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Chapter.60

 朝起きて、顔を洗ったり歯を磨いたり、いつものように身支度を整える。

 昨日選んだ服を着てみて鏡で確認して、髪型も変えて少しおめかしして、くまのリングを装着した。ラッピングの仕上げにリボンをかけるような気分。

 いつもだったら似合ってるかなって不安になるけど、今日はなんだか自信が湧いてくる。

 ドキドキしながら駅に向かって、ドキドキしながら電車に乗って、ドキドキしながら受付を終えて、ドキドキしながら図書室へ行った。

 足音を立てないようにそっと歩いて、室内の奥を目指す。階段をのぼると、ロフトはまだ無人だった。

 由上さんはきっとこれから来るんだなと思うと、なんだか落ち着かない。もしかして急に予定が入ったとかないよね。そうなったら連絡くれるだろうし。あぁ、でも、いつかみたいにスマホを忘れてるかも……?

 なんだか色々気になって黙っていられなくなりそう。気持ちを落ち着かせるために棚から本を取り出した。

 少し難解な純文学で、読んでいるうちに集中して、ほかの事が気にならなくなる。

 エアコンが効いて快適な温度が保たれた室内で、テーブルに置いた厚いハードカバー本の表紙をめくる。

 本に光が当たらないように設計された窓から入る陽ざしが、特定の椅子に座っている人にだけそそぐ。

 選ばれし者――のような錯覚を得られるこの特等席で、図書室へ来るたびにちまちま読み進めている純文学は、美しい文章が身体に沁みるよう。借りたり買ったりすれば好きなときに読めるのだけど、この席でこの陽ざしを浴びて読むのが至福の時間だ。

 夏はちょっと暑いけどね。

 なんて思ったことは棚に上げて、一文一文を大事に読み進める。

 右手の薬指に心地よい重み。意識がいくのは、普段着けないアクセサリーに対してなのか、そのリングの送り主に対してなのか。

 慣れていないから粗雑に扱ってしまわないように、所作がゆっくりになる。いつもよりおしとやかな感じ? それが似合ってるかどうかはわからないけど。

 静かにページをめくり読み進めると、段々その作品の中に入っていく感覚が味わえる。それが気持ち良くて、いつもつい没頭してしまう。

 紙が擦れる音すら響きそうな静寂の中、本の中の主人公に乗り移った私の意識は、主人公と一緒に森の奥深くに潜り込んでいく。

 茂る草をわけ、伸びた木々の枝を避け、何者かが潜んでいる森の、薄暗い闇を割く。そこには――コトリ。小さな音に呼び戻されて、意識が現実へ浮かぶ。

 少し離れた机の端に、見慣れたパックドリンクが置かれている。

 その先に、細くてゴツゴツした手――由上さんだ。

 手の先を伝って顔をあげたら、由上さんの口が『ごめん』と動く。

 物語の世界と現実が一瞬ごっちゃになって、なにが起こったのかわからなかった。

 私が探していたのは、由上さんだっけ?

 ぼんやりとした意識で考えて、すぐに否定する。違う。それは本の中のことだ。

 由上さんはスマホを操作して、そっと画面を私に向けた。

【邪魔してごめん。それ、さしいれ】

「ぁ」

 声を出しそうになってハッとする。ここ、図書室だ。

 慌てて声をひっこめて、『ありがとうございます』と口を動かした。

【飲食禁止だっけ?】

 由上さんのスマホに表示された質問に、首肯(しゅこう)で返事をする。

 画面と指が触れる音がかすかに聞こえて、また画面がこちらに向いた。

【じゃあ、あとでどっかで飲もう】

『はい』

 口を動かして出した答えと一緒に、笑顔が出た。

 いまの笑顔、すごく自然。絶対自然。

 心の中でガッツポーズをしながら、着席する由上さんを見つめた。

 視線に気づいた由上さんが首をかしげる。その顔に【なに?】と言いたげな表情が見える。

 ハッとして、小さく首を横に振った。【なんでもないです。】

 危ない危ない。思わず見とれてしまった。だって今日の由上さんは、珍しく眼鏡をかけている。

 オーバル型の銀縁眼鏡に、少し色が抜けた桜色の髪が良く似合う。

 やっぱり、かっこいい。

 勉強の準備をする由上さんを見ながら思う。私はまだ、この人の隣にいていい人じゃない。

 いままでは勉強だけ頑張っていれば良かったけど、由上さんとの交流が増えるにつれてスキンケアとかファッションとか、自分の見た目に関しても頑張らなきゃって思うようになった。それなりにいまも頑張ってるし、一年前よりはマシになったと思うんだけど、それでもやっぱり足りなく感じる。

 将来の目標のために勉強したいし、でも由上さんの隣にいてもおかしくない女の子になりたいし。どっちもって贅沢かな。

 初音ちゃんみたいだったら、いまごろもっと素敵で可愛い女の子になれたかな。

 考えていたら文章がなにも頭に入らなくなってきた。

 ダメだ、せっかくの美しい文章がただの文字列に見えてしまう。

 小さく息を吐いて、そっと本を閉じた。

 表紙の箔押しされたタイトルに陽ざしが当たってキラキラ光る。

 どうしようかな。なにか別の本を……。

 立ち上がろうとして顔をあげたら、うつむいた顔をのぞきこむようにして由上さんがこちらを見ていた。

 心臓がドキリと反応する。

【休けいする?】

 差し出されたノートの端に書かれた由上さんの字。

【そうですね、少し、出てきます。】

【一緒に行く】

【いらしたばかりなのに、申し訳ないです。】

【いーのいーの 行こう】

 ノートを見せて、由上さんが机の上を片付け始めた。


* * *


「すみません。せっかくさしいれまでしていただいたのに」

「全然? 図書室、飲食禁止なのうっかり忘れてたから、ちょうど良かった」

 由上さんに着いていって、こないだ教えてもらった“秘密の場所”で紙パックにストローをさす。

 由上さんはコーヒー牛乳、私はイチゴミルク。校内にある自動販売機で売られているものだ。

「それで大丈夫だったよね?」

「はい、大好きです」

「だよね。なんかそんなこと聞いたことあったから」

「えっ、そうでしたっけ」

「うん。まぁ、記憶違いだったとしてもマズいもんじゃないから、いいかなって」

「はい。美味しいです」

「なら良かった」

 目線の先では数匹の猫ちゃんがひだまりでくつろいでいる。

 イチゴミルクはいつもと同じなのに特別に美味しく感じて、でもやっぱり申しわけなくてつい謝ってしまう。

「ほんと、すみません。勉強、はじめたばかりでしたよね」

「いや、ホントいいんだ。オレも集中できなくて……それ」由上さんが指さしたのは、私の手だった。「着けてくれてんなって気づいて」

「あ、はい。嬉しくて、さっそく」

「そう」

 そっけない言葉とは裏腹にその顔は嬉しそうに緩んでいて、それがとても嬉しくて、やっぱりもしかしてって勘違いしてしまう。


 口の中に広がる甘さとイチゴの香り。

 空から降り注ぐ暖かな光と時折頬を撫でるそよ風。

 少し先の目の前で幸せそうにくつろぐ猫ちゃんたち。

 そして、となりには、多分、大好き、な、ひと……。


 きっと私、いまのこと、一生忘れないだろうなって。そう思ったらすごく幸せで、少し泣きそうで、胸の奥が熱くなった。

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