八話目
【黒鉄の奈落】第20層――かつて、Dランク斥候ライトとしての私が、仲間だと信じていた『烈火の牙』の連中に裏切られ、アビス・ガーディアンの部屋へと突き落とされた因縁の階層。
その薄暗く、冷たい石造りの通路を、私たちは異様な沈黙を保ったまま進んでいた。
前衛を歩くのは、リーダーのガルガ、そして大盾を構えた重戦士。中衛には弓手の女と魔法使いの男が位置し、その後ろに私――ギルド特別監視員のアイリスが、影のようにぴたりと従っている。
本来の遠征であれば、斥候が最前線で罠を警戒し、周囲の魔物の気配を察知しながら進むものだ。しかし、現在の『烈火の牙』には斥候がいない。彼らが「ライトは名誉の戦死を遂げた」とギルドに嘘の報告をし、新しい斥候を雇う前に私が強制同行の形でねじ込まれたからだ。
「おい、ガルガ……本当にこのまま進むのかよ……」
魔法使いの男が、引きつった声を押し殺しながら、最前歩くガルガの背中に話しかけた。
彼の視線は、時折、最後尾を歩く私の姿へと怯えたように向けられる。
「うるせえ、黙って歩け! ギルドの公式命令書がある以上、ここで引き返せば俺たちの冒険者ライセンスは剥奪だ。……それに、あの女が本当にあいつだっていう証拠はねえ。ただの、たちの悪い偶然だ……!」
ガルガは自分自身に言い聞かせるように、荒い息を吐きながら声を荒げた。
だが、あいつらの身体は正直だった。
私の一歩、私の衣擦れの音、私がふわりと銀髪を揺らすたびに、4人の肩がビクリと跳ねる。彼らは今、周囲の魔物ではなく、自分たちの背後にいる「Fランクから一気にCランクへと飛び級した超絶美少女」の気配に、全神経をすり減らしていた。
(ふふ……いい気味。そんなに私の気配が怖いの?)
漆黒のフードの奥で、私の翡翠色の瞳が妖しく明滅する。
精神値(MND)が2100を超えた私の脳内では、かつてライトだった頃の泥臭い記憶が、冷徹な『殺戮のシナリオ』へと美しく書き換えられていた。
私は新スキル『操糸の聖痕』を微かに発動させ、私の十指から、目に見えないほど細く、しかしダイヤモンドよりも強固な純白の魔力糸を、通路の壁や床へと這わせていた。
レベル27に達し、AGI(敏捷)が480――神速の領域へと片足を突っ込んだ私の肉体にとって、この第20層の環境など、もはや自宅の庭と変わらない。固有スキル『迷宮の寵愛』は、この階層のどこに隠し通路があり、どこに凶悪な魔物が潜んでいるかを、完璧な立体マッピングとして私の脳内に投影していた。
「皆様、少し歩度が落ちていますわよ? このペースでは、目的の第24層『白銀の鉱脈』に到達する前に、夜を迎えてしまいますけれど?」
私はわざと、鈴を転がすような美声で、どこか挑発的に語りかけた。
その声には、女としての肉体が持つ特有の上品な響きと、元斥候ライトとしての「すべてを見抜いた冷徹さ」が、完璧な比率で混ざり合っていた。
「くっ、……分かってるよ! おい、前衛、速度を上げろ!」
ガルガが苛立ちを爆発させるように叫ぶ。
あいつらは必死に私から距離を置こうと、歩度を速める。だが、どれだけ走るように進もうとも、私が一歩足を踏み出すだけで、その距離は完璧に維持された。AGI480の私から見れば、彼らの必死の疾走など、カタツムリの歩みと同義だった。
周囲の闇から、カサカサと魔物の気配が近づいてくる。
第20層の凶悪な捕食者『シャドウ・ストーカー』の群れだ。以前の私なら、その気配を感じただけで「右の通路へ迂回しましょう!」と必死に叫んでいた相手。
しかし、今の私は何も言わない。
ただ、指先をわずかに動かし、張り巡らせた魔力糸をピアノの弦のように弾くだけ。
シュパパパンッ!!!
「ガ、アッ……!?」
闇の中で、短い肉肉しい切断音が響き、迫り来ていた魔物たちの気配が、一瞬にして、文字通り「細切れ」になって消滅した。聖属性の魔力を帯びた糸に触れた魔物は、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、光の粒子となって迷宮の霧へと溶けていく。
ガルガたちは、何が起きたのかすら分からなかった。ただ、自分たちを襲うはずだった魔物の気配が、背後の一歩も動いていないはずの少女の周囲で、一瞬にして「消された」という事実だけを理解し、その背筋に、底冷えするような恐怖の悪寒を走らせていた。
「さぁ、先を急ぎましょう? リーダー(・・・・)」
私はクスリと、悪魔のような、しかし最高に美しい微笑みを浮かべ、彼らを迷宮のより深部へと、完璧に誘導していった。
「おい……ここ、は……」
魔法使いの男が、その場にへたり込みそうになりながら、目の前の光景に絶叫に近い声を上げた。
通路の突き当たりに現れたのは、巨大な、意匠の凝らされた頑強な鉄の扉。
その扉の表面には、禍々しい悪魔の顔が彫り込まれており、周囲の空気は、他のエリアとは明らかに一線を画す、圧倒的な質量を持った『深淵の魔力』で満たされていた。
そう、ここは数日前、彼らがライトを突き落とした――【アビス・ガーディアン】が鎮座する、最悪のボス部屋の前だった。
「な、なんでここに出るんだよ……! ガルガ、俺たちは第24層へ行くために、第20層の迂回ルートを通っていたはずだろ!? なんで、あのボス部屋の前に戻ってきてるんだよ……!」
弓手の女が、錯乱したように叫び、自分の髪を掻き毟った。
彼女の言う通り、彼らはボス戦を避けるために、斥候がいないなりに慎重に迂回ルートを選んで進んでいたはずだった。
だが、彼らは知らなかった。
彼らが通ってきた迂回ルートの分岐点の標識や、通路の壁の陰影を、私の『操糸の聖痕』と『迷宮の寵愛』によって、すべて「ボス部屋へと繋がる一本道」へと、精神的に誘導されていたという事実を。
元斥候としての迷宮の構造知識、そして聖女としての圧倒的な魔力操作が合わされば、案内標識のない昏い迷宮の中で、人間の方向感覚を狂わせることなど、赤子の手をひねるよりも容易かった。
「おかしいわね。皆様、優秀なCランクパーティのはずなのに、道に迷ってしまわれたのかしら?」
私は一歩、また一歩と、狼狽える彼らの元へと近づいていった。
漆黒のフードを自らの手でゆっくりと後ろへ滑り落とすと、夜空の月光を溶かしたような美しい銀髪が肩に零れ落ち、吸い込まれそうな翡翠色の瞳が、隠すことなく彼らに向けられた。
その美貌は、あまりにも現実離れしていながらも、どこか狂気的な冷徹さを孕んでいた。
「ひ、ひえ……っ、アイリス、お前、何を……!」
ガルガが、腰の大剣の柄を握りしめながら、ガタガタと両膝を震わせた。
「何も? 私はただ、ギルドの監視員として皆様の『成果』を見届けに来ただけですわ。……でも、せっかくですから、前回の遠征の『再現』をしてみるのも、面白いと思いまして」
私は右手の指先を、目の前の頑強な鉄の扉へと向けた。
ツン、と空気をつつくような仕草で扉に触れる。
ギィィィィィィィィィ……。
重苦しい、錆びついた金属音が響き、ボス部屋の鉄の扉がゆっくりと内側に向かって開き始めた。
部屋の奥から溢れ出る、吐き気がするほどの漆黒の魔力。
アビス・ガーディアンそのものは『聖光破』によって消し炭になってしまったため、そこにはいない。だが、ダンジョンの修復機能によって、部屋の奥には、以前のものと同等、あるいはそれ以上の質量を持つ【新たなる深淵の守護者】の禍々しい影が、静かに蠢き始めていた。
「さぁ、ガルガ。……前回の、お話をしましょうか」
私は、かつてライトだった頃の、あの泥臭く、しかし執念に満ちた低いトーンの声を完全に解放した。
その声が、静まり返った通路に響き渡った瞬間、ガルガたちの脳内の『確信』が、完全な『絶望』へと叩き落とされた。
「お前……! お前、本当に……ライトなのか……!?」
「ええ、そうよ、リーダー。お前たちが、その汚い足で背中を蹴り飛ばし、この部屋の化け物の前に生贄として突き落とした――あの無能な斥候、ライトよ」
私は、ゾクッとするほど妖艶で美しい笑みを浮かべ、自らの胸元に手を当てた。
「迷宮の神様が、私のこの恨みを聞き届けてくださってね。男を辞めさせて、こんなに素敵で、強力な『聖女の身体』に変えて、地獄の底から帰してくださったの。……お前たちを、同じ地獄へ引きずり落とすためにね」
「なぁ、嘘だろ……! 助けてくれ、ライト……! いや、アイリス様……!」
魔法使いの男が、床に這いつくばり、私の白いブーツの先に向けて必死に手を伸ばし、涙と鼻水を流しながら命乞いを始めた。
「俺は、俺はガルガに命令されただけなんだ! お前を突き落とせって、あいつが……あいつが計画したんだよ! 俺は悪くない、悪くないんだ……っ!」
「みっともないわね」
私は、冷淡にその手を見下ろした。
心の中の男としてのライトが、「あいつ、本当に情けない奴だな」と冷めた視線を送り、女としてのアイリスが、「そんな汚い手で私に触ろうとしないで」と、激しい嫌悪感を抱く。二つの心が完璧に同調し、私の右足が、自然と前に出た。
ドンッ!!!
「ギャハッ……!?」
私は、自身の白いブーツの底で、魔法使いの男の顔面を、容赦なく正面から踏みつけた。
レベル27、STR(筋力)が80に達した私の脚力は、かつての私自身の全身の筋力を遥かに凌駕している。男の鼻骨がグシャリと折れる不快な感触が、ブーツの底を通じて私の脳へと伝わり、それが私の中に、言葉にできないほどの甘美な快感をもたらした。
「あ、……あはは! 痛い? 痛いわよねえ。でも、私がアビスに身体を砕かれた時の痛みに比べたら、そんなの、ただの蚊に刺されたようなものだわ」
私は踏みつけた足をさらにグリグリと 押し付け、男の悲鳴を通路に響かせた。
その残虐な美少女の姿に、弓手の女と重戦士は、もはや武器を構える気力すら失い、腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
「ライト……、お前、俺たちをここで殺す気か……! ギルドの監視員が冒険者を殺せば、お前だってタダじゃ済まねえぞ……!」
ガルガが、血走った目で大剣を引き抜き、狂ったように叫んだ。
「タダで済まない? いいえ、済むのよ。……だって、私はギルド長から直々に『漆黒の依頼書』を受け取っている、公式の『処刑人』なのだから」
私は懐から、あのハンスから受け取った死刑宣告書を取り出し、ガルガの目の前でひらひらと振ってみせた。
「お前たちが仲間殺し(ペナルティ・ピープル)を行っている疑いがあるから、もし不審な動きがあれば、その場で『処理』しろって。……ねぇ、ガルガ。今からここで起きることは、すべて『烈火の牙が、またしても道に迷い、ボスの部屋に入り込んで全滅した不運な事故』として、処理されるのよ。……前回の、ライトの時と、全く同じようにね」
「なぁ、……っ、この、化け物があぁぁぁーーーッ!!!」
ガルガは恐怖に完全に精神を狂わせ、手にした大剣を振り上げ、私に向けて全力で突進してきた。Cランク上位の戦士としての、死に物狂いの一撃。
しかし、その動きは私の目には、まるで止まっているも同然だった。
「さようなら、リーダー。……おとり役、頑張ってね?」
私がクスリと微笑み、右手の指先をパチン、と鳴らした瞬間。
シュルルルルルッ!!!
通路に張り巡らされていた目に見えない魔力糸が一斉に収縮し、ガルガの巨体、そしてへたり込んでいた魔法使い、弓手、重戦士の4人の身体を、瞬時にして頑強に縛り上げた。
糸は彼らの自由を完全に奪い、そのまま、彼らの身体を宙へと吊り上げた。
「な、なんだこれ……!? 動けねえ……! 糸、糸なのか……っ!?」
「キシャァァァァァン!!!」
タイミングを合わせたように、完全に開ききった鉄の扉の奥から、新たなる【アビス・ガーディアン】が、その巨大な漆黒の大剣を携えて姿を現した。目の前に吊るされている4人の塊を、絶好の『獲物』として認識したのだろう。ボスの複眼が、禍々しい赤色の光を放つ。
「嫌だ……! 嫌だぁぁぁ! 助けて、助けてライトォォォ!!!」
4人の絶叫が、ボス部屋の中に響き渡る。
私は、縛り付けた魔力糸の端を、ボス部屋の奥の壁へと繋ぎ替え、彼らの身体を、アビス・ガーディアンの目の前へと、勢いよく『放り込んだ』。
そして――。
バタン!!!
私は、かつて彼らが私にやったのと全く同じように、ボス部屋の頑強な鉄の扉を、外側から冷酷に、そして完璧に閉ざした。
鉄の扉の向こうから、凄まじい衝撃音と、肉体が破壊される凄惨な悲鳴、そしてガルガたちの絶望の叫びが、何重にも重なって響いてくる。
ドガァァァン!! ガシャァァァン!!
「ギャァァァァァーーーッ!!」
「助け、……がはっ……!?」
私は、その扉に背を向け、静かに壁にもたれかかった。
衣服の隙間から覗く白い太ももを微かに震わせながら、私は両手で自分の顔を覆い、クスクスと、そして最後には声を上げて笑った。
「あはは……! あははははは! 最高、最高の気分だわ……!」
胸の奥から湧き上がる、圧倒的な充足感。
かつて自分を裏切り、虫ケラのように切り捨てた奴らが、今、自分と全く同じ絶望のなかで、化け物に喰い殺されている。その因果応報の結末が、私の女としての肉体を、ゾクゾクとするほどの快感で満たしていく。
心の中のライトの怨念が完全に昇華され、それと同時に、私は自分が、名実ともに『暗殺聖女アイリス』という一人の完璧な存在へと、精神的にも完全に生まれ変わったことを自覚していた。
元が男だとか、女だとか、そんなことはもうどうでもよかった。
私はこの圧倒的な力と、この至高の身体を使い、これからの迷宮都市での人生を、誰よりも自由に、誰よりも気高く生きていく。その確固たる決意が、私の翡翠色の瞳の奥に、揺るぎない光を灯していた。
やがて、扉の向こうからの悲鳴は、完全に途絶えた。
残されたのは、静寂と、ボスの勝利の咆哮だけ。
「さて……ギルド長への報告書には、なんて書こうかしらね」
私は、乱れた銀髪を指先で優雅に整え、再び漆黒のフードを深く被り直した。
足元には、彼らが落としたであろう、いくつかの傷ついたCランクのギルドプレートが転がっている。私はそれを、最高の復讐の記念品として拾い上げると、地上の光へと向かって、滑るような足取りで歩き出した。
『暗殺聖女』アイリスの、本当の冒険は、ここから始まるのだ。




