第惨話 異変
誰も知らない世界で生きているつもりだった。
誰も分かってくれない事だけは分かっていた。
たった一人の世界の中で、それでも必死に進むしかなくて。
先の見えない闇の中で永遠にもがき続けるのだと……。
でもそれは、結局ただの独りよがりで……。
そんな風に思っていたのが滑稽で、無邪気で愚かでどうしようもない。
周りには沢山の人達がいて、だからこうして縛られるのに……。
だから、結局、逃げ場なんて最初からなかった。
雀が鳴いていた。朝もやのかかる神社の境内より奥まった場所にある屋敷。
その離れへと続く廊下を膳を持った少女が歩いている。
流れるような黒髪、常であれば涼やかな柳眉は僅かに下がり、その表情はどことなく暗い。
障子の前で一息息をつくと膝を折って膳を置いた。
「お母さん…………入るよ」
少女、紫音はそっと障子を開けた。
布団の上に体を起こした一人の女性。長い黒髪に白い浴衣。呆然と窓の外を見つめるうつろな眼。
「あら……姉さん」
部屋へと膳を持って入ってきた紫音の方へゆっくりと目を向けると、女は朗らかに微笑んだ。
彼女を姉と呼んだその女性の名は字久良 由宇。彼女の母である。
「……いつもごめんなさい」
そう言って顔を伏せる母に、紫音は穏やかに笑い返した。
彼女が幼いころに叔母が亡くなってから、母はずっとこうだった。
「……いいよ」
紫音の叔母、母の姉にあたる女性は一度この村を出て、そして帰って来たのだ。
――私たちの身代わりになるために。
刹那、紫音は胃の奥にひどく重いものを感じた。叔母の事を思い出すたびにそうなる。叔母の葬儀、あの棺の中に「残ったモノ」。
もう二度と見たくない筈なのに、その光景が彼女の頭に焼き付いて離れない。
きっと紫音の母にとってそれ以上の衝撃だったのだろう。
その日から彼女の目には紫音が映らなくなった。紫音を無視している訳ではない。
ただ、紫音を通して、亡くなった叔母を見ているのだ。それが、彼女の逃避であり、同時に贖罪なのだろう。
「あのね……。姉さんにお願いがあるの」
紫音の手を掴むと、母親はじっと紫音の目を見つめた。そしていつも通りの真剣な、それでいて縋るような表情で彼女に頭を下げる。
「あの子を、紫音をお願いします……。私が、私が召し役になったら、紫音を紫音の事を!!」
だんだんと声が大きくなってくる。もう、何度繰り返された分からない懇願。
彼女は紫音と顔を合わせるたびにこれを繰り返すのだ。
取り返しのつかない過ちを、それでも取り返そうとするかのように……。
叔母が死んだその日に、彼女の母は壊れてしまった。
「大丈夫だよ……お母さん」
こみあげるものを何とか堪えながら、紫音はあいまいに微笑んだ。それ以外にどんな顔をしたら良いか、彼女には分からなかった。
母が縋りついて願うのはいつも「紫音」の事だった。それを喜ぶべきなのだろうか。それとも悲しむべきか……。
最近の彼女には、もうわからなくなってきていた。
どんな言葉を返しても、彼女の母の反応が変わるわけでは無い。
「良いんだよ。お母さん」
それでも、紫音は母を抱きしめ、許しの言葉と共にその背を撫でる。
母は急に俯くとすすり泣き始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
こぼれ落ちる涙が布団に薄くシミを作る。
こうして彼女は詫び続けるのだ。何度も何度も何度も何度も。
「お母さん……お母さんはもう十分頑張ったから…………だから、もう良いの」
届かないと分かってはいても、紫音は許しの言葉を口にする。
「私が悪いの。全部私のせい。姉さん、ごめんなさい。私が、私が、私が……」
ぶつぶつと繰り返して、母はまた窓の外を虚ろに見つめた。繰り返す一連の日々はもはや儀式のようなものだった。
最初から最後までその儀式の中に彼女はいないのだ。
皮肉な話だ。私の身代わりになって亡くなった叔母の身代わりを母を相手に演じている。
もう、いっそ何もかも降り捨てて、この村から逃げてしまおうか? 叔母が身代わりになる原因を作った「あの人』のように……。
時折、そんな風に考えてしまう自分が、嫌で仕方がない。
こうなったのは全部あの女のせいだと言うのに、紫音が彼女を憎み切れないのはそのせいだった。
きっと彼女はこうして擦り切れて、この村から消えたのだろう。
そんな事を考えていたら、母は泣き疲れたらしく、芋虫のように布団に潜り込むと、スースーと寝息を立てていた
その顔を見て、頬を指でなでる。
ツウっと目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
紫音は、その涙を丁寧に拭う。
「――またくるから」
そう言って、彼女は母親の部屋を後にした。
ぱたんと障子戸の格子が音を立てるのを聞いて、紫音は小さく息を吐いた。
部屋の中からは、寝言なのか「ごめんなさい」「ごめんなさい」と詫びる声が聞こえる。
紫音は呆然と廊下を歩き始めた。頭の中がグチャグチャで何も考えられない。
「……大丈夫か?」
背中から聞こえたのは穏やかな声。振り返ると立っていたのは神主姿の男。
「お父さん……」
「どうやらいつも通りのようだな」
父は控えめな溜息をついた。
「お前の母は村のためにお役目を果たした……」
父は母がこうなった事に一番胸を痛めていた。それでも紫音にはそんな様子をおくびにも出さずに、常に落ち着いた父親として振舞っていた。
父と母。形は違えど、この村に囚われた人々。
――誰もかれもが私に罰してもらいたがる。
紫音は膝に置いたままの手をぎゅっと握った。
「すまんな」
そうつぶやく声は誰に対してのモノなのだろう。
「嫁役」として村の男たちの慰み者になった母へのモノか。亡くなった紫音の叔母へのモノか。
――それとも、私自身のこれからについて?
紫音はその言葉を口には出せなかった。出しても父を傷つけるだけなのは分かっていた。
40前半とはいえ、年齢にしては若く見える顔立ちの筈なのに、それがむしろ初老の雰囲気すらある。
「――本当にいいのか?」
父が紫音に向かってふたたび尋ねる。
「うん。お母さんはもう十分辛い思いをしたから」
紫音はきっぱりと応えた。
「母さんは……きっと望まないぞ」
――私だけが苦しいわけじゃない。
苦し気な顔をする父親を前にして、どこか暗い喜びを覚えている自分が、紫音は心の底から嫌いだった。
「分かってる。私がそうしたいの」
父親の眉間にまた一筋、苦悩の皴が刻まれる。
――健気に振舞えば振舞うほど、この人たちは罪悪感で自分を傷つける。
「……もっと、私たちを恨んでも良いんだぞ」
苦痛に満ちた父親の声に、紫音はふっと口元を緩めた。
それが出来るならどれほど良かったろう。
「父」も村の人々も紫音や母に優しかった。なにくれとなく親切にしてくれた。大切に育てられてきた。まるで「実の娘」のように……。
真実、彼らは「私の父かもしれない男達」だった。
それでも、飴をもらった事がある。肩車で村を散歩した事がある。
風邪を引いた時に大きな西瓜を持ってきてくれた人もいた。
村の秘密を知って、それらすべてが「苦しみ」になった。
憎むなんて、出来たらどれほど楽だったか。
何度、そう考えた事だろう。
もっと村の人々が自分勝手だったら。もっと遠巻きにしたり、紫音や母を欲望のはけ口のように使うような連中なら……。
――それなら憎むことも恨むこともできたのに……。
それが紫音の正直な本音だった。
「それで何か変わるの?」
思っている以上に無感情な声で返答をしてしまって、彼女はまた後悔した。
――こんな言い方をしたいわけじゃない。
それでも他にどう話せばよかったのか、彼女には分からなかった。
「……いいや」
そう言って、父は深くため息をついた。黙って離れのある方を見つめている。
苦悩、後悔、罪悪感、様々なものをこの人はいつも押し殺している。
「お父さんは――きちんと『お父さん』をしてくれたよ……」
「……そうか」
彼女の言葉に父親は複雑そうに顔を歪めた。
――この村に住んでいる以上、なにも背負っていない人なんて居ないのに。
そう考えて彼女の脳裏に最近になって知り合った顔が浮かんだ。
この村に住んでいて、唯一なにも背負っていないであろう人物。
それがどこか羨ましくて、妬ましくて、でも、自分が背負っているものを背負わせたいとも思えなくて……。
――思えば彼もかなり変わった人だ。
彼も自分以外の都合でこの村に縛られている人だ。それでも、あの人はこの村を出られる。
やはり羨ましい。私もいつか自由になりたいと、そんな夢を見てしまう。
思えばバカバカしい話だ。この村しか知らない私が、外に出て何をすると言うのだ。
刀伊原フツオ、外からきた男の子、外を知っている男の子。
―――ねえ、あなたは外で、何を見てきたの?
この村に来て一週間ほど、学校までの道も少しだけ見慣れてきた。
それでも同じ道を何度も通ったはずなのに、景色は少しずつ変わっていた。
神社の境内には新しい縄が張られ、見覚えのない提灯が軒先に吊るされている。
バスが学校前の停留所に着くと、鶴内ヒビキは弾むようにステップを降りた。
流れるようにすれ違う同級生たちにあいさつをしながら、彼女は教室へと進む。
僕も一応その後を追いかける。
教室に入った瞬間、彼女はすぐにクラスメイトに取り囲まれた。
バスを降りる時まで僕の隣にいた彼女。今、彼女はクラスメイトたちの輪の中心に収まり、僕に見せたものと同じ明るい笑い声とオーバーなリアクションで場を盛り上げている。
笑っているはずなのに、ほんの一瞬だけ、その表情が遅れた気がした。
――すごい陽のモノというか、逆立ちしてもマネできる気がしないな
僕は彼女の光景を少し離れたところから眺めた。一瞬「あの子を取られた」ような寂しさが胸をよぎる。
――まあ、こうなるよな。
そもそも、彼女との付き合いは彼らの方が長いのだから、お門違いな感想である事は確かだ。
あの光の中に近づけないのは影のモノの悲しさか……。
とはいえ、出会って1日の人間にあれほど好奇心を見せるような人好きする女の子だ。むしろ納得するまである。
だからこそ、あの日の帰り道の時の顔が、妙に頭から離れない。
「?」
なんとなく視線を感じて、そちらに眼をやると、鶴内ヒビキと話しているクラスメイトが彼女の肩越しにこちらをチラチラと伺っている。
その視線は悪意のあるものではない。どちらかと言うと「あ、あの人って別に怪しいひとじゃないのね」と言う類の奴だ。多分、ヒビキさんがそれとなく溶け込めるように何か言ってくれているのだろう。
人だかりの中心にいる彼女とふと目があう。
視線に気づいた彼女が、こちらに向かってそっと笑みを浮かべて片目を瞑った。
――これが陽キャの破壊力……。
心臓がひっくり返るかと思った。ぎこちなく笑い返すのが精一杯だった。
「あ、紫音」
鶴内ヒビキの声に促されて、彼女の視線の先に眼をやる。
「げっ」
思わず口から本音がこぼれた。振り返りざまに目があったのは、胡乱気な眼でこちらを睨む字久良 紫音である。
彼女の姿を確認したクラスメイト達が一瞬、静まり返る。
――な、なんか朝から機嫌悪そうだな……。
「おはよ~~」
クラスの奇妙な緊張を意に介さず、鶴内ヒビキは太平楽に教室の入り口に向かって手を振る。
「おはよう。今日も随分早く出たのね」
字久良紫音が静かに微笑みを返すと、一瞬だけこちらを睨む。
クラスメイト達は苦笑しながら、口々に挨拶の言葉を口にした。何人かは同情を含んだ眼差しでこちらを見ているモノもいる。
何というか奇妙な光景だった。字久良紫音に追従して、僕を文字通り村八分にする訳でもない。
字久良 紫音はクラスでも一目置かれている事は間違いない。であるにもかかわらず、なんとなく遠巻きにされているような雰囲気があるのだ。
字久良紫音は自分の席にカバンを置くと、鶴内ヒビキの作る人の輪の中に入っていく。
周りの生徒達には、なんとなく遠慮のようなものがありつつも、基本的には歓迎しているように見えた。
彼女の事を見ていると、唐突に目があった。
急いで目をそらす。
彼女は気分を害した風もなく、僕の事を無視した。
「僕が何をしたって言うんだよ……」
基本的に彼女は僕にはこんな感じなのだ。
――HR始まるまで、少し寝るか。
実際、この村に来てからよく眠れなかった。まどろみの中で聞こえてくる生徒たちの会話は互いに親密ではあるが、その会話の内容は村の祭りやら、地元の時事に関するものが多く、正直言ってよくわからない。
乱雑にあふれる言葉の中に不安そうな囁きが混じる。
「あの……今年、なんだよね」
「…………ええ、そうよ」
少しだけ頭を上げ、字久良紫音の方を横目出る。
その寂しげな笑みが、やけに印象的に写った。
「――であるから、元寇以前の外国勢力による侵入を刀伊の入寇と言い。時の幕府はこれを警戒して、刀伊祓いと言う組織を全国に置いた。この村の二枝床山が属する御隠山地付近の山岳信仰は、その時代から続く由緒あるものであるとされ、この村の神社も元を正せばそこから分祀したものだと――」
教師の単調な声が教室の中に響く。秋口に差し掛かる筈なのに妙に蒸し暑い。
それもあってか、正直ものすごく眠い。
教師の単調な声が、湿った空気の中に溶けていく。 フツオは、ぼんやりとした意識の中で、教科書の「刀伊」という文字をなぞった。自分の名字と同じ、二文字。それが溶けるように薄れてまどろみの中に誘われていく。
そんなうすぼんやりした空気を破ったのは、椅子の倒れるけたたましい音だった。
教室の真ん中あたりに座っていた女生徒がぼんやりとした表情で立っていた。
「――お山に行かなくちゃ」
まるで何かを思い出したように彼女は繰り返した。
「お山に行かなくちゃ」
教室は一瞬にして静まり返っていた。
「……おい、授業中だぞ」
教師が立ち上がった女生徒に注意する。だが、その声は何と言うか妙に緊張した響がある。
「お山に行かなくちゃ」
女生徒はまるで教師の声など聞こえていないかのように繰り返す。
――なんだ?
「……座りなさい」
先ほどまでの単調な授業とは裏腹に、妙に緊張した声で教師が諫める。
反抗的な生徒に対しての叱責と言う感じではない。
むしろ、何かどうしても認め難い現象を前にしたかのような……。
「授業中だ。座りなさい」
どこか懇願するような調子で教師が繰り返す。
「でも先生。私、お山に行かなきゃ……」
対する女生徒の方は、当惑しているようにすら見える。反抗して挑発しているような感じではない。
むしろ、何故止められているのか本気で分かっていないような反応だ。
周りの生徒たちも何故か、それを傍観している。異常な事態に戸惑っている感じではない。どちらかと言うと、どうにかしたくても出来ない事を知っているような……。
途方に暮れた教師が、なにか縋るような眼で誰かの方を見る。
視線の先にいたのは字久良紫音。彼女は小さな溜息と共に立ち上がった。
「先生……私が」
「字久良。すまんが頼む」
フラフラと出口のほうへ向かう女生徒を字久良 紫音がゆっくり抱きしめるようにして、彼女を止めた。
「字久良さん。私、お山に行かなくちゃ」
どこか焦点の定まらぬ目でその女生徒が繰り返す。
「《《お祭りはまだ先よ》》」
字久良紫音が聞いたこともないほど穏やかな声で少女に語り掛けた。
「――それに、《《まだ貴方の番じゃないわ》》」
そう彼女が呟くと、女生徒はコクリとうなずいた。
「保健室……つれてきますね」
字久良紫音は教師の方を一瞥すると教師が黙ってうなずいた。彼女は女生徒に寄り添って教室を後にした。
「お祭り」「まだ貴方の番じゃない」、不可思議な言い回しが妙に不穏に聞こえる。
「それじゃあ、授業を続けるぞ……」
そして、何事もなかったかのように授業が再開された。先ほどの調子でしゃべりだす教師の声とノートにペンを走らせる音が、今あったことを必死で無かったことにしようとしてるようにすら聞こえる。
こんなことが起きれば普通はもっと訝しんだり、なにが起きたのか、と囁きあうものではないだろうか。
誰しもが見てはいけないものから必死で目を背けようとしているように見える。
そんな教室の風景を、唯一人、冷ややかな表情で見ている人がいた。
鶴内ヒビキ。朝の人好きする笑みはかけらもなく、その眼に満ちる冷たい光。
――やはり昨日の表情は勘違いじゃなかった。
その理由は決して知るべきではない事のような気がする。
同時に、何かとらえようもないものに流されつつあるような気がした。




