第六話 通り雨
どちらも選びたくはなかった。
どちらを選んでも、苦しむ事は分かっていた。
どちらを選んでも、後悔すると分かっていた。
自分で選んだ事だと諦めるには、残酷すぎた。
本当は気付いていた――最初から選択肢なんて無かったことに。
湯殿の中は、湯気で薄く霞んでいた。
磨き上げられた檜の縁から、清冽な香りが立ちのぼる。高い天井から落ちた雫が、ぴちょりと音を立てて湯の面を揺らした。静かな空間だった。自分の息づかいと、水の揺れる音ばかりがやけに近く聞こえる。
紫音は、そっと足を湯に沈めた。
昼間の禊の冷たさとはまるで違う。熱を含んだ湯が、白い足先からゆっくりと這い上がってくる。ふくらはぎ、膝、腿へと伝わるぬくもりに、張りつめていた体から少しずつ力が抜けていく。
肩まで湯に浸かると、ようやくひとつ息がつけた。
向かいでは、ヒビキが先に湯に入っていた。
濡れた橙色の髪が頬に張り付き、湯気の向こうでその輪郭を柔らかくぼかしている。いつもは陽の光みたいに快活な彼女が、こうして静かに湯に浸かっていると、年相応の少女らしさよりも、どこか妙に艶めいた儚さの方が先に立って見えた。
「紫音はさ」
湯を指先でかき混ぜながら、ヒビキが言う。
「刀伊原君のこと、嫌い?」
「え?」
あまりに唐突で、紫音は思わず顔を上げた。
ヒビキは、悪戯を仕掛けた子どものような笑みを浮かべている。
「別に、嫌いとかそういう話ではないわ……」
「私は、良い人だと思うけどなあ」
呑気な口調。
けれど、その声音の奥には、何かを探るような細い棘があった。
「ひ、ヒビキ、あなたは、その……」
喉元までせり上がってきた問いを、紫音は何とか言葉にする。
「あ、あなたは彼のことが……」
「嫌いじゃない、かな」
にやにやと笑いながら、ヒビキはあっさり答えた。
湯気とは別の熱が頬に集まる。紫音はたまらず目を伏せた。正直、こういう時のヒビキは少し意地が悪いと思う。
「……彼と、その、親密な関係になるつもりなの?」
ようやく絞り出した言葉に、ヒビキはすぐには答えなかった。
湯の中に沈めた腕を、ゆっくりと引き上げる。滴る雫が白い肌を伝い、肩へ、鎖骨へと滑り落ちていく。その何気ない仕草が、やけに目に焼き付いてしまって、紫音は自分でも嫌になるくらい視線の置き場に困った。
「……さあ、どうだろうね」
ぽつりと、ヒビキが呟く。
「どうだろうね、ってあなたの事でしょう」
「自分のことだから分かんないんだよ」
ヒビキは困ったように笑った。
それから湯の中で手を伸ばし、紫音の指先にそっと触れる。
ぬるい湯の中で、その手だけが妙に生々しく感じられた。
「……ねえ、紫音。好きって何だろうね」
紫音は息を呑んだ。
「それって、分かった方が良いのかな。誰かに好きになってもらって、好きな人と一緒になるなんてこと、ほんとにあると思う?」
湯気の向こうのヒビキの顔は、笑っているようにも、泣きそうにも見えた。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
そんなもの、分かるわけがない。
自分たちには、その先を選ぶ自由などないのに。
「じゃあ、分からない方が良いと思わない?」
「それは……」
紫音は答えられなかった。
普通に生まれて、普通に誰かを好きになって、普通に悩む。
もしそんな人生だったなら、この会話も、ただの恋愛話で済んだのかもしれない。
けれど自分たちには、そんな“普通”は与えられていない。
ヒビキは、湯の中で紫音の手を包み込んだ。
「ごめんね。そんな顔しないで」
「ヒビキ……」
「ねえ、紫音。紫音はどうなの?」
「どうって、私は別に彼のことは……」
言いかけたところで、ヒビキの表情が変わった。
先ほどまでの戯れるような色がすっと消えて、瞳の奥にだけ硬い光が残る。
「そういうことじゃないよ」
抑揚のない、静かな声だった。
「このままでいいの?」
その一言が、湯気よりも重く、紫音の肌にまとわりついた。
「…………仕方のないことだと思ってるわ」
答えると、ヒビキはわずかに顔を歪めた。
「違うよ」
「え?」
「仕方のないことなんかじゃないよ……」
湯の中で握られた手に、力がこもる。
「紫音は“召し役”で、私は“嫁役”で、それで全部片付くみたいに、皆が思ってるだけじゃん」
紫音は言葉を失った。
ヒビキがその言葉を、こんなふうに口にするのを聞いたのは初めてだった。
「“召し役”は食べられる。“嫁役”は生きられる。そんな言い方、どっちも最初から人として扱ってないみたいで、大嫌い」
ヒビキは唇を噛んだ。
白い歯が下唇に食い込み、薄く色づく。
「紫音だけが死ぬのも嫌。私だけが生き残るのも嫌。そんなの、どっちも選びたくない」
その声は震えていた。怒りとも、悲しみともつかない震えだった。
「……ヒビキ」
「紫音は、簡単に仕方ないって言うけど」
ヒビキが、紫音の手をさらに強く握る。
「私は、嫌だよ」
彼女の目がじっと紫音を見る。紫音の胸の奥で何かが軋んだ。
「私は嫌」
一瞬、どこか遠くを見るような顔をして、ヒビキは繰り返した。
「もし……」
何かを言いかけて、はっと我に還ったように紫音を見る。
「ごめん、やっぱり何でもない」
彼女は困ったように笑うと紫音の手を離した。
「ヒビキ、あなた……何をするつもりなの?」
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
高い天井から落ちた雫が、またひとつ、湯を揺らした。
ヒビキは、紫音を見た。
そして、いつものように、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「――ナイショ」
いつもと同じ笑みの筈なのに、薄い湯気の向こうのそれは、別の誰かのように見えた。
「先、あがるね」
そう言って、ヒビキは浴槽から立ち上がると脱衣所の方へ歩き出した。
彼女が出た時に生じた泡が一つ、湯表をゆらゆらと漂いながら、浴槽の縁へと流れ、浴槽からあふれ出た湯と共に、するりと流れ落ちていく。
落ちて、落ちて、流されるまま、暗い排水口の奥へと飲み込まれていくのを、紫音は黙って見送るしかなかった。
古びた停留所のベンチに座ったまま、フツオはしばらく動けなかった。
いくつものバスが来て、止まり、そして去っていく。
運転手が怪訝そうな顔でこちらを見ても、立ち上がることすらできない。
乗ろうと思えば、乗れた。
それなのに、身体がまるで動かなかった。
気づけば、雨が降り出していた。
停留所の錆びた屋根を叩く音が、やけに大きく耳につく。
――僕は、どうすればいいんだろう。
停留所の柱には、本祭の日程を書いた紙が貼られていた。
雨に濡れた紙の端が、ふやけてめくれている。
紫音は“召し役”で、祭りの夜に食べられる。
ヒビキは“嫁役”で、生き残る代わりに、この先もずっとここに繋がれる。
ここで生まれた人間は、逃げられない。
言葉にして並べれば、それだけのことだ。
なのに、その“それだけ”が、胸の奥に鉛みたいに沈んでいる。
視線を落とす。
濡れたアスファルトに、灰色の空が歪んで映っていた。
ここでバスに乗ってしまえば、少なくとも今日は何も見なかったことにできるかもしれない。
聞かなかったことにして、知らないふりをして、明日また適当な顔で学校へ行けるのかもしれない。
――本当に?
喉の奥がひどく乾く。
そんなことが、できるわけがなかった。
目を閉じると、昼の山道で聞いたヒビキの声が蘇る。
『ここで生まれた私たちは、ここでしか生きられないの』
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
違う。
それは僕の痛みじゃない。
なのに。
『死んじゃうんだよ! 嫌だよ。そんなの嫌だよお』
耳の奥に残った嗚咽が、離れない。
雨音が少しずつ強くなる。
屋根の端から落ちる雫が、一定の間隔で地面を打つ。
ふと、その音の隙間に、別の声が混じった気がした。
『……きみには無理だよ』
心臓がひやりと冷える。
顔を上げる。
誰もいない。
『私たちを見捨てたくせに』
――違う。
『助けてくれなかったくせに』
――違う。
『お前だけ逃げたくせに』
頭の奥で、声が重なっていく。
停留所の外、降りしきる雨の向こうに、真っ黒い影が立っているように見えた。
輪郭のない人の形。
そいつらは、じっとこちらを見ていた。
『『ツギハオマエノバン』』
ニタリ、と笑ったように見えた、その瞬間。
「……無視すんな!!」
鋭い声が、雨音を切り裂いた。
フツオは弾かれたように顔を向ける。
停留所の屋根の下に、小柄な少女が立っていた。濡れた服の裾を絞りながら、こちらを睨みつけている。
浅黒い肌。金色の髪。薄手のキャミソールは雨を吸って肌に張り付き、小柄な体の線をそのまま浮かび上がらせていた。紫色の下着がうっすら透けて見え、フツオは慌てて目を逸らす。
「うわぁっ!!」
「ふえっ!? なに……あっ!!」
少女の方も、自分の状態に気づいたらしい。顔を真っ赤にして一歩飛び退く。
「だああ、冷たい!」
そのまま再び屋根の下へ駆け込んでくる姿が妙に滑稽で、フツオは思わず吹き出した。
「あ? てめえ、笑ったな!!」
「いや、その、ごめん」
「ふんだ!」
少女は頬を膨らませながら、両腕で自分の身体を抱きしめた。
ついさっきまで停留所の外にいた、あの黒い影たちは、もうどこにもいなかった。
代わりに目の前にいるのは、肩で息をしながらこちらを睨みつけてくる、小柄な少女ひとりだけだ。
「……何見てんだよ」
じとっとした声で言われて、フツオは慌ててそっぽを向いた。
「い、いや、別に」
「別に、じゃねーだろ! おまえ今ぜったい見ただろ!」
「いや、その、ごめんって」
キャミソールの上に手を当てながら、星歌は顔を真っ赤にして唇を尖らせる。さっきまで頭の中を埋め尽くしていた黒い声が、今は少しだけ遠のいていた。
フツオは自分の制服の上着を脱いで、無言で差し出した。
「……ほら」
星歌は目をぱちくりさせる。
「え?」
「その、寒そうだし」
一瞬だけためらうような顔をしたあと、彼女はそれをひったくるように受け取った。
「……ありがと」
ぶっきらぼうな礼だった。
それでも、ちゃんと礼を言うのだな、とフツオは妙なところで感心してしまう。
「なんだよ、その顔」
「いや、ちゃんとお礼言うんだなって」
「はぁ!? 言うだろそりゃ! 子ども扱いすんな!」
むっとしながらも、星歌はフツオの上着を肩に掛けた。濡れた髪の先から雫がぽたぽたと落ちている。近くにいると、雨とシャンプーの匂いが混ざったような甘い匂いが、ふっと鼻をかすめた。
「……で?」
星歌が、改めてフツオの顔を覗き込む。
「ここで何してたんだよ」
その問いに、フツオは一瞬だけ言葉を失った。
何をしていたのか、自分でも上手く答えられなかったからだ。考えていた、と言えば聞こえはいい。だが本当は、考えることすらできずに立ち尽くしていただけだった。
「……べつに」
「嘘つけ。そういう顔してねえ」
星歌は即座に切り返した。
その目は思っていたより鋭い。気が強いだけじゃない。人の顔色を見ることに慣れている目だと、フツオはなんとなく思った。
「ヒビキ先輩から、なんか聞いたんだろ」
その一言で、胸の奥がひやりと冷えた。
誤魔化そうとした言葉は、喉の途中で止まる。
「……うん」
小さく頷くと、星歌は大きくため息をついた。
怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
「そっか」
短い返事。
それだけなのに、妙に重い。
停留所の屋根を叩く雨音は、少しだけ弱くなっていた。けれど二人の間に落ちた沈黙は、さっきよりもよほど息苦しかった。
星歌は、フツオの制服の上着を肩に掛けたまま、しばらく黙って足元の水たまりを見ていた。
やがて、何かを決めたように顔を上げる。
「……ねえ」
「え?」
「私って、かわいい?」
あまりにも唐突な問いに、フツオは一瞬、本気で言葉を失った。
「は?」
「だから、私。かわいいかって聞いてんの」
星歌はむすっとした顔のまま言うが、その耳はうっすら赤い。
からかわれているのかと思った。だが、その目は妙に真剣だった。
「え、いや、その……」
「なによ。はっきり言えよ」
ぐい、と一歩詰め寄られて、フツオは反射的に背筋を伸ばす。
近い。雨に濡れた髪の匂いがまたふわりと鼻をかすめる。
「そ、そりゃまあ……かわいい方だとは思うけど」
言った瞬間、星歌の顔がみるみる赤くなった。
「お、おう……そ、そうか」
なぜ聞いた本人が照れるのか。
フツオが目を瞬かせていると、星歌は咳払いを一つして、わざとらしく腕を組んだ。
「じゃあさ」
「う、うん」
「ヒビキ先輩と私、どっちが好き?」
「はあ!?」
今度こそ、停留所の屋根が吹き飛ぶんじゃないかと思うくらいの声が出た。
「な、なんでそういう話になるの!?」
「いいから答えろって」
「いや、だって、そんなの……」
星歌はじっとこちらを見ている。
からかっているようにも見えるし、必死で何かを確かめようとしているようにも見えた。
「……ヒビキさんは、その、明るいし、優しいし、可愛いと思うよ。そりゃ、男子なら意識くらいはするだろ」
言いながら、自分で何を答えさせられているのか分からなくなる。
星歌はその返事を聞いて、ふうん、と鼻を鳴らした。
「やっぱ男ってそうだよな」
「なんでそこで責められるのさ」
「別に責めてねーし」
責めている顔だった。
星歌は少しだけ視線を逸らし、それからぼそりと呟いた。
「……じゃあさ」
「うん?」
「私じゃ、ダメか?」
フツオの思考が、そこで完全に止まった。
「……え?」
星歌は、自分でも言ってしまったことに驚いたような顔をしたあと、やけっぱちみたいにフツオの腕へしがみついた。
「だ、だから! 女が欲しいなら、私じゃダメなのかって聞いてんだよ!」
柔らかい感触に心臓が跳ね上がる。
けれど、それ以上に、その言葉の必死さが引っかかった。
「ちょ、ちょっと待って。落ち着こう。なんで急にそうなるんだよ」
「急じゃない」
星歌は、フツオの腕を掴んだまま、低い声で言った。
「ヒビキ先輩から、嫁役の話、聞いたんだろ」
その瞬間、浮つきかけた空気が、一気に地面へ叩き落とされる。
フツオは息を呑んだ。
「……聞いた」
「じゃあ分かるよな」
星歌は顔を伏せた。
濡れた前髪の隙間から見える横顔は、さっきまでの気の強さが嘘みたいに脆く見えた。
「ヒビキ先輩が、どんな目に遭うか」
停留所の外では、まだ細い雨が降り続いていた。
星歌はフツオの腕を掴んだまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、絞り出すように口を開く。
「……村の大人たちはさ」
低い声だった。
いつもの刺々しさはなく、妙に乾いている。
「嫁役になる子には、なるべく最初くらいは好きな相手を選ばせてやれ、って言うんだよ」
フツオは一瞬、その意味を理解できなかった。
「え?」
「“どうせこの先、ろくな目に遭わないんだから、せめて最初だけは”って」
星歌は自嘲するように笑った。
けれど、その笑いはすぐに崩れる。
「なにが“せめて”だよ。なにが“優しさ”だよ。勝手に決めて、勝手に同情して、ほんとふざけてる」
雨音の中で、その言葉だけがやけにはっきり響いた。
フツオの腕を掴む指先が、じわりと震えている。
「ヒビキ先輩、まだ高校生なんだぞ」
星歌は顔を伏せたまま続ける。
「明るくて、優しくて、誰にでも笑って、ほんとは自分が一番しんどいはずなのに、ずっと紫音先輩のこと気にしててさ……」
その口調には、敬愛と、怒りと、どうしようもない無力感が入り混じっていた。
「それなのに、嫁役だからって……“生きられる方なんだからマシだ”みたいに言う奴までいる」
「……そんな」
「マシなわけあるかよ」
星歌が顔を上げた。
その目は赤く潤んでいて、でも涙だけはこぼすまいと睨みつけるみたいに力が入っていた。
「好きでもない男の子ども産まされて、そのあともずっと村に縛られて、生きてるってだけで“良かったな”なんて言われてさ。そんなの、死ぬよりマシってだけで、全然救いなんかじゃねーだろ」
フツオは何も言えなかった。
頭では分かっていたつもりだった。
ヒビキが“嫁役”だと聞いた時から、その先に待つものが穏やかなはずがないことくらい。
それでも、こうして誰かの口から言葉にされると、想像していた以上に重かった。
「……だから」
星歌が、もう一度フツオの腕を引く。
「代われるなら、私が代わりたいって思ってた」
声が、ふっと掠れた。
「私だったら、まあ、ヒビキ先輩よりはマシだし。可愛いかどうかは知らねーけど、少なくともあの人より失うもの少ないし。あの人があんな目に遭うくらいなら、私の方がまだ――」
「そんなこと言うなよ」
気づけば、フツオはそう口にしていた。
星歌が目を見開く。
「誰だって同じだろ。ヒビキさんでも、君でも、そんなふうに比べられること自体、おかしい」
自分でも驚くくらい、真っ直ぐに言葉が出た。
星歌はしばらく呆けたようにこちらを見ていたが、やがてぐしゃりと顔を歪めた。
「……ほんと、そういうとこだよ」
「え?」
「そういうとこが、ムカつくし……だから頼みたくなるんだよ」
ついに耐えきれなくなったのか、星歌の目から涙がこぼれた。
「ヒビキ先輩のこと、ちゃんと考えてやってくれよ」
嗚咽混じりの声だった。
「好きとか嫌いとか、そんなんじゃなくていいから。あの人が、どうしたいのか。どうしたら少しでもマシなのか。おまえ、ちゃんと考えられるだろ」
フツオは返事ができなかった。
考えている。
さっきからずっと考えている。
でも、考えれば考えるほど、どの答えも誰かを傷つける気がしていた。
「……分かった」
それでも、ようやく絞り出せたのは、その一言だけだった。
星歌は涙を拭って、無理やりみたいに笑った。
「ほんと、おまえって変なやつだな」
「君にだけは言われたくない」
そう返すと、星歌は一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ笑った。
泣き顔のままの、歪な笑い方だった。
ちょうどその時、停留所の向こうからバスのライトが滲んで見えた。
「あ、来た」
星歌は慌てて立ち上がり、それから肩に掛けたままだった上着を脱ごうとした。
「いや、それ着ていきなよ」
「は? おまえは?」
「僕は歩けるし」
「……ばか」
小さくそう言って、星歌はもう一度だけフツオを見た。
「ヒビキ先輩のこと、ほんとに頼むから」
その言葉は、さっきまでの勢いとは違って、静かだった。
だからこそ、余計に重かった。
フツオはただ、黙って頷いた。
星歌はそれを見て、ほんの少しだけ安心したように息をついた。
けれど、次の瞬間にはいつもの強がった顔に戻っている。
「……じゃあな」
ぶっきらぼうにそう言い残して、彼女はやってきたバスに駆け込んだ。
閉まりかけた扉の向こうで、何か言いたげに一度だけこちらを振り返る。だが結局、何も言わずにバスは走り出した。
バスの窓に映る秋山聖歌の姿が、雨に滲みながら遠ざかっていく。
停留所に残されたのは、フツオ一人だけだった。
いつの間にか雨脚は弱まり、空気の中に土と濡れた草の匂いが濃く漂っている。
フツオは小さく息を吐くと、ヘッドホンを首に掛け直し、重い足を前へ出した。
歩けない距離ではない。
けれど、歩きながら考えられるほど、頭の中は整理されていなかった。
紫音。
ヒビキ。
星歌。
誰も彼も、この村の中で違う場所に立っているのに、同じように逃げ道を失っている。
自分に何ができるのかは、まだ分からない。
それでも、もう何も知らないふりだけはできなかった。
歩き始めてしばらくたつと、小ぶりだった雨はすぐに止んだ。
遠く、山の端へ沈みかけた日が、雲の切れ間を赤く染めている。
その色が、昼間に見た血の色と重なって、フツオは思わず目を逸らす。
その時だった。
背後から近づいてきた軽トラックが、フツオの横にぴたりと寄り添うように速度を落とした。
「おい」
低い声。
反射的に振り向くと、半分開いた窓の向こうに、見覚えのある顔があった。
口の周りを覆う無精髭。蛍光オレンジのハンティングキャップ。鋭い目つき。
朝、牛の死骸の前で会った男だ。
「あ、あなたは……」
脳裏に赤く染まった草地がよぎる。
散らばった肉片。木の枝に引っかかった首。思わず喉がひきつった。
「この時間にバスはもうない。送っていく」
男はそれだけ言って、助手席側のドアを開けた。
「いや、その……」
「この辺りは暗くなるのが早い」
ぶっきらぼうな口調のまま、男は続ける。
「“野犬”も出るからな」
その言い方に、フツオの胸がわずかにざわつく。
単なる忠告にも聞こえるし、何か別の意味を含ませているようにも聞こえた。
視線が、軽トラの荷台へ向く。
大きなプラスチックのトレイの上に、ぐったりした鹿が横たわっていた。口元からはまだ新しい血が細く垂れている。
「……鹿?」
「山で獲れた」
男は短く答えた。
そのまま顎で助手席を指す。
「早く乗りな」
正直、気は進まなかった。
だが、このまま突っ立っていても仕方がないし、ここで好意を無下にして面倒を増やしたくもない。
フツオは小さく会釈すると、助手席に乗り込んだ。
男は座席の上に無造作に置かれていた上着と細長い袋を手早くどける。
袋の形を見て、フツオは一瞬ぎょっとした。
――あれ、銃か。
「猟銃だ。触るなよ」
男はフツオの視線に気づいたのか、淡々と言った。
無愛想な口ぶりだったが、妙に慣れた響きでもあった。
車がゆっくりと動き出す。
「……」
「……」
しばらくは、エンジン音だけが車内を満たしていた。
フツオは気まずさに耐えきれず、膝の上で指を組み直す。
「あ、あの」
「なんだ」
「……ありがとうございます。送ってもらって」
「大したことじゃない」
それで会話が終わる。
あまりに短い返事に、フツオは次の言葉を探して口を開きかけ、結局閉じた。
「刀伊原フツオ、です」
沈黙に負けて、半ば反射的に名乗る。
「……知ってる」
即答だった。
「あ、そ、そうですよね」
「秋山だ」
ぽつりと男が言う。
その名字に、フツオははっとする。
「……星歌さんの、お父さん?」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」
むすっとした声だった。
思わずフツオが固まると、数拍遅れて男は鼻を鳴らした。
「冗談だ」
「あ、あはは……」
笑っていいのか迷うような冗談だった。
だが、朝に受けた印象よりはずっと人間味がある。
「猟師……なんですか」
「趣味だ。本業は学校の用務員」
言われてみれば、校内で見かけたことがあるような気もする。
フツオが曖昧に頷くと、秋山は前を向いたまま口を開いた。
「……男の子だな」
「え?」
「銃と鹿を見て、少し気が逸れただろ」
フツオは思わず言葉に詰まる。
たしかに一瞬だけ、さっきまでの重苦しい思考が途切れていた。
「まあ……はい」
「それでいい」
秋山は短くそう言った。
それきりまた黙るのかと思ったが、次に続いた声は意外なくらい穏やかだった。
「ここには慣れたか」
「え?」
「村だ。学校でもいい」
フツオは窓の外を見る。
雨に濡れた道端、低い家並み、遠くに沈む山の影。どれもまだ、自分の風景にはなっていない。
「……みんな、親切にはしてくれてると思います」
歯切れの悪い返事だった。
秋山はそれを聞いて、少しだけ眉を動かす。
「馴染みにくいか」
その口調は責めるものではなく、ただ確認するようだった。
その優しさに、かえって胸の奥が痛む。
『お前だけ逃げたくせに』
『また見捨てるくせに』
耳の奥で、不意にあの声が蘇る。
フツオは奥歯を噛みしめ、膝の上で拳を握った。
「……前の学校でも、その、上手くやれなくて」
何とか言葉をつなぐ。
「父の仕事の都合で、またどうせすぐ転校だと思うと……」
「すまない」
静かな一言が、フツオの言葉を止めた。
秋山は前を向いたまま、淡々と続ける。
「答えにくいことを聞いた」
「い、いえ」
「……あまり考えすぎるな」
ハンドルを握る手は大きく、節くれ立っていた。
鹿を解体し、銃を握り、娘を育ててきた手なのだろうと、どうでもいいことを思う。
「君は子供で、大人の事情でここにいる」
その言葉は飾り気がない。
だからこそ、妙にまっすぐ胸に入ってきた。
「嫌なことは、全部、大人のせいにしてしまえ」
フツオは思わず秋山の横顔を見る。
冗談を言った時と同じように、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
不器用だけれど、この人はたぶん本気でそう言っている。
「……はい」
それだけ言うので精一杯だった。
しばらくして、軽トラックは家の近くの十字路で止まった。
「この辺だろ」
当たり前のように場所を把握されていることに、フツオは少しだけ苦笑する。
こんな村で、余所者の居場所など目立たないはずがない。
「ありがとうございました」
車を降りて頭を下げると、秋山は小さく頷いた。
そして、ふと思い出したように言う。
「お父さんの仕事は順調か」
「え?」
唐突な問いに、フツオは目を瞬く。
「いや、その……僕にはよく」
「……そうか」
秋山はそれ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ遠くを見るような目をして、低く呟く。
「早く終わって、村を出られるといいな」
「え?」
「誰にとっても、その方がいい」
それだけ言い残して、軽トラックはゆっくりと走り出した。
「……どういう意味ですか!」
呼びかけても、返事はない。
遠ざかるテールランプだけが、濡れた道の上に赤い筋を引いていた。




