九話目
ガルガたちの絶叫がアビス・ガーディアンの鉄の扉の向こう側で完全に掻き消えてから、どのくらいの時間が経っただろうか。
迷宮の冷たい通路に、私の白いブーツの足音だけが、コツン、コツンと冷徹に響いていた。
漆黒のローブの隙間から覗く私の太ももには、先ほど魔法使いの男の顔面を踏みつけた際の、微かな衝撃の余韻が残っている。だが、不思議と不快感はなかった。むしろ、かつて自分を虫ケラのように扱い、奈落へ突き落とした者たちを、今度は自分が完璧に支配し、同じ絶望へと叩き落としたという事実が、私の身体の奥底から甘い熱をじわじわと沸き立たせていた。
(終わったのね……。私の、ライトとしての復讐が)
脳裏にある男としての意識が、静かに息を吐く。それと同時に、この至高の肉体と万能の魔力を誇る女としての『聖女アイリス』の意識が、復讐の完了を極上のデザートでも平らげたかのような、甘美な充足感として深く咀嚼していた。
私は腰のベルトから、先ほど拾い上げた『烈火の牙』のメンバーたちの、薄汚れたCランクのギルドプレートを取り出し、指先で弄んだ。
「さぁ、ギルド長に報告書を提出しに行かなくちゃ。……『烈火の牙は、不運にもまた道に迷い、ボスの部屋に入り込んで全滅しました』ってね」
ふふ、と可憐な笑い声が口から漏れる。
私は『隠密魔導・極』を完全に発動させ、跳ね上がったレベル27の圧倒的なオーラを、Cランク上位相当の「大人しい魔力」へと完全に偽装した。そして、音もなく地上への階段を駆け上っていった。
◇
迷宮都市オラリオのギルド本部は、夜の更けた時間帯でありながらも、異様な緊張感に包まれていた。
それもそうだ。昨日登録したばかりのFランクから一気にCランクへと飛び級した銀髪の天才アサシン・アイリスが、あの素行不良の中堅パーティ『烈火の牙』の遠征に「監視役」として同行したのだ。冒険者たちも職員たちも、その結末がどうなるか、固唾を呑んで待っていたに違いない。
ギルドの重厚な扉を押し開け、私が一歩足を踏み入れた瞬間、ホールの喧騒がピタリと止んだ。
「おい、戻ってきたぞ……。アイリスだ」
「一人、か? 『烈火の牙』の連中はどうした……?」
ざわめく荒くれ者たちの視線を無視して、私はまっすぐに中央のカウンターを通り過ぎ、ギルド長室へと続く階段を上った。すでに受付嬢には事前に話が通っていたらしく、私が近づくだけで、最奥の扉が静かに開かれた。
ギルド長室の中には、昼間と変わらぬ厳格な雰囲気を纏ったハンス、そして窓辺で腕を組んで待っていたAランクのベオウルフがいた。
「戻ったか、アイリス」
ハンスがモノクルの奥の目を鋭く光らせる。
「結末を、報告せよ」
私は無言のまま、懐からあの『漆黒の依頼書』、そしてガルガたちの傷ついた4枚のギルドプレートを、机の上に静かに並べた。
「報告いたします、ギルド長。Cランクパーティ『烈火の牙』は、第20層の迂回ルートにおいて方向感覚を失い、あろうことかアビス・ガーディアンの部屋へと自ら侵入。ボスの急襲を受け、全滅いたしました。……私が気づいた時には、すでに手遅れでしたわ」
私はフードを外し、夜空の月光を溶かしたような銀髪を揺らしながら、ひどく悲痛そうな、しかし完璧に作り込まれた『可憐な少女の表情』で小首をかしげた。
「ふん……、わはは! 最高の報告書だな!」
窓辺のベオウルフが、堪えきれないといった様子で豪快に笑い声を上げた。
「道に迷ってボス部屋に突っ込んで全滅、か! クズどもにふさわしい、因果応報の結末じゃねえか!」
ハンスはベオウルフを鋭い一瞥で黙らせると、机の上のプレートを一つずつ確認し、深く息を吐いた。
「……分かった。ギルドとしては、今回の件は『不運なボス部屋への誤進入による事故死』として処理する。アイリス、お前の監視役としての任務はこれにて完了だ。飛び級によるCランクの資格も、正式に維持される。あいつらが溜め込んでいた不正な資産や、今回の遠征の権利金の一部は、お前の『報酬』としてギルドの口座に振り込んでおこう」
「恐れ入ります、ギルド長」
私は優雅にスカートの裾を持ち上げ、完璧な淑女の礼をしてみせた。
ガルガたちが私を殺して奪った金、そして不正に得ていた大金が、今度はすべて私の元へと転がり込んでくる。復讐だけでなく、これからの冒険者生活を優雅に送るための資金まで手に入ったのだ。
「さて、アイリス。お前に、もう一つ話さねばならんことがある」
ハンスの顔が、さらに険しいものへと変わった。
「お前の実力は、すでに通常のCランクの枠に収まるものではない。そこで、ギルドの最高機密に属する『特別な案件』を、お前に打診したい」
「特別な案件、ですか?」
「ああ。第30層『深淵の檻』。そこにある、ギルドが極秘裏に管理している『特別監獄』の調査だ。実は数日前から、その監獄の最奥に封印されている『ある検体』の魔力に、異常な活性化が見られてな。腕の立つ、そして口の堅いアサシンに、その様子を見てきてほしいのだ」
ハンスの言葉に、私の中の元斥候としての好奇心と、聖女としての魔力の感知能力が、ピクリと反応した。
第30層。これまでの私なら、名前を聞くだけで失神しそうなほどの超深層だ。だが、レベル27に達し、AGI480、INT1950を誇る今の私にとって、それは新たな『力』を試すための、最高の舞台に他ならなかった。
「分かりましたわ。その裏の任務、私が引き受けさせていただきます」
私は妖しく翡翠色の瞳を輝かせ、漆黒の依頼書に代わる、新たな監獄への通行証を受け取った。
迷宮都市オラリオの冒険者たちが、誰一人として全貌を知らない領域。それが、第30層――『深淵の檻』だった。
この階層は、これまでの石造りの通路とは異なり、まるで巨大な生物の胎内、あるいは結晶化した闇そのものの空間だった。四方の壁は黒く脈打つ鉱石で覆われ、天井からは、時折、ドロリとした濃厚な魔力の雫が滴り落ちてくる。
「……空気が重いわね。でも、心地いいわ」
私は『隠密魔導・極』を発動し、自身の存在を周囲の闇と完全に同調させながら、滑るように進んでいた。
レベル27となった私の身体は、この超深層の圧倒的な重圧すらも、心地よい愛撫のように受け入れている。走るたびに、ローブの内側で胸がタプンと微かに揺れ、太ももをかすめる冷たい空気が、女としての肉体の過敏な神経を刺激するが、今の私はその刺激すらも、集中力を高めるための糧にしていた。
固有スキル『迷宮の寵愛』が、私の脳内に、ギルド長から渡された通行証の魔力と共鳴するルートを鮮やかに描き出す。
この階層にひしひしと潜む、BランクやAランク相当の凶悪な魔物たちの気配。だが、私の完全隠密の前には、彼らは私に気づくことすらできない。
やがて、通路の最奥に、巨大な結晶体の扉が現れた。
ギルドの古代魔法によって幾重にも封印された、秘密の監獄の入り口だ。私は通行証のプレートを扉に翳した。カチリ、と硬質な音が響き、結晶の扉が左右へと割れるように開いていく。
監獄の内部は、異様なほど静まり返っていた。
中央へと続く通路の両脇には、頑強な魔導の檻が並んでいるが、そのほとんどは空席だった。歴史の闇に葬られた大罪人や、人道から外れた化け物たちが、かつてここに収監されていたのだろう。
そして、その監獄の一番奥、最も強力な『神聖結界』によって守られた特級の檻の前に、私は辿り着いた。
「――っ!?」
その檻の中を見た瞬間、私の翡翠色の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
そこにいたのは、巨大な化け物でも、狂気に満ちた老罪人でもなかった。
ボロボロに引き裂かれた漆黒のドレスを纏い、四肢を幾重もの太い聖属性の魔力鎖で繋がれた一人の、ひどく可憐な『少女』だった。
年齢は私と同じか、それよりも少し幼い10代半ばほど。
特筆すべきは、その頭部から生える、禍々しくも美しい漆黒の『羊の角』。そして、背中から生える、ボロボロに傷ついた蝙蝠のような『悪魔の翼』。
彼女は、この世界において人類の絶対的な敵とされる存在――【魔族】の生き残りだったのだ。
少女は、壁にもたれかかったまま、ぐったりと首を垂れていた。
その白い肌には、幾度も結界の光によって焼かれたような、痛々しい火傷の痕がいくつも刻まれており、呼吸は浅く、今にも消え入りそうなほどに衰弱している。
しかし、私の『天啓の癒やし(ヒール・アルティメット)』と、高いINTの鑑定眼は、彼女の身体の内側で、今にも暴走しそうなほど膨れ上がっている『絶大な闇の魔力』を正確に捉えていた。ギルド長が言っていた「魔力の異常な活性化」の正体は、これだ。彼女の封印が弱まっているのではなく、彼女の体内の魔力が、主の命を削りながら無理やり暴走を始めようとしているのだ。
「……苦しい、の……? かわいそうに」
その少女の痛々しい姿を見た瞬間、私の中の『聖女』としての領域が、激しい母性にも似た、強烈な憐れみと庇護欲を突き動かされた。
男だった頃のライトなら、「魔族だ、危険だ、すぐにギルドに報告して逃げよう」と考えていただろう。だが今の私は、その少女の儚げな美しさと、自分と同じように「理不尽に囚われ、虐げられている」という境遇に、激しいシンパシーを感じてしまっていた。
精神のマーブル模様が、私の身体を動かす。
私は、本来ならアサシンとして警戒すべき檻の境界線を越え、神聖結界の目の前へと一歩、足を踏み出した。
「……だれ……?」
私の足音、あるいは気配を察知したのか、魔族の少女がゆっくりと、その重い瞼を持ち上げた。
露わになった彼女の瞳は、燃えるような、しかしどこか哀しい輝きを帯びた『深紅』の色をしていた。
少女は、目の前に立つ銀髪の美少女――私を視界に捉えると、そのボロボロの翼を微かに震わせ、掠れた声で嘲笑を浮かべようとした。
「また……人間の、お役人……? 私を、研究材料にするために、また痛いことを……しにきたの……?」
「いいえ。私はただの冒険者よ。あなたの様子を見に来いって、上に言われてね」
私はフードを完全に脱ぎ、銀髪を優雅に払いながら、檻の鉄格子の隙間から少女をじっと見つめた。
「あなた、名前は?」
「……ノア」
魔族の少女――ノアは、虚勢を張るようにして、自身の内側から黒い魔力の霧を吹き出させようとした。しかし、その瞬間、彼女の四肢を繋ぐ聖属性の鎖が激しく白光し、バチバチと彼女の白い肌を容赦なく焼き焦がした。
「あ、……う、あぁぁぁ……っ!!」
ノアの口から、凄惨な悲鳴が漏れ出る。
鎖による拒絶反応。彼女の体内で暴走しかけている闇の魔力と、檻の聖属性結界が激しく衝突し、彼女の肉体を内側と外側の両方から、引き裂こうとしていたのだ。このままでは、彼女は自身の魔力の暴走に耐えきれず、数日中に肉体が崩壊して死亡する。ギルド長が感知した異常の真実は、彼女の『自壊の予兆』だった。
「ノア……っ!」
その悲鳴を聞いた瞬間、私の中の「男」と「女」の混ざり合った心が、完全に理性を上書きした。
危険など、どうでもいい。ギルドの命令など、知ったことか。
目の前で苦しんでいるこの可憐な少女を、私のこの手で、今すぐ救い出してあげたい。その強烈な衝動が、私の『聖女』としての本能を完全に覚醒させた。
「下がっていなさい、ノア。……今、その汚い鎖を壊してあげるから」
「な、にを……言ってるの……? 人間が、結界を……?」
私は、腰の『ミゼリコルディア』を抜き放つと、迷宮の最高峰の封印結界に向かって、真っ直ぐに右手を突き出した。
頭の中に、自然と古代の構築式が浮かび上がる。ギルドの施した聖属性の結界。それは、一般の魔法使いにとっては絶対不可侵の壁だが、固有スキル『神聖魔導・極』を持つ私にとっては、自分が使う魔法の「お粗末な劣化版」に過ぎなかった。
「解け(ディスペル)――」
私の指先から、目が潰れるほどの純白の光が放たれた。
それは破壊の光ではない。檻の結界と鎖の魔力構成を、私の圧倒的な魔力値によって内側から完全に『上書き』し、無効化するための光だ。
パキィィィィィィィン!!!
心地よい結晶の破砕音が監獄の中に響き渡り、数百年間、魔族の王族を縛り付け続けていた特級結界と魔力鎖が、まるでガラス細工のように、一瞬にして粉々に砕け散った。
自由になったノアの身体が、重力に従って前へと倒れ込む。
私は神速の領域の速度で檻の中に滑り込み、その華奢な少女の身体を、自らの胸元へと、優雅に、そして優しく受け止めた。
「え……? 嘘……、結界が、消えた……?」
ノアは、私の胸の柔らかい膨らみに顔を埋めるような形で抱きとめられながら、深紅の瞳を丸くして呆然としていた。私の身体から漂う、圧倒的に純粋で、温かい聖属性の魔力が、彼女の傷ついた肉体を優しく包み込んでいく。
「さぁ、暴走を止めましょう。……痛いのは、もう終わりよ」
私は、抱きしめたノアの背中に優しく手を当て、固有スキルを発動した。
「『天啓の癒やし(ヒール・アルティメット)』」
その瞬間、監獄全体が、温かく、どこまでも神聖な純白の光で満たされた。
私の手のひらから流れ込んだ聖女の極大回復魔法は、ノアの全身の火傷の痕を一瞬にして綺麗に消し去り、それだけでなく、彼女の体内で暴走していた漆黒の闇の魔力を、拒絶することなく、優しく包み込んで『調和』させていった。
「あ、……熱いのが……消えていく……。体の中が、すごく、気持ちいい……」
ノアの口から、とろけるような、微かな吐息が漏れ出た。
彼女の深紅の瞳から涙が零れ落ちる。生まれてからずっと、人間に虐げられ、結界に焼かれ続けてきた彼女にとって、これほどまでの優しさと、心地よい魔力の充足感は、生まれて初めての経験だった。
やがて光が収まると、ノアの傷は完全に癒え、その肌は、まるで剥きたての卵のように滑らかで美しく再生していた。
しかし、ただの回復ではなかった。
私の圧倒的な聖属性魔力と、彼女の持つ魔王の血(闇属性)が、極限の状態で完全に融合した結果――彼女の右胸の鎖骨のあたりに、純白と漆黒が混ざり合った、美しい薔薇のような『聖痕(紋章)』が、くっきりと浮かび上がっていた。
【ピコン――魔王の血脈『ノア』との魔力同調を確認しました。固有スキル『聖魔の共鳴』を獲得します】
【アイリスの最大MPの限界が拡張され、ノアの闇属性魔法が使用可能になります】
【ノアは、アイリスの『従者』として登録されました】
脳内に響くシステムの声。
私は、自分の腕の中で完全に毒気を抜かれ、顔を真っ赤にしながら私を見上げているノアを見つめた。
「な、何をしたの……? 私の体の中に、お姉様の魔力が、たくさん流れてきて……逆らえない、のに、すごく幸せな気持ちに……」
ノアは、自身の漆黒の翼をパタパタと小さく震わせながら、上目遣いで私を見つめてきた。その瞳には、先ほどまでの人類への憎悪は消え失せ、目の前にいる銀髪の聖女に対する、絶対的な『忠誠』と、狂おしいほどの『依存』の光が宿っていた。
私の中の女としての精神が、その彼女の可愛らしい仕草に、キュンと胸を締め付けられる。
(……あら、可愛い。この子、私が守ってあげなきゃ)
同時に、男としてのライトの意識が、「おいおい、ギルドの最高機密の魔族をペットにしちまったぞ! これからどうするんだ!」と、頭を抱えて叫んでいた。
だが、もう後戻りはできない。私は、ノアの頭から生える漆黒の角を、細い指先で優しく撫でてあげた。
「私はアイリス。あなたの、新しい『主人(お姉様)』よ、ノア」
「はい……、アイリスお姉様。私は、ノア。これからは、お姉様のために、この命のすべてを捧げます……」
ノアは嬉しそうに目を細め、私の胸元にコテリと頭を預けてきた。
ギルド長ハンスから頼まれた「調査任務」は、こうして、私がギルドを完全に裏切り、最高機密である魔王の生き残りを『私有化』するという、とんでもない形で幕を閉じた。
ガルガたちへの復讐を終えた私は、今度はギルドの裏をかき、世界そのもののパワーバランスを揺るがす『魔族の従者』を手に入れてしまったのだ。
私の中に渦巻く男と女の心は、次に訪れるであろう、世界を巻き込んだ巨大な激動を予感し、ゾクゾクとするような、最高の高揚感に満たされていた。




