三話目
【黒鉄の奈落】の薄暗い迷宮を、私は音もなく駆け抜けていた。
第25層から地上へと続く長い階段を上る間、遭遇する魔物を文字通り「影」となって葬り去ってきた。元斥候としての知識が、どのルートを通れば他の冒険者と遭遇せずに地上へ出られるかを正確に教えてくれた。
そして今、私は眩い太陽の光に目を細めている。
数日ぶりに浴びる地上の光は、迷宮の昏さに慣れた私の翡翠色の瞳には少々刺激が強すぎた。手にかざした肌は、日の光を浴びてなお透き通るように白い。
「本当に、帰ってきたんだな……」
口から漏れたのは、やはり鈴を転がすような少女の声だ。
私は漆黒のローブのフードを深く被り、自身の長い銀髪と、あまりにも目立ちすぎる顔を隠した。
向かう先は、冒険者の拠点である迷宮都市オラリオの中心にそびえ立つ、冒険者ギルドの本部だ。
本来なら、私を裏切ったCランクパーティ『烈火の牙』の連中の前にすぐさま現れ、その喉元に『ミゼリコルディア』を突き立ててやりたいところだ。だが、それではただの犯罪者になってしまう。それに、あいつらは街ではそれなりの知名度を持つ中堅冒険者だ。Dランクの、しかも「死亡扱い」になっているはずの斥候ライトが急に現れて告発したところで、ギルドがどちらを信用するかは明白だった。
(だったら、まずは『正体不明の凄腕』としてギルドに入り込む。あいつらが掴んでいる栄光を、足元からじわじわと崩して、絶望のどん底に叩き落としてやる……!)
フードの奥で、私はにやりと唇を釣り上げた。その笑みが、男の時の泥臭い復讐心によるものなのか、それとも女の肉体が得たどこか妖艶な残酷さによるものなのか、自分でももう判別がつかなかった。
――ギルド本部の大きな両開きの扉を押し開ける。
昼下がりのギルド内は、遠征から戻った冒険者や、これから夜の狩りへと向かう者たちでごった返していた。酒の臭いと汗の臭い、そして鉄錆の臭いが混ざり合った、いつものむさ苦しい空間。
だが、私が一歩足を踏み入れた瞬間、その場の空気がわずかに変わった。
黒いローブを纏い、顔を隠しているとはいえ、衣服の隙間から覗くしなやかで白い太ももや、歩くたびに微かに揺れる華奢な身体のラインは隠しきれない。何より、『迷宮の聖女』としての圧倒的な魔力が、無意識のうちに周囲の空気を威圧していた。
「おい、見ろよ……新顔か?」
「なんだあの女、すげえ魔力を感じるぞ……」
荒くれ者たちの視線が私に集まる。男たちの値踏みするような、あるいは性悪な欲望の混じった視線。
以前の男だった頃の私なら、「うわ、絡まれたくないな」と気配を消して素通りしたところだ。しかし今の私は、胸の奥から湧き上がる奇妙な愉悦感に満たされていた。
(ふん、馬鹿どもが。私の中身が、お前たちが散々見下していた『奴隷ライト』だとも知らずに、そんな目で見てるわけだ。……ゾクゾクするね)
心の中で冷笑しながら、私はまっすぐに新規登録・受付の窓口へと進んだ。
幸いなことに、受付嬢の一人は私をよく知る人物ではなかった。いつもライトの無茶な依頼報告を受けてくれていたベテランの受付嬢ではなく、最近入ったばかりの若い職員だ。
「失礼します。冒険者の新規登録をお願いしたいのですが」
私がフードの隙間から声をかけると、若い受付嬢は一瞬、その美声に聞き惚れたように呆然とした後、慌てて書類を取り出した。
「あ、はい! 新規登録ですね。では、こちらの魔力測定器に手をかざしていただき、登録用紙に名前とクラスをご記入ください。あ、あの、お名前は……?」
「『アイリス』。クラスは『アサシン』です」
偽名だ。ライトという名は、あいつらを油断させるためにまだ伏せておく。
私は白く細い手を、受付のカウンターに置かれた水晶の測定器に載せた。
(おっと、本気を出しすぎたらギルドのトップや国の上層部まで引っ張り出されかねないな。『隠密魔導』で、ステータスを偽装する……!)
私は脳内でスキルを発動し、自身の9999あるMPと、異常なステータスに「分厚い霧」をかけるイメージを持った。
水晶が淡く輝き、数値が表示される。
====================
名前: アイリス
クラス: アサシン
測定魔力値: 350(Cランク上位相当)
「ひゃっ、15歳前後に見えるのに、初期値でCランク相当の魔力……!? す、凄いです!」
受付嬢が目を丸くする。これでも本来の力の百分の一も出していないのだが、街の基準からすれば十分に天才の部類らしい。
周囲の冒険者たちからも「おい、マジかよ」「いきなりCランク級かよ」とざわめきが広がる。
「登録はこれで完了ですか?」
「は、はい! こちらがFランクの鉄プレートになります。当ギルドのルールとして、どれだけ実力があっても最初はFランクからのスタートとなりますが、アイリス様の実力なら、すぐに昇格クエストを受けられると思います!」
「構いません。すぐに受けられる依頼はありますか?」
私はプレートを受け取ると、ギルドの掲示板へと視線を向けた。
その時、ギルドの奥にある特設ステージのような場所が、急に騒がしくなった。
「おお! 『烈火の牙』の皆さんだ!」
「今回の【黒鉄の奈落】深層遠征、大成功だったらしいな!」
その名を聞いた瞬間、私の心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。
フードの奥で、翡翠色の瞳が限界まで細められる。
ステージに現れたのは、5人の男女。
中央に立つのは、大剣を背負った金髪の戦士、リーダーのガルガ。そして、取り巻きの魔法使いや弓手たち。あいつらだ。私をアビス・ガーディアンの部屋に突き落とし、笑いながら扉を閉めた、人間の皮を被った悪魔たち。
ガルガは仰々しく、手にした大きな紫色の魔石を掲げた。
「皆、聞いてくれ! 我々『烈火の牙』は、ついに第20層の難所を突破し、貴重な資源を持ち帰ることに成功した! ……だが、悲しい知らせもある。我がパーティの優秀な斥候であったライトが、魔物の不意打ちから我々を庇い、名誉ある戦死を遂げた……。彼の犠牲を、我々は一生忘れない!」
ガルガがわざとらしく涙を拭う仕草を見せると、周囲の冒険者たちから「ライト、哀れな奴だがよくやった」「烈火の牙に栄光あれ!」と歓声が上がった。
(……は? 庇って戦死?笑わせるな。背中を蹴り飛ばして生贄にしたくせに、死人に口なしとばかりに、自分たちの美談に仕立て上げてるわけだ)
私の手は、自然と腰の『ミゼリコルディア』の柄へと伸びていた。
今すぐあいつの首を撥ねて、その汚い口を永遠に閉じさせてやりたい。猛烈な怒りが、女の身体の繊細な神経を駆け巡り、全身が小刻みに震える。
しかし、私は深く息を吸い込み、その衝動を抑え込んだ。
(いや……今殺すのは優しすぎる。あいつらが手に入れた名声、地位、金。それを、一番絶頂にいる瞬間に、すべて奪い取ってやる。死ぬより辛い地獄を味わわせてあげるよ、ガルガ)
ふ、と自分の口元が歪むのが分かった。
私はガルガたちに背を向け、受付嬢に向き直った。
「受付さん。……『烈火の牙』が次に受ける予定の依頼、あるいは彼らが苦戦している案件はありますか?」
「えっ? あ、ええと……彼らは今、第22層に現れた変異種『アラクネ・クイーン』の討伐依頼をギルドから打診されているはずですが、難易度が高すぎて保留にしていると聞いています……」
「それを、私が受けます。Fランクですが、特例で受けさせてください。その代わり――討伐の証拠は、ギルド長に直接手渡します」
「ええっ!? ひ、一人の新人さんには絶対に無理です!」
「大丈夫です。……私は、アサシンですから」
「えっ……? あ、ええと……」
若い受付嬢は、私の突拍子もない要求に困惑した顔を浮かべた。
それもそうだ。いくら魔力測定値がCランク上位相当の数値を出したとはいえ、私は今日登録したばかりの、身元も定かではないFランクの新人だ。ギルドの厳格な規約上、一介の受付嬢が独断でそんな特例を許可できるはずがない。
「申し訳ありません、アイリス様。お気持ちはありがたいのですが、ギルドの規則により、Fランクの冒険者がBランク相当の『指定変異種討伐』を受理することは不可能です。どうしてもとおっしゃるなら、まずは通常の手続きを経て、Dランクまで昇格していただかないと……」
「……そう、ですか」
私はフードの奥で眉をひそめた。
少し焦りすぎたか。男だった頃の泥臭い復讐心と、女の身体になってから妙に高ぶる感情が混ざり合い、ギルドの常識を失念していた。これではただの不届きな身の程知らずだ。周囲の冒険者たちからも「おいおい、あの新人、魔力があるからって調子に乗ってんな」「アラクネ・クイーンに挑むなんて自殺志願者かよ」と失笑が漏れ聞こえてくる。
ガルガたち『烈火の牙』は、まだステージの上で支援者たちと談笑している。あいつらがアラクネ・クイーンの依頼を正式に断るか、あるいは他のパーティが横から引き受けてしまえば、私の計画が狂う。
どうやってこの規約の壁を突破するか。元斥候としての脳細胞が、ギルド規約の『裏道』を必死に検索し始めた、その時だった。
「――おい、そこの嬢ちゃん。その依頼、俺の『名前』で受けてみるかい?」
背後から、低く、ひどく熱量のこもった声が掛けられた。
振り返ると、そこには赤黒い大剣を背負った、片目に深い傷のある大柄な男が立っていた。全身から放たれる威圧感は、ステージの上のガルガなど比較にならない。ギルド内の荒くれ者たちが、その男の姿を見た瞬間に一斉に静まり返り、道を開けた。
「……『隻眼の牙』のベオウルフさん」
受付嬢が息を呑む。
ベオウルフ。この迷宮都市に数人しかいない、最高位である【Aランク】の絶対的な実力者だ。かつてライトだった頃の私にとっては、雲の上のまた上にいるような伝説の冒険者だった。
ベオウルフは隻眼の鋭い視線で、フードに隠れた私の顔を値踏みするように見つめてきた。正確には、私の顔ではなく、私の身に纏う『深淵の聖衣』と、完全に隠しきれていない内側の「濃密な魔力の揺らぎ」を見ているようだった。
「あんた……ただの新人じゃねえな。その若さで、気配を完全に絶ってやがる。そこらの斥候じゃあ、あんたがそこにいることすら気づけねえはずだ」
「……何のご用でしょうか、Aランク様」
私はあえて声を低めに抑え、冷淡に返した。女の子特有の、少し拗ねたような響きが混ざってしまったのは不覚だが、ベオウルフは気にした風もなく不敵に笑った。
「面白い規約があってな。Aランク以上の冒険者は、自身の『専属サポーター』として、ランク不問で任意の冒険者を1名だけ同行させる権利がある。もちろん、建前は荷物持ちだがな。俺の名前でアラクネ・クイーンの討伐依頼を受理し、あんたを俺の『サポーター』として迷宮に同行させる。これなら規約違反にはならねえ。どうだ?」
「……なぜ、そこまでして私に手を貸すのですか?」
「勘だよ。あの『烈火の牙』って泥棒上がりのクズどもが、最近急に羽振りがいいのが気に入らなくてな。戦死したっていう斥候のガキのことも、俺は少し知ってた。……あんたのその執念深い魔力の質、あいつらに個人的な『ツケ』を返しに行きたい顔に見えたもんでな」
驚いた。この男、私の正体までは見抜いていないだろうが、私が『烈火の牙』に強い恨みを持っていることを、魔力の気配だけで察知したらしい。これがトップランカーの直感というやつか。
私は少し考えた。ベオウルフの名前を借りるのは、確かに現時点で唯一の突破口だ。
「……条件があります。迷宮に入ったら、あなたとは別行動にします。私は一人でアラクネ・クイーンを狩る。あなたはただ、依頼の枠を提供するだけでいい。手出しは無用です」
「ははっ! Aランクを荷物持ち扱いか、最高だな!」
ベオウルフは豪快に笑うと、受付のカウンターに自身の金色のギルドプレートを叩きつけた。
「おい、そういうわけだ。アラクネ・クイーンの討伐依頼、この俺ベオウルフが受理する。同行サポーターには、そこにいる新人『アイリス』を指名だ。手続きを頼む」
「は、はいっ! ただいま処理します!」
受付嬢は今度は一切逆らわず、猛烈な勢いで書類に魔法印を押していった。Aランクの権限による『特例』の成立だ。
手続きが済むと、私はベオウルフに一言も告げず、滑るような足取りでギルドの出口へと向かった。
すれ違いざま、ステージから降りてきたガルガと一瞬だけ視線が交錯したような気がしたが、奴はフードを被った私を「ベオウルフの新しい女」とでも思ったのか、下卑た笑みを浮かべて鼻で笑っただけだった。
(笑っていられるのも、今のうちだよ、ガルガ……)
胸の奥で、冷たい炎が燃え上がる。
同時に、ベオウルフに見つめられた時に、私の身体が、いや「女としての本能」が、強大なオスに対する恐怖と一瞬の『高揚』を感じていたことに気づき、私は内心で激しく動揺していた。
(……くそ。身体が勝手に、強い男に反応してやがる。私は男だ、元は男なんだ……っ!)
太ももをローブの上から強く掴み、自分の中の「女」を必死に抑え込む。
混ざり合う心に戸惑いながらも、私は再び【黒鉄の奈落】への階段を駆け下りていった。
ターゲットは、第22層の変異種『アラクネ・クイーン』。
私の『暗殺聖女』としての真価が、今度こそ試される。




