二話目
アビス・ガーディアンを消し去り、レベルが一気に15まで跳ね上がった私は、まず自身の猛烈な違和感と戦っていた。
「……歩きにくい。っていうか、重心が違いすぎるだろ、これ」
一歩踏み出すたびに、胸のあたりがタプン、と妙な揺れ方をする。
男の骨格だった頃の感覚で大股で歩こうとすると、骨盤の形が変わっているせいか、どうにもバランスが悪い。内股気味に、少し歩幅を狭めて歩くと、驚くほどスムーズに進めることに気づいた。
「いや、なんで私、こんな女の子っぽい歩き方を自然にマスターしようとしてるんだよ」
思わず口に出した声は、鈴を転がすような美声だ。
一人称が「私」に固定されつつあるのも恐ろしい。脳の構造まで女性に書き換えられているのか、あるいはこの身体の持つ「聖女」としての本能が、私の泥臭い男の精神をじわじわと侵食しているのか。
嫌悪感があるかと言われれば、不思議とそれほどでもない。むしろ、絹のように滑らかな自分の肌に触れると、どこか心地よさすら感じてしまう自分がいた。
「……落ち着け。心が完全に女になっちまったら、それこそ元に戻れなくなる」
パン、と自分の両頬を叩く。柔らかく、もちもちとした感触が手のひらに伝わり、それだけでまた少し顔が熱くなった。
とにかく、今の最優先事項はこのブカブカの装備をどうにかすることだ。
男物の、しかも安物の革鎧は、今の私の華奢な身体には大きすぎる。肩紐はズリ落ち、胸元は今にも中身が丸見えになりそうなほど開いている。歩くたびに太ももに擦れるボロ布も、落ち着かないことこの上ない。
私は固有スキル『迷宮の寵愛』を発動した。
頭の中に、周囲の立体的な構造図が浮かび上がる。斥候時代には、神経をすり減らしてようやく数メートル先の罠を察知できる程度だったが、今の精度は桁違いだ。壁の裏側、さらには床の二重構造までが、まるで光る線で描かれたように脳裏に焼き付く。
「……あった。この壁の向こう、隠し部屋だ」
アビス・ガーディアンが守っていた部屋のすぐ脇。崩れた石壁の奥に、魔力の反応を見つけた。
私は元斥候の指先を使い、壁の特定のレンガを押し込む。カチリ、と小気味いい音が響き、石壁がズズズと横にスライドした。
部屋の中央には、埃を被った豪奢な宝箱が一つ。
『迷宮の寵愛』の視界によれば、宝箱の底に【毒針の罠】が仕掛けられているのが見えた。
「ふん、この手の罠は何度も解除してきた。この身体なら――」
指先を宝箱の隙間に滑り込ませる。
驚いた。男の時よりも指が細く、感覚が極めて繊細になっている。AGI(敏捷)が150を超えている影響か、私の指先はまるで生き物のように滑らかに動き、わずか数秒で罠のバネを無力化してしまった。
「よし、解除成功。……なんか、前の身体より手先が器用になってない?」
くすんだ微笑を浮かべながら、宝箱の蓋を開ける。
中に収められていたのは、一振りの美しい短剣と、畳まれた漆黒の衣服だった。
【鑑定:『深淵の聖衣』】
• 効果: 装備者のサイズに自動調整。物理・魔法耐性(大)。隠密効果上昇。魔力回復速度上昇。
【鑑定:『ミゼリコルディア(憐れみの聖痕)』】
• 効果: 聖属性を帯びたミスリル製の短剣。即死確率上昇。不意打ち時のダメージ5倍。
「これ……聖女の装備っていうか、どう見ても暗殺者用だろ」
苦笑しつつも、私は『深淵の聖衣』を手に取った。衣服に触れた瞬間、それは生き物のように形を変え、私の身体を包み込んだ。
姿鏡がないので水たまりで確認すると、そこには見違えるような姿の私がいた。
黒を基調とした、ボディラインにぴったりとフィットする軽装のインナー。その上から、銀の刺繍が施された漆黒のフード付きローブを羽織っている。胸元は適度に引き締まり、動きやすさは抜群だ。それでいて、ローライズのボトムスからは白い太ももが大胆に露出しており、自分で言うのも何だが、ひどく扇情的だった。
「う、露出度高すぎないか……? いや、アサシンウェアだと思えば普通、か?」
そわそわしながら、腰のベルトに『ミゼリコルディア』を装着する。
これで準備は整った。
「さて、レベルも上がったことだし、ここから脱出するルートを探さないと」
私は『迷宮の寵愛』を頼りに、奈落のさらに奥へと続く隠し通路へと足を踏み入れた。
目指すは地上。しかし、ただ帰るわけじゃない。私を裏切った『烈火の牙』の連中に、極上の恐怖を味わわせてやるための力を、ここで完全にものにする。
――数時間後。
私は【黒鉄の奈落】第25層、通称『飢餓の回廊』を静かに進んでいた。
本来、Dランクの斥候が一人で歩いていい場所ではない。周囲には、人間を一口で噛み砕く『シャドウ・ウルフ』の群れや、音もなく天井から這い寄る『ブレード・スパイダー』がひしめき合っている。
だが、今の私は彼らにとって「存在しない」も同然だった。
『深淵の聖衣』の隠密効果と、元斥候としての歩法。そして、新しく手に入れた魔力の制御。
足音は一切しない。気配も、呼吸の音すらも、周囲の闇に完全に溶け込んでいる。
「グルル……」
前方に、体長3メートルを超える『シャドウ・ウルフ・リーダー』を発見した。Cランクの冒険者が数人がかりで挑む強敵だ。
以前の私なら、見つからないように祈りながら遠回りするしかなかった相手。
(でも、今の私なら――)
私はフードの奥で、静かに翡翠色の瞳を光らせた。
心の中に、冷徹な男としての計算と、どこか残酷な愉悦を感じる女としての感性が混ざり合う。
「死ね」と、声に出さずに唇を動かした。
ト、と音もなく地面を蹴り、ウルフの死角へと回り込む。
ウルフは完全に私の接近に気づいていない。
腰から『ミゼリコルディア』を抜き放ち、逆手に持ち替える。
その刃に、私はあえて『神聖魔導』の魔力を乗せた。
(光を、闇で包む――)
ただの聖属性魔法なら、派手な光で周囲の魔物を引き寄せてしまう。だから私は、聖女の魔力を極限まで圧縮し、短剣の刃の表面わずか数ミリの領域に押し留めた。
眩い光は一切漏れない。しかし、刃は超高温のレーザーメスのように、凄まじい破壊力を秘めて白く明滅している。
「『聖痕刺突』」
ウルフの項に向けて、無音の突きを放つ。
サクッ、と。
まるで豆腐に熱いナイフを突き立てるかのような、手応えのない感触。
『ミゼリコルディア』の不意打ち5倍ダメージと、極限まで圧縮された聖属性魔力が、ウルフの肉体を内側からドロドロに融解させた。
「ガ、……ッ?」
悲鳴を上げる暇さえ与えない。
ウルフ・リーダーは、自分が攻撃されたことすら理解できないまま、光の粒子となって消滅した。
その場に残されたのは、綺麗な魔石だけだ。
「……すごい。派手な魔法を使わなくても、これなら確実に、静かに仕留められる」
自分の生み出した戦闘スタイルに、ゾクゾクとした高揚感が背筋を駆け抜ける。
聖女の超魔力と、斥候の隠密技術の融合。
これぞ、誰にも真似できない私だけの力――『暗殺聖女』だ。
【ピコン――独自の戦闘スタイルを確立しました。スキル『隠密魔導』を習得しました】
【レベルが上昇しました。レベル15→22】
「ふふ、あはは……!」
思わず、可憐な笑い声が口から漏れた。
かつて無能と蔑まれ、奴隷のように扱われていた男が、今や迷宮の生態系の頂点に立とうとしている。その事実が、たまらなく心地よかった。
「あ、いけない。また女の子みたいな笑い方しちゃった」
慌てて口元を押さえるが、心の中に湧き上がる万能感は抑えきれない。
身体が女になったことで、感情の起伏が以前よりも少し激しくなっている気がする。男だった頃の、どこか冷めた現実主義的な部分と、新しく芽生えた、少し感傷的で、それでいて残忍な女の部分が、私の中で不思議なマーブル模様を描いていた。
「……ま、悪くない。この身体も、この力も、全部使ってやる」
私はドロップした魔石を拾い上げると、再び闇へと溶け込んだ。
地上へ続く階段は、もうすぐそこだ。
待っていろ、『烈火の牙』。お前たちが持ち帰った「偽りの栄光」を、私のこの手で、最悪の絶望へと変えてやる。




