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Chapter.73

 床と上履きの底が擦れる音が廊下に響く。いつもなら先生に注意されるだろうけど、放課後だからかひと気がない。そのまま玄関まで駆けて、姿を隠すように下駄箱にもたれ、弾む息を鎮めた。

 滅多にしない全速力は、体育くらいでしか運動しない私の肺を痛めつける。

 深く呼吸を繰り返しながら、どこかで期待している足音を待つ。けれど聞こえるはずもなく、息が整ったところで何事もなかったように靴を履き替えた。そのまま学校を出て駅に向かう。

 チラホラすれ違う人が、私の顔を見て驚いたり隣の人とヒソヒソ話をしたり、見て見ぬふりをしてる。

 なぜかはすぐにわかる。


 私の顔が、涙でグシャグシャに濡れているから。


 ショックな出来事が重なりすぎて、なにがつらくて泣いているのかがわからない。

 嗚咽のせいで呼吸がうまくできなくて、頭がボゥっとしてる。

 このまま電車に乗りたくなくて、駅のトイレに入った。個室に入ってそのまま座る。バッグを抱えて身体を丸めたら、スカートにバタバタと涙が落ちた。

 もう、やめなきゃ……。

 近付きたいと思うこと、頑張ろうと思うこと……由上さんに、甘えること。

 誰かが不幸になるなら、私が我慢すればいい。

 そう決めたのに。


 カバンの中でスマホが鳴った。鼻をすすって、中を探る。

 取り出したスマホの画面には、メッセの通知。


sowa{いまどこ?〕


 胸が締め付けられて、新たに涙が湧いてくる。スマホを持った両手をおでこにつけて、泣く。

 心配かけたくない。でも迷惑もかけたくない。

 返事しなかったら、探してくれるかな――。

 そんなふうに甘えるのも、もうやめないといけない。


 自分を落ち着かせるために息を吸って、吐いて。そして、アプリを立ち上げた。


〔もうすぐ家です。}みーな

〔ご迷惑おかけしてすみません。}みーな


 きっとこれが、由上さんに送る最後のメッセだ。

 送信して、使い終わったスマホをカバンのポケットに入れて立ち上がる。

 洗面台で鏡を見て、少し笑う。泣き腫らしたひどい顔が、うまく笑えずにゆがんでる。

 ほんと、ブスだ。

 バッグの中身からウェットティッシュを出して、顔を軽く拭った。おねーちゃんに見られたら、女子度が低いとか言われそうだけど、なにもしないよりいい。

 メイクしてないと、こういうとき楽だな。メイクしてたらもっとグシャグシャで、拭いただけじゃどうにもならなかったかもしれない。

 少しマシな顔になったのを確認して、トイレを出てそのままホームへ向かう。

 乗る方向の電車は出たばかりで、少し待たなければならない。階段から一番遠いホームの端、地元駅に着いた時、便利な車両に乗れる位置まで歩いて立ち止まった。

 疲れた……。走ったからじゃなくて、多分、精神的に……。

 うつむいて、向かいのホームの下の空間を眺める。修繕に使うのか、なにかのコードや用具が収納されている。その前で雀が一羽、敷き詰められた石の上をちょこちょこ跳ねて移動しているのが可愛らしい。その考えとは裏腹に、表情はまるで動かない。

 ホームに【こんど】の電車が到着する案内が流れたのと同時に、バッグが微かに震えた。外側のポケットに入れたスマホの振動が伝わったらしい。ポケットの隙間から見える画面にはメッセの新着通知。


sowa{前〕


 文字を見て反射的になにも考えずに顔をあげると、向かいのホームにピンクが見えた。途端に血が巡る。

 予想していなかった人が目の前にいることと、嘘がバレてしまったことに身体が反応してる。

 遠くから電車の音が聞こえてくる。バッグの中のスマホが震えて着信を報せた。目の前で由上さんがスマホを耳に当ててる。でも…………。

 画面に表示されたふたつのアイコン。そのうちの赤いほうをタップして通話を拒否し、バッグにスマホを戻した。もう、連絡に応じる気がない、という意思表示。

 由上さんが目を丸くして、スマホをカーゴパンツのポケットに入れたのを見てから、私は視線を逸らした。

 私のいるホームに電車が迫る。さっきまでいた雀は、もういない。

「……っ! そこで! 待ってて!」

 由上さんは私に向かって叫んで、連絡通路にダッシュした。

 その姿に胸がギュッと苦しくなる。

 走り去る由上さんとは逆に進んで、電車がホームに入ってくる。私がいる先頭車両側に近付くにつれ、電車の速度は落ち、やがて停車した。

 この電車に乗るか……乗らないか……。いまがこの先の運命を変える岐路だとわかる。

 だから私は……

 電車がホームから徐々に遠ざかっていく。ホームには、息せき切って膝に手をつく由上さんの姿。

 私はそれを…………ドアが閉まった電車の中から見ていた。

 由上さんは苦痛な顔で私を見つめている。その視線が痛くて、お辞儀をして視界をふさいだ。

 電車がゆっくりと動き出す。

 もうこれで終わり。そしたら、これ以上誰も傷つかない。

 誰に対しても同じように接する優しい由上さんに、誰か特別な人ができてはいけない。できるのなら、それは自分がいい。きっとたくさんの人にそう思われてるから。そしてそれは、私では許されない。

 誰かの視線を受けるたびイヤってほどわかってたのに、それでも由上さんと交流できるのが嬉しくて、楽しくて、つい甘えてしまった。

 でももう、終わり。

 また出てきそうな涙をこらえて、顔をあげる。速度をあげた電車は予定通り次の駅に向かって進んでいて、もう車内から音ノ羽学園前駅のホームは見えない。

 由上さんは、あのままホームで立ち尽くしているのだろうか。それを確かめるすべももうない。

 置き所のない視線が捉えた窓の外。遠くの空に、真っ黒な雨雲が見えた。きっといま、あの雲の下の人たちは傘をさしている。雲はこれからも風に流されて、また違うどこかに雨を降らすのだろう。

 雨雲は自分が消えるまで、ずっとどこかに雨を降らし続けるんだ。

 近くに広がる青空とは対照的で、私と由上さんみたいだと思った。

 私が消えれば周囲は晴れる。私が泣いても、由上さんに笑顔が戻ればそれでいい。桜色の由上さんには、青い晴れやかな空が似合ってる。

 私の心の中は真っ黒な雲で覆われていて、冷たい雨が降り続いていた。

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