七話目
ギルド長室の重厚なマホガニーの机の上に滑り出された、一枚の『漆黒の依頼書』。
それはギルドの公式なスタンプが押されていながらも、一般の冒険者の目には決して触れることのない、裏の特例任務――『身内殺し(ペナルティ・ピープル)』の監視、およびその場での『執行(処刑)』を許可する死刑宣告書だった。
「Cランクパーティ『烈火の牙』……。彼らは次回の深層遠征で、第24層の未開拓領域にある『白銀の鉱脈』の確保を狙っている。すでにギルドには遠征届が提出されており、明後日の早朝には出発する予定だ」
ギルド長ハンスは、鋭い老眸をモノクルの奥で細めながら、淡々と状況を説明していく。
「ギルドとしても、確たる証拠がない以上、公に彼らを拘束することはできん。だが、前回の遠征で斥候のライトが死んだという報告には、あまりにも不自然な点が多すぎる。あいつらの実力でアビス・ガーディアンから無傷で逃げ帰ることなど、本来なら不可能に近い。……アイリス、お前にはギルドから臨時に派遣された『特別外部補佐』という名目で、彼らの遠征に強制同行してもらう」
「強制同行、ですか。あいつら、嫌がるでしょうね」
私は指先で、漆黒の依頼書の端をスルスルとなぞった。
指先から無意識に漏れ出た微不可視の魔力糸が、依頼書の紙面をカチリと微かに震わせる。レベル27に至り、精神値(MND)が2100を超えた私の脳は、ハンスの言葉の裏にある意図を瞬時に、そして完全に咀嚼していた。
「嫌がろうが関係ねえさ」
横で腕を組んでいたベオウルフが、下卑た笑みを浮かべて口を挟む。
「ギルドのCランク以上の規約には、『特定の未開拓領域への遠征時、ギルド側が安全管理のために監視員を同行させる権利を有する』って項目がある。Aランクの俺とギルド長が直々に判子を押した公文書だ。断れば、その時点で『烈火の牙』は冒険者資格を剥奪され、街から追放される。あいつらに拒否権はねえよ」
「そういうことだ」とハンスが深く頷く。
「もし遠征中に、彼らが再び仲間を嵌めるような動きを見せるか、あるいは過去の罪状を自白するようなことがあれば……アイリス、お前の判断で『処理』しろ。ギルドはお前を一切咎めない。これがお前に課す、Cランク飛び級の『代償』だ」
「ふふ……、あはは……!」
私は、我慢しきれずに小さな笑い声を漏らした。
両手で口元を押さえるが、胸の奥から湧き上がる極上の愉悦が、鈴を転がすような美声となって部屋に響いてしまう。
(なんて素敵な舞台かしら。ギルドの公式な『処刑人』として、あいつらの首に合法的に縄をかけられるなんて。ガルガ、お前たちが必死に隠そうとした醜い罪を、私が一番残酷な形で暴いてあげるわ)
心の中のライトとしての怨念が歓喜の炎を燃やし、アイリスとしての冷徹な聖女の精神がそれを完璧な殺意へと昇華させていく。
「喜んで、そのお仕事……お引き受けいたしますわ、ギルド長」
私は深々と一礼し、夜空の月光を溶かしたような銀髪を美しく揺らした。フードを再び深く被り直すと、私は漆黒の依頼書を懐へと仕舞い、ギルド長室を後にした。
ベオウルフが部屋を出る際、私の後ろ姿を見送りながらボソリと呟いた。
「おいおい、あいつのあの笑み……ゾクゾクするほど綺麗だが、底冷えがするぜ。ガルガの野郎ども、明後日には自分がどんな死神をパーティーに招き入れるか、想像もしてねえだろうな」
その日の深夜。迷宮都市オラリオの裏通りにある、一軒の高級酒場の個室。
昼間の喧騒とは打って変わり、そこには重苦しい、そして狂気すら孕んだ沈黙が立ち込めていた。
「おい、ガルガ……! 落ち着けって! 飲みすぎだ!」
魔法使いの男が、引きつった声で叫んだ。
テーブルの上には、何本もの強い蒸留酒の瓶が転がっており、中央には『烈火の牙』のリーダー、ガルガが狂ったように酒を煽り続けていた。彼の目は血走り、全身から尋常ではない冷や汗が吹き出している。
「うるせえ……! 黙れ! 飲まなきゃやってられるかよ……!」
ガルガはグラスを床に叩きつけ、ガタガタと両手を震わせた。
昼間、ギルドのカウンターで、あの謎の銀髪美少女――アイリスに耳元で囁かれたあの言葉。
『戦死したライトの取り分……せいぜい美味い酒に変えて、お仲間と浴びるように飲むといいわ、リーダー』
あの声、あのトントンと机を叩く独特の癖、そしてあいつが放った言葉の意図。
「あいつはライトだ……。間違いない、あの女は、俺たちがアビスの部屋に閉じ込めて殺したはずの、あのライトの野郎だ……っ!!」
「馬鹿なことを言うな!」
弓手の女が、顔を青くしながらガルガの肩を揺さぶる。
「ライトは男よ!? 魔法の才能も、斥候としての腕も底辺の、しがないDランクの男! あんな、Aランクのベオウルフさんすら気圧すような、化け物みたいな銀髪の美少女アサシンなわけがないわ! 何かの見間違いか、あいつの知人が嫌がらせで言ったに決まってる!」
「じゃああの癖はなんだ!? あの声の響きはなんだ!?」
ガルガは狂乱したように髪を掻き毟った。
「あいつの目は……あの翡翠色の目は、俺たちを殺す獲物として見てた! 生き返ったんだよ……! 迷宮の呪いか悪魔の力か知らねえが、あいつは化け物になって地獄の底から這い上がってきたんだ! 俺たちを……俺たちを皆殺しにするために!」
個室の中に、冷たい恐怖が伝染していく。
魔法使いの男も、弓手の女も、実は心のどこかで気づいていた。あのアサシンの少女から漂っていた、妙に泥臭く、しかし執念深い「あのライト」と同じ復讐の気配に。
「ひ、ひえ……っ、じゃあ、どうするんだよガルガ!? あんな化け物に狙われたら、俺たちCランクのパーティなんか、一瞬でバラバラにされちまうぞ……!」
「……だったら、先に消すしかねえだろ」
ガルガの声が、急に低く、生気のない冷徹なものへと変わった。
彼は懐から、ぎっしりと金貨の詰まった分厚い袋を取り出し、テーブルの上にドサリと置いた。
「明後日の遠征までに、あの女を消す。街の裏社会の『暗殺ギルド』に依頼を出す。幸い、ライトを殺した補償金と魔石を売った金が山ほどある。どれだけ金を積んででも、あの銀髪の女の首を撥ねさせる。……死人が化け物になったなら、もう一度殺して完全に灰にしてやるだけだ……!」
ガルガの狂気に満ちた提案に、他のメンバーも、もはや反論する気力を失っていた。自分たちの罪が、あまりにも強大な存在となって目の前に現れたのだ。消すか、消されるか。彼らの選択肢は、すでに破滅への一本道へと狭まっていた。
彼らは知らなかった。
その個室の窓のわずかな隙間から、目に見えないほど細く、純白に輝く魔力糸が、一本だけ室内に滑り込んでいたことを。
酒場から数件離れた、宿屋の静かな一室。
月光が差し込むベッドの上で、私はローライズのボトムスから白い太ももを大胆に晒したまま、横たわっていた。
私の右手の人差し指の先からは、微かに光る純白の糸――『操糸の聖痕』が伸び、窓の外へと消えている。レベル27に達したことで、この魔力糸はただの武器としてだけでなく、私の感覚を遠方へと繋ぐ「神経網」としての機能すら有していた。
糸を通じて、ガルガたちの見苦しい悲鳴と、私を暗殺しようとする企みが、すべて私の脳内へとクリアに伝わってくる。
「ふふ……、あはははは! 本当に、期待を裏切らないクズね、あいつら」
私はベッドの上で身をよじり、くくくと喉を鳴らして笑った。
身体が女になったことで、感情の高ぶりがダイレクトに肉体の快感へと変換される。ガルガたちが恐怖し、絶望し、そして無駄な足掻きをしようとすればするほど、私の胸の奥は、とろけるような甘い愉悦感で満たされていく。
(裏社会の暗殺者を雇う? いいわよ、いくらでも連れてきなさい。レベル27になった私の『神速』と、この魔力糸の前に、そんな有象無象が何人通用するかしらね)
私は自分の細い指先をスルスルと動かし、糸を巻き戻した。指先に戻ってきた魔力糸が、私の肌に触れて微かな熱を伝える。
男だった頃のライトなら、「暗殺者を雇われた、どうしよう」とパニックになっていただろう。だが今の私は、その企みすらも、明後日の遠征をより楽しむための「余興」にしか思えなかった。
「さて、明後日の準備のために、少しこの身体を休ませてあげなきゃね」
私はベッドの中で、自分の華奢な身体を抱きしめるようにして横になった。
絹のように滑らかな自分の太ももが擦れ合う感覚、男の時にはなかった、身体の芯から湧き上がる特有の甘い匂い。精神が男と女の間で心地よく揺れ動きながら、私は明後日訪れるであろう、完璧な復讐の瞬間を夢見て、静かに瞳を閉じた。
明後日の早朝。迷宮都市オラリオのギルド本部前に、『烈火の牙』の5人が集まっていた。
昨夜の狂乱と徹夜のせいで、ガルガたちの顔色は最悪だった。目の下には色濃い隈が浮かび、装備を持つ手は微かに震えている。
「おい、ガルガ……本当に大丈夫なんだろうな? 暗殺ギルドの奴らは、ちゃんと動いてるんだろうな?」
魔法使いの男が、周囲をキョロキョロと見回しながら小声で囁く。
「ああ、間違いない……。ギルドから迷宮に入るまでの道中、必ずあの女を奇襲して首を撥ねる手筈になっている。俺たちは何食わぬ顔で迷宮に入ればいいんだ」
ガルガがそう言い聞かせ、自分自身を鼓舞するように大剣の柄を強く握りしめた、その時だった。
「――おはようございます、皆様。随分と顔色が悪いようですが、体調でも崩されて?」
朝霧の向こうから、鈴を転がすような、どこまでも清澄で、しかし背筋が凍りつくほど美しい少女の声が響いた。
ガルガたちが弾かれたように振り返ると、そこには、漆黒のローブを纏い、フードの奥から翡翠色の瞳を妖しく輝かせたアイリスが、何一つ変わらない完璧な佇まいで立っていた。その後ろには、ギルド長ハンスのサインが書かれた『同行命令書』を持った受付嬢の姿もある。
「お、お前……! なぜここに……!?」
ガルガが驚愕のあまり声を裏返した。道中で暗殺ギルドの精鋭5人があいつを仕留めているはずなのに、なぜ傷一つなく、それどころか朝の散歩でもするかのように優雅に現れたのか。
「ギルド長からの命令です。『烈火の牙』の皆様の今回の深層遠征に、ギルドの特別監視員(補佐)として、私、Cランクのアイリスが同行させていただくことになりました」
私は懐から、ハンスから受け取った『漆黒の依頼書(公式カモフラージュ版)』を提示し、ガルガたちの目の前で、フワリと可憐な微笑みを咲かせた。
「Cランクへの飛び級……だと!? お前、昨日登録したばかりのFランクの新人だろうが!」
魔法使いの男が悲鳴のような声を上げる。
「特例よ。アラクネ・クイーンをソロで討伐した実力を評価していただけたの。……さぁ、リーダー。出発しましょう? 私、皆様との『深層遠征』、とっても楽しみにしていたのですから」
私は一歩、ガルガたちへと歩み寄った。
その瞬間、私の指先から、目に見えないほど細い魔力糸がスルスルと伸び、ガルガたち5人の首元へと、緩やかに、しかし絶対に解けない『絞首刑の縄』のように巻き付いた。もちろん、彼らにはその糸の存在すら知る由もない。
ガルガは、目の前にいる銀髪の美少女が、自分たちを地獄の底へと引きずり落とすためにやってきた『本物の死神』であることを完全に理解しながらも、ギルドの公式命令を拒否すればその場で破滅するという現実の前に、ただガタガタと 顎を鳴らすことしかできなかった。
「……くそ、……っ。行くぞ、お前ら……!」
ガルガは血を吐くような思いで声を絞り出し、迷宮への入り口へと歩き出した。
その背中を追いながら、私はフードの奥で、最高に甘美な復讐の笑みを浮かべていた。
あいつらが雇った裏社会の暗殺者たち?
今頃、ギルドの裏路地で、私の『操糸の聖痕』によって細切れの肉片となり、ネズミの餌になっているわよ。
「さぁ、地獄の遠征を始めましょうか、元・仲間の皆様♪」
『暗殺聖女』アイリスとなった私は、完璧な絞首台の罠を完成させたまま、獲物たちと共に、昏い迷宮の底へと足を踏み入れた。




