間から差し込む薄明るい光の中、紫音は畳の上に並べられた祭具を一つずつ確かめていく。鈴、榊、白木の箱、折り畳まれた白布。どれも見慣れたものばかりだ。見慣れているはずなのに、今日に限ってはどこかよそよそしく見えた。

 指先で房の乱れを直す。

 白布の端を揃える。

 榊の葉先に傷みがないかを見る。

 決められた順番。決められた所作。

 それをなぞる手つきは、自分でも嫌になるくらい淀みがなかった。

 身体が覚えてしまっている。

 何も考えなくても、手が勝手に動くほどに。

「紫音ちゃん、もうそこまで済ませてるのかい」

 廊下の向こうから、村の女の感心したような声がした。

「ええ、今ちょうど終わるところです」

 そう返して、紫音は小さく笑う。

 すると相手も安心したように笑い返した。

「ほんとにあんたはしっかりしてるねえ」

「字久良さんとこの娘さんは立派だ」

「神様もお喜びになるよ」

 その言葉を聞くたび、胸の奥に薄い膜のようなものが張る。

 立派。

 しっかりしている。

 神様がお喜びになる。

 たぶん彼女たちに悪気はない。

 それどころか、本気で褒めてくれているのだろう。優しさなのだ。気遣いなのだ。だからこそ質が悪い。

 紫音は視線を落とした。

 手の中の鈴は白木の肌をひんやりと返してくる。

 逃れられるものなら逃れたかった。

 変えられるものなら変えたかった。

 選べるものなら、選びたかった。

 けれど、本当にここから逃げたとして、その先に何があるのだろう。

 母がいる。

 父がいる。

 ヒビキがいる。

 そして、自分が空けた場所には、きっとまた別の誰かが座る。

 そこまで考えてしまうから、足が止まる。

 結局、どこへ行っても、この役目の外には出られないのかもしれない。

 そう思ってしまうから、捨てきれない。

 そうしていつも、ここに戻ってきてしまう。

 ぱたぱたと慌ただしい足音が、社務所の外を横切っていく。

 境内ではもう祭りの準備が始まっていた。木槌の乾いた音。誰かを呼ぶ声。遠くで鳴る太鼓の試し打ち。

 今日も、何事もない顔で一日が進んでいく。

 自分がどんな顔をしていようと、祭りは来る。決まった形で、決まった順序で、誰にも待ってはくれない。

 紫音は最後に鈴を持ち上げた。

 しゃらん、と澄んだ音が鳴る。

 あまりにも綺麗なその音に、一瞬だけ泣きたくなって、紫音はそっと目を伏せた。



じりりりり、じりりり、と耳障りな音が鳴り続けている。



ーーうるさい。


 それが電話の呼び鈴だと気づくまで、少し時間がかかった。

 出なければ鳴り止まないと分かっているのに、体が動いてくれない。

 じりりりり、と何度目か分からない呼び鈴に観念して、とうとう起き上がった。

 ギシ、と床板が鳴る。ギシギシと音を立てる階段を降りながらも、音は止まない。

 出たくない理由なら、いくらでも思いついた。

 それでも、出なくていい理由には、ならなかった。

 鳴り続ける音に追い立てられるように、フツオは受話器を手に取った。



「もしもし、フツオか?」

「……」

 電話口から聞こえてくるのは相変わらず太平楽な声。やはり、父さんの声だ。

 それでも、すぐに返事をする気になれなかった。

「もしもし、フツオか?」

「……もしもし、フツオだけど」


「どうした? 朝から元気がないじゃないか」

「ちょっと眠いだけだよ」

 そう答えると、何がおかしいのか、電話口の向こうから快活な笑い声が聞こえた。

「それより聞いてもいい?」

「ん? どうした?」

「父さんの、その、仕事って……順調、なの?」

 ぼくがそう切り出すと、父さんはしばらくあっけにとられていたようだった。

「ふむ? お前が私の仕事の事を聞くなんて珍しいじゃないか」

「まあ、今の学校の人に、ちょっと聞かれて……」

 自分でも滅茶苦茶な事を言っているような気がする。

「なるほど……それで、なんて答えたんだ?」

「いや、分からないって……」

「そりゃそうか」

 電話口の向こうで、また小さく笑う声がした。

「父さんはこの村に知り合いとかいるわけ――」

「いるぞ」

 僕の言葉を遮るように返ってきた答えに、今度は僕があっけにとられる番だった。

「まあ、知った顔が一人もない場所に、お前を放り込んだりはせんさ」

「……どこまで知ってるのかな」

 僕の問いに、父さんは少しだけ間を置いた。

「さあな。大した間柄でもない」

「でも知ってるんだ」

「狭い村だ。余所から来た人間のことなんぞ、すぐ広まる」

 軽い口調のはずなのに、妙にそれ以上踏み込ませない響きがあった。

「その人って、誰か聞いてもいい?」

「うん?」

 父さんは一瞬だけ言葉を切った。

「……まあ、構わんが」

 その先を待った。

 けれど、受話器の向こうでは何か別の物音が混じったあと、父さんが小さく舌打ちしたような気配がした。

「すまん、少し立て込んできた。また後でかける」

「え? あ、ちょっと――」

 返事を待たずに、電話は切れた。

 しばらく受話器を持ったまま、フツオはその場に立ち尽くしていた。

 結局、秋山と名乗った男については聞けなかった。

 しかし、父はここへ来るのは初めてではなかったらしい。全国津々浦々を飛び回っている父が、同じ村に二度関わるなんて珍しい。

――彼らは……彼女らは、僕の事をどこまで知っているのだろう。

 床の間に置かれたスーツケースに目をやる。

 あれには中身が入ったままだ。どうしても開ける気にならず、今も部屋の隅で薄っすら埃をかぶっている。

 開けてしまえば、思い出したくないものまで溢れてきてしまいそうで、それが怖かった





 教室の窓から見えた村道には、赤い提灯が何列も吊られていた。

 数日前まで骨組みだけだったものが、もう祭りの顔をしている。


 遠くから運動部の掛け声が聞こえる。金属バットがボールを叩く乾いた音。

平和な放課後の風景だ。

 そんな日常の喧騒を遠くに聞きながら、僕は校舎の裏、焼却炉らしきものの隅にいた。


――ここに来るのは二度目だ。


 一度目の時は少々不快な思いをしたものだが、それも今ではすこし笑える。

 不器用な少女とその父親との会話を僕は思った以上に快く思っていたらしい。 


 湿った土の匂いと、錆びた鉄の匂い。時折、鼻を刺すような何かが腐敗したような臭い。

 妙に空気がジメジメしているし、それにここからはあの山がよく見える。まるで山の天辺から何かに見下ろされているようなそんな圧迫感さえある。

 それゆえか、この場所はあまり人気がなかった。

 

 ザクリ、と砂利を踏む音がする。


「……フツオ君」


 振り返ると、鶴内ヒビキが立っていた。


 いつもの太陽みたいな笑顔はない。ただ、少し落ち着かない様子で、絶えず周囲を気にしている。まるで悪いことをしている子供みたいだ。


――まあ、実際にこれからしようとしていることは、この村の大人たちにとっては「悪いこと」になるのかもしれないが。


「ごめんね。待たせた?」

「ううん、大丈夫」


 いつかのやり取りを繰り返してるのが妙におかしかった。だが駆け寄ってくる彼女の顔にはあの日の笑顔はない。


「フツオ君、あの……」


 何かを言いかけようとした彼女を制して、僕はすぐに本題に入った。


――もたもたしている時間は、もうない。


「で、僕は何をすればいい?」


その瞬間、鶴内ヒビキが目を大きく見開いた。

 安堵の息がこぼれるのが聞こえる。


カバンの中から古びたノートとペンを取り出す。

彼女は少し考えるそぶりを見せてから、口を開いた。


「……紫音の家の離れに古い本とかがたくさん置いてある部屋があるわ」

「書庫?」

「うん。この村の歴史とか、神社の記録とか、難しい古文書がいっぱいあるんだって。おじさま以外は誰も入っちゃいけない場所なんだけど……」


 この村の歴史や神社の記録……儀式やあの山の化け物に関して何かがわかるかもしれない。


「わかった。場所は?」

「……お母屋から渡り廊下を渡った先。でも……」


 ヒビキさんが言い淀む。


「?」


「おばさまの部屋が、すぐ近くなの」


その言葉に、ペンを走らせる手が止まる。字久良紫音の母親。精神の安定を欠いているという女性。


「それは、まずいなあ」


 僕はペン先でコツコツとノートの端を叩いた。


「もし見つかったら、全部台無しになる」


 僕の懸念に、ヒビキさんは不安そうに自分の腕を抱いた。


「…大丈夫。あそこは、おばさまもあまり近づこうとしないから。 鍵は普段からしてないみたい。おじさまがたまに調べ物をするし、盗るような価値のあるものは何にもないから、て」

「大丈夫なの?」

 

 僕の問いに鶴内ヒビキはコクリと頷いた。


「大丈夫だよ、きっと大丈夫」


 校舎の壁にもたれかかり、空を見上げながら、彼女はまるで自分に言い聞かせるように繰り返す。


 赤く校舎を染める沈みかけの夕日。

 長く伸びる校舎の影の中で、彼女は真剣な顔で僕を見上げた。


「本当に良いの……?」

「良いよ」


その瞬間、ヒビキさんの表情が、泣きそうなほど緩んだ。


「でも、フツオ君だって危ないんだよ!? 村の人や紫音のおじさま達に見つかったら……」


その切迫した声に、偽りはないのだろう。

僕の心臓がどくりと鳴る。だが、不思議と恐怖はなかった。


「僕がそう決めたんだ。」

 

 彼女が上目遣いに僕の顔を見る。


「君は、紫音さんを助けることだけ考えてくれればいい」


 彼女の目の奥が僅かに揺れる。いつもは笑っていた目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 刹那、ふわりと僕の体を柔らかい感触が包む。


「つ、鶴内さん!?」


  僕の胸に抱き付いて来た鶴内さんが、ぎゅっと背中に手を回す。

  甘い香りと柔らかな感触に、心臓がうるさいほど鳴った。


「ありがとう……ごめんなさい」


 僕の胸に顔を埋めながら、彼女が呟く。こうして抱きしめるのは二回目か……。

 そんな事を考えながら、彼女の香りに頭がぼんやりしそうになる頭をなんとかハッキリさせる。


「巻き込んでごめんなさい」


 もう一度、彼女が言う。いつもとは違う声のか細さに胸が苦しくなった。


「—―鶴内さんが謝る事じゃないよ」


 僕がそう答えると、彼女の腕にいっそう力が入る。腕の中に確かにある筈の彼女の温もりは、なんだか妙に儚く感じた。


「……ヒビキで良いって言ったよ?」


 彼女の囁くような声が耳を打つ。


「ひ、ヒビキ……さん」


 なんとか答えを絞り出しながら、彼女の顔をもう一度見る。


 笑顔、笑顔の筈なのに、何故だろう。

 その時、僕は自分が「進んではいけない道」に足を踏み入れたような気がした。







 それから数日の間、僕たちは計画を練った。字久良家の書庫、そこに忍び込むための計画を……。そして、ついにその日は訪れた。



 空は重く垂れ込めた雲に覆われ、昼間だというのに、妙に薄暗い。


今日は村祭りの準備期間という事で、午前授業となっていた。存外に手伝いをする家庭の子が多いのかと思ったが、そればかりではなく、教師や学校職員が駆り出されると言うのも大きいらしい。




――大人は大変だな。


 ふとつい先日あった猟師の秋山の顔が思い出される。

 生徒会長である字久良紫音はと言えば、いの一番に帰りそうなものだが、学校に残って雑務を片付けてから、そのまま神社の「表」の準備に向かうらしい。


――つまり、今日が絶好のチャンスと言う事だった。


 湿った風が頬を撫でた。遠くから、祭りの準備をする村人たちの掛け声や、太鼓の練習の音が微かに聞こえてくる。

 だが、それが逆に、神社の裏手にあるこの場所の取り残されたような静けさを際立たせていた。


 神社の母屋側を囲む塀、その裏木戸が僅かな軋みとともに開く。

「……今しかないよ」


 中から現れたヒビキさんが、小さな声で囁いた。

鬱蒼とした木々に囲まれた裏口。


 都合の良い事に、そこは書庫があると言う離れのすぐ近くにあった。


「おじゃまします」


 小声で呟くと、離れに続く縁側の廊下から上がり込む。靴はそのままカバンの中に入れる。

 線香と古い木材の匂い。生活の痕跡はあるのに、人の気配だけがすっぽりと抜け落ちているようだ。

 廊下に差し込む薄暗い光に、舞い踊る埃が煌めいては消える。

 

「おじさまは寄合に行ってる。……問題は、あそこ」


 ヒビキさんの視線の先、薄暗い渡り廊下の奥に、一室だけ閉ざされた障子がある。

 離れの書庫へ行くには、あの前を通らなければならない。


 字久良紫音の母が臥せっていると言う部屋。


部屋からほとんど出る事はないという。けれど、だからこそ行動が読めない。



この時間は大抵、眠っているらしい。

それでも、その奥に誰かがいるというだけで、喉が乾いた。


 なんてことのない普通の障子戸の前、その前の僅かな廊下が酷く長く見える。


 それでも行くしかない。意を決して渡り廊下を進む。

 なるべく音をたてないように、一歩ずつ慎重に足を進める。


 心臓の鼓動がどんどん大きくなっていく。手の中が汗ばんでいくのが分かる。


――もし、彼女が部屋の中からこちらを見ていたら。


 白い障子の奥に今にも人影が現れそうで、どうしようもなく不安になるが、歩みを止めるわけにはいかない。


 ぎい、と廊下が僅かな軋みを立てる。その音にぎょっとして僕は足を止めた。

 先を行く、ヒビキさんの息をのむ音が聞こえる。


 僕はうるさいほどに鳴り響く心臓を抑えながら、障子の方を見た。

 人影のようなものは見えない。


 ヒビキさんと目が合う。彼女は黙って僕に目配せした。


――行くしかない!


 幸いなことに中からは物音はしない。意を決して足を進める。


 時折、障子の向こうから、衣擦れのような微かな音が聞こえる気がする。

 あるいは微かな寝息の音が、そこに誰かがいることを明確に知らせていた。


 僕たちは息を殺し、その部屋の前を通り過ぎる。

 古い廊下の床板が、再び悲鳴を上げないように、慎重に、慎重に、足を運ぶ。


 背中を伝う汗が気持ち悪い。

 その一方で今にも開きそうな障子から目が離せなかった。


 部屋からだんだんと離れていくと同時に、心臓の音が少しづつ落ち着いていく。

 廊下の角を曲がったところで、一度、大きく息を吐いた。


「はは、緊張したね」

「うん」


 ヒビキさんの苦笑交じりの囁きに、なんとか答えを返す。


 正直、あんな緊張をするのはもう二度と御免だ、と思う。とはいえ、何とか一番の峠は越した筈である。

 廊下を曲がった先、突き当りに重厚な扉が見えてきた。


「ここよ」


 離れの最奥に作られた土蔵には、漆喰塗りの分厚い扉が据えられていた。

 古い家の記憶を、そのまま閉じ込めているような重々しさがある。


 ヒビキさんがその扉に据えられた木戸に手をかける。ギイ、と気味の悪い音と共に開いていく。

 


 明り取りに開け放たれた窓以外、出入り口らしいものは正面の木戸だけだ。ひんやりとして深い泥の底のような圧迫感のある空気。その中にむせ返るような紙と墨の匂いが充満している。


 不思議とそれほど埃が積もっているわけでもない。


「……私が入り口を見てる。フツオ君は奥を探して」


 ヒビキさんが小声で囁く。彼女は扉を細く開けたまま、廊下の様子を伺うように背中を向ける。

 僕は頷くと、足音を忍ばせて書庫の奥へと進んだ。

壁一面の棚には、朱塗りの箱や年代物の和綴じ本や巻物が所狭しと並んでいる。古めかしい道具や、衣装入れのようなものもあり、書庫とは言っても実際のところは物置部屋に近いような感じがした。棚に並ぶ本は、達筆すぎる筆文字で書かれたものが多く、どれが儀式の記録なのか、見当もつかない。


――片っ端から調べるしかない。


 手近な棚から一冊を抜き取ろうとしたその時だった。突然、入口の木戸が開く音がした。


「――やっぱりここだったのね」


 入口の方から聞こえた涼やかな、それでいて少し呆れたような声に、僕の心臓が跳ね上がった。





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