十一話目
【黒鉄の奈落】の長い、長い階段を上り詰め、私たちが迷宮の出口であるギルド本部の正面玄関から外へと這い出した時、オラリオの街はちょうど、雲一つない快晴の正午を迎えていた。
天から降り注ぐ白金の陽光が、私の夜空を溶かしたような銀髪に反射して、キラキラと眩い光の粒を散らす。
「――っ……あ、あたたかい……」
私のすぐ隣で、私の漆黒のローブの袖をきつく握りしめていた少女――ノアが、細い感嘆の声を漏らした。
彼女は、自身の深紅の瞳を眩しそうに細めながら、生まれて初めて見る「本物の太陽」の光を全身に浴びていた。私の『隠密魔導・極』によって、頭の漆黒の角も、背中の悪魔の翼も完全に世界から隠蔽されている。今の彼女は、どこからどう見ても、少し耳が尖っているだけの、驚くほど可憐で、儚げな黒髪の美少女だった。
「ふふ、眩しい? ノア」
私はフードの奥から、鈴を転がすような美声で優しく語りかけた。
自分の声でありながら、どこまでも上品な女の子の響き。ノアとの『聖魔の共鳴』を果たした現在の私は、精神の奥底にある男としてのライトの記憶を抱えつつも、肉体的にも感情的にも、完全に『至高の美少女アイリス』としての振る舞いを、無意識のうちに完璧に行えるようになっていた。
「はい……アイリスお姉様。監獄の、あの冷たい魔力の光とは、全然違います……。お姉様の手と同じくらい、とてもポカポカして、気持ちいいです……」
ノアは嬉しそうに深紅の瞳を輝かせ、私の白い手に、自身の細い指を絡ませてきた。ぎゅっと握り返してくる小さな手の感触。
その可憐な仕草に、私の中の女(聖女)としての領域が、猛烈な愛おしさと庇護欲に胸をキュンと締め付けられる。
(……可愛い。本当に、私が一生守って甘やかしてあげなきゃ)
同時に、脳内の一部に残る男としてのライトが、「おいおい、完全にメロメロじゃねえか。っていうか、女の子同士の手繋ぎデートって、冷静に考えるとこれ、めちゃくちゃご褒美シチュエーションなのでは?」と、鼻血を堪えるようにしてツッコミを入れている。
混ざり合う二つの心を、私は優雅な微笑みの下に隠し、ノアの手を引いて歩き出した。
向かう先は、オラリオの中心に広がる中央広場と、そこから伸びる高級商業通りだ。
ノアの身に纏っている漆黒のドレスは、数百年の時を経てボロボロに引き裂かれており、白い肌がところどころ露出してしまっている。私のローブで隠してはいるものの、これからの冒険者生活を送るためには、まず彼女に上等な服や装備を買い揃えてあげるのが先決だった。
ギルド長ハンスから『烈火の牙』の全滅に伴う報酬や、あいつらが溜め込んでいた不正資産を根こそぎ私の口座に振り込ませたため、今の私には、莫大な金貨がある。
「ノア、今日は何でも好きなものを買ってあげるわ。服でも、美味しい食べ物でも、あなたが欲しいと思ったものは、すべて私の力で手に入れてあげる」
「お姉様……! 私、お姉様のお洋服とお揃いのものが、着てみたいです……!」
「まぁ、お揃い? ふふ、いいわよ。最高に可愛いやつを選びましょうね」
私たちはクスクスと笑い合いながら、色鮮やかな露店や豪奢な衣料品店が建ち並ぶ、賑やかな大通りへと足を踏み入れた。
その銀髪の超絶美少女(私)と、黒髪の可憐な美少女が手を繋いで歩く姿は、大通りを行き交う冒険者や市民たちの視線を一瞬で釘付けにし、街中に静かな、しかし確実な「羨望と驚嘆のざわめき」を広げていくのだった。
「おい、見ろよ……なんだあの美少女たちは」
「銀髪のほう、昨日Cランクに特例飛び級したっていう、あの『暗殺聖女』アイリスじゃないか?」
「隣の黒髪の子も、めちゃくちゃ可愛いぞ……。どこの貴族の令嬢だ?」
商業通りのあちこちから、下卑た値踏みの視線ではなく、純粋な驚嘆の混じった囁き声が聞こえてくる。
私は『隠密魔導・極』によって、自身の跳ね上がった真のステータスを完全に隠蔽し、周囲には大人しいCランク冒険者として見せかけていた。だからこそ、周囲の男たちも、恐怖するのではなく「声をかけてお近づきになりたい」という不届きな色目を向けてくるのだ。
(ふん、馬鹿どもが。私の中身が、お前たちが散々見下していた不遇斥候ライトだとも知らずに、よくそんな顔ができるわね)
心の中で冷笑しながら、私は街で一番上等な防具・衣料を取り扱う高級ブティック『白銀の翼亭』の扉を押し開けた。
店内には、厳選されたシルクやミスリル糸で織られた、機能性と美性を兼ね備えた最高級の衣服が並んでいる。私はノアをフィッティングルームへと促し、店員に命じて、彼女に似合いそうな漆黒と純白のデザインの軽装インナーと、動きやすいアサシンローブの数々を持ってこさせた。
しばらくして、カーテンが開く。
「……お姉様、どう、でしょうか……?」
そこから現れたノアの姿に、私は思わず小さく息を呑んだ。
黒を基調とした、ボディラインにぴったりとフィットする軽装のレザーインナー。その上から、私の『深淵の聖衣』と一対になるような、白い刺繍が施された漆黒のショートフードローブを羽織っている。ボトムスからは、しなやかで白い太ももが大胆に覗いており、彼女の持つ魔族としての妖艶さと、少女としての儚げな可憐さが完璧に融合していた。
「……完璧。最高に可愛いわ、ノア」
「本当ですか……!? 嬉しい……お姉様とお揃い……!」
ノアが嬉しそうに自身の見えない翼をパタパタと動かして、私の胸元に飛び込んできた。その柔らかい感触に、私は再び顔を赤くしながらも、彼女の頭を優しく撫でてあげた。
「店員さん、これと、あとここに並んでいる日常服をすべて、私の口座から一括で落としておいてちょうだい」
「は、はいっ! 毎度ありがとうございます、アイリス様!」
金貨百枚を超える買い物を、眉一つ動かさずに支払う私。かつて銅貨数枚を握りしめてポーションを買うかどうか悩んでいたライトの頃からは、想像もつかない成り上がりぶりだ。
しかし、その最高に満たされたデートの空間に、無粋極まりない、傲慢な足音が近づいてきた。
カランカラン、と店のドアベルが乱暴に鳴り響く。
「おいおい、店主! 街一番の高級店だってから覗いてみれば、妙な小娘たちが売り場を占領してやがるじゃねえか。……あ?」
入ってきたのは、全身に豪奢な金色の鎧を纏い、腰に宝石が散りばめられた長剣を下げた、見るからに傲慢そうな男だった。その胸元に輝くのは、この街でほんの数十人しか持っていない、Bランク上位の絶対的な実力者を示す【金位】のギルドプレート。
男の後ろには、彼を持ち上げるような取り巻きの冒険者たちが数人、下卑た笑みを浮かべて従っていた。
「がはは、さすがレオン様だ! FランクやCランクの雑魚が通う店じゃありませんよ、ここは!」
レオンと呼ばれた金鎧の男は、店内にいる私とノアの姿を視界に捉えた瞬間、その下品な目を卑しくぎらつかせた。
「……ほう。これはこれは、驚いたな。ただの田舎娘かと思えば、とんでもねえ上珠じゃねえか。おい、そこの銀髪のネーちゃん。お前、昨日噂になってた『飛び級のアイリス』だな? Bランクのこの俺、レオン様が直々に声をかけてやってんだ。その小汚いガキを連れて、今夜、俺の宿舎で美味い酒でも飲まねえかい?」
レオンは私に向かって、拒否を許さないといった傲慢な笑みを浮かべ、その分厚い手を私の肩へと伸ばしてきた。
レオンの手が、私の『深淵の聖衣』に触れる、その寸前。
「――お姉様に、触るな。人間のクズが」
私の後ろから、地獄の底から響くような、冷徹極まりないノアの声が響いた。
ノアの深紅の瞳が、一瞬だけ本来の魔王の血脈としての凶暴な輝きを放ち、彼女の周囲の空気が、物理的な重圧となってピキピキと凍りついた。
「あ、……ああん!? なんだあのガキ、俺に魔力を……!」
レオンが不快そうに顔を歪め、今度はノアに向けて長剣の柄に手をかけようとした。
(……やれやれ。本当に、この街の『高ランク』の連中は、どいつもこいつも脳みそまで筋肉でできているのかしら)
私の中のライトとしての意識が、呆れたようにため息を吐く。ガルガといい、このレオンといい、自分の実力に驕り、目の前の相手の『本性』を見抜けない愚者ばかりだ。
そして、私の中のアイリスとしての『聖女』の意識が、大切な私の従者ノアに武器を向けようとしたこの男に対して、絶対的な、冷酷な『処刑の意思』を決定した。
「ノア、下がっていなさい。こんな有象無象、あなたの手を汚すまでもありませんわ」
私が静かに声をかけると、ノアは「はい、お姉様」と一瞬で大人しい子猫のようになり、私の後ろへと一歩下がった。
「なんだと? 小娘、Bランクのこの俺を、有象無象だと――」
レオンが激昂し、長剣を引き抜こうとした、その瞬間だった。
私は、自身の『隠密魔導・極』の隠蔽を、ほんのコンマ一秒の間だけ、完全に解除した。
ドォォォォォォン!!!
言葉にできないほどの、圧倒的な、次元の違う『暴力的な魔力』の質量が、ブティックの空間全体を爆発的に威圧した。
壁の結晶鏡が一斉にピキピキとひび割れ、店内の照明の魔導具が激しく明滅する。
「ひっ、……あ、……え……!?」
レオンは、長剣を半分引き抜いた体勢のまま、完全に硬直した。
彼の全身の毛穴から、尋常ではない量の冷汗が噴き出す。Bランクの上位戦士としての彼の『本能』が、目の前にいる銀髪の美少女が、自分など一瞬で塵にできる「天災(神位)」そのものであることを理解し、猛烈な恐怖のシグナルを脳内に乱打していた。
そして、彼がその恐怖の理由を理解するよりも早く。
私は、地面を蹴った。
神速の領域の足取りは、レオンたちの動体視力を完全に置き去りにした。
シュパッ、と無音の風が店内に吹き抜ける。
「が、はっ……!?」
次の瞬間、私はすでにレオンの背後へと回り込んでいた。
私の右手には、いつの間にか腰から抜き放たれたミスリル製の短剣『ミゼリコルディア』が逆手に握られており、その白く明滅する刃の先端は、レオンの喉元の皮膚が触れる寸前の位置に、寸分の狂いもなくピタリと突き立てられていた。
さらに、私の十指から伸びた目に見えない魔力糸――進化を遂げた『操糸の聖痕』が、レオンの後ろにいた取り巻きの冒険者3人の首元へと、すでに完璧に巻き付いていた。私が指先をほんの1ミリ引くだけで、彼らの首は一瞬にして床へと転がることになる。
「な、……いつの間に……っ!?」
レオンは、自分の喉元に触れる冷たい死の感触に、声を震わせ、ガタガタと両膝を鳴らした。引き抜こうとしていた大剣が、カランと力なく床に落ちる。
「レオン様、でしたかしら。……冒険者のランクというのは、時として、本当の実力を表さない不完全なものですのよ? ……私を今夜、お前の宿舎に招待したいと言いましたわね?」
私はレオンの背中に、自身の豊かな胸の膨らみを微かに押し付けるようにして、耳元へ冷たい吐息と共に囁いた。ライトだった頃の低いトーンを、あえて妖艶に混ぜ合わせながら。
「もし、その喉元の皮を切り裂いて、全身の血をこの店内にぶちまけられたいのでしたら……今すぐ、もう一歩、私に向かって足を踏み出してみなさい。……お望み通り、今すぐ『地獄』へ招待して差し上げますわ」
「ひ、……ひえぇぇぇ……っ! も、申し訳ありません、申し訳ありませんでしたぁぁ!!」
レオンは完全に精神をへし折られ、涙を流しながらその場に両膝をつき、床に頭を何度も叩きつけて命乞いを始めた。後ろの取り巻きたちも、首に巻き付く見えない死の糸の恐怖に、失禁せんばかりに顔を真っ白にしてガタガタと震えている。
「ふん、興が冷めたわ。……ノア、行きましょう。ここは少し、空気の質が悪くなってしまったから」
私は短剣を鞘へと収め、指先の糸を静かに解除した。
再び『隠密魔導・極』を何食わぬ顔で展開し、周囲にはただの大人しいCランクの美少女へとステータスを偽装し直す。
「はい、アイリスお姉様♪」
ノアは嬉しそうに私の手を再び握りしめ、私たちは床に這いつくばるBランク冒険者たちをゴミのように踏み越えて、ブティックを後にした。
街の荒くれ者どもが、どれだけ実力を誇ろうとも、今の私の前にはただの羽虫に過ぎない。
ギルド長を共犯者にし、Bランクの絶対者を一瞬で分からせた私は、この可憐な魔族の少女と共に、オラリオのすべてを影から支配する『真の女王』への道を、一歩ずつ、確実に歩み進めていた。




