三話目
あの凍てつくような冬の夜から、一年半の月日が流れた。
真野紗季は二十八歳になり、開発部の中堅として、新プロジェクトの主軸を担うようになっていた。
仕事の合間にふと見上げるオフィスの窓からは、初夏の瑞々しい青空が広がっている。今の紗季は、自分の好きなラベンダー色のリネンシャツに、動きやすいホワイトのワイドパンツを合わせ、お気に入りのシルバーの腕時計を身につけていた。
誰かの目を引くための過剰なおしゃれでもなく、自分を隠すための無機質な鎧でもない。今の服装は、彼女が彼女らしく、心地よく仕事に向き合うための「私のスタイル」として完全に定着していた。
藤堂との関係も、あれ以来、非常に良好なビジネスパートナーのままだった。藤堂は紗季に対して一人の自立したプロフェッショナルとして敬意を払い、紗季もまた、かつての憧れを過去の美しい思い出として消化していた。社内は完全に平穏を取り戻していた。
「真野さん、ちょっといいかな」
午後、開発部長に伴われて、一人の男性がフロアに入ってきた。
紗季が顔を上げると、そこには見慣れない、けれどどこか親しみやすい佇まいの男性が立っていた。年齢は三十前後だろうか。仕立ての良い、けれど気取らないアースカラーのジャケットを着こなしている。
「来月からスタートする次世代システム構築のプロジェクトで、外部からテクニカルコンサルタントとして入ってもらうことになった、瀬尾くんだ。真野さん、彼とメインで組んで進めてほしい」
瀬尾と呼ばれた男性は、紗季の前に立つと、人懐っこい、けれど芯のある綺麗な目で真っ直ぐに彼女を見つめた。
「初めまして、瀬尾拓海です。噂はかねがね伺っていました。真野さんとご一緒できて光栄です」
「初めまして、真野紗季です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
握手を交わした瞬間、瀬尾の手のひらの心地よい温かさが伝わってきた。
瀬尾の第一印象は、何よりも「風通しの良い人」だった。
プロジェクトが始まると、瀬尾の優秀さはすぐに証明された。彼は技術的な知識が深いだけでなく、人の意見を否定せず、まず丁寧に耳を傾ける包容力を持っていた。
何より、瀬尾は紗季の「仕事に対する姿勢」を誰よりも正しく見て、言葉にしてくれた。
「真野さんの書く仕様書って、すごく人間味がありますよね。使う人の動線を徹底的に考えて作られてる。こういう細かい気配りができるのは、本当に尊敬します」
ある日のミーティングの終わり際、瀬尾はコーヒーを差し出しながら、何気なくそう言った。
紗季は少し照れながら、「ありがとうございます。でも、地味な作業ばかりですよ」と返した。
すると瀬尾は、ふっと柔らかく笑った。
「地味なことを妥協せずに積み重ねられるのが、一番かっこいいじゃないですか。僕は、そんな真野さんの仕事への向き合い方、すごく素敵だと思います」
その言葉には、下心も、大人の打算的な配慮もなかった。ただ純粋に、真野紗季という人間の本質を認め、賞賛する響きがあった。
かつて藤堂に向けた恋心は、常に「自分を綺麗に見せなければ」という緊張感を伴っていた。長谷川に向けられた執着は、息が詰まるような恐怖だった。
けれど、瀬尾と過ごす時間は、驚くほど自然体でいられた。彼と一緒にいるときの自分は、背伸びをする必要も、自分を卑下する必要もなかった。
プロジェクトが始まって三ヶ月。第一段階のリリースが無事に成功し、開発チームは小さな打ち上げを行うことになった。
しかし、急なトラブル対応が入ってしまい、結局、紗季と瀬尾の二人がオフィスに残って居残りで対応することになってしまった。
全ての作業が完了し、無事にサーバーが安定した頃には、時計の針は午後九時を回っていた。
「終わったー……! 真野さん、お疲れ様でした!」
瀬尾が大きく伸びをして、デスクに突っ伏した。
「お疲れ様でした、瀬尾さん。なんとか今日中に終わって良かったですね」
紗季もどっと押し寄せた安堵感に、小さく息を吐いた。
「いやぁ、お腹空きましたね。真野さん、もしよかったら、今から近くで何か食べていきませんか? 打ち上げ、僕たち二人だけ置いていかれちゃいましたし」
瀬尾が少し悪戯っぽく笑いながら誘ってきた。
一年前の紗季なら、「夜に男性と二人きりで食事」というシチュエーションに、一瞬だけ警戒心を抱いたかもしれない。けれど、瀬尾に対する信頼感は、その躊躇いを綺麗に消し去っていた。
「いいですね。行きましょう」
瀬尾が連れて行ってくれたのは、駅から少し離れた場所にある、古民家を改装した小さなおばんざい屋だった。
店内は出汁のいい香りが漂い、間接照明の温かい光が満ちている。着飾った若者ではなく、地元の常連客が静かに寛ぐような、心から落ち着ける空間だった。
二人はカウンターに並んで座り、ビールで乾杯した。
美味しい料理を食べながら、仕事の話、学生時代の思い出、趣味の話など、会話は途切れることなく弾んだ。
「実は僕、真野さんと初めて会ったとき、すごくホッとしたんですよ」
瀬尾が日本酒のグラスを傾けながら、ぽつりと言った。
「え? どうしてですか?」
「うーん、上手く言えないんですけど、真野さんって、自分の軸をちゃんと持っている感じがするから。過剰に周りに媚びるわけでもなく、頑なになるわけでもなく、ただ自分の足できちんと立っている。その佇まいが、すごく綺麗だなって思ったんです」
『綺麗』
その言葉を聞いた瞬間、紗季の胸の奥が、一瞬だけきゅっと収縮した。
かつてその言葉に振り回され、傷つき、恐怖した過去の記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
紗季のわずかな変化を察したのか、瀬尾は慌てて言葉を付け足した。
「あ、すみません! 軽い意味じゃなくて……外見のことだけじゃなくて、内面から滲み出る雰囲気というか。真野さんが選ぶ服の色とか、身につけている時計とか、全部が『真野さん自身』にすごく似合っていて、素敵だなって。僕は、そういうありのままの真野さんに、惹かれたんだと思います」
「惹かれた」というストレートな言葉に、紗季は目を見開いた。
瀬尾の目は、真っ直ぐに紗季を見つめていた。そこには、長谷川のような暗い独占欲の熱はなく、藤堂のような一線を引いた冷たさもなかった。ただ、春のひだまりのような、穏やかで深い暖かさだけがあった。
紗季は、自分の胸の中に、温かい感情がゆっくりと満ちていくのを感じた。
もう、怖くなかった。
私は私自身のままで、この人に受け入れられている。
「……瀬尾さん」
紗季はグラスを見つめながら、静かに、けれどしっかりと声をだした。
「私、以前に、おしゃれをすることや、誰かを好きになることが、すごく怖くなった出来事があったんです。自分の気持ちが、意図しない形で歪められて、日常が壊れてしまうような……そんな経験をして」
初めて、過去の傷を他人に打ち明けた。瀬尾は遮ることなく、静かに彼女の言葉を待ってくれた。
「でも、今の私を見て、それを『素敵だ』って言ってくれる瀬尾さんと出会えて……私、自分のままでいていいんだって、やっと思えるようになりました」
紗季が顔を上げ、瀬尾の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
瀬尾は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに愛おしそうに目を細め、カウンターの下で、そっと紗季の手を包み込んだ。彼の大きな手のひらは、記憶にあるどの温もりよりも、優しく紗季を支えてくれた。
「ゆっくりでいいですから。これからは、僕にその傷を癒す手伝いをさせてくれませんか。真野さんのことが、好きです」
「……はい。よろしくお願いします」
紗季の目から、一滴の涙が溢れた。けれどそれは、痛みの涙ではなく、完全に過去から解放された、祝福の涙だった。
それから、さらに半年後の秋。
休日の表参道は、色づき始めた街路樹と、行き交う人々の華やかな装いで賑わっていた。
紗季は、駅の出口の近くで、誰かを待っていた。
今日の彼女は、深みのあるキャメル色のロングコートに、お気に入りのアイボリーのタートルネックを合わせ、少し大人っぽい、けれど歩きやすいローファーを履いていた。メイクも、今日の秋晴れの空に映えるような、ほんのり温かみのあるテラコッタのリップを選んでいる。
「紗季さん! 待たせてごめん」
人混みの向こうから、息を弾ませて瀬尾が走ってきた。彼は紗季の前に立つと、彼女の姿をじっと見つめ、それから破顔した。
「今日の服も、すごく可愛い。そのコート、紗季さんの優しい雰囲気にぴったりだね」
「ありがとう。拓海くんに見せたくて、ちょっと新しく選んでみたの」
紗季は悪戯っぽく笑って、瀬尾の手をギュッと握りしめた。
今の紗季は、誰かのためにおしゃれをすることを楽しんでいた。それは「自分をよく見せるための武装」ではなく、「大好きな人と過ごす時間を、もっと特別にするための、自分自身へのギフト」だった。
目的以外の誰かにどう見られようと、関係ない。
大好きな人が、ありのままの自分を愛してくれて、自分もまた、自分のことを大好きでいられる。その揺るぎない確信があるから、世界はこんなにも優しく、美しい色彩に満ちている。
「さあ、行こうか。予約したお店、すごく雰囲気が良いところなんだ」
「うん、楽しみ!」
二人は手を繋ぎ、秋の光が差し込む街へと歩き出した。
コツコツと、心地よい足音が響く。それは、自分の人生を、自分の足でしっかりと歩んでいる、幸せな恋の足音だった。




