十話目
「……あ、アイリス、お姉様……」
私の腕の中で、魔王の血脈たる少女ノアが、漆黒の翼を小さく折り畳みながら、潤んだ深紅の瞳で私を見上げていた。彼女の右胸に刻まれた、純白と漆黒が混ざり合う薔薇の『聖痕』が、私の魔力と完全に同調していることを示している。
(さて……困ったわね。めちゃくちゃ可愛い従者ができちゃったのはいいけれど)
私の中の女(聖女)としての精神が、ノアの頭から生えた漆黒の角を愛おしげに撫で回す一方で、男としての元斥候の脳細胞が、恐るべき速度で次の「生存戦術」を組み立てていた。
このままノアを隠密魔法で隠して地上へ連れ出すことは、今の私なら容易い。だが、それではただの逃亡者だ。ギルド長ハンスが数日後にこの監獄を定期見回りした際、最高機密である魔族が消えていれば、真っ先に疑われるのは最後にここへ入った私になる。
(だったら、逃げるんじゃない。……ギルド長を、私の『共犯者』にして巻き込むのよ)
フードの奥で、私の翡翠色の瞳が、ゾクッとするほど冷酷に、そして知的に輝いた。
私は懐から、ハンスから手渡されていた監獄の通行証を取り出すと、そこに私の膨大な魔力を直接流し込み、特殊な反転暗号としてギルド長専用の魔導通信を強制起動させた。
「――アイリスか!? 一体何があった、魔力の活性化は収まったのか!?」
通行証の結晶から、ハンスの焦燥に駆られた低い声が響く。
「ええ、ギルド長。活性化どころか、事態は完全に『収束』いたしましたわ。……ただ、これ以上の詳細は通信ではお話しできません。今すぐ、ベオウルフ様だけを伴って、この第30層の最奥までお越しいただけますか? ――拒否権はありませんわ。この都市の運命に関わることですから」
私はあえて、かつてのライトの泥泥としたトーンではなく、すべてを視下ろす気高き『聖女』としての冷徹な声を突き立て、通信を一方的に切断した。
「お姉様……? 人間を呼び出すのですか……? 私、またあの人たちに……」
ノアが怯えたように私のローブの袖をギュッと掴む。
「大丈夫よ、ノア。私があなたを絶対に離さないわ。あいつら老いぼれに、私たちの『飼い主』になる資格なんてないことを、今から思い知らせてあげるから」
私はノアの華奢な肩を抱き寄せ、その滑らかな頬に自分の顔を微かに寄せた。女の子特有の甘く、どこか危険な香りが鼻腔をくすぐり、混ざり合う私の心が、さらに深く、暗い悦びへと沈んでいくのを感じていた。
それから、神速の領域を持つAランク冒険者ベオウルフの脚を以てして約1時間後。
結晶の扉が再び開き、息を荒くしたギルド長ハンスと、赤黒い大剣を背負ったベオウルフが監獄の最奥へと飛び込んできた。
彼らが最初に目にしたのは、跡形もなく粉々に砕け散った古代の特級結界。
そして、その檻の玉座に、まるで深淵の女王のように傲然と腰掛け、足元に魔族の少女ノアを跪かせている――漆黒のローブの私の姿だった。
「な……っ、なんということを……! アイリス、お前、結界を破壊したのか!?」
ハンスがモノクルを引きちぎらんばかりの勢いで絶叫し、その老顔を驚愕と恐怖で真っ白に染め上げた。
「おいおいおい、冗談だろお嬢ちゃん……!」
ベオウルフすらも、いつもの不敵な笑みを完全に消し去り、大剣の柄に手をかけながら、私の背後に渦巻く『次元の違う魔力の質量』に冷や汗を流していた。レベル27に達し、さらにノアとの『聖魔の共鳴』によって拡張された私の最大魔力は、現在のハンスやベオウルフから見れば、歩く災害そのものだった。
「声を荒げないでください、ギルド長。耳に障りますわ」
私は優雅に足を組み替えた。衣服の隙間から覗く白い太ももが、月光のような魔力の光に照らされて妖しく輝く。ノアはその私の太ももに愛おしげに頬を寄せ、ハンスたちを深紅の瞳で威嚇していた。
「結界が壊れたのではありません。私が、より完璧な『管理』のために上書きしたのです。ハンス様……あなたが数百年かけて維持してきたあの不完全な封印は、この子の体内の魔力を暴走させ、数日中には肉体を自壊させる自殺装置に過ぎませんでしたわ」
「自壊……だと……っ!?」
「ええ。もしこの子がここで爆発していれば、その闇の魔力の奔流によって、この【黒鉄の奈落】の第30層から上層、果ては地上の迷宮都市オラリオの半分が消し飛んでいたでしょうね。……それを私が、私の魔力で完全に調和し、抑え込んだのです。――この薔薇の『聖痕』によって」
私はノアの鎖骨のあたりに刻まれた紋章を指し示した。
ハンスはその完璧に安定した魔力の流れを鑑定し、言葉を失ってよろめいた。彼がどれだけ逆立ちしても不可能な神話級の魔力制御を、目の前の少女が一瞬で行ったのだ。
「お前は……一体、何をするつもりだ……。ギルドを脅迫し、この都市を魔族と共に滅ぼす気か?」
ハンスの声が、恐怖で細く震える。
「まさか。私はしがないCランクの冒険者アイリスですわよ? 街を滅ぼすなんて、そんな面倒なこといたしません」
私はクスリと可憐に、しかし最高に邪悪な笑みを浮かべた。
「提案をいたします、ギルド長。この魔族の少女ノアの身柄は、今後ギルドではなく、私個人が『所有・管理』します。地上へも連れて行きますわ。……もちろん、私の『隠密魔導・極』によって、角も翼も完全に隠蔽しますから、一般の冒険者にはただの可愛いサポーターにしか見えません」
「馬鹿な! そんなことが許されるはずが――」
「許すのよ、ハンス様」
私は声を一段と低くし、ハンスの瞳の奥を翡翠色の目で射抜いた。
「もしこれを拒絶するならば、私は今すぐこの子を連れて、この街を出て他国へ行きます。あるいは……この第30層の魔物をすべて引き連れて、地上へ遠征を仕掛けてもいい。――Cランクの『烈火の牙』の全滅を完璧な事故として処理してくださった、明晰な頭脳を持つあなたなら、どちらがギルドにとって『利益』か、分かりますわよね?」
「お前……っ、ギルドを、この私を、最初からハメるために……!」
ハンスの額から滝のような汗が流れる。
彼は気づいたのだ。昨日、私がFランクとして登録したその瞬間から、いや、ガルガたちの不正を暴く『処刑人』の依頼を引き受けたその時から、すべては私がギルドの最高権力を握り潰し、自らの共犯者として巻き込むための『巨大なクモの巣』の上の出来事だったということに。
断れば街が滅びるか、あるいは最高機密の魔族と、規格外の天才アサシンを同時に失う。
受け入れれば、ギルドのトップとして「魔族の地上滞在」という最悪の規約違反を黙認し、私の共犯者になるしかない。
ハンスには、最初から選択肢など残されていなかった。
沈黙が、重苦しく監獄を支配する。
横で静観していたベオウルフが、突然、ぷっと吹き出し、それから腹を抱えて大爆笑し始めた。
「ハハハハハ! 最高だ! おいハンス、観念しな! 俺たちの負けだ、このお嬢ちゃんには、最初から誰も敵わねえよ!」
「ベオウルフ、お前……っ!」
「いいじゃねえか。あの危険極まりない魔族の爆弾を、このお嬢ちゃんが完璧にコントロールして手元に置いてくれるんだ。ギルドにとっては願ったり叶ったりだろ? その代わり、秘密の共有――いや、『共犯』ってわけだ」
ベオウルフは私の元へ歩み寄ると、大剣の柄から手を離し、降参を示すように両手を軽く挙げた。
「俺は乗るぜ、アイリス嬢ちゃん。あんたのその、世界を敵に回しても平気なツラ、最高に気に入った。ハンス、お前も判子を押しな。ギルド長の特権で、ノアの『特殊身元保証書』を発行して、アイリスの専属奴隷として登録するんだよ」
ハンスは何度も深く呼吸を繰り返し、ついに観念したように、がくりと肩を落とした。
「……分かった。アイリス、お前の提案を受け入れる。……魔族ノアの身柄は、本日よりお前の完全管理下に置く。ギルドは表向き、彼女を『訳ありの元犯罪者奴隷』として処理し、お前のサポーターとしての滞在を許可する。……その代わり、万が一にも彼女の正体が露見した場合は、ギルドはお前を全力で圧殺する。……いいな?」
「ええ、もちろん。そんなヘマ、いたしませんわ」
私は腰を上げると、足元にいたノアの手を優しく引いて立たせた。
ギルド長ハンス。そしてAランクのベオウルフ。この都市の最高権力と最高武力を、私は完璧に自分の復讐劇の『目隠し』として巻き込むことに成功したのだ。
「ありがとうございます、ギルド長。……それでは、私は可愛い私の従者を連れて、地上でお買い物でも楽しんできますわ。服がボロボロでは、可哀想ですからね」
私は『隠密魔導・極』をノアの身体へと紡ぎ、張り巡らせた。
すると、彼女の頭から生えていた漆黒の角、そして背中の悪魔の翼が、まるで幻影のように揺らめき、一瞬にして完全に消失した。後に残ったのは、少し耳が尖っているだけの、驚くほど可憐で儚げな、黒髪の美少女の姿だった。
「わあ……、すごい、お姉様……! 角も、翼も、何も感じない……!」
ノアが自分の身体を触りながら、嬉しそうに深紅の瞳を輝かせる。
「行きましょう、ノア。私たちの、新しい始まりよ」
私は再び漆黒のフードを深く被り直し、ノアの手を引いて、愕然と立ち尽くすハンスたちの横を通り過ぎた。
かつて無能として切り捨てられたライトの復讐は、ガルガたちの死によって終わったのではない。ギルドそのものを自らの影に従え、この都市の裏の支配者として君臨する――これこそが、私の描いた本物の復讐のグランドフィナーレであり、新たな『暗殺聖女』としての覇道の始まりだった。




