第二話 新しい朝
小さい頃から変なものが見えた。
それは恐ろしいものだった。
何故そんなものが見えるのか、と尋ねたら。
そういう家なのだと教わった。
生まれ落ちたときから役目があった。
そのためにいろんな事を習った。
それは「みんな」のために大事なことで…。
それは「みんな」が出来る事ではなくて…。
「いつかそこから開放されたい」と、ずっとずっと思ってきた。
放課後の誰もいない教室。夕日の差し込む窓の外を見つめる字久良 紫音の横顔は、彫刻のように冷たく、静かだった。校庭から聞こえる部活動の掛け声も、吹き抜ける風の音も、彼女の耳には届いていないようだ。彼女はただ、遠く、落ちかけた夕焼けが、山の向こうへと消えていくのをただ黙って見つめていた。
「……きっと、あなたも来たくなかったんだよね」
午前中に冷たい言葉をぶつけた転校生の事を思い出す。彼はあいまいな笑顔を浮かべていたが、それが処世術からのものと分からないほど、彼女は愚かでも無神経でもない。
あんな風に言うべきじゃなかったのかもしれない。……でも、そうするしかなかった。
それでも、自分がそれを受け入れていることが、何より嫌になる。
「ごめんなさい……。私達は、きっと、あなたに傷を残す事しかできないから……」
逃げることは許されない。
消え入るような囁きが、夕涼みの中に溶けていく。
その視線の先で、山が沈みゆく夕日をゆっくりと飲み下していた。
山から吹き下ろす風のせいか、窓がときおりカタカタと鳴る。この辺りは街灯もまばらであるせいか、窓から見える山が黒い大きな影のように見える。
村に来て数日たつが、やはり気味が悪い。
――気味が悪いと言えば、あのわらべ歌。まだあんなのが残ってるのか……。
あの時、鶴内ヒビキが見せた反応。どう見ても「普通」ではなかった。
――関わらなければ良い。君子危うきになんとやらだ。
ベッドの下からヘッドホンを取り出して耳に掛ける。CDプレイヤーの電源を入れれば、ヘッドホンからは大音量のスラッシュメタルが流れ出す。その音の奔流が、気味の悪いわらべ歌も、鶴内ヒビキの豹変も、字久良紫音の怜悧な顔も、すべてを押し流していく。
ゲームかなんかの音楽だったらしいが、この分かりやすい重厚感と疾走感が、嫌な事を忘れさせてくれる。
フツオはそのまま布団に寝転がって借家の古びた天井を見上げた。。
見慣れない天井、これを見慣れるようになるまでここに居るのか。それとも今回はそんなに長居しないのだろうか。
CDプレイヤーから流れる音楽を別にすれば、家の中からは物音ひとつしない。
当然だ。この家には僕しかいないのだから。名目上は一緒に住んでいる事になっている父親はこんな時間になっても帰ってくる事はない。これまでずっとそうだった。
典型的な出張族の父。母は何年も前にすでに亡くなっている。顔だって写真でしか覚えていない。
学校で色々あったからだろうか。布団に横たわったらドッと疲れが伸し掛かってくる。それなのに頭の中は妙に騒がしい。
曲が激しいパートから、突如としてベースとドラムだけが残るブレイクダウンに差し掛かる。音響的な隙間が生まれた瞬間、僕の逃避は破られる。
「――……もし」
ただ一言、風の鳴るような、あるいは枯れ葉が擦れるような音が響いた。
だが、その一音はフツオの鼓膜に届いた瞬間、忌まわしい「声」へと変貌する。
(――……ねえ)
反射的にヘッドホンの音量を最大まで上げる。だが、声は消えない。
(――……ねえ)
それどころか、音楽の音量が増してもその「声」の存在感は確かに残っている。
(――……といばら? 変わった名前だね?)
(――……ふふ、面白いね。仲よくしよう)
一を聴けば、十の呪いが溢れ出す。耳を塞いでも無駄だと知っている。それは外からの音ではなく、僕の脳が勝手に引きずり出している毒なのだ。あるいはあのわらべ歌の薄気味悪さに当てられたか。
(――……ねえ)
――うるさい
(――……ねえ、といばらくん)
――やめてくれ
(――……どうして私を騙したの?)
(――……ウソツキ)
ヘッドホンを乱暴に引き剥がす。ふと気づけば、窓の隙間が薄っすらと白み始めていた。 完全な朝にはまだ遠い、濃紺と灰色が混じり合う時間。だが、夜の底に響いていたあの声は、確かに消えていた。 代わりに聞こえてきたのは、湿った土の匂いを運ぶ、静かな風の音だけだ。
「こんなところまで来たって、全部忘れられる訳じゃないのに……」
風の音が、どこか言葉のように聞こえた気がした。
ジリリリリ、突然、階下から鳴り響いた音に、反射的にビクリとする。時代錯誤な黒電話の音。
壁の所々に黒ずみのある和室の端に乱雑に積まれた段ボール箱。部屋の片隅にはポツンとスーツケースが置かれている。
荷ほどきすらまばらなその部屋で、古びた黒電話が鳴り続けていた。
刀伊原フツオは、溜息を一つつくと、電話の受話器を取った。
「――ああ、もしもし。フツオか?」
電話の受話器を持ち上げた瞬間に、太平楽な声が流れてくる。聞きなれた大人の声。
思わずほっと息が漏れる。
こんな日の出もギリギリな程の非常識な時間に電話してくるような人間は一人しかいない。
それが妙に頼もしく感じてしまうのがちょっと悔しい。
「……もしもし、フツオだけど」
「おうおう、フツオか? すまんな、朝早くに」
口では詫びてはいるが、わが父上様が電話をかけてくるのは、たいていこんな時間だ。
外はまだ少し暗い。それもそのはず、今は午前5時。太陽が昇り始めた時間だ。
こんな時間にかけてくるな、と言いたくなるが、こちらも昼間は学校に行っているし、あちらは仕事で夜勤である。どれだけ忙しくても2,3日に一度は必ず電話をよこすのは一応気にかけている方なのだろう。
「どうだ、村には慣れたか?」
「そんなに早く慣れたら、苦労しないよ」
つっけんどんに返しても、電話口の向こうの父さんは気を悪くした様子もない。
まあ、世間的に考えれば自分の仕事に子供を散々連れまわしておきながら、自分はほとんど仮の住まいにすら帰ってこれない始末だ。そうした負い目も多少はあるのかもしれないが、ぶっちゃけ生来おおらかと言うか大雑把な性格なだけだと思う……。
「まあそりゃそうか。慣れるのは引っ越しくらいだよな」
そう言って、勝手に笑い出す。
相変わらずの太平楽な反応に、深くため息をつく。
そもそもこんなに家に寄り付かないなら単身赴任すれば良かったのでは? と思わないでもない。
別に父親が嫌いと言うわけではないのだが、幼いころから父親の事情であちらこちらを点々としているのだ。おかげでまともな友達もできやしない。ましてや彼女などというものは空想上の生き物である。
だから、今回こそ可愛い彼女を! とはいかなくてもせめて「お友達から始まる関係」をつくりたい。
そんな夢を見ずにはいられないのだ。
「それはそうと友達はできたか?」
「うぇあ!?」
まるで心を読んでいるかのような父親の言葉に、思わず妙な声がでる。
「ま、まあそれなりに?」
字久良紫音は友達とは言えないだろうが、鶴内ヒビキの事は友達と呼んでもいいはずである……多分。
「なんで疑問形なんだ? まあそこの村は美人が多いみたいだからな。がんばれよ」
あいも変わらず太平楽な答えが返ってきた。一体、何をがんばれと言うのか。そもそも冴えないのは父親譲りだと言う事を声を大にして言いたい。
もし、仮にだ。何というか「そういう関係」になれたとしても、すぐに引っ越しと言う事になるわけで…。
――てか、よく考えたら元凶のくせによくもまあいけしゃあしゃあと……。
正直に言えば、ちょっとイラッとする。
「そっちこそ仕事はどうなんだよ」
これ以上おちょくられるのもしゃくなので、強引に話題を変える。
「まあ、ぼちぼちといったところだな」
――いつ聞いても大体こんな回答なんだよな。
まあ詳しく説明されたところで、正直なところそこまで興味があるわけでもない。
むしろそれに振り回されて来た身として、嫌でも気になってしまうだけだ。
「心配しなくても、そんなにすぐに引っ越すほどじゃないぞ」
「いや別に心配なんてしてないけど……」
「うん? なんかその辺りはそろそろお祭りがあるみたいじゃないか?」
なんで知っているのだろうか。妙に耳ざといのはいつもの事だが、いくら何でも早すぎだろう。
「一緒に行く可愛い女の子でも見つかったのか?」
電話口からでもわかるにやついた声色。そのままガチャ切りしてやろうかとも思ったが、それはいくら何でもガキっぽい。
「まだ一日なんだから、いるわけないじゃん」
「……わからんぞ、私と母さんが出会ったのも、そんな感じで出張先でな。お互いに出会って一目見た瞬間に電流が……」
「そもそも、俺は出張じゃないから」
「ああ、そうだ」
延々と亡き母への惚気が続くのが分かり切っていたので、今度こそ受話器を置こうとした瞬間、父親が思い出したように言った。
「分かっているとは思うが――」
「――山には近づくな、だろ」
ふと窓から見える山を見る。朝焼けに真っ赤に染まるその景色は美しくもあるが、少しゾッとする。ふと昨日の音の事が頭をよぎる。
――引っ越したばっかりで疲れていたのかな。あんなのが聞こえるなんて。
「こういう所だから猿だのイノシシだのいるし、ちょっと藪に入ったつもりが気づいたら、遭難、なんて珍しくないからな」
「言われなくたって近づかないよ。なんなら熊とかでそうだし」
僕の答えの何がおかしいのか、電話口の父さんは大笑いした。
「違いない! なんなら幽霊だっているかもしれんぞ」
「やめろよ、縁起でもない」
幽霊、そんなものがいるのかは分からないが、なんにせよ薄気味悪い感じのする山である事は確かだ。
「まあ、君子危うきに近寄らず、と言う奴だ。――そうする事にしたんだろ?」
「――うん、まあ」
こうやって父さんは時々、ドキリとするようなことを言う。「君子危うきに力寄らず」前の場所で学んだ処世術。
「まあ、とにかく友達を作れ。綺麗な女の子の友達をな」
「そんな簡単に出来たら苦労しないよ」
呆れて受話器を置く。口を開けば大概こんな調子だ。まるで雲の様につかみどころがない。
小さな仏壇の上に置かれた母の遺影。
母が亡くなったのは、僕がずっと小さかったころだ。だから、記憶だっておぼろげで……。それでも優しかった記憶はある。そして、いつも少し寂し気にしていたように思う。
それは父親が仕事に追われて家にいない事が多いからだったのだろうか。
本当の所はよくわからない。父親がときおり語る母の話は、みな楽し気なものばかりだった。
少なくとも父が母を亡くしたことについて、弱音を吐いているところは見たことが無い。そういう意味では唯一尊敬できると言っていい部分だと思う。
そう言えば、字久良紫音を見た時になんとなく懐かしい気がしたのは、母に似ているような気がしたからだろうか……。
「お祭りねえ……」
昨日の話を思い出す。夜の空気、風の中に混じる祭囃子。境内の階段を昇れば浴衣を着たあの子が流れるような黒髪をかき上げて……。
――て、我ながら未練がましい。
一瞬、脳裏に浮かんだ少女の姿は、昨日仲良くなった鶴内ヒビキの姿ではなかった。あれだけ親切にしてもらったのに、冷たくあしらわれた相手の方を思い浮かべるか普通。
そこまで考えて溜息をつく。第一印象ってのはぬぐえないものだ。あそこまで理不尽な態度を取られたというのに、あまり嫌いにはなれない。
正直言って「余所者だ」と言う理由で袖にされるのには慣れっこだ、と言う所もある。
とはいえ、これ以上、距離を縮めるつもりはない。
どうせ、続かないのは分かっている。
関われば、きっとろくなことにならない。
「……学校に行くか」
それから朝食に歯磨き、お決まりのルーチンを消化して制服に袖を通す。
ヘッドホンを首にかけ、携帯プレイヤーの電源を入れる。
余計な事を考えないようにするには、これが一番いい。
だが、村を囲む山々を見ていると、どうしても言葉にできない圧迫感を感じる。
外は結構いい天気だ。刺激的なBGMとは真逆の風景がゆっくりと流れていく。バス停までの道。農道、田んぼ、風の中に混じる牛の声。典型的な田舎の道だ。
この数日で、同じ道を何度か歩いたはずなのに、
まだ自分のものになった気はしない。
村を囲む山々だけは見ていると妙に不安になる。見られているような、なんだか言葉にできない圧迫感のようなものを感じる。
「……さすがに考えすぎだよな」
そう独り言ちた瞬間、背中に何かの気配を感じた。
「おっはよぉぉーう! おきてますかぁぁーーっ!!!」
「ほげぇ!?」
背後から響いた、過剰なまでに元気な声。
振り返れば、そこには朝日を背負った鶴内ヒビキがいた。
ちょうど脳裏に思い描こうと思っていた張本人の声が聞こえたためか、思わずとんでもない声が出てしまった。
「あ、ああの、つ、つるうちヒビキさん!?」
何故か妙に近くにいるせいで、うっすらと甘い香りがする。おそらくは彼女のシャンプーのものだろうか。
橙がかった茶髪の髪が陽光を受けてキラキラと輝く。少し着崩した制服に収まるそれなりに豊かな胸元に視線をやらないように、フツオは理性を総動員した。
「朝からうるさくしてごめんね!」
そう言って笑う鶴内ヒビキの笑顔は相変わらず圧倒的で、一点の曇りもない・
「あ、その、おはようございます!」
しどろもどろになりながら、何とか挨拶をかえす。
「あはははははっ、私の事はヒビキでいいよ。フツオくんは朝から元気だね!」
「えっと、その、ありがとうございます」
自分でもテンパりすぎて何を言っているのか分からない。そんな僕の背中を鶴内さんの小さな手がバンバンと叩く。
――い、意外と力強いな。
まともな恋愛経験どころか、友達作りすら苦手だった僕にとって、それはあまりに眩しく、毒々しいほどに鮮やかだった。
「あれ、でもなんでここに……」
僕がそう尋ねようとすると、彼女はちょろっと舌を出して、もう一度笑った。
「えへへ、きちゃった」
。こういうのをあざといと言うのだろう。人間なんて現金なものだ。TVやなんかで見れば、こうした行動を疎ましく思ったりするものだが、目の前で可愛い女の子にやられようものなら、もうなんでもバッチ来いである。
「あ、いや、ぜんぜん大丈夫だから!!!」
「昨日、フツオくんの家、この辺だって聞いたから、ちょっと寄ってみたんだ。一緒に学校に行こう!!」」
――マジかよ。なんだこのアニメみたいな展開!?
出会ったばかりの女の子が迎えに来てくれる。そんな小説や漫画でも珍しくなりつつあるほどのベタな展開。
――それがまさか我が身に起ろうとは……夢なら覚めるな。
「あの、もしかして、わざわざ迎えに来てくれたの?」
「うんっ!!」
隣に立つ女の子が元気いっぱいに頷く。どうも夢では無いらしい。
――やっぱり可愛いんだよなあ。
「ちょろい」とは言うなかれ、致し方ないのだ。こちとら灰色とは言え思春期真っ盛りなのだ。恋に恋するのが「普通」ではなかろうか。
しょうもない事を考えていると、目の前の女の子がちょっと恥ずかしそうに頬をかく。
「もしかして、迷惑だった?」
直後に悪戯を見つかった子猫のような顔で、僕の事を下から覗き込む。
ほんの一瞬だけ、ヒビキの笑顔が揺れた気がした。
――だからいちいちあざといぞこのイキモノ。
自慢じゃないが、こちとら青春のせの字にも縁がないような生活を送ってきた。
「い、いや、ぜんぜん、ありがとうございます」
我ながら支離滅裂な言葉しか出てこない。
「そっか。良かった」
安心したように息をついて、彼女はまた太陽のような笑みを浮かべた。
最初に話しかけられた時と変わらない。明るくて元気な女の子。
からこそ、昨日の様子が妙に気になる。
――やっぱり勘違いだったのかな……。
顔のない地蔵、それを見たヒビキの豹変。まるでそんな事など最初からなかったかのような様子だ。
――知りたくない。
そんな言葉が何故か脳裏をよぎる。知ってしまえば、何かが致命的に変わってしまう。
なぜだかそんな予感がした。
「ほら、バス来てるよ」
優しく肩を叩く感触と、こちらを覗きこむ彼女の笑顔。鼻歌混じりにバスに乗り込んでいく彼女の後ろ姿を追いかけながら、僕は自分を観客席に置く。
バスの中の村人たちの視線。 それは単なる好奇心とはどこか違うような気がした。ひどく静かで、重い。余所者を、余所者として見送るような、逃げ場のない観察。
目が合うと、誰もがすぐに視線を逸らした。
「どしたの? 座りなよ?」
そんな中で自分の隣を指さす鶴内ヒビキの笑顔だけが、世界のすべてのように思えた。




