第五話 巫女
何処に行っても他人だった。何処にいても異邦人だった。
周りの「みんな」と違っていて。
同じ場所にいるはずのに、同じ「景色」は見えなくて。
何処にあっても異物だった。
それを望んだことは一度として無かったのに……。
まだ陽の昇りきらない境内の奥。
社の裏手にある禊場には、夜の冷気がそのまま沈んでいた。
白い息を吐きながら、紫音はゆっくりと水へ足を踏み入れる。
――冷たい。
思わず息が詰まる。
足先から這い上がってくる水の感触が、膝、腰へとじわじわと侵食してくる。
逃げ出したくなるような衝動を、無理やり押し込めた。
ここで止まるわけにはいかない。
胸元まで水に沈み、両手で水を掬う。
一度。
二度。
三度。
決められた回数。決められた所作。
間違えてはいけない。
水が肌を打つたびに、余計な思考が削ぎ落とされていく。肌の上を滑っていく水の感触。
冷たさだけが、やけにはっきりと残る。
――オマエノバン
その言葉が、どこから来たのか分からない。
ふと、水面が揺れた。
波紋の中に、別の光景が一瞬だけ重なる。
濡れた手。湯着に透ける白い肌。
美しい顔が浮かべた、少しだけ寂しそうな笑顔。
そして棺のなかに残された、白く細い腕。
揺れる、揺れる、水面が揺れる。
波紋の重なり合う何かに、ニタリと笑う何かが見えた。
次の瞬間には、もう何も残っていない。
紫音はぎゅっと歯を食いしばる。
思い出すな。
考えるな。
これは、ただの準備だ。
そのはずなのに。
水面に写る山の頂上……その暗い木々の奥から、何かがこちらを覗き込んでいるような気がした。
――ああ。
言葉にならない“理解”だけが、頭の奥に浮かぶ。
ちゃんとそろっているか
まだ穢れてないか
そんな風に、値踏みされているような感覚。
ぞわりと背筋が粟立つ。
水の冷たさとは違う、別のものが触れてくる。
紫音は無理やり視線を落とした。
見てはいけない。
見たら、きっと――
両手で水を掬う。
――しゃらん。
どこからか鈴の音がした気がした。
違う。まだ持っていない。
ただの空耳だ。
呼吸を整える。
震えそうになる指先を、押さえつける。
――大丈夫。
そう思った瞬間。
水面が、ほんの僅かに歪んだ。
笑われた気がした。
誰に、とは分からない。
ただ、確かに。
“そういうもの”として扱われている感覚だけが残る。
紫音は目を閉じた。
――大丈夫。
もう一度、心の中で繰り返す。
何が大丈夫なのかは、分からなかった。
ただ、無性にヒビキに会いたかった。
「ごめんね」
学校から少し離れたバスの停留所。その人気のないベンチに座ったヒビキがポツリと呟いた。
「え?」
「さっきの星歌ちゃん。それとわたし……気まずかったでしょ」
そう言って彼女はからかうような笑みを浮かべてこちらを見る。
「それはまあ、その……うん」
「素直だね……。まあ、あの子も悪い子じゃないんだよ」
そう言って、彼女はまた困ったように笑う。
「分かってるんだけどね……」
「その、何かあったの?」
驚いたような顔で鶴内ヒビキが顔を上げる。
「あ、いやゴメン。話ずらい事なら……なんかほら、他人に話すと楽になる、て言うし、ゴメン」
しどろもどろに謝る僕を見て鶴内ヒビキは表情をやわらげた。
「フツオ君は素直だなあ。いいこだねえ君は」
「いや、良い子って……そういうんじゃないけど」
「紫音の叔母さんね、あの子のお母さんのせいで亡くなったんだ」
「は?」
直後に飛びだしてきた言葉に一瞬耳を疑う。
「この村は呪われてるの……。フツオ君、今日見た事はさ、偶然とか病気とかじゃないんだよ」
「一体どう言う……」
「バス、来てるよ」
ふと気づけば、停留所の前に止まったバスの運転手が、車内から胡乱な眼でこちらを見ていた。
「あ、すみません」
バスに慌てて乗り込む。とすぐに扉が閉まる。
「続きはまた今度ね……」
鶴内ヒビキの囁くような声が、嫌に耳に残った。
街灯が少ない事も手伝ってか、この辺りはすぐに暗くなる。
布団に横たわって少し見慣れてきた天井を見る。
今日は昨日よりも頭の中が騒がしい。
眠ろうとしても、今日の出来事が脳裏で激しく反芻される。
『ヒビキ先輩近づくな!』
『紫音の叔母さんね、あの子のお母さんのせいで亡くなったんだ」
『この村は呪われてるの』
『……私たちに関わらないで』
「分かってるよ……そんな事」
むくりと起き上がって枕元に置いておいたヘッドホンを手に取る。
手元のプレイヤーのスイッチを入れる。
重厚なベースとドラムの重奏、激しさを増すビートとは対照的に心が落ち着いていく。
その時だった。ヘッドフォンから流れていた音楽が、突然、一瞬で消えた。
電源が落ちたわけでも、コードが抜けたわけでもない。
ただ、ノイズもなく、無音になった。その異常な静寂に、妙に胸が騒ぐ。
――なんだ?故障か?
『うそつき』
ヘッドフォンを外そうとした瞬間、聞こえてきたのは字久良紫音の声だった。
なにがおかしいのかくすくすと笑う声すら聞こえる。
「な、なんで」
『君は冷たい人だね』
次に聞こえたのは呆れたような鶴内ヒビキのそれ。
『お前が来たせいで』
ヘッドホンの中でいくつもの声が聞こえる。
――本当に普通の肝試しだと思って……。
『……知ってたくせに』
「それは!」
心臓の鼓動が五月蠅いほどになっている。背筋を伝う汗の感触がき持ち悪い
『なんで助けてくれなかったの……?』
「それは」
ヘッドホンの奥から一際大きな声で、女の囁くような声が聞こえた。
『こうなって嬉しかったくせに』
それは、今日紫音や星歌から言われた言葉ではない。もっと以前に、もっと残酷に、僕の人生を決定づけた言葉だった。
そして、その声は、紫音の透き通るような冷たさと、ヒビキの明るい声の甲高さが何重にも重なっていた。
声は逃げようとする僕を追い詰める。
怨嗟の声、すすり泣きの声、そして何かを嘲笑うような声。
「――やめろ!」
僕が叫び、必死にヘッドフォンを引き剥がした瞬間、その声は紫音の冷たい声に変わり、山から響いた。
『そうやって、また見捨てるんだ……』
その言葉が耳の奥底、脳髄の奥を震わせた刹那、その声さえも打ち消すほどの生々しい悲鳴が、家のすぐ近くの林の方向から上がった。
聞きなれない動物の悲鳴と何かを貪るような生々しさ。
薄暗がりの中に、何かが蠢いている。その影は闇夜の静寂の中で、濡れた水音とゴリゴリと何かを削り啜るような音だけが木霊する。
僕はごくりと唾をのみ込んだ。
それが、家の二階にある僕の部屋を見上げたまま、ニタリと笑ったように見えた。
猿の奇声と人間とも猿ともつかぬ、狂気に満ちた不気味な笑い声が、周囲の山に響き渡り、徐々に遠ざかっていった。
僕はヘッドフォンを握りしめたまま、そのまま朝まで一睡もできなかった。
あれが「なにか」を考えるような余裕は、僕にはかけらも残されていなかった。
遠くで何かが鳴っている。電話? ふと窓の外を見る。外から差し込む朝の光、屋根の上から聞こえるのはカラスの声か。
「もしもし……」
「もしもし、おはようフツオ」
電話口から響く太平楽な声。いつもであればなんとも思わないそれが、今はすごく心強い。
「……どうした? なんだか元気ないな」
「そうかな……なんか寝付けなくて」
「……大丈夫か?」
「………」
「前の学校みたいに馴染めてないのか」
電話口の声が少し心配そうなものになる。
「そんなことないよ。皆、親切だし」
」
嘘は言ってない。前の学校の連中とは違い、少なくとも初日から無関心と言う事はなかった。
「そうか、困った事があったら、言うんだぞ」
「うん……父さん」
「なんだ?」
正直自分でも何が言いたいか分からない。
「…………仕事は順調?」
「――ああ、今のところはな。それがどうかしたか?」
「いや、なら良いんだ」
そう言って受話器を置く。
「……学校にいかないと」
仏壇に置かれた母の写真。その笑顔が、何故か少し悲しげに見えた。
家を出てからも、足が重かった。まるで両足に何十キロも錘をつけてるみたいだ。
――なんだ、この臭い。
強烈な鉄の匂いと何かが腐ったような匂いで僕は足を止めた。
十数人の村人が、誰一人として騒ぐことなく、静かに輪を作っている。
ひそひそと何かを囁きあっている。
周りをブンブンと飛び回るハエを、大人たちがうるさそうに出て追い払う。
目に飛び込んできたのは、草地を染める赤。引きちぎられた足と散らばった内臓の欠片。
だが、村人たちの視線は地面ではなくはるか樹上に固定されて――。
――あれは、牛?
瞬間、込み上げてきた吐き気を必死でこらえる。
近くにあった樹木の遥か高い枝、その一本に突き刺されている何か。
乱暴に引きちぎられたように見えるそれは牛の首だった。
近くの木の幹には何かの爪痕がハッキリと刻まれている。
「……こんなひどいのは初めてだな」
「祭りが近いからだ」
「だれぞお山様になにかやらかしたか」
漏れ聞こえてきた囁き。その声には恐怖こそあるものの、この異常な光景に対する驚きが薄いように見える。
その時、村の人の一人が僕に気づいて振り返った。
「……あんた、この間引っ越してきた――」
その村人が何かを言いかけた瞬間。作業服の上にオレンジのベストを着た男が、僕の方へ進み出た。
顎に生えた無精ひげと鋭い目つきに、思わず一歩後ずさる。
背には何か細長いゴルフバックのようなものを背負っていた。
――あれって、もしかして猟銃?
男は僕の顔をジロジロと見ると、ほかの村人に目配せをした。
視線を受けた男たちはそそくさと牛の死骸にビニールシートをかける。
「子供があんまり見るもんじゃない」
その時、男が落ち着いた調子で口を開いた。
「学校に行きなさい」
男に頭を下げて、僕はその場から急いで立ち去った。
――気のせいでも幻覚でもない。この村には何かがいる。
そう思わずにはいられなかった。
学校に着いてからも、鼻の奥にこびりついた鉄錆と獣の臭いが取れなかった。
教室のざわめきが、水槽の外の出来事のように遠く感じる。
クラスメイトたちは、いつも通り笑い合っている。
今朝、通学路であんな事があったのに、誰もそれを知らないように見える。
確かに、うちの周りはあまり家がない。とはいえ、あの場にはそれなりの数の大人がいた。
それなのに学校の注意喚起すらないと言うのは明らかに異常だ。
「……フツオ君」
教科書を広げようとした僕の机に、影が落ちた。
顔を上げると、立っていたのはヒビキさんだ。
いつもの太陽のような明るさはなく、厳しい顔をしている。
「……ちょっと、いいかな」
彼女の視線が、僕の顔と、震えを止めきれない手を交互に見た。。
僕は無言で頷き、席を立った。
人気の少ない、渡り廊下の突き当たり。
雨上がりの湿った風が吹き抜ける場所で、僕たちは向かい合った。
「……何があったの」
ヒビキさんの問いかけに、僕は重く頷く。
「……牛だった。首が、木の上に突き刺さっていた」
「そう……」
ヒビキさんは、自分自身を抱きしめるように腕を組んだ。
「なんか、誰も気にしてない見たいで、その……」
「皆、慣れちゃったから」
どこか悲し気な顔で、ヒビキさんは呟いた。
「慣れるって……」
「そうだよね。普通じゃないよね」
自嘲するように彼女が笑う。
「あの――」
「――大丈夫、可笑しいって思うのが普通。それが正しいよ」
彼女の笑みはなんだか寂しげだった。
「大丈夫だよ。私がちゃんと教えてあげるから」
艶のある声で、彼女が囁く。
「ねえ、フツオ君。放課後、素敵な場所に行こっか」
このところ、村は祭りの準備に追われている。
道端の竹組みも、軒先の提灯も、数日前よりずっと形になっていた。
女の子に放課後に呼び出されて――とくればこれはまさかデートなのではないだろうか?
そんな風に太平楽に考えられればどれだけ良かっただろう。
「ごめんね。まった?」
すこし緩めのTシャツ、ハーフパンツから伸びるスラリとした足、黒いストッキングに包まれたそれが、妙に艶めかしい。
これこそが青春! そう叫びたくなった。そんな風に自分で自分を盛り上げないとどうにかなりそうだ。
「ぜ、ぜんぜん」
ラブコメ漫画の典型みたいなやり取りだが、実際にやってみると感動が薄い。
それどころじゃない、と言うのが大きいのだと思う。そう考えてしまう事が、少し寂しかった。
「私服なんだ」
「うん、フツオ君が来る前に着替えたんだ。そう言えばフツオ君ってお休みの日とかどんな格好してるの?」
「……寝巻か、制服?」
「え? なんで? お休みだよね」
鶴内ヒビキが信じられないようなものを見る目でこちらを見る。
「ごめん、正直、ろくな私服が無くて…」
「まあ、ここじゃあんまり買えないもんね」
とは言えそれは元々持ってない事の言い訳にはならない。
――同情の視線が痛い。
「フツオ君ってホントに素直だよね」
鶴内ヒビキがクスリと笑う。そこにはかけらの悪意も感じない。ただ、そう言う無邪気な反応はそれはそれでグサリとくる。
「じゃあ、行こうか」
そう言って彼女が笑顔で指さしたのは、昼間だと言うのに妙に薄暗い山道である。
「……」
村を囲む山。その入り口。正直に言ってこの村を囲む山には近づきたくない。
「大丈夫、まだ明るいから」
僕の内心を知ってか知らずか、彼女は迷子に声をかけるように、笑顔で手を差し出した。
――確かに思ってたよりは道だ……。
山道を歩く鶴内ヒビキの背を追いながら、そんな事を考える。
鬱蒼と多い茂る木々、僅かな木漏れ日が薄暗い山道を照らす。しかし妙な違和感がある。
「大丈夫? 疲れてない?」
森の中に女の子の優しげな声が響く。
――音がしないんだ。
異様な程の静寂。まるで彼女と僕以外に生き物がいないかのような……。
そんなはずはない。心臓の音が早いのはきっと山道を歩いているからだけではない。
何かに見られているような、そんな違和感がある。
だがそれでも、今は彼女についていくしかない。
しばらくすると、苔むした石段が見えてきた。
数えるのも嫌になるような石段を登り終えたその先は急に開けた場所になっていた。
古びてはいるものの、しっかりと手入れされた後のある鳥居。
だが、そのすぐ下にあるものを見たとき、ぎゅっと胃が縮まるような不快感を覚えた。
「!? ……首が、ない?」
神社の山門に立つ二体の狛犬。そのどちらにも頭部がなかった。
朝に見た首のない牛の死骸がフラッシュバックする。
「古い神社だからね。直すお金もないし」
ヒビキがそう笑う。
――でも、毎年神社主催で祭りをやるような事を言っていた気が……。
村人が皆氏子と言う訳ではないのだろうか。
なぜだろう。妙に胸がざわめく。
シャラン、と鈴の音がした。鳥居の向こうに見える舞台らしき場所に、白い影が見える。
――鶴?
何故そう思ったかはわからない。白い巫女の装束、そこから伸びた嫋やかな手の持つ鈴が、またシャリンと澄んだ音を立てる。。
黒く長い髪を後ろに束ね、顔には薄く化粧をしているのだろうか、色白の肌はなお白く、唇にうっすらと引かれた紅が、その形を艶やかに彩る。
――キレイだ。
十人並みの言葉しか出てこない。それ以上に彼女を形容する言葉を僕は知らなかった。息をすることも忘れて、ただ、呆然とそこに立ち尽くす事しかできない。
ふと形の良い眉が動いた。視線がこちらを向く。
彼女はしばしの間、驚いたようにぽかんとしたのち、キッと彼を睨みつけた。
「あなた…どうやってここに「ごねんね~紫音」」
射殺さんばかりの冷たい眼差しになった字久良紫音を止めたのは、僕の背中越しに掛けられた鶴内ヒビキの声だった。
「あたしが強引に連れてきたんだ」
そう言いながら鶴内さんが僕の腕にわざとらしくしがみつく。
そんな彼女の様子を見て字久良紫音は大きなため息をついた。
「あなた、何を考えてっ――「あたしの家を見せておきたかったの」」
鶴内ヒビキがそう答えた瞬間に、字久良紫音は僅かに顔を歪めて言葉を噤んだ。
「……家?」
僕の呟きが聞こえたのか、鶴内ヒビキは僕の腕を離してこちらに向き直った。
「そうだよ、あたしのお父さんとお母さんはあたしが小さいころに死んじゃったから、
今は紫音の家にお世話になってるんだ」
そう言って、少し寂しげに笑う。
唐突に開示された事情に気まずくなって目を伏せた。
「あの、ごめん」
辛うじて口から出たのはありきたりな誤魔化しの文句。
「なんで? フツオくんはなんにも悪くないじゃん」
いたたまれない空気に耐え切れず下げた僕の頭にやわらかく温かい感触が触れる。
「ほらほら元気出せー」
そう言いながら、彼女は爪先立ちで僕の頭に手を伸ばしていた。どうやら、頭をなでられているらしい。
「……随分仲良くなったのね?」
頭上から字久良紫音声が聞こえる。その声音はいつものそれよりもさらに冷たい。
「まあね~」
なぜか弦内さんが得意そうに答える。
「どうしてここに連れてきたの……?」
「どうしてって、フツオ君にも村のことを知ってほしいから。いろいろとね」
にこやかな表情の裏になぜか妙に含むものがあるように聞こえる。
彼女が字久良紫音を相手にこのような話し方をするのは正直言ってかなり意外だった。
「それに私の紫音のチャームポイントをアピールせねばならんからね」
先ほどとは打って変わってふざけた口調になった鶴内ヒビキがわざとらしく咳払いする。
字久良紫音はなんとなく呆れたような眼で、それを見ている。
なんとなく、この二人の関係性が分かってきた気がする。
「一応外の人には見せない決まりになっているのだけれど……」
「そう言わずにさっ! お願い!!」
そう言って弦内ヒビキが拝むように両手を合わせる。字久良紫音が大きなため息をついた。
意外なことに彼女は舞いの続きを見せてくれる事に同意した。
静まり返った境内。その中でただ鈴の音だけが木霊する。白く舞うのは、巫女服の袖、それが翼のように、嫋やかに宙を泳ぐ。
僅かに垣間見える字久良紫音の顔。その僅かに上気した顔はゾクリとするほどに色気を感じさせる。
――まるでこの世のものじゃないような。
時折鳴り響く鈴の音だけが、現世との接点のようだった。それ以外の音が世界から消えていくような気がする。周囲の音が遠ざかる中で、ただ、心臓の早鐘だけが五月蠅いほどに鳴り響いていた。
気づけば舞は終わっていた。
「……ずっと見てたんだから、拍手くらいするのが礼儀じゃなくて?」
無言で立ちすくむ僕の顔から、恥ずかし気に目をそらす。
「あ、あのゴメン。その、すごく綺麗だったから」
口をついて出た素直な感想。それを聞いて、字久良紫音はかっと顔を赤くして、巫女服の袂で己の顔を隠した。
「そ、そんな見えすいたお世辞を言うものではないわ……」
「え~、なになに、紫音、照れてんの~~?」
ここぞとばかりに弦内ヒビキがからかうように字久良紫音を小突く。
「うう、うるさいわね」
先ほどのとげとげしい雰囲気はどこへやら、今の字久良紫音は年相応の女の子に見える。
「と、とにかく、見たならもういいでしょ。早く行って。……ほかの人に見られたら面倒だから」
「はいはい、またね紫音」
字久良紫音に背中を押されて、僕らは神社の境内を後にした。
――なんか気になる事言ってたな。
「フツオ君……紫音、綺麗だったよね」
「え、ああ、うん」
弦内さんがこちらを振り返る。張り付いたような笑顔。先ほど字久良さんと話していた時とは違う、なぜかぎこちなさを感じる笑顔。
――いつもの彼女の笑顔。
笑顔を張り付けたまま、彼女は続けた。
「紫音はね、ほんとに綺麗なの。そりゃ神様も大喜びだよね」
何故か、彼女の声が妙に冷たくなる。
「あ、あのさ」
「うん?」
「その、鶴内さんは踊らないの?」
「へ?」
そう言った瞬間に彼女は一瞬、目をまんまるに見開くとぽかんとした顔でこちらを見た。
「あ、いや、あの鶴内さんも、その、踊ったら綺麗なんじゃないかと思って」
「え、あの、あははは、私には似合わないよ」
「そんな事ないと思うけど……」
そこまで言いかけて、言葉が出なかった。鶴内ヒビキが困ったような、それでいてひどく悲し気な顔をしているように見えたからだ。
「あれは紫音の役だから、私は代われないんだ…………」
彼女はそう言うと、山の頂上の方を見た。
「そうだね。……誰かが代われたら良かったのに」
その言葉を言ったあと、ヒビキは自分でも驚いたように口を噤んだ。
妙に気まずい沈黙の中で、ただ黙々と参道の石段を下りる。
しばらくして、妙な沈黙に耐えきれなくなった僕は、彼女の背中に問いかけた。
「そう言えば、あの、ありがとう。案内してくれて……」
何とか言葉を紡ぐ。
「あ、でもあそこって関係者以外は立ち入り禁止って感じの場所なんじゃ?」
唐突に、鶴内ヒビキが立ち止まった。
「関係者以外はね……。でも、フツオ君はもう関係あるでしょ?」
振り返った鶴内ヒビキが、いつものように笑みを浮かべた。
「いや、でも僕は――」
そう言いかけた僕の手を彼女がぎゅっと握った。柔らかな手の感触にドキリと心臓が脈打つ。
「――いまここにいるじゃない。だから、関係なくなんかないよ」
僕の心情とは裏腹に彼女の口調は妙に真剣だった。
「あのさ、みんなは秘密にしてるみたいだから教えてあげる」
彼女がそう口にした瞬間、なんとなく嫌な予感がした。
「今年の祭りでね。紫音はいなくなっちゃうの」
そう口にして、弦内ヒビキはまた笑った。
「え? あの、鶴内、さん?」
いつもと変わらない笑顔の筈なのに、からかう為に言っているようには微塵も思えないのは何故だろう。
ただ、その笑顔の裏に見え隠れしていた影が、よりハッキリとして見えた。
彼女が僕を此処に連れてきた理由。
「フツオくんは、もうこの村の人なんだよ。だから……知るべきだと思うの」
――だから、もう逃げられないよ。
華のように明るい彼女の笑顔を見ている筈なのに、脳裏には何故かそんな言葉が浮かんだ。




